入笠牧場その日その時

入笠牧場の花.星.動物

     ’22年「冬」(28)

2022年12月13日 | キャンプ場および宿泊施設の案内など


 冬空を背景に、今年も柘榴(ザクロ)の実が放っておいたら赤い口を開けていた。こんな木をいつ誰が植えたのか、それに一体どうしようとしたのだろう。特別見栄えのする木とも思えないが、庭の隅の梅の木の横に遠慮がちに生えていて、葉を落ち尽くしたその姿はみすぼらしくさえ見える。
 実を3個ばかり捥いで、皿の上に乗せてみたが、今いる居間には相応しい場所もなく、そんな物を見る人などいないのに普段は使っていない部屋の卓袱台の上に置いてみた。自己満足。



 昨日は誰とも会わず、電話ですら言葉を交わすこともなかったが、きょうは電話が1本だけかかってきた。人とは会っていない。三度の食事を作り、本を持って風呂に入り、この独り言を呟く以外に格別することがない。
 
 それで、風呂の外でも暇つぶしを兼ねて本を読むのだが、視力が低下傾向にあり、長時間の読書をすると疲れるということを昨日呟いた。何もしないで時間を空費するのも勿体ないと思い、あれやこれやと考えた末に、ふと前から考えていた瞑想を実践してみようかと思い付いた。これなら目は休めるし、ただ呆けているよりはマシだろうという理屈だが、そんなことが自分にも可能なのかは全く半信半疑だった。
 
 実は、以前に読んだ本、ユウ”ァル・ノアハラリ著の「21 Lessons」においてだったと思うが、著者が実行している瞑想のやり方を紹介していた。胡坐をして薄く目を閉じ、鼻で息をすることに意識をひたすら集中するという、ただそれだけのことだ。
 彼は日常的にそのようなやり方で瞑想をするだけではなく、年に数日、集中して瞑想三昧の日々を過ごすのだという。
 
 また、以前にテレビの番組で、ある僧侶、詳しいことは忘れてしまったがきっと修業を積んだ僧だろう、が座禅を組んでいる時の脳波の状態を見たことがあった。確かに、ある一定の時間が経過したら脳波が変動しなくなった。あれを「没我」とでもいうのだろうか。
 番組を見ていて、もしそんな未知の境地に行けるものなら、是非それを体験してみたいと思ったものだが、同時にまた、そんなことは無理だと、別な自分に即否定されてしまった。

 それでも時々、牧場の広大な空の下で、はたまた小黒川や東谷の深い渓の中で、こんな場所なら瞑想するに相応しいと思うことはあった。野生化が進む中、それゆえにか、忘れてはいなかった。
 きょうは雨、陋屋の暗がりで、どうせ真似事で終わるだろうがやってみようか。

 O澤さん了解しました。本日はこの辺で。
 
 

コメント
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