春に対する気持ちは、この花が咲いて一段落するような気がする。白いボケの花、昨年は一輪だけ咲いて半月近くも後続する花がなかった。今年はそういうこともなく、しかし大分開花が遅れた。これからイカリソウの赤と白の花が咲くころにはまた里を離れて、山の生活が主となる。そうなると、もうこの庭の細やかな季節の変化を追いかけれなくなって、ユキザサ,、オオウチワ、ツツジなど草花への関心は薄れてしまうだろう。
牧場の仕事が始まっても、しばらくは里と山との往復となる。片道38㌔、時間にして1時間15分、標高差は1000㍍、下と上との気温差6度。
こうした変化は、自然も教えてくれる。特に清流の山室川の流れに沿って上っていく間には、草木ばかりでなく、野鳥の鳴き声にもそれを感ずる。真っ白いコブシの花が咲いて、芽吹きがその緑の色を少しづつ濃くし、山桜が標高に合わせて清楚可憐な花を次々と開く。
そんな春が15年も過ぎた。山室川の渓を呟く時、この記憶にはそんなにも長い年月が集積しているとはとても考えられない。あの辺りの自然の様相はあまり変化を見せず、長年の記憶が総体化したということもあるだろうが、思い浮かぶ風景はいつの春も変わらない同じ春だ。
あの澱みの水の色、次第に細くなっていく川幅、枯木橋の廃屋と釣り人ならつい竿を振りたくなるちょっとした渓相、不機嫌な未舗装の石ころだらけの山道、この渓があって、ここで感じたり考えたりしたことがあって、それから山の牧場へと向かう。
だから上で暮らし、この渓とご無沙汰するようになると日常の暮らしに、風景に、ある種の欠落を感ずるようになる。本当は、山室の渓は復路も含めて「かけがいのない」といってよい、それほどの場所なのだ。それと比べたらこの陋屋など、まるで仮寝の宿のようになってしまうのだが、ただそう言ってこの家を軽視し帰ってこなくなれば、この渓との縁が薄れてしまうというややこしさがある。
冬の間、疎遠になってしまった人を思い返すように、この渓のことをよく考えた。
ひと冬が過ぎて、また一段と記憶、行動が鈍くなった。誰も言ってはくれないが、少し認知症の兆候を感ずる時がある。クク。身体の健康についてはあまり気にせずにでここまで来たが、何かしようとして立ち上がり、はて何をしようとしたのかと考え込むことがさらに多くなった。きっとこの呟きにもそれが出ているかも知れないが、それならそれでいいと思うことにした。
昨夜の食事会は何とか無事に終わった。今度はカレーだと。フフ。本日はこの辺で。