手の平が乾燥しているのが大嫌いだ。
何故なのか、長い間分らずにいた。おそらく原因は幼き日々にあることは予想していた。ただ幼い頃の自分を、冷静に客観的に省みるのは、けっこう厳しい試練となることがある。
大人になってみて、ようやくあの頃の自分が何故あのような行動に出たのかが、ようやく分る。それは楽しくもなく、嬉しくもなく、ただ忸怩たる思いに浸ることを避けられない。
50も近くなる年齢になって、ようやく私が手の平が乾いているのを厭う理由が分ってきた。
物心つく前には都内を幾度か転居していたことは母から聞いていた。だが、私の記憶にあるのは、米軍基地の隣町からだ。新興住宅地の町だと思うが、私の記憶にあるのは、未だ伐採を免れている林であり、畑であった。
私の家は、米軍の払い下げ住宅で、間取りが広いというよりも、間取りをよく考えてない大雑把な造りであった。それは道路もそうで、舗装はされてなく、関東ローム層むき出しの地面をならしただけであった。
おかげで雨が降ると、道路のいたるところで水溜りが出来る。関東ローム層の土は粒子が細かく、乾けば埃が舞い上がり、濡れれば泥水と化す。その土地をローラーでならしただけで家を建てるのだから、アメリカ人の感覚は実に大雑把だと思う。
私はこの道路でよく遊んでいた。道路といったが、車の通る片側一車線の幹線道路から凹型に宅地開発したため、止む無く作った私道であり、住民以外に入ってくる車は滅多にないため、道路が事実上の広場であった。
我が家の斜め向かいに住むアメリカ軍人の子供たちとは、たいへんに相性が悪く、顔を見かけるたびに罵り合っていた。親がいるときは、それで済んだが、子供たちだけだと実際の喧嘩沙汰になることも珍しくなかった。
一応云っておくと、どの子供も全てという訳でもなく、私といがみ合っていたのは斜め向かいの奴等だけで、少し離れたアメリカ軍人の子供たちとは、互いに無視しあうだけであった。幼馴染みのジュンちゃんなんかは、なぜだか知らないけど白人の子供たちとも挨拶していた。
私はそれが気に入らなかったけど、それを邪魔するほど白人嫌いというわけでもなかった。とはいえ、私に向かって罵ってくる奴等とは、仲良くする気にはまったくなれず、何度か取っ組み合いをした記憶がある。
小柄な私は、大柄な白人の子に押し倒されて、ボコボコに殴られることが多かったはずだ。そんな時、私は乾いた土を相手の目に叩きつけて、相手が引いた隙に背後をとって首を絞めて押し倒して逆転勝ちをしたこともある。
目潰しが汚い手であることは分っていた。でも、やらずにいられなかった。負けた時の惨めさ、虚しさを思い出しながら、目を押さえて泣き叫ぶ相手をボコボコに殴る快感に酔いしれた。後ろめたく、どす黒い快楽ゆえに、思い出しても楽しくない。
でも、たいがいは一方的に叩きのめされていたと思う。相手に腕を押さえられて、目潰しが出来なかったからだ。記憶は曖昧だが、私が泣きながら家に帰り、顔を洗うため握り締めた拳を開くと、乾いた土がこぼれ落ちる場面が脳裏に浮かぶ。
乾いた土を握り締めたせいで、手の平はかさかさに乾いていた。その手の平を蛇口から流れる水ですすぐことで、喧嘩に負けた悔しさをも流していたのかもしれない。
私が手の平が乾いているのを厭うのは、喧嘩に負けた敗北感からきているのかもしれない。その事に思い至ったのは、40代も半ばを過ぎてからだ。
楽しくもなければ、懐かしくもない屈辱の苦い悔恨が伴うだけの思い出。40年以上前の記憶が、私の感性に影響を及ぼしているのだから、幼少時の体験は重いと思う。
不思議なことに、そんな嫌な記憶であるにもかかわらず、その背景にあるのは心地よい青空である。多分、夏休みの頃の出来事であったからだろう。
色、触感、匂いといった思いもかけぬ要素が、記憶を掘り起こす。人間の記憶って不思議だと思う。
表題の作品を読んで、私ははじめて「照柿」といった色を知った。あまり馴染みのある色ではないが、多分、夏の残暑を受けてうんざりするほど熱くなったトタン屋根に夕日が当たるときの色ではないかと思った。
人の心が過剰な負荷を受けて、破綻しかかった時を表す色としては格好な表現だろう。多分、数年ぶりの再読ではないかと思うが、ずいぶんと変わっている気がした。高村薫はしばしば作品を書き直すことで知られるが、ちょっと、これはやり過ぎでは?
まるで別の作品を読んだ気がしてなりません。それは著者の自由だけれど、ならばタイトルで書き直し前か、後かを分るようにして欲しいですね。