これは子供の頃からで、短距離はそう嫌いではない。ダッシュ力ならそこそこあったと思う。もっとも子供の頃は苦手意識はなかった。
ただ単純に長い距離を走るのが嫌いだった。だから体育の授業では、長距離走をさぼってばかりいた。さぼるのは得意な子供だった。多分長距離を走ったのは、中学生の頃のマラソン大会が初めてだと思う。
これは逃げられなかった。世田谷は池尻にある世田谷公園を周回するのだが、要所要所に先生が見張りに立っていたので、逃げることもサボることも出来なかった。
仕方ないので、先生の目が届くところでは真面目に走り、そうでないところではタラタラと歩いて誤魔化した。当然ながら順位は下から数えたほうが早いが、これは勉強の成績も同じなので、別に困りはしなかった。
高校では真面目に勉強していたが、長距離走だけは好きになれず、これまた適当にお茶を濁した。もっとも、放課後一緒に遊ぶ仲間たちは、案外と運動部系もしくは元・運動部の奴が多く、東京郊外にある「こどもの国」の周回マラソンは、皆さぼらず参加していた。
私はみんな適当に走るのかなと期待したが、困ったことに誰一人タバコ休憩もせず、チンタラ歩きもせずに真面目に走るので、仕方なく私も真面目に走った。
多分、長距離走を真面目に走ったのは、この時が初めてだと思う。で、やってみたところ、一応中位の順位であったから才能がまったくない訳ではないらしい。でも、やっぱり嫌いだ。
不思議なことに、長距離を走るのは嫌いだが、歩くのは大好きだ。当時住んでいた三軒茶屋から渋谷まで歩き、そのまま新宿まで歩く。そして帰りは下北沢経由で、やっぱり歩いて戻った。だいたい20キロぐらいあったと思うが、それを小学生の頃に平然とやっていた。
ちなみに一人ではなく、友達とお喋りしながら、なんとはなしに歩いていた。小学生の頃は小遣いも乏しかったので、渋谷でも新宿でもまったく遊ばず、公園の水を飲んで済ませた。帰宅したのは夕方だったが、なにもしてないのに、えらく充実した一日だったと感じていた。
だから、後年山登りを始めたのだと思う。歩きながら景色の変化を楽しみ、たわいないお喋りを楽しむのが好きだった。でも、長距離を走るのは相変わらず嫌いだった。だって、苦しいのだもの。
ところが、大学の部活では、嫌というほど走らされた。本当に嫌だった。いくら先輩たちから怒鳴られようと、本気で走る気にはなれなかった。なんとか手を抜けないものかと思案しながら走っている、不届きなトレーニングであった。
結局、走ること自体、嫌で嫌でたまらないまま卒業した。山登りは続けるつもりだったが、もうランニングだけは勘弁だと思っていた。
しかし、難病にやられて走るどころか、日常生活さえ差し支えるほど衰弱した長期の療養生活が私を変えた。あんなに走るのが嫌いだったのに、いまや走ることを熱望するようになってしまった。
走れなくなって、はじめて走る喜びがあったことに気がついた。人はなくして初めて、その価値に気がつくらしい。
残念なことに難病は完全には治らず、運動もやらないほうがいいと分った。いや、分らざる得なかった。長期の療養生活を終えて、社会復帰を果たし、体力の回復にも自信がついた。そこでランニングを試してみた。
最初は週一回、やがて週二回と回数と距離を増やす。楽しかった。スピードこそゆったりとしたものだが、自分の好きなペースで走ることは本当に楽しかった。
だが、その喜びは長くは続かなかった。やはり再発してしまった。どうやら過労になりやすく、そのことが再発の引き金となっているらしい。
以来、ランニングは控えている。絶対に再発だけはしたくないからだ。でも、近年太りがちで、そのことが検査データーに出てきたので、主治医と相談の上、少しだけ走るようにしている。
いや、走るというより早歩きに近い。一回15分以内で、過労を残さない程度の軽めの運動に過ぎない。でも、これで十分幸せだ。たったこれだけの運動にもかかわらず、一ヶ月で1キロ減量に成功した。
ちょっとペースが速すぎると思っていたら、部屋で金具を踏んでしまい、踵をひどく痛めてしまった。おかげで、まったく走れなくなった。足の故障は直すのに時間がかかると初めて知った。
春になり、跳ねても踵に痛みが出ないことを確認したので、今月から再び軽めのランニングを再開している。春になって木々の緑が芽吹いて美しいのを楽しみながら、玉川上水のほとりをのんびり走っている。
走りながら思うのは、なんで十代の頃はあれほど走るのが嫌いだったのだろうかということだ。多分、やらされるのが嫌だったのだと思う。苦しいのが嫌いだったのも確かだ。
でも、無理やりにでも走らされなかったら、今の自分はないとも思う。若いうちは、嫌でもやっておいたほうがいいことって、確かにあると思う。