これを春の力と呼ぶべきか、野草の勁さと見るべきか、地中から芽を出した先の尖ったカタクリが、枯れ葉を槍のように突き破り現れた。草花はこの時季、重い土を押しのけて発芽するのだから驚くことはないと言われたら確かにそうだが、それでも、こんな小さな植物の生きる力に気付き、改めて感心するやら、また考えさせられもした。
写真の場所ではないが、ひと株だけカタクリに蕾が見え、それは片葉ではなくちゃんと両側に葉も付いている。咲くだろうか。

満開の梅の木に今朝は2羽のウグイスが来ていた。里ではあまり鳴く声を聞かないが、牧場では一時期まるで鳴き方の巧さを誇示するかのように、くどいくらい聞かされる。山桜の花のころなら5月の中旬、コナシの花が咲くころと言えば6月の初旬、そのころだろうか。
まだ先のような気がしていても、待っていた梅の花が早くも散り始めているように、そんな季節もすぐに来る。きょうから4月だ。
花の下で酒を酌み交わす愉しさが分からないことはないが、目黒川のような、言っては悪いがあまり風情のない川端の花を見たさに、なぜあれほどの人で賑わうのか理解できない。あれは花に惹かれてというよりか、人の集まる場所に行ってみたいという一種の群衆心理のようなものと考えればいいのか。東京にも、静かな花見のできる場所は他にもあるはずなのに、あそこは報道が煽り立てている面もあるのだろう。
今こうして思い出してみても、ついでに立ち寄ったという花見はあるが、酒や肴を持ってわざわざ花見に出掛けたというのは、東京では1,2回程度しか記憶にない。田舎に帰ってからも、近くに桜の名所高遠城址があるが、毎年、牧場への行き帰りに遠くから眺めるだけで済ませてしまっている。
桜の花に関しては、格別な思い入れというものがなかったかも知れない。特にソメイヨシノは、と呟いた途端に、それを否定するような記憶が次々と浮かんできた。善福寺池や井之頭公園の花を、夜の散歩でよく目にしたし、山からの帰り、北陸線の沿線から目にした遅い花を、桜といえば決まって思い出す。禅林寺の枝垂れ桜はその中でも特に印象深く、やはり桜の花にまつわる記憶は多くて、呟き出せば後からあとからきりがない。
牧場にも毎春、たくさんの山桜が花を咲かす。花の咲き方は年によって違っても、目当ての場所で待っていてくれたように咲いている清楚なその姿を目にし、その時はそっとしておきたいという気持ちと、誰かに見せてやりたいと思う気持ちの間で揺れるものだ。花、5月の空の下、残雪輝く空木岳を背景にしたあの場所は、まだ内緒だ。
本日はこの辺で。
写真の場所ではないが、ひと株だけカタクリに蕾が見え、それは片葉ではなくちゃんと両側に葉も付いている。咲くだろうか。

満開の梅の木に今朝は2羽のウグイスが来ていた。里ではあまり鳴く声を聞かないが、牧場では一時期まるで鳴き方の巧さを誇示するかのように、くどいくらい聞かされる。山桜の花のころなら5月の中旬、コナシの花が咲くころと言えば6月の初旬、そのころだろうか。
まだ先のような気がしていても、待っていた梅の花が早くも散り始めているように、そんな季節もすぐに来る。きょうから4月だ。
花の下で酒を酌み交わす愉しさが分からないことはないが、目黒川のような、言っては悪いがあまり風情のない川端の花を見たさに、なぜあれほどの人で賑わうのか理解できない。あれは花に惹かれてというよりか、人の集まる場所に行ってみたいという一種の群衆心理のようなものと考えればいいのか。東京にも、静かな花見のできる場所は他にもあるはずなのに、あそこは報道が煽り立てている面もあるのだろう。
今こうして思い出してみても、ついでに立ち寄ったという花見はあるが、酒や肴を持ってわざわざ花見に出掛けたというのは、東京では1,2回程度しか記憶にない。田舎に帰ってからも、近くに桜の名所高遠城址があるが、毎年、牧場への行き帰りに遠くから眺めるだけで済ませてしまっている。
桜の花に関しては、格別な思い入れというものがなかったかも知れない。特にソメイヨシノは、と呟いた途端に、それを否定するような記憶が次々と浮かんできた。善福寺池や井之頭公園の花を、夜の散歩でよく目にしたし、山からの帰り、北陸線の沿線から目にした遅い花を、桜といえば決まって思い出す。禅林寺の枝垂れ桜はその中でも特に印象深く、やはり桜の花にまつわる記憶は多くて、呟き出せば後からあとからきりがない。
牧場にも毎春、たくさんの山桜が花を咲かす。花の咲き方は年によって違っても、目当ての場所で待っていてくれたように咲いている清楚なその姿を目にし、その時はそっとしておきたいという気持ちと、誰かに見せてやりたいと思う気持ちの間で揺れるものだ。花、5月の空の下、残雪輝く空木岳を背景にしたあの場所は、まだ内緒だ。
本日はこの辺で。