ビックリした。
消費税が上がってから、初めて高速道路に乗った4月の第二週の週末のことだ。3月までは調布から八王子まではETCで400円である。5%から8%に消費税が上がったのだから、420円くらいかと考えていた。
ところがだ、ゲートを通り、表示された値段にビックリ、620・・・だと。よりにもよって6百円台に仰天した。50%も値上げしていやがるぞ。
帰宅してからネットで調べると、値上げではなく、従来の割引率を緩和した結果だとかなんとか云々である。さすが道路公団である。お役所的答弁にもほどがある。猪瀬・前東京都知事が公団の体質を厳しく指弾していた頃は、ひたすらに値下げで低姿勢であった。
しかし、うるさい猪瀬がいなくなり、影響力が失せたと判断したのかどうか知らないが、どっちゃりと値上げしていやがった。消費税の増税によって値上げが相次いでいるのは確かだが、高速道路ほど露骨な便乗値上げは他に例をみない気がする。
ここ暫らく多忙で、新聞もTVも流し読み、聞き流しの状態であったので確信はないが、高速道路の値上げは監督官庁の認可が必要だったはず。はて、国会でまるで話題に上がってなかったのか。
いや、それよりも日頃、善人面して便乗値上げの告発に余念がないはずの新聞TVがスルーしているのは、いったいどういう訳だ。私が見過ごしただけなのか。
う~ん、見過ごした可能性は高いが、それにしたってもう少しこの阿漕な値上げは話題になって然るべきだと思う。多分、ゴールデンウィークで高速道路で遠出した人は、高速代の高さにビックリすると思うぞ。
あたしゃ、ビックリを通り越して今じゃむかっ腹を立ててますけどね。
750(ナナハン)ライダーといえば、若い頃は憧れであった。
当時は限定解除といって、府中か鮫洲の試験場での実地テストを合格しなければ、排気量400cc超の大型バイクには乗れなかった。しかも、この試験はかなり意地悪で、暴走族風の若者は滅多に受からない。
試験官である警察が、明らかに目に見えぬ障壁を設けて、若いライダーを排除していたと思う。私の周囲でもバイクの運転は上手いが、外見がリーゼントヘアで如何にも暴走族風にみえてしまう連中は、誰一人この限定解除の関門を通過できなかった。
私自身は、原付免許で何度も捕まり、遂には免許取り消しとなっていたので限定解除どころか、中型バイクの免許も諦めざるを得なかった。どうも私はバイクに乗ると、交通法規を忘れてしまう性分であるようだ。
一応言っておくと、車の免許は20年近くゴールドであったし、人身事故は皆無なので、悪質ドライバーという訳ではない。ただ、ここ3年ほど、やたらと警察に目を付けられる不運に恵まれたせいで、後一点で免停である。やっぱり私は警察は嫌いだ。
それはともかく、バイク自体は嫌いではない。むしろ好きなほうだが、好き過ぎて道路交通法が邪魔で仕方なく思えてしまう。だから十代の頃は、反則金の支払いのためにバイトに精出した位である。
さすがに免許取り消しとなった後で、自分にはバイクは似合わないと無理矢理納得させて以来、自転車派に転向している。当然、信号なんて守るもんか!
今でも不思議だが、バイクには社会に背きたくなるような魅力があるように思う。ただ単にバイクが好き、それだけでは済まなかったのは、この反社会的雰囲気をバイクがまとっているからだと思う。
表題の漫画は、私が十代の頃に週刊少年チャンピオンに連載されていた。当初は反抗的な雰囲気をまとい、鋭い眼光で学校や社会に素直になれない一匹狼的な若者が主人公で、本田のCB750に乗って暴走族とレースをしたり、喧嘩をしたりの漫画であった。
ところがいつのまにやら、その鋭い眼光は丸く優しくなり、仲間とのんびりと喫茶店でゆったり青春している、さわやかマンガに変貌していた。私はそれが嫌で途中から読まなくなっていたが、人気自体は後半のほうがあったようだ。
作者の石井いさみといえば、少年院帰りの青年や、社会からはぐれた若者を描いた作品が多かっただけに、この変貌はいったいなんだったのか不思議だ。まったく根拠のない私の想像だけど、このような変貌は多くの場合、家族か宗教の影響であることが多い。
一時期、聖教新聞に漫画を連載していたので、創価学会の信者と思われていたこともあったが、本人が否定している。そうなると、やはり家族なのだろう。
私個人は、主人公の早川光が群れることを嫌い、安易に普通の高校生であることさえ否定していた頃の方が好きだった。でも、漫画としては優しく変貌した後半のほうが人気があった。たしか10年以上連載が続き、単行本も50冊を超えると記憶している。
今回、たまたま漫画喫茶で初期の頃の単行本を数冊読み返したのだが、私はやっぱり初期の頃のほうが好きだ。だって、バイクって笑顔で乗るより、鋭い眼光を放ちながら乗るほうがカッコいいのだもの。
日本が少子高齢化を迎え、人口の減少という未曾有の事態を迎えているのは確かだ。
だが、広く世界を見渡せば人口は急増中であり、その大半が貧困に喘いでいる。一方、電気や上下水道などの社会資本が整備された日本は、治安も良く、選ばなければ仕事にも溢れている。
その社会資本を整備運営する人材もいずれ不足するだろうし、増大する一方の高齢者の生計を支える年金の担い手である若い勤労者が減ることで、年金財源も危うくなってきている。
その危機感が、労働者の輸入20万人という数字となって発表されたのだろう。
誤解を恐れずに言ってしまうと、外国からの労働者の導入は確実に日本社会を不安定化させる。治安の悪化はもちろんだが、日本的慣習に対する抵抗も含めて、今までどおりではいられなくなるのは確実だと断言できる。
おそらく優秀な外国人労働者との競争に敗れて失業する人もでるだろう。経営者や上司が外国人となり、今までどおりの働き方、生き方さえ出来なくなる可能性もあるだろう。
だからこそ、外国人労働者の導入に反対する意見が必ず出る。それは必然といっていい。
だが、敢えて言おう。もはや反対している段階ではないと。もう既に労働現場では人材不足で困っている。建築現場がその典型だが、それは氷山の一角に過ぎない。日本の物流を支えるトラック運送業界だって、人手不足は深刻だ。スクラップ業界ともなれば、外国人抜きでの仕事はもはやあり得ないレベルにある。
サービス業界でも、目に見えない部分では、既に外国人労働力抜きでは回らないほどに日本人の労働力不足は深刻だ。人気のテーマパークでさえ、来園客の目に触れない部分の業務では、外国人労働者が当たり前のように働いている。
今さら外国人労働者の導入に反対しても手遅れだ。反対するのなら安易な導入にこそ反対すべきなのだ。間違いなく異なる生活習慣を持つ外国人を隣人として迎えた場合、些細な誤解や、重大な事実誤認など様々な原因でトラブルが生じる。
トラブルが生じることを前提に、その対応策を講じた上で、なおかつ想定以上のトラブルが生じることを前提として外国人労働者を迎え入れねばならない。実例が知りたければ、日系ブラジル人を多数受け入れた群馬県の太田市や大泉町、あるいは静岡県の磐田市の行政の対応を見学してみるといい。
うちの事務所は太田市界隈に顧問先が数件ある関係で、毎月訪問し、その実情や裏話などを見聞きしている。町ぐるみで外国人労働者とその家族を迎え入れた結果の苦労や、トラブルの多さは間違いのない事実である。
だが恐れてはならない。関東でも群馬県は関東の製造業の一大拠点である。大手の下請け、孫請け、その更に下の末端の零細事業者が数多ある地域である。その群馬県の中で、一番活気のある町が太田市である。県庁所在地である前橋や新幹線の駅のある高崎市も、けっこうな規模がある地方都市ではある。
しかし、人の動き、金の流れなど目に見える活気があるのは、間違いなく太田市だ。ここは、他のどの地方都市と比べても外国人労働者が多い。不況の時には安易に首を切られることもあるが、受注が急増して人手不足になれば頼りになるのが外国人労働者だ。
単純労働だけではない。群馬は日本一の自動車保有率を誇る地域だが、廃車になった車の処理業者は、驚くほど外国人事業者が多い。彼らは自動車を解体し、その部品を海外に輸出する。海外では日本の中古車が大人気であり、その修理のための部品の需要は非常に多い。
彼らの事務所に行くと、インターネットで海外(多くの場合故国だ)で部品の注文を受け、廃車の山から目当ての部品を見つけ出して、たちまちのうちに輸出手続きを始める。なければ、同業者に片言の日本語で連絡して、素早く必要な部品を見つけ出す。
パキスタン人やベトナム人に加えてロシア人までいるが、面白いのは彼らの会話が共通語として日本語で行われていることだ。現金取引が主流だが、もちろん円が共通通貨である。日本国内だとドルは使わないようだ。
おそらくいずれは人材派遣業にも彼ら、外国人がマネージャーとして活躍することになると予測している。都内では既に外国人が設立し、活動している法人も存在している。多くの場合、配偶者のどちらか一方が日本人であるようだが、社員の多くは外国人である。
実は私の事務所のあるテナントビルにも、このような会社がある。昼時になると、褐色の肌の男性たちがゾロゾロと出てくるので、すぐに分かる。どうもコンピューターソフト開発会社らしいのだが、詳しくは知らない。
もはや外国人は単純労働だけでなく、様々な産業分野に入り込んで活躍する。私の予測では、そう遠くない将来は、公的な部門でも外国人労働力が必要とされると思う。なぜなら日本人の労働人口は減る一方であり、社会システムを動かす部門でも当然に人手不足となるのは目に見えているからだ。
当然に様々なトラブルは頻発する。だからこそ安易に外国人労働力を呼び込むことは、かえってトラブルを増やす。彼ら外国人に敷金礼金なんて風習はないし、ゴミ出しの区別の習慣もない。
だが、私が太田で見聞きする限り、ある程度は理解しあえる。ただ、民間人同士だけでは限界がある。だからこそ、それをサポートする行政の役割は重要だ。今のところ、地方自治体が自主的に行っているだけであり、やはり最終的には国政においても、ガイドラインが必要となるはずだ。
これは既に現実に問題となっている。たとえば外国人労働者も日本で働く以上、立派な納税者だが、彼らが扶養する故国の家族の扱いなどは、明文化されていないのが実情だ。実はある要件を満たせば日本の扶養家族としての扱いも可能なのだが、そのやり方は未だ一般化されていない。
私はたまたま、そのやり方を知ることが出来たが、一般には周知されているとは言い難い。税務は公平でなければならないことを考えると、これは問題だと思う。街の税理士に過ぎない私でさえ、既に外国人労働者の問題に突き当たっているのだから、相当な広がりがあると憶測できる。
繰り返しますが、もはや反対すれば良いという段階は過ぎています。トラブルが生じることを前提にした現実的な政治的対応が求められている時代だと認識すべきだと思います。
忘れがたいが、既にその記憶が曖昧になっているのが哀しい。
子供の頃、よく見ていたTVアニメに、「アンデルセン物語」があった。妖精のキャンティが良いことをすると貰える魔法カードを集めるため、相棒のズッコと二人してアンデルセンの童話を紹介していく。そんなアニメであった。
親指姫を初めとして、幾つもの物語があったが、原作とは少し違ったストーリーが幾つかあった。その一つが表題の作品だ。wikiで調べたが、どのアニメ作品がこれに該当するのかは分からなかった。
もう40年以上昔のことであり、記憶は薄れがちである。でも、あの哀しさ、切なさ、悲痛さは忘れがたく記憶に刻まれている。
貧しいが誠実に生きるある母子のもとから、その子供が魔物に連れ去られてしまう。悲しみに暮れる母親は、子供を探す旅に出て、美しい髪を引き換えに情報を得て、その目すらも犠牲にして、遂に子供が死神の元にいることを突き止める。
厳しい風雪をついて、ようやく死神の元に辿りついたのに、盲目の哀しさで這いずる最中に思わず掴んだ小さな花の咲いた草が、実は姿を変えた子供であった。握りつぶしてしまった花が、子供の変わり果てた姿だと死神に教わり、泣き崩れる母親。
私は哀し過ぎて、その後どうなったのかはほとんど思い出せない。ただ、番組の最後でズッコが寂しげに「あの母子は天国で一緒になったんだよね」とキャンティに語りかけると、「そうよ、そうに決まっているわよ」と返事している場面だけが思い出せる。
その後、大人になってからようやく原作と思しき作品を読むことが出来た。おそらく、表題の短編がそうだと思う。私の記憶にあるアニメとは、少し最後が違うように思うが、これが原作だと思う。
アンデルセンの童話は、どうしようもなく哀しい結末が用意されていることが少なくない。この作品もその一つだと思うが、私にはTVアニメのエンディングよりも、原作のほうがしっくりときた。
21世紀を迎えた今日でさえ、子供の生存率は決して100%にならない。病気、事故、戦争、災害と様々な原因で幼い命が奪われていく。いつの時代も、幼いわが子の命が失われていく苦痛が母親を襲ってきた。
その苦しみに耐えるためにこそ、神の救いが必要だったのだろう。アンデルセンが作中において、死神を通じて示した子供の死への対処は、確かに悲しみに暮れる多くの母親へのワクチンとなってきたのではないか。
童話とは、親が子供に読み聞かせるものですが、案外と親にこそ読んで欲しかったのがアンデルセンの本音かもしれません。
難病ゆえに長く自宅療養をしていた頃、夢中になっていたTVゲームの一つにファミコンの「ファミリースタジアム」通称ファミスタがある。
野球ゲームなのだが、簡単だが奥が深いアクションと、短時間で一ゲームを終わらせることが出来るので、一人で、あるいは友達と数人で楽しめる好ゲームであった。
ある日、ゲーム雑誌にアメリカ版のファミスタが紹介されていて、その画面に驚いた。ファミスタといえば、3頭身のモザイクキャラがちまちまと動くのが当然であった。しかし、アメリカで発売されているファミスタのキャラは、なんと6頭身であり、かなりリアルに表現されていた。
もちろん8ビット機であるファミコンなので、その動きは決してスムーズとは言い難いが、雑誌のなかで任天堂の関係者が、アメリカでは人物キャラはリアルに表現されていないと受け入れられないと述べていたのが印象的であった。
この傾向はアニメーションでも顕著だと思われる。とりわけ3D撮影技術の進歩に伴い、可能な限りリアルにアニメを表現しようとする傾向がアメリカのアニメ映画には顕著だ。
率直に言って、ならば実写でも良いのではないかと思うが、そうならないのが面白いところ。実際、表題の映画でも、雪や氷の結晶の表現力は、実写を超えてアニメーションならではの表現力を見せる。CG技術の進歩には驚かされるばかりだが、この映像を3Dで観るのは、ほぼ実写に近い描写だと思う。
一方、昨年日本で公開されたスタジオ・ジブリの「かぐや姫のものがたり」は、このアメリカのアニメとは一線を画す日本独自の表現方法であり、どちらがイイ、悪いとは言わないが、非常に興味深い対比となる。
でも、本当に大切なのは、ストーリーであり、アニメによる表現力はそのための手段であることを忘れて欲しくないものだ。表題のアニメ映画は、おそらく原作はアンデルセンの「雪の女王」だと思われるが、まるで違うストーリーとなっている。
だが、物語としては破綻なく、また違和感もなく出来ているので、アンデルセンの作品とは別のものだと思えば気にならない。実際、楽しい映画でしたし、大ヒットした「Let it GO」に合わせて歌い、踊る登場人物たちの動きもスムーズで、大人から子供まで楽しめる作品です。
とりわけ雪が舞う場面や、女王の魔法により凍結する城の場面は美しく、その映像美に思わず心を奪われます。特段期待もしてなかった映画でしたが、楽しい時間を過ごせました。機会がありましたら是非、映画館のスクリーンで楽しんで欲しいと思います。