ヌマンタの書斎

読書ブログが基本ですが、時事問題やら食事やら雑食性の記事を書いています。

人口70億に思うこと

2011-11-11 12:08:00 | 社会・政治・一般
喜ぶべき数字なのか。

先月末で、地球の人類と自称する生物の生息数が70億を突破した。この人類という生き物は、個体としてはとりたててみるべき能力は無い。

しかし、鉱物から燃料を作ったり、無機物から有機物を作るような環境利用に長けた種族だ。しかも、雑食性であり、本来消化できないものまで、自ら加工して食べる貪欲さを持ち合わせている。

さらに個体としての能力の低さを、集団で補うばかりでなく、道具を使用することにより飛躍的に戦闘力を高めているが故に、現在の地球上では種としては最も繁栄を享受している。

だが、この地球における人類の生息域は限定されている。いくら道具を用いて生息域を拡大しても、海が7割を占め、大陸は3割であり、しかも哺乳類の生息できる地域はさらに限られる。

この限られた地域での食糧の確保には、限界点が存在する。技術的向上により食糧生産は増大しているのは事実だが、必要な水分そのものが限定される以上、人類の生存を可能ならしめる食糧には、はやり限界があるはずだ。

さらに危惧されるべき問題は水、とりわけ真水が少ないことだ。地球上にある水の97%は海水であり、これは飲料にも適さないし、農業用水にも向かない。

そして残り3%の7割近くが凍結した状態にあるとされる。いかに真水が稀少資源であるかが分ろうというものだ。しかも、その真水は人類に平等にいきわたっているわけではない。

驚くべきことに、経済的に豊かな西側先進国の住民と、アジア、アフリカなどの貧困国との間では、真水の使用量自体に凄まじい格差がある。これは命の格差であるとされる。

ユニセフなどの広報資料によれば、綺麗な真水さえあれば、貧困国での幼児死亡率は大幅に減少するそうだ。もっとも、先進国でも水道の水をそのまま口に出来る国は限られる。

アメリカやカナダ、ニュージーランドそして日本は、世界的に見ても例外的に水資源に恵まれている。

水の格差は、人間の生活水準の格差であるだけでない。農業とて水無しではできない。ここにきて、地球の人類の人口70億人突破は何を意味するのか。

動物実験などによると、一つのエリアでの個体数が、一定数を超えると興味深い現象が起こる。単純に供給される食糧や水の一個体に対する割合が減るのだが、各個体の摂取する食糧や水も同じ割合で減るのではない。

強い個体が食糧や水を多く取り、弱い個体はその分摂取量が減る。同時に、エリア内でのストレスが高まり、喧嘩が増えて死傷する個体も出てくる。にもかかわらず、出産により産まれる個体数は増加の傾向をみせ、エリア内のストレスは異常値を示す。

必然的にエリア内における闘争は増え、死傷する個体は増える一方であり、残った個体は大型で戦闘力の高いものだけとなる。結果として個体数は減少するが、興味深いのは元の生息数に戻るのではなく、それよりも大幅に減った数となることだ。

人類もまた動物に過ぎず、人口の増大はいずれ限界点を超えてしまう以上、同じ現象が起きないと誰が言えるだろうか。現実に、水や食糧は強い国に対して多く供給されている。にもかかわらず、弱い国では人口が飛躍的に増大している。

嫌な予想だが、21世紀は水と食糧を巡る闘争の時代となる可能性は高い。動物実験で立証されたように、弱い個体は暴力により無雑作に、残虐に殺される。しかも、弱い者から優先的に殺される。

動物と異なり人間には理性がある、話し合いによる解決が出来ると考えたがる人は少なくない。私とて話し合いで済めば、それはそれで良いと思う。

しかし、理性万能主義の社会主義国が20世紀においてどうなったのかを銘記する必要がある。平等な社会を目指した共産主義がカンボジアで何をしでかしたのか。

人間は理性を持つとはいえ、やはり本能の強さには流される。命の問題でもある水と食糧は、間違いなく本能を強く刺激する。理性だけでは抑えられまい。

世界人口70億突破の情報を未来に活かすならば、軍事力の強化に努めるのが政治の役割だと思いますが、言霊信仰に囚われた日本のマスコミには、そのような論を展開したところはなかったようですね。

自分たちの子供、孫の安寧を願うなら、絶対に必要なことだと思いますよ。
コメント (4)
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