入笠牧場その日その時

入笠牧場の花.星.動物

     ’24年「冬」(40)

2024年02月17日 | キャンプ場および宿泊施設の案内など

 
 先日、多分13日だったと思う、オランダの元首相とその妻が、二人でともに安楽死(Due Euthanasia)を選択し、手をつなぎこの世を去ったという報道を見た。さらに別の記事も読んだ。
 結婚式では「死が二人を分かつまで」と誓い合うが、お二人は死においてすらも、そうなることを拒否した、という意味のことをあるコラムニストが書いていた。
 
 この元首相は退任後にはEUの大使として日本にも駐在したことがあり、わが国とも縁のない人ではなかったようだ。夫妻はともに93歳、二人とも回復が期待できない重篤な病に罹っており、国が定める幾つかの厳しい安楽死の要件を満たしていたという。
 
 そんなオランダも、2020年に安楽死が認められたばかりのころは、二人一緒の安楽死は13組26人であったという。ところが、2022年には29組58人と倍以上に増えたようだ。今後も増えていくだろうというのが大方の予測である。
 
 では、日本はどうなるだろうか。ご存知のようにわが国では安楽死は認められていない。ましてや、二人一緒などということはさらに遠いことのように思われる。
 しかし世の中は変わる。夫婦別姓だとか同性婚だとか、昔人なら腰を抜かすようなことも、普通に語られるようになりつつある。
 
 それにしても、一体誰が安楽死を禁止と決めたのだろう。惚れ合った者同士による「情死」、「心中」など、妖しい言葉もあった国なのに。
 本日はこの辺で。明日は沈黙します。
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     ’24年「冬」(39)

2024年02月16日 | キャンプ場および宿泊施設の案内など

  M42、やはりこれも載せておかねば    Photo by かんと氏(再録)
 
 一昨日、昨日は記録的な暖冬であったらしい。らしいというのは、終日家の中にいてそんな陽気だとも感じなかったからだが、2月の中旬に、4月下旬並みの気温になったとは恐れ入る。春一番も吹いたらしい。いろいろな議論を聞くが、やはり温暖化が進んでいることは今や間違いないだろう。
 
 急に話が太陽の方に脱線してしまうが、地球が温室効果ガスのわずかなと言ってもいいような増加で、さらに温暖化が進んでいくと危惧されているのに、ご本家様はよくも46億年も安定して燃え続けているものだと、そのことの方にむしろ感心してしまう。
 
 それと、地球と太陽の絶妙な距離、約1億5千万キロ、これがわれわればかりかこの惑星に生命が誕生できた理由のほとんどすべてと言う人もいるくらいだ。近付くことも遠ざかることも、70億年先に赤色巨星化した太陽に地球が飲み込まれるまで起こらないのか。ムー。
 さらに太陽は人間で言えば壮年期で、あの核融合炉はまだまだ堅調で、燃料である水素が全てヘリュウムに変換するまでには半分ほどあるらしい
 
 ということのようだが、しかし、安心ばかりしてはいられない。そんな太陽だって突如機嫌を悪くすることだって考えられなくはない。10億年後の太陽光度の増加は確実のようだし、その前に惑星の衝突のような偶発的な天文現象だって起こりうる可能性も排除できないだろう。われわれが安定した太陽の恩恵を受けられるのは意外と長くないかも知れない。
 ま、天が落ちてくるような心配をしてみても、われわれにできることなど何もないのだが。

 こういうことを考え始めると、すぐに脆弱な頭が混乱し、拒否反応を起こす。それで、逆に自分が正常であること知り、安堵するくらいだ。
 この世にいる時間もそれほど長くない身で、億年も先のことを心配してみるのは滑稽である。止めろ、ということになる。
 しかし、思いがけない方向にいってしまったこの呟きを、どう終えたらよいのだろうか、深いイバラの中に迷い込んで出口が分からなくなった哀れな老登山者ようなものだ。中断して、風呂の中で考えてみることにする。
 
 きょうはまた好天が帰ってくる。今夜も星空を眺め、極力迷走せずに清く澄んだ星々の歌声を聞こう。あっ、昨日のかんとさんのPHはオリオン座とバーナードループで「正解」だったそうです。本日はこの辺で。

 

 
 

 

 
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     ’24年「冬」(38)

2024年02月15日 | キャンプ場および宿泊施設の案内など

 オリオン座とバーナードループ  Photo by かんと氏
 
 長い冬の夜、また昔の人の暮らしを想像している。時代はテレビやラジオのまだ普及してない時代、そう、「夜なべ」などという言葉も、日常的に使われていたころだ。
 
 簡素な夕食を済ますと、家族は皆何をして過ごしたのかと当時を想像する。歌にあるように、お父は薄暗い土間で藁打ち仕事をし、お母は目をショボショボさせながらランプの下で繕い物をしている、そんな情景が浮かんでくる。
 中学を卒業して、故郷を離れ、紡績工場で働いている娘は、遠い家族を思い出しながらこんな歌詞にも似た気持ちを抱くこともあっただろう。
 
 〽ふる里の冬は淋しい せめてラジオ聞かせたい・・・。
 
 冬の寒さは今より当然酷しかったはずだから、子供たちは眠くなるまでは囲炉裏端から離れることができなかったかも知れない。そんな時に、祖母だか祖父だかが、何か昔話でも聞かせてくれることもあっただろう。
 
 ひっそりと、春の来るのを待ちながら長い冬の暮らしに耐える、そういう時代が地方のどこにもあったし、あの芝平の集落にもあったはずだ。
 時が経てば、そういう暮らしも懐かしさに変わる。再び戻ることのできない時代、繰り返すことができない時代であるがゆえに、記憶は過去を飾ろうとするのだろうか。
 
 考えてみれば、家族の団欒を引き継ぐことはなかった。陋屋には不似合いな文明が入り込み、ラジオもテレビも、かつてはあった囲炉裏に代わって便利な暖房もある。しかし住人は一人である。
 信州へ帰って以来20年以上、ここに家族と暮らす生活はなかった。だから、連れ合いとか子供とか、自分以外の存在をこの家に想像することは難しい。
 それでいて、うっすらと記憶に残る幼いころの暮らし、さらにはもっと遠い時代への、これは何と言えばいいのか、懐かしいような、憧れのような気持が湧いてくる。

 今回も、上で見る冬の星座を楽しみにしていた。ところが、なるべくしてなった人生を振り返り、納得しながら酔いを深めていたら、そのことをすっかり忘れてしまっていた。
 
 きょうのかんとさんの写真は確か再録で、その題名はあやふやな記憶に基づき付しました。
 本日はこの辺で。
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     ’24年「冬」(39)

2024年02月15日 | キャンプ場および宿泊施設の案内など

  M42、やはりこれも載せておかねば    Photo by かんと氏(再録)
 
 一昨日、昨日は記録的な暖冬であったらしい。らしいというのは、終日家の中にいてそんな陽気だとも感じなかったからだが、2月の中旬に、4月下旬並みの気温になったとは恐れ入る。春一番も吹いたらしい。いろいろな議論を聞くが、やはり温暖化が進んでいることは今や間違いないだろう。
 
 急に話が太陽の方に脱線してしまうが、地球が温室効果ガスのわずかなと言ってもいいような増加で、さらに温暖化が進んでいくと危惧されているのに、ご本家様はよくも46億年も安定して燃え続けているものだと、そのことの方にむしろ感心してしまう。
 
 それと、地球と太陽の絶妙な距離、約1億5千万キロ、これがわれわればかりかこの惑星に生命が誕生できた理由のほとんどすべてと言う人もいるくらいだ。近付くことも遠ざかることも、70億年先に赤色巨星化した太陽に地球が飲み込まれるまで起こらないのか。ムー。
 さらに太陽は人間で言えば壮年期で、あの核融合炉はまだまだ堅調で、燃料である水素が全てヘリュウムに変換するまでには半分ほどあるらしい
 
 ということのようだが、しかし、安心ばかりしてはいられない。そんな太陽だって突如機嫌を悪くすることだって考えられなくはない。10億年後の太陽光度の増加は確実のようだし、その前に惑星の衝突のような偶発的な天文現象だって起こりうる可能性も排除できないだろう。われわれが安定した太陽の恩恵を受けられるのは意外と長くないかも知れない。
 ま、天が落ちてくるような心配をしてみても、われわれにできることなど何もないのだが。

 こういうことを考え始めると、すぐに脆弱な頭が混乱し、拒否反応を起こす。それで、逆に自分が正常であること知り、安堵するくらいだ。
 この世にいる時間もそれほど長くない身で、億年も先のことを心配してみるのは滑稽である。止めろ、ということになる。
 しかし、思いがけない方向にいってしまったこの呟きを、どう終えたらよいのだろうか、深いイバラの中に迷い込んで出口が分からなくなった哀れな老登山者ようなものだ。中断して、風呂の中で考えてみることにする。
 
 きょうはまた好天が帰ってくる。今夜も星空を眺め、極力迷走せずに清く澄んだ星々の歌声を聞こう。あっ、昨日のかんとさんのPHはオリオン座とバーナードループで「正解」だったそうです。本日はこの辺で。

 

 
 

 

 
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     ’24年「冬」(37)

2024年02月14日 | キャンプ場および宿泊施設の案内など

        山カッチャンの古い写真を真似て
 
 そんな年齢で、誰もいない冬の牧場や、山小屋へなんか行って何をするのかとか、淋しくないかと聞かれたりすることがある。下にいても一人だから同じだと応えると、「何か面白いことでもあるんですか」と、その返事では納得がいかないらしく、さらに質問が続く。
 
 昨日呟いたように、吝嗇な小商人(こあきんど)のように、1歩でも無駄な歩行をしまいと雪の斜面に登路を選ぶ。一息つきながら、クヌギの林に点在する動物たちの足跡を見ながら、傷を負ったオヤジ(クマ)はどうしているかと案じる。広大な白一色の雪原に自分だけの足跡を描き、一杯の清冽な水を有難く飲む。何か特別なことがあるわけではないし、これらのことが、充分な対価となるのかどうか、自分でもよく分からない。
 
 夜を迎え、ビールと日本酒では足りず、ウイスキーのお湯割りを飲みながら考える。若干の別な可能性や分かれ道らしきを思い出しつつ、もしこんな晩年でなかったら一体何をしていたのかと。
 しかしやはり、なるべくしてなったという結論に落ち着く。それらの選択しなかった道を、いくら好意的に空想しようとしても、虚構の旅人である自分は知らない世界の他人と同化して、想像力が続かない。
 ということは、恐らく現状を受け入れる気持ちがあるのだろう。これ以上の不幸も御免だが、これ以上の幸いも要らないという心境に。

 春になり、雪が融ければまた牧場の仕事が始まる。いつの間にか今年で18年にもなる。それを空費した年月と思うか、意義のあった年月と思うかは、時々によって変わる。
 雪原を登っていって、大きな青空と出会い、さらには白銀の峰々や大地の景色と対峙する。白一色の放牧地が、やがて新緑に変わる風景を想像すれば、のんびりと牛たちが草を食む様子も目に浮かぶ。
 
 あんな厳冬期の牧にあっても、自分が牧守だという意識から離れることはできなかった。なぜそんな季節外れの牧場へ出掛けていくのかという問いへの答えは、その意識をしっかりと確認しておかないと、持続力に不安を感ずるからだと言ったら、納得してもらえるだろうか。
 明日15日で今年度の猟期も終わる。本日はこの辺で。


 


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