入笠牧場その日その時

入笠牧場の花.星.動物

     ’23年「冬」(13)

2023年01月18日 | キャンプ場および宿泊施設の案内など


 散歩は夕暮れならこんな風景を眺めながら歩く。瀬澤川の川音を聞き、この先の切通しを過ぎて隣村の集落の端を通り、その集落を過ぎれば里山の裾野を歩く。そして峠を越せば、また別の集落に至る。
 夜道ではこんな辺りで人に出会うことなどないが、もしそんなことがあればどちらも不審者と見做して驚くだろう。人の目を避けた夜の散歩ではあるが、そうした難しさがある。
 まして夜間に墓地に出没したとあっては、幽霊で済めばいいがそれでは収まらないだろう。頭がおかしいと思われても仕方がないし、場合によっては警察のお世話になるやも知れない。そう思って、もう夜の墓巡りはやらないことにする。

 子供のころの村の夜は真っ暗だった。それでも用事を言いつけられて、懐中電灯ならまだしも、提灯を下げて歩いた記憶もある。いや、江戸時代の話ではなく、昭和20ウン年のころだ。
 あのころは、今と違って車に乗る人などはいなかったから、時には怪し気な灯をともした人と闇の中ですれ違うこともあった。そういう時は「お使いです」、「お使いでござんす」と声高に言ったものだが、こんな言葉はもう死語になっているだろう。用事で訪れた家では、たまには「お駄賃」と言って駄菓子の類をくれたこともあった。
 当時は子供でも、近くの家やそこに住む人のことがおよそ分かっていたが、今では知らない人が増えた。特に他所から嫁いできた若い女性の中には挨拶をしない人が多く、そのくせ、何年も前から住んでいるようなデカイ顔をしている。クク。

 夜の散歩の話から、大分脱線してしまった。それに、最近は入笠とは全く関係のない話になりがちで、そのせいでか、このごろこの呟きを聞いてくれる人が減ってきた。乾いた手ぬぐいを絞るようにとはよく使われる譬えだが、毎日まいにち入笠を話題にするのはまさしくそのようなもの。
 それに、気を付けていても、どうしても呟いている人間の地が出てしまう。それが牧場の山小屋やキャンプ場の営業に逆効果になりはしないかと案じているが、北原のお師匠亡きあと、師が夢に出てきてはやたらと発破をかけてくれるのだ。
 この独り言、初の沢の水が冷たいと薬缶に熱い湯を入れて持っていき、流れにそれを注ぐようなものかも知れない、嗚呼。

 本日はこの辺で。
 
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     ’23年「冬」(12)

2023年01月17日 | キャンプ場および宿泊施設の案内など


 里は雨だったが、上は雪だったかも知れない。経ヶ岳の山腹を見るとかなり微妙なところで、少なくも法華道の登り口、諏訪神社や「万灯(まんどう)」辺りは雪ではなく、雨だったような気がする。
 もしそうであれば、年末に登った時と同じように中途半端で厄介な雪道を歩くことになるだろうから、当分はあの古道のことなど忘れて、炬燵の虜囚の身に甘んじていた方がいいだろう。

 そういう日々にあって、朝風呂に入りながら面白い本を読むのが楽しみの一つだった。ところが、これがなかなか上手くいかない。湯船から上がる湯気ですぐに眼鏡が曇ってしまい、読み進めたくても長くは続かないのだ。曇り防止の方法ぐらいは知っているが、それがあまり効果がない。
 それと、今使用している眼鏡は視力に合っているのかもよく分からない。もう一つあるけれど、これは前回上に行ったときに持ち帰るのを忘れてしまい、今ここにはない。その眼鏡だって値段ばかり高かっただけで、およそ信頼のおけないシロモノで、検眼してくれた素人のような女性にはいまだ不信感を持っている。
 
 そもそも運転免許証は、以前は大型車運転時は「眼鏡使用」だったが、今はその条件も付いていない。もしかすれば遠近両用の眼鏡ではなくて、近眼用の眼鏡でも用が足りるのかも知れないが、眼科医ならその辺のことを教えてくれるとしても、商売優先の眼鏡屋にはそれを期待しても無理のようだ。
 当面、朝の寒いうちは身体を暖めるだけで我慢していれば、そのうちには本などなくとも「いい湯だな」の気分になれるのかも知れない。
 ついでながら、この独り言を呟いている今、眼鏡は使用してない。

 まあ、この程度の不調などをぼやいていては、もっと身体に問題がある人に怒られてしまうだろう。今の"日向ぼこ気分"が続いていくれれば有難く、文句なしとしなければいけないと思う。
 よく身体のどこそこがどうしたこうしたと綴る90歳を過ぎた高名な作家だが、実は下着は自分で洗濯するのだと偶々手にした某週刊誌上で白状していた。それもどうかと思うが、書斎に吊るして喜んでいたから、本人にとっては遊びのようなものらしい。
 元気であるということはそんな他愛のないことも可能で、かつそれを文字にしてかなりの稿料を得ることができる。しかし、遣い道などあるのだろうか。
 
 本日はこの辺で。


 

 
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     ’23年「冬」(11)

2023年01月16日 | キャンプ場および宿泊施設の案内など


 天気が良ければ今の季節、夕映えの仙丈岳が開田からはこんなふうに見える。夜間でも視界の奥に、月明かり、あるいは星明りに照らされた堂々たるこの山を知ることができて、饒舌な冬の星座とともに夜の散歩では欠かせない楽しみである。もう少しこの方向に歩いてから左に折れて北方に向かうのだが、それでもこの山が背後に感じられ、もっと行け、もっと歩け、と励まされているような気分になる。
 昨日は生憎の天気だったが、今年になって初めての散歩に出掛けた。他に目的があり、夜でなく小雨の降る中であったが枯れた野や林を歩き、渓を流れる水の音を聞いた。幾つかの場所で神妙になり、幾つかの場所で気の安らぐ思いがした。
 
 また、その前日の土曜日、これも今年初めての瞑想をしたのだが、こちらの方は1時間30分の間ひたすら時の経過を意識しながら、線香が1本いっぽん3本燃え尽きるまでの間、乏しい火とたゆたう煙を眺めつつ日常の外へ出ようと努力した。
 しかし、果たしてその入り口くらいまで行けたかどうかと自問するもはなはだ覚束ない。散歩の方は続けるのに全くやぶさかではないが、瞑想の方はあまりにも捉えどころのない空疎の中にいて、それでもそのうち、この時間にも何らかの色彩が見えてくるのどうなのか。もしかすれば、意味の分からぬ経でも長々と聞きつつ、いたずらに有難がっているのと同じかも分からない。

 実は3日ばかり、西域の一部と言われる地方を旅していた。もちろん本の上でだが、中国、モンゴル、チベット、ネパール、インド等々それなりの長旅だった。
 もうずっと昔だが、明治のころに鎖国をしていたチベットへ潜入した黄檗宗の僧侶、川口慧海の本を読んだことがあった。パーリー語やサンスクリット語、チベット語で書かれた古い仏典を求めて同師は苦労の旅をした。詳しい旅のことは師の残した著作に譲るが、帰国後も肉食、妻帯をせず、還俗しても僧としての節を守った生涯だったように聞く。世田谷の九品仏にある記念碑を訪ねたこともある。
 その後も、宗教的な理由で僧侶が、あるいは冒険家が知られざる僻遠の地を目指して旅をし、幾つもの旅行記を残している。ひょんなことから内モンゴルへは行ったことがあるが、ネパールのカトマンドゥへは約束をしただけで果たせず、それでもこの地域への関心はまだ消えずに残っていた。
 
 本日はこの辺で。

 
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     ’23年「冬」(10)

2023年01月14日 | キャンプ場および宿泊施設の案内など


 昨日、遠照寺から帰る途中、久しぶりに「高遠歴史博物館」に立ち寄ってみた。目的は二つあり、一つは高遠城の概括的な歴史のおさらい、もう一つは、博物館に隣接するもう一つの絵島の囲い屋敷を覗いてみたいと思ったのだ。
 囲い屋敷は最初は長谷の非持に建てられ、その後高遠に移ったようだ。以前に呟いた非持の囲い屋敷には建物はなく、今回訪れたのは高遠に復元された方である。
 絵島とは江戸城大奥で大年寄りの地位にありながら一種の政変の巻き添えにされ、この高遠の地に流され数奇な運命を生きた女性で、小説にもなっている。
 
 記憶は定かでないが、以前にも囲い屋敷を訪れたことがある。が、それがこの場所だったか、それとも最初に住んだ非持という場所であったか、はっきりとしない。ただし、どちらであっても菜の花が咲いていて、建物があったことは間違いがない。 
 現在の博物館の隣に復元された囲い屋敷は中に入ることができず、外から建物の中を窺うだけだが、記憶の中にある囲い屋敷へは内部にも入ることができた。訪れる人のいなかったのを幸い、そこで長い別れを前に友人と語ることができたと、以前にも呟いた。

 高遠がなぜ絵島の流刑の地になったかは分からない。事件のあらましについても複雑で、ここでは詳らかにすることはできないので、興味のある人は他の資料に当たって欲しい。
 ただ、20と数年、紙も筆も与えられず、1日一汁一菜が2回与えられ、衣類は木綿以外は許されず、冬でも火鉢だけの生活であったという。見張り役の武士2名と世話をする女性が1名いたらしいが、そういう窮屈な暮らしの中で、日蓮宗に帰依し法華経を読む日々であったと伝えられている。

 多くの人を巻き込んでしまった事件は終生重く彼女を苦しめ、さいなんだとことだろう。それでも、寺を訪れることと医者の世話になることは赦されていたと話す人もいる。あるいは、訪れた寺で碁を打ったということも聞いたような気がする。徐々に高遠藩の扱いが寛大になったのかも知れない。
 ある時から魚を絶ったとか、宗教的な理由も考えられるが、そうやって死期を早めようとしたと想像できなくもない。ともかく、何の希望もない、ただ生かされているだけの長い年月であっただろう。それでも彼女はそういう日々を生き通した。
 
 あの囲い屋敷からは仙丈岳が見えたのだろうか。三峰川の流れはどうだったろう。四季折々の自然と法華経だけが生きるよすがであったろうと、そう思うしかない。人柄などについては、あまり多くは伝わっていない。61年の生涯であったという。

 久しぶりに雨が降っている。本日はこの辺で、明日は沈黙します。
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     ’23年「冬」(9)

2023年01月13日 | キャンプ場および宿泊施設の案内など


 この冬は昨年末の二度か三度の降雪によって、例年であれば牧場へは1月の初旬くらいまで車で行けたのに、それがかなわなかった。1月9日、帰る時に見た弁天様下の三叉路では、伊那から上がって来る林道に積もった雪の上には人の足跡もなければ、轍も残っていなかった。
 他方、富士見へ通ずる林道にはわずかながら人の歩いた足跡が残っていて、それが余計に伊那へ下る林道を寂しく見せていた。



 そんな入笠の伊那側であるが、1月10日付の毎日新聞長野県版にはまたしても法華道と、北原のお師匠のことがかなり大きく取り扱われていた。年末にわざわざ長野から同紙の記者が家まで取材に来て、それに応じたことで記事の掲載紙を送ってくれたのだった。
 
 また、きょうはきょうで、法華道のことについて山室の遠照寺へ「法華道を守る会」の会長である松井住職を訪ねることになっている。この会は、北原のお師匠が殆ど一人で続けてきた会だったが、それを松井住職が北原師から依頼されて受け継いだということのようだ。何しろ、高座岩は遠照寺の飛び地であることを北原のお師匠が発見したわけで、その点でも縁は深い。
 今度「三義村誌」を松井住職が中心になって復刻するに当たり、法華道の地図も載せる予定のようで、それに関する問い合わせ、確認であるらしい。

 古道は段々と人に知られるようになりつつある。お師匠の葬儀の際にも会葬者に法華道の地図と冊子、それに法華道と名付けた日本酒がお礼に配られ、以来牧場へもその関連で立ち寄る人もいる。お師匠にしたら、長年の苦労が報われ、さぞかし草葉の影で喜んでいることだろう。
 生前、御所平峠に運び上げた地蔵尊の前で、カセットに録音した法華経を聞きながら「オレが死んだ後のことを、ここでこうやって想像するんだ」なんて言って、照れ笑いしていたことを思い出す。幸福そうだったと言ってもいいだろう。

 冬の法華道は知る限り、誰も歩く人がいない。それ以外の季節についても、よくは知らない。お師匠は多くの人に古道ばかりかテイ沢やヒルデエラを案内し、より多くの人が訪ねることを願っていたはずだ。
 苦労して復活させた古道だから当然であるし、その遺志が伝わっていくことを願い、見ていたい。

 本日はこの辺で。

 
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