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北原のお師匠(左)と「遠照寺」松井住職
昨日は、開創1200年になる名刹「遠照寺」の住職・松井上人とご子息に当る副住職も来訪し、法華道の一部の草刈りをした。発案したのはご存知北原のお師匠で、師と長女のYさん、孫のMさんも加わり、それに不出来な弟子も参加して総勢6名となった。師は監督役ながら、御所平から峠までを立派に往復した。
いつのことかは知らないが、何でも御所平峠から御所平へ下る法華道が草に覆われてしまっているのを目にし、以来師はそのことをずっと気にしていたらしい。今や御年90歳を超え、さすがの師も以前のように一人だけでは何ともかなわず、荒れるに任せるしかない山道を思い浮かべては一人悶々としていたらしい。
しかしそれで終わらぬのが師の恐るべき執念で、古道整備の思い昂じた挙句、ついに畏れ多くも松井上人を口説き落してしまったらしい。なぜ遠照寺であり、松井上人かと言えば、これには若干ながら理由がないわけではない。
まず、遠照寺は法華道と深い縁のある日蓮宗の古刹である。1472年、身延山久遠寺十三世の日朝上人が布教のため伊那谷に入り、遠照寺は同上人により日蓮宗に改宗した。その折、高座岩にて「七日七夜の題目を唱座」したと「芝平誌」伝えられているが、その高座岩のある場所が遠照寺の飛び地であることを発見したのは、法華道の復活に奮闘していた北原のお師匠である。
この辺りのことは、この独り言でも触れてある。興味があれば、カテゴリー別「法華道と北原師」を読んでいただきたい。
あの程度の草刈りなら、かつて師がやっていたように、「歩くよりも速く草を刈る」と大法螺を吹いている弟子が一人でやっても大して手はかからなかっただろう。師の懸念の深さに思い至らなかったわが不徳をここで詫びておくしかないが、まあ師としては、あの法華道を何とか後世に残すために、麓にある日蓮宗系列の寺とその檀徒に託したいという思いがあったのだろうと推測している。昨夜「やっと気が晴れた」と、電話を掛けて来た。
昨日、5人と一緒に軽トラで第1牧区を通ったら、遠く後立山の峰々が冠雪していた。17日に降った雪で、槍や穂高はまだだった。調べてみたらナント昨年も作業日誌に、18日「北ア、中ア、八が岳初冠雪」とあった。これからの高い山は、悪天になれば中高年には相当の危険が伴うことを承知しておくべきだろう。
その作業日誌には同日「草刈り、調教」ともあり、昨年は残留した2頭の和牛がいた。もう「Autumn Leaves」は歌ってやれないけれど、懐かしく思い出した。本日はこの辺で。