誰だってそうだが、子供の頃の激烈な経験は大人への成長過程において重要な役割を果たす。
子供の時分に、欲しいものを巡って兄妹喧嘩を繰り返して育った子どもと、欲しいものを親から容易に入手して育った一人っ子の子供とでは、大人になってから大きく違いが顕われても不思議ではない。成長期の経験は、大人になった時にいろいろな面で特徴的な差異をもたらすと思う。
我慢を強いられつつも長男として優遇された私と、甘やかされた一方一番下ゆえに不利を実感せざるを得ない末妹。そして上の兄と下の妹との間で板挟みの上の妹。この立場の違いは、私たち兄妹にも微妙な差異を生み、それが性格や性癖に微妙な影響を与えたのだろうと思うことは、ままある。
このような成長期の体験は、大人の人格にも無視しえない影響を与えるはずだ。
これは人ばかりでなく、国家、政府にもあるように思う。
たとえばロシアは、周辺の国々からその強圧強権ぶりを恐れられているが、その国家としての原点には、アジアの強大な遊牧民族に侵略され支配された経験が重くのしかかっている。ヨーロッパからすれば、かつての鉄のカーテンやワルシャワ機構軍の恐怖などから、警戒すべき国家の第一だが、ロシア自身は常に侵略される恐怖におびえるが故の防衛策である。
同じことはシナにも言える。ユーラシア大陸の東の端にあって、常に先進的文明国として君臨してきた巨大な帝国であり、コリアやベトナム、チベットなどから侵略的軍事帝国として捉えられ恐れられてきた。しかし、シナの立場からすれば、常に侵略者に怯え、分裂と混乱の恐怖に脅かされた被害者意識は非常に強い。ただ、大国としてのプライドからその恐怖を口に出すことはないが、その軍事政策は常に敵の侵略を意識した攻撃的防衛でもある。
概ね、歴史上の大国というものは、意外なほど敵からの侵略を強く意識し、自らを守りたいがゆえに攻撃的になる。平和的大国とか平和的帝国なんてものが存在しないのも、ある意味当然なのだろう。
ところがアメリカだけは違う。この20世紀初めにに大きく国力を伸ばし、今や唯一の超大国として君臨する国は、外国からの直接的な侵略を受けたことがない、歴史上きわめて稀な存在だ。
なにせ独立戦争を除けば、外国からの軍事的侵略を受けた経験は皆無に近い。事実、日本軍からハワイに奇襲を受けるまで、ほとんど侵略経験がなかった珍しい大国である。
しかし、世界中の人が知るように極めて激烈な軍事志向の強い国であり、政治的対立を軍事力により解決することに積極的な好戦的国家であるのは、否定しがたい事実だ。なにゆえに、これほど好戦的なのか。
一つは建国の動機からも分かるように、自らの宗教的自由を求めて造られた国であり、その自由を軍事力により達成した経験が大きい。さらに付け加えるのなら、内戦である南北戦争で近代国家としての礎を完成させている。自らの正しさを軍事力により達成して成長してきた国家なのだ。
とりわけ、この南北戦争の意義は大きい。アメリカの学校では、この南北戦争を詳細に教えている。それだけアメリカ国家にとって意義ある戦争であった。
私が不満なのは、日本の歴史教育では、アメリカの南北戦争を奴隷解放戦争だとしか教えていないことだ。そんな単純な戦争ではない。工業国家を志向した北部と、大規模農業国家たらんとした南部の国家のあり方を争った戦いであり、強権的な統治を可能とする連邦国家を目指す北部と、ゆるやかな連合であらんと望んだ南部とのアメリカ政府の在り方をかけた戦いでもある。
極論すると、黒人奴隷解放は口火に過ぎず、手段にでしかなく、むしろ過大に評価されている。実際問題、勝利した北部政府は、解放された黒人たちの生活には、たいして関心を持たず、生活に窮した奴隷たちが元の奴隷主の元へ戻った例はいくらでもある。黒人解放を目的として戦争だと理解すると、この戦争の本質を見失うことになる。更に付け加えるなら、リンカーンは若い時からインディアン嫌いで、彼らに対する迫害は延々とやっている。彼の平等概念には、黒人は入ってもインディアンは入らないらしい。私が彼の黒人奴隷解放宣言を、口先のものだと思う所以である。
とはいえ、リンカーンが南北戦争に勝利したことにより、強い権限を持つ連邦政府が生まれた。それまでの緩やかな統一体としてのアメリカ政府とは大きく異なる統一国家としての再出発であった。それゆえに南北戦争はきわめて重要な意義を持つ。
もう一つ、大事なことは、南北戦争は近代史の残るべき極めて残酷な戦いでもあったことだ。新兵器の実験場であり、大量殺りく兵器がこの戦争でいくつも試された。黒人解放という正義の錦を掲げた北軍は、情け容赦のない残虐な軍隊であり、民間人にも多くの死傷者が出た。
これはヨーロッパにおける100年戦争などが軍人と軍人の争いであり、なるべく民間には犠牲が出ないような戦いが推奨(例外も多くあったが)されたことと、大きな違いをみせる。
内戦であるがゆえに、国民同士に大きく溝をうがった事件でもあった。北軍は南部の財産の多くを簒奪しアメリカにおける超富裕層を生み出した。また、北部のより一層の工業化を推し進めた。その奪い方は過酷で苛烈で、今もなお南部のアメリカ住民に熱烈なヤンキー嫌いを植え付けた。
当然ながら、北軍の指導者たるリンカーンは、南部では英雄どころか憎しみの対象でさえあった。さすがに現在では歴代アメリカ大統領の中でも最も偉大な一人とされる。でも、やっぱり今でもリンカーンに対する反感はあるのかな?
そんな疑念を抱いてしまったきっかけとなったのが表題の映画を観た時だ。もちろんリンカーンは主役であり、ヒーローである。ただし、夜になると得意の斧を振るって吸血鬼をザックザックと切り裂くヴァンパイア・ハンター。
信じがたいと思いつつ観てしまったが、ティム・バートンが製作にかかわっているだけに、それなりに楽しめる内容です。殺戮の場面がかなりきついので、子供が浮ェるほどですが、アクション・シーンはなかなか見応えあり。お勧めとは言いませんが、話のネタになることは請け合いですよ。
猿は木から落ちても猿のまま。
でも、国会議員は落選したら、只の人。今まで享受してきた特権的地位を失い、高額な報酬を失い、なによりも栄誉を失う。
だからであろう。野田首相が年内解散の可能性を口に出した途端、与党民主党内部から解散反対の声が噴出した。曰く「年末の重要な時期に、政治的空白を作るべきではない!」
笑ってしまう。民主党政権の存在こそ、民意を反映しない政治的空白そのものではないか。
だからこそ、次なる選挙では勝てない。つまるところ、自業自得であろう。
数ある民主党議員の年内解散反対の意見のうち、失笑を禁じ得なかったのが興石幹事長だ。「首相の独断による解散は民主主義に反する」
あなた、少し前に解散権は首相の専権事項だと言って、解散時期を尋ねる記者たちの質問をかわしていたはずだよ。まァ、現実問題、小泉・元首相の「郵政解体解散」に代表されるように、解散の決断は首相一人の決断で決められる。それはなによりも法律(憲法)に明示されているではないか。
民主主義云々を口にするなら、国民の大多数の意見を反映していない民主党政権の居座りこそ問題とすべきだ。日本の政治を変えて欲しいとの願いを込めた有権者の投票が、4年前の歴史的政権交代を産んだのは確かだ。
だが、国民の多数の願いは無視され、長年の民主党(あるいは旧社会党)の支持者たちの依怙地な少数意見の実現に傾唐オたからこそ、現在支持率は大幅に低下して、次の選挙では勝てないと自ら判じざるを得ないのではないか。
しかし、残念なことに党内の基盤がか細い野田首相は、解散を宣することは出来ないと思う。このまま、ずるずると任期一杯まで民主党政権が続く可能性は高い。朝日新聞をはじめマスコミ各社は、さかんに橋本・大阪市長や石原・前都知事のマイナス材料を漁るのに忙しいらしい。
・・・と、ここまで書いた(14日)ら、なんと野田総理の解散発言が飛び出し、年内選挙が確定してしまった。いやいや、驚いた。しかも、国会論戦中での発言であり、安倍・自民党総裁があわてふためくほどの衝撃発言でもあった。
いったい、どうしちゃったの野田総理。
一応、言っておくとボンクラ揃いの民主党政治家のなかでは、野田総理はわりと仕事の出来るほうだ。前任者たちに比べれば月とすっぽんと評してもいいぐらい。ただ、鳩ポッポほどの資金力(正確にはママさんだろうが)はないし、怒鳴る菅ほど狡猾でもないため、党内では立場が弱い。
推測だけど、解散されるくらいなら野田を総理の座から引きづり降ろせと考えてた民主党幹部たちに、逆ギレしての解散発言に思えてならない。多分、次の政権を担うであろう自公よりも、橋下、石原といった新興勢力が力を付ける前に潰しにかかったのかもしれない。こちらのほうが脅威だしね。
そんな訳で政治の世界は、一寸先は闇との至言は今も活きていることが良く分かる、野田総理の突発性解散発言でした。
来年度予算が決まらないまま選挙に突入しての政治的空白が生じるのは確かですが、民意を反映しない政治的空白が続くよりはマシ。
ただね、民主党の壊滅的敗北は確定していますが、次なる政権が今より良い保証はない。民主党よりマシに思える自民党ですが、私はかなり冷たく見ています。参議院選と同様に、単独過半数は無理でしょう。そうなると連立。
自公民の三党連立なんて、間抜けなことをしないことを祈るばかりです。
予感も予兆もなく、虫の知らせもなかった。もう少し寝入るのが早ければ、枕元に立つこともあったかもしれないが、あいにく未だ起きていた。
夜更けの電話の相手は妹で、口調からすぐに内容が分かってしまった。
とりあえず車で赴くことにする。深夜の中央高速をいつもより慎重に走らせる。車影の少ない奥多摩街道を抜けて秋川街道に入る。峠の手前で山道に入り、谷沿いに一本道を慎重に下ると病院に着く。
霊安室に安置された母の表情は、意外なほど穏やかで、それだけが救いだった。月曜の夜11時36分、誰にも気づかれることなく静かに息を引き取ったようだ。心不全とのことであったが、衰弱死だと私は思いこんでいる。
私は不肖の長男であった。満足に親孝行が出来なかったことを謝るしかなかった。生きているうちに伝えたかった言葉。
「産んでくれてありがとう、育ててくれてありがとう」
病室で寝たきりの母の前で、どうしても口に出来なかった言葉を、深夜の霊安室で絞り出すように伝えるのが精いっぱい。
母の遺体を目にしたら号泣するのかと思っていたが、この不器用な息子はそれすら出来ず、途切れ途切れに嗚咽するのが精一杯だから情けない。
それでも少し気持ちが落ち着いた。
そんな矢先に上の妹夫婦と甥っ子が到着。その場で、母がお通夜も告別式も望まず、ただ献体の後の埋葬だけを希望していたと知る。
母が難病で苦しむ私が世話になった大学病院に献体する意向を持っていたことは知っていたが、葬儀を望まないことは知らなかった。
が、十分ありうることだと思う。母の希望なら、世間の常識に背いても叶えてあげたい。
だから、とりあえず雑事は下の妹に任せ、私は今やるべきことに傾倒しよう。
でも、夜明けまであと数時間、それまでは母の思い出に浸ろうと思う。
ありがとう、お母さん。口に出来なくてごめんね。
野球はチームプレーが大切だ。
私もそう考えているが、実は内心疑念ももっている。つまるところ、ピッチャー次第じゃないのか。
傑出したピッチャー一人いれば、ほとんどの試合は勝てる。それが現実だと思う。それを体現してみせたのが、1970年代に作新学園のエースであった江川卓だ。
江川一人、別次元で野球をやっていた。既に多くの人が語っていることだが、江川の最盛期は高校時代、それも2年生までだと思う。
私も生で観たことがあるが、あの剛速球には驚いた。速くて、重くて、切れがあった。それも、何気ない投球フォームから無造作に投げて、である。
単に速いだけなら、後の伊良部、与田、郭、槙原だって、相当なものだった。だが、あれほどのインパクトはなかったように思う。だが、残念なことにこの屈指の剛速球投手は、あまりに沢山の試合数に潰された。なにせ、公式試合以外の練習試合が年間60を超え、その大半を一人で投げている。これでは肩が潰れても仕方ないと思う。
作新学園及び高野連には大いに反省を求めたいものだ。
その江川が投げた試合で、私にとって忘れがたいものが二つある。
一つはプロ野球、すなわち対広島線でサヨナラホームランを小早川に浴びたあの試合である。江川卓渾身の一球であり、それを打たれたことで引退を決断した、あの試合である。私はその試合をTVで観ていたが、マウンドに片膝ついて座り込み、動こうとしない姿をみて引退を予感したものだ。一つの時代が終わったと思っていた。
もう一つは、江川の作新学園時代、最後の甲子園出場となったあの雨のなかの試合であった。これもやはりTV観戦であった。雨が降る中の延長12回裏、ランナーを背負ってのピンチの場面であった。
一人で投げ、一人で勝ち進んだマウンドの王様のまわりに、なぜかチームメイトが集まっていた。ピンチの場面では珍しい光景ではないはずなのだが、江川に関する限り、きわめて珍しかった。
江川のワンマン・チームであった作新学園は、チームプレーとは程遠い奇妙なチームであった。同じチームでありながら、江川とそのチームメイトたちとの間には目に見えぬ線が引かれている感が否めなかったからだ。
だが、その最終回、最後の場面では普通の高校野球のチームであったように思う。地面がぬかるみ、思うようなピッチングが出来ぬ江川が、初めてチームメイトの地面に降りてきた。そんな場面であった。
あの場面でどんな会話がなされたのか。
それを明らかにしてくれたのが表題の書の著者である二宮清純だ。既にスポーツライターとしては著名な彼だが、私は「Number誌」に掲載された彼の文章で、その会話の中身を知った。
そこに描かれていたのは、謙虚にわがままを押し通すことを願う青年と、これまで口に出来なかった感謝を口にするチームメイトたちとの和解の場面であった。
江川のわがままは打ち砕かれ、遂に栄冠を手にすることなく甲子園を去った。しかし、この試合の最後で、江川はワンマンチームの孤高の王者から、一人のチームメイトに昇格できた。もしかしたらそれは、甲子園の優勝旗よりも重く、輝かしい栄冠なのかもしれない。私はそう信じている。
いや、恐れていたというのが本音だったと、今にして思う。それは小学校1年生の健康診断の時からだった。医者から心臓に雑音がするから、一度専門医の受診を勧められた。
その数週間後に予約した大きな病院へ行き、あれこれいろいろと検査を受けた。結果、軽度の房室ブロックだと診断された。心臓という臓器は、ャ塔vのようなもので、大きく四つのブロックに分かれているそうだ。その機能に少し問題があるけど、軽い運動なら支障がないので、普通に体育に参加して構わないとのお墨付きをもらった。ところで、房室ブロックって何?
簡単に説明すると、血液が房室から心室へ送り込まれ、心室から全身へと広がっていくわけだが、この房室から心室への移動に若干の遅れがあるらしい。この説明は、大学の時に、心臓の専門医から受けた説明なのだ。
小学生の頃はそんな小難しいことは分からない。ただ、なぜか勝手に長時間走ると胸が痛くなる病気だと思い込んでいた。だが、冷静に落ち着いて思い出してみると、小学生の頃は長時間走ることは、まずなかったはずだ。
せいぜい、校庭をグルグルと走る程度であり、長距離走の記憶はない。記憶にある最初の長距離走は、中学に入ってからだが、不真面目な私は手を抜きっぱなし。先生の目の届くところでは勤勉に走っていたが、そうでないところではタラタラ歩いていた。
サボれなかった校内マラソン大会は、近くの世田谷公園でやっていたが、ここは木立が多く、けっこうタラタラ歩き先生の目の届くところだけ真面目に走っていた。これでは胸が痛くなる道理がない。
ただ、その頃から長時間走るのは苦手だとの意識だけはあった。ただ、明確な根拠がない。強いて言えば、息がはずむぐらい走っていると、わき腹が痛くなることがあった。これが嫌だったぐらいで、心臓に痛みを感じるようなことはなかったはずだ。
それを意識するようになったのは、高校生の頃のマラソン大会であった。町田のほうにある子供の国という遊園地の外周道路を二周するのだが、これはさぼることが許されず、嫌々参加していた。
私が5キロ以上の距離を休まず走ったのは、この時が最初だった。この時、初めて胸に軽い刺すような痛みを感じた。私はすぐに小学生の頃に云われた心雑音を思い出し、走るペースを緩めた。
この時以来、長距離走の授業は可能な限りさぼるようになった。
ところで、私は走るのこそ嫌いだが、歩くのは大好き。子供の頃なんざ、三軒茶屋をスタートして渋谷まで歩き、そのまま新宿まで行く。金もたいして持っていないので、遊ぶこともなく、そのまま下北沢まで歩き、茶沢通りを下って三軒茶屋まで戻る。ほぼ一日がかりの散歩であり、歩行距離は17~18キロぐらいあったはずだ。
たいがい、友達と喋りながらの散歩であり、何を話したのかはまるで覚えていない。多分、どうでもいいようなクダラナイ話ばかりだったと思うが、金はなくても時間は潰せる子供ながらの散歩であった。
余談だが、この長距離散歩の癖は、女の子とのデートでもやらかしてしまい、大いに不評を買った。知らなかったとはいえ、若気の至りであり、馬鹿だったと思う。
一年の浪人生活ののち、大学に入りさっそくにワンダーフォーゲル部に入り、山三昧の学生生活であった。ところが、我が部は過去に死亡事故を起こしている関係で、健康診断が厳しかった。私はまたしても心雑音でひっかかり、心臓の専門医を受診する羽目に陥った。そこで云われたのが房室ブロックであった。
困ったことにWV部のトレーニングは走ることが中心であった。そして私は走ることが大嫌いであった。さぼりたいのは山々であったが、一年生連帯責任であったので、さぼれず嫌々走っていた。
そして、可能な限り手を抜くようにしていた。だって嫌いなんだもの。おかげで先輩たちから大いに目をつけられたと思う。今でも飲むとからかわれるぐらいだしね。自信をもって断言するが、あたしゃ走りのトレーニングで全力出したことはない。でも、筋トレは好きでしたけどね。
そんなわたしでも、本番の山では別。走ること(林道を走らされた・・・信じられん!)以外、山では手抜きなんてありえなかった。それほど山をなめてはいなかったからだ。
やがて社会人になり、すぐに難病で体を壊し、登山どころか普通の運動でさえ出来ない身体と成り果てた。もう、走らなくていいじゃないか。そうなんだけど、全然嬉しくない。
むしろ走りたくって仕方がなかった。しかし、身体が回復したと思い、走り出したら再発する始末。身体を動かしてストレスを解消するタイプであるため、私は必然的に太った。恵まれた食生活のおかげでもある。グルメだった故・佐藤先生の影響が大きかったのは確かだ。
ところが、太り過ぎて他の内臓に支障が出てきた。やむなく、恐る恐る軽い運動を始めている。15分ほどゆっくり走り、柔軟とストレッチに重点を置いた、本当に軽い運動だ。おかげで2か月で1キロペースで痩せてきた。この調子で頑張ろう。
先月末に50歳となり、今さらながら私の心臓について考えてみると、本当に胸が痛むほどの事態は、ほとんどなかった。厳しかった大学のトレーニング時に数回あっただけだった。
では、長年私が長距離走が苦手だと思い込んでいたものの正体は何だ?
トラウマ、そうとしか言いようがない。幼い心に、長い時間走ると心臓が痛くなると刻み込んでしまったのだろう。ずいぶんと余計な心配をしたものだと思う。多分、幼心に心臓の欠陥は、大きなコンプレックスとなっていたのだろう。
ところが根が怠け者の私は、そのことを前向きに処理せずに、長距離を走るのは苦手だと歪んで理解してしまったのだろう。おかげで、本当に苦手になってしまった。もし前向きにとらえて、ランニングに積極的に取り組んでいたら、違う人生を送っていたかもしれない。
まあ、性分が根っこの部分でナマケ気質なので、可能性としては低いと分かってはいる。それにしても、子供の頃の思い込みって浮「。正しく理解しておけば、トラウマにはならなかったかもしれない。
人生、後悔するのはあまり好きではないが、この長距離走嫌いはちょっぴり後悔しています。だって、自分のペースで走るのって、けっこう楽しいだもの。