ヌマンタの書斎

読書ブログが基本ですが、時事問題やら食事やら雑食性の記事を書いています。

ミリオンダラー・ベイビー F・X・トゥールー

2010-07-26 12:25:00 | 
不自由だからこそ、可能性が深まった。

なんでもできる、なにをしてもいい、自由にやっていい。魅力的な科白だが、実のところ自由に過ぎることは、むしろ不自由だと思う。

多くの人は、この自由を与えられると、最初は喜び好きなことをやる。しかし、時間の経過とともにやることがなくなり、ついには怠惰に時間を潰す。

皮肉なことに、制約があるほうが人は充実した時間を過ごす。

ボクシングが格闘技であることは間違いない。しかし、これほど制約がある格闘技も稀だ。建前はともかく、格闘技の目的が相手を倒すことにある。

倒すためなら、何をしてもいいはずだ。その点、ボクシングはおそろしく不自由だ。なにせ拳による攻撃しか認めていない。しかも、攻撃する部位は上半身の表側だけに限定される。

これほど不自由な格闘技があるだろうか。

しかし、理不尽な制約があるがゆえにボクシングは極度に高度な格闘技へと進化した。ただ殴るだけ、それだけなのに恐ろしく精密で複雑な攻撃体系、守備体系を整えた恐るべき格闘技となった。

私はボクシングを最強の格闘技だとは考えていない。だが、極めて有効な格闘技だとは思っている。トレーニングのシステムは合理的で科学的。単純が故に奥が深く、制約が多いがゆえに細心の精緻さが求められる。

なかでも体重制限こそが、ボクシングを精神的な崇高さの域まで高めている。カロリーや栄養のバランスを考慮した上で、体重を絞り込む過酷さは他の格闘技にはない。

ある種の求道的カタルシスさえ感じることがある。そのせいであろうか、ボクシングには不良を更生させる力がある。単に腕っ節が強いだけの乱暴者が、ボクシングにのめりこみ、人格までもが磨かれることは実際にある。

またボクシングは一人では強くなれない。トレーナーやカットマンといったリングサイドに陣取る仲間も必要だ。だからこそ、年をとってリングでは闘えなくなっても、ボクシングの世界に残るものは少なくない。良くも悪くもボクシングの魅力に憑かれてしまったのだろう。

表題の作品では、ボクサーよりもトレーナーやカットマンといった人たちを主人公に据えた珠玉の短編集だ。なかでも「ミリオンダラー・ベイビー」はクリント・イーストウッドが主演して映画にもなっている。幾つもの賞を取った名作であり、目にした方も多いと思う。

映画は観たが、この短編集は読んでいないようでしたら、是非ともお薦めします。それだけの価値はあると思いますよ。
コメント (9)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする