私は日本という国を形作った契機となった二つの反乱に注目しています。
本当は三つ目として明治維新を考えているのだが、これは時代が近いためか、その実相が判明していると思うので研究対象からは外している。
二つのうち、一つは壬申の乱であり、もう一つは本能寺の変である。
先に関心を持ったのは、時代の新しい方の、本能寺の変です。もし明智光秀による反乱がなかったら、果たして日本はどのようになっていたのか。興味深い考察対象ではあるが、結果的に秀吉の継承と、家康による封建体制の確立が、今日の日本の原型となったと考えています。
もちろん、何故光秀は信長を裏切ったのかという謎は残ったままですが、私としてはほぼ勉強し終えた課題だと認識しています。
問題は、古代日本における大事件であった壬申の乱です。若い頃は、天智天皇による大化の改新こそが、重要であると考えていました。しかし、30代以降になり、教科書に拠らない日本史に関する本を、いろいろ読むと再考する必要性を感じてきたのです。
その出発点となった疑問が、果たして天武天皇は、天智天皇の承継者だと云えるのかといったものでした。大化の改新は、豪族の連合国家的な体制であった大和朝廷を、唐の律令体制を範とした近代国家へと変貌させることを目的としていたはずです。
しかし、天武天皇の政治は、その改革を継承するどころか、むしろ変質させ後退さえしているのではないか。そう考えた時、改めて着目しなければならないのが、天智の子である大津皇子と大海人皇子(天武)との戦いである壬申の乱だと思うようになったのです。
ところが、これについて関連する書籍を読み漁るうちに、もう一人のキーパーソンがいることに気づいてしまったのです。それが藤原不比等でした。父は若き日の天智と共に蘇我入鹿を暗殺した中臣鎌足です。
壬申の乱当時は、不比等はまだ若く政治に関与しているはずもありません。鎌足は天智の在世中に亡くなっており、不比等の名が史書に出てくるのは天武の治世でも後半なのです。
それなのに、天武の死後の大和朝廷の動きを見ると、藤原不比等の政治への関与は、相当に古く遡らないと不自然に思えてきたのです。ご存じの方もあるかと思いますが、不比等は日本書紀の編纂に関わった人物です。
この日本書紀という書物が問題が多過ぎる。私の不比等への関心は、日本書紀への疑問から始まっています。調べれば、調べるほど疑問が湧いてくる。本当に天武は、天智の兄弟だったのか。これが最初の疑問でした。
やがてたどり着いたのが聖徳太子です。大化の改新以前であり、まったく気にしていなかった人物です。しかし、この人は聖人として賞賛されているにも関わらず、その子孫たちの末路が悲惨過ぎる。
そもそも聖徳太子と言うのは、死後に賜れた呼称であり、生前は推古天皇の補佐をしていた政治家です。なぜに彼の子孫は妻子に至るまで殺戮されたのか。なぜ、聖徳と讃えられたのか、誰がそのように仕組んだのかと考えると、やはり藤原不比等が浮かび上がってくるのです。
藤原一族の始まりは、不比等であり、その後500年余り日本の政治の中心に居たという空前絶後の権勢を誇った稀有な門閥貴族です。その権勢を支える仕組みを作ったのが、不比等であるにも関わらず、その功績は隠されている。
ちなみに不比等と聖徳太子(厩戸皇子)は、生前の交流がないというか、時代がずれている。にもかかわらず不比等が厩戸皇子を聖徳と讃えたのは、おそらく怨霊を恐怖してのことでしょう。
では、何故に生きた時代が違う厩戸皇子を、不比等が怨霊として恐れなければならなかったのか。
日本史初の女帝である推古天皇の政治を支えたのは、厩戸皇子と蘇我入鹿の二人です。その入鹿を殺したのは、不比等の父である若き日の中臣鎌足と後の天智天皇でした。
ここ最近になって、ようやく私は勉強というか、研究の方向性を定めることが出来ました。これから数年、場合によっては十年以上かけて、この聖徳太子から壬申の乱と藤原一族支配のなぞを紐解いていこうと考えています。
この時代にこそ、日本の政治の原型というか、日本社会の政治構造の原点が出てきたのではないか。そんな考えを抱きながら、じっくりと本を読み、考えをまとめていこうと思います。
読むべき本の多さに、いささか辟易していますが、嬉しさというか楽しさも感じています。もう記憶力も計算力も衰えを自覚していますが、その一方で考える深さ、広さが年齢と共に高まっているようなのが楽しくて仕方ありません。
少しずつ記事をアップしていこうと思います。
大化の改新と壬申の乱を紐解くには、どうしても推古天皇の時代まで遡らねばならない。まずは、この辺りの書籍を読んでいこうと考えています。