ヌマンタの書斎

読書ブログが基本ですが、時事問題やら食事やら雑食性の記事を書いています。

新・世界七不思議 鯨統一郎

2014-11-10 14:42:00 | 

歴史好きは、ミステリーも好き。

あくまで私の個人的な経験からだが、案外当たっていると思う。歴史もミステリーも謎解きが面白い。さらに面白いのは、専門の歴史学者や警察などの捜査関係者が資料(あるいは自白)に過剰なまでに固執してしまうのに対し、素人である歴史好き、ミステリー好きは想像逞しく、理論的に、あるいは情緒的な謎解き、解釈をすることだ。

だが、専門家ほど素人の考えを容易には受け付けない。歴史学会は資料偏重主義に陥っているし、警察はそもそも素人の口出しを本能的に嫌う。警察はともかくも、歴史学者の資料を重視しすぎる姿勢には問題が多い、多すぎる。

歴史とは勝者によって語り継がれる。勝ったものが正義であり、敗者の論なんざ価値亡きものとされてしまう。如何に卑怯な手を使おうと、勝ったものが正しい。

そして、勝者は自らを高らかに賞賛させ、敗者を貶めることで、より勝利の価値を高めようとする。戦後に行われる軍の凱旋パレードはその典型だし、敗者を公開処刑に付すこともその一つ。

なかでも効果が高いのは文章で書き遺すことで、その勝利の価値を歴史に刻むことである。勝者が自らを讃え、自らの正義を高らかに宣言したものが公文書として残る。

歴史学者がこのような資料としての歴史公文書に最大限の価値を認めること自体は、決して悪いことではない。しかし、書き記された歴史公文書は、あくまで勝者の視点で書かれている。

このことを失念してもらっては困る。勝者には勝者の理屈があるだろうが、敗者にだってそれなりの理屈はあったはずだ。そのことを知っていながら、文章こそを真実だと考える歴史学者が多いことが、素人の歴史マニアを生み出す素地になっている。

話題作となった「邪馬台国はどこですか」で鮮やかな素人歴史論議を楽しませてくれた鯨先生が、世界の七不思議をまな板に乗せて捌いてみせたのが表題の書である。

この作品で結論付けられた七不思議への回答は、未だというか当然というか、歴史学会で認められたものではない。が、知的愉悦という点では十分読者を楽しませてくれる。

秋の夜長、軽く歴史ミステリーを楽しみたいなら最適の一冊でしょうね。さて、私もカシス・シャーベットを頂いたら一休みしますかね。

コメント (8)
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