ヌマンタの書斎

読書ブログが基本ですが、時事問題やら食事やら雑食性の記事を書いています。

青べか物語(続き) 山本周五郎

2014-11-21 17:24:00 | 

何度か書いているが、私は高校生の頃にパチンコをかなりやっていた。

一番多く通ったのは、地元三軒茶屋のHというパチンコ屋であった。ここで遊ぶ常連客は、子供の頃から銭湯での顔見知りが多く、私としては安心して楽しめる場であった。

その日は、既に冬休みで牛丼屋のバイトも休みであったので、夕方からパチンコ三昧であった。出玉の良い台に当たり、小遣いとしては十分なあがりであった。閉店間際に、よく銭湯で会うKさんに誘われて、焼き鳥屋で一杯飲むことになった。

その時、焼き鳥屋で同席したのがKさんの知人であるBさんで、古くからの知り合いのようだった。銭湯でもそうなのだが、その日もKさんのパチンコ必勝理論を聞かされることになった。

私としては耳にタコが出来るほど聞かされている話である。それは知人のBさんも同じようで、話題を変えるためかBさんは、当時騒ぎになっていた蛇崩川沿いの再開発の話をし出した。

違法建築が立ち並ぶ川沿いの安アパートを撤去して、そこにマンションを建てる計画が進んでいるのは、私も小耳にはさんでいた。あのオンボロ長屋も無くなるのかと尋ねたら、Bさんは「いや、あそこが一番難しい」とのこと。

Bさんによると、あのオンボロ長屋の人たちは、あそこを出されると他に行く場所がないようで、いくら金を積んでも頷かないそうだ。仕方ないので、地主が代替のアパートを用意しようとしているらしい。

私は思い出して、ドブ婆の家も立ち退きの対象なんですか?と訊くと、Bさんは目を丸くして「ドブ婆って、まさか拝み屋のS子のことか? ひでえ言い様だなァ」と苦笑している。

そして私を正面から見つめて「あれは苦労した女で、そんなに悪く言うものじゃないぞ」と私をたしなめた。驚いた、私はこれまでドブ婆のことを良く言う人に会ったことがなかったからだ。

Kさんも興味が湧いたようで、「あの拝み屋はS子っていうのかい。初めて聞いたぞ」と驚いた様子であった。そこで私たちはBさんから、ドブ婆の半生を教えてもらった。

ドブ婆は戦前、医師であるご主人が大陸で開業した産科医院の手伝いをしていたそうだ。看護婦ではなく、助産師であったようだが、そこで事件が起きた。ある出産で母子ともに亡くなってしまったのだ。それを恨んだ夫であるシナ人が医院で暴れて、ご主人は殺されてしまった。その際に止めに入ったS子夫人とももみ合いとなり、気が付いたらそのシナ人も死んでいて、夫人も大怪我を負った。

当時、けっこう話題になったそうで、その頃ハルピンに居たBさんも同郷会からの連絡で知ったそうだ。Bさんと産科医であったご主人は、年は離れていたものの同郷の出であったので、S子夫人のこともよく覚えていたそうだ。収監されたS子さんへの嘆願書の署名運動を手伝ったこともあるそうだ。

その後、日本の敗戦と混乱の最中でBさんは、命からがら帰国したので、その後のS子さんのことは分からなかった。ところが東京オリンピックに相前後して東京に出てきて住み着いた三軒茶屋の町で偶然、S子さんと再会。

もっとも外見の変わり方が激しく、当初は分からなかったとBさんは言う。ある屋台で大騒ぎしている女性がいて、どこかで聞いた声だと思ったら、泥酔していたS子さんであった。

その時、介抱がてらに酔っていたS子さんから、助産師の資格を取り上げられたことや、水子に悩む女性のための相談の仕事をしていることを、涙ながらに聞かされた。

既に家族を抱えていたBさんは、気にはなったが深入りすることも出来なかった。ただ数年に一度、飲み屋街で偶然再会する程度の付き合いであったが、偶然に彼女が裏で堕胎の仕事をしていることを知り、愕然として問い詰めた。

問われたS子は、冷然と煙草を吹かしながら、「望まれぬ赤子をあの世に送り返すのは、私の義務なのよ」と答えた。そして、誰にいうともなく「あたしは、だから幸せになってはいけないの。どぶ川の傍らで蔑まれて生きていくのが、あたしの使命なのよ」と消え入るような声でつぶやいた。

それを聞いたBさんは、なにも言えなくなってしまった。かつては助産師として幾多の命をこの世に送り出してきたS子の変貌を責める気持ちは失せてしまった。

私もKさんも、黙り込まざるを得なかった。その沈黙を破ってBさんは「蛇崩川の再開発は当分無理だと思うよ」と呟いた。ザリガニという生き物の命を平然と弄ぶ子供たちを、ドブ婆が嫌った訳が少し分かった気がした。

数か月後、私は高校を卒業すると同時に引っ越してしまい、その後は疎遠になってしまった。だから10年近くたって再訪したとき、既に私たち家族が住んでいた公務員住宅はなく、蛇崩川は地下に埋設され、オンボロ長屋は姿を消して瀟洒なマンションが立ち並ぶようになっていた。

かつて、この町に貧困と暴力と、愚かさと哀しさが入り混じった雑多な場所があったことを気附かせるものは、何一つ残っていなかった。私は郷里を失った気がして、その後は訪れることを避けるようになったほどだ。

表題の著者である山本周五郎は、我は大衆作家であると広言し、庶民の立場に立った多くの小説を世に出している。上から目線で貧者を教導する傲慢さはなく、マルクス主義者のように貧者をみずからの政治思想の立場から利用することもない。

ただ、大衆と同じ目線に立って、その逞しい生き方、汚らしい生き方、哀しい生き方を淡々と小説に書きだしている。表題の作品は、まさに代表的作品の一つだ。私はあれほど貧しくもなく、哀しくもなく、逞しくもなければ、汚らしくもなかったと思うが、そんな人生があることは知っていた子供であった。

だから周五郎の作品を読むと、あのころを思い出さずにいられない。いまさらですが、ドブ婆が静かにその余生を終えたであろうことを願わずにはいられないのです。

コメント (8)
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