きょうの写真が「どん底」で、そこに群れを作った牛たちが見える。左手の一段高いところには「舞台」があり、10数頭の牛の一団がいた。
この第1牧区の牛たちへの給塩はほぼ順調だが、種牛のいる第4牧区はそうはいかずに弱っている。朝は全頭が塩場の近くにいたが、いなくなったら塩を持って行くつもりでいると、昼を過ぎてもその場所を離れようとしない。特に種牛のいない時を見計らって塩を置き、それから呼んでやろうとする算段だが、その種牛が相変わらずふてぶてしい態度を変えず動こうとしない。きょうは1日中あそこにいるつもりなのだろうか。
北原のお師匠からしばらく前、テイ沢に木地師の墓があると聞いた。それで草刈りのついでに、教えられた場所へ行ってみた。恐らくこの石塔のことだろうが、これだけでは残念ながらそうだと断定することは難しい。一番はっきりとそう決めることができるのは、墓石に16弁の菊の紋章が刻されていることだが、これにはない。似たような石塔はこの沢には20体以上もあり、果たして墓石であるかも分からなかった。
ただ、お師匠の話では首切り清水の辺りに、かつて木地師が暮らしていたという言い伝えがあったらしい。以前からずっと、テイ沢に残された数々の石碑、石塔にはどんな謂れがあるのかと関心があったが、もしかしたら木地師と繫がるかも知れないと期待していただけに少し落胆した。これを見れば分かるように、それほど古いものではない。
木地師の祖先は9世紀にまで遡り、その子孫は明治のころまで1千年も続いたようだ。文徳天皇の子である惟喬親王が、天皇の位を義弟(後の清和天皇)に譲り、滋賀の山中に一族とともに移り住んだのが始まりとされている。ろくろを使い、木工を生業とし、全国の山々に散らばったという。伊那谷には主に天竜川の東岸にそれと分かる墓石が残っているそうだ。別の場所でだが、菊の紋章の入ったしっかりとした墓石を見たことがある。
石堂越え、宗良親王や北条時行、法華道、そして木地師と、こんな山の中にも歴史の断片を感じさせる興味深い故事が結構残っている。
まだまだ夏の小屋やキャンプ場は余裕があります。予約をお待ちします。
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