入笠牧場その日その時

入笠牧場の花.星.動物

     ’24年「春」(24)

2024年03月18日 | キャンプ場および宿泊施設の案内など


 先週の土曜日は気温が上昇し、4月中旬とか地方によっては5月並みの所もあったと聞く。そのお蔭でか、庭の梅の花がほぼ満開になった。これから白い花を咲かせるボケ、まだ土の中に眠っているカタクリ、イカリソウ、ミヤコワスレなどなどと、ろくに手をいれてやらないわが家の草花も咲き出すだろう。
 そしてあと1ヶ月もしないうちに、上の仕事が始まる。

 
   こういうことにならねばいいが
 
 この呟きでも「木曾駒」と呼ばず、しばしば「西駒」と独り言ちることがある。あの山は、地元の人にとっては中央アルプスを代表する山で、個人的にも小さいころから慣れ親しみ、登山回数も30回を超える。
 しかしこの呼称は謂わば方言のようなもの。全国には駒ケ岳という山は幾つもあり、残念ながら「西駒」では通用しない。「木曾駒」と呼んで初めてそれがどこの駒ケ岳かが分かる。

 実は、われわれにはもう一つ身近な駒ケ岳がある。南アルプスの「甲斐駒ヶ岳」である。この山は西駒と区別するため、伊那の人たちはよく「東駒」と呼ぶ。
 最近地元の伊那市では、なんと標識、案内板にも甲斐駒の呼称を止めて、「東駒が岳」で統一しようとする動きがあるやに聞いた。
 こういうのを「贔屓の引き倒し」と言っていいのではないか。地元以外の多くの人たちにはどこの駒ケ岳か分からないし、当然、反感を持たれる。

「入笠山」という山の名前は、諏訪の人々が名付親でほぼ間違いなく、伊那の一部の人たちが「雨乞い岳」と呼んでいたと古い文献にはあるが、伊那からはよく見えない山である。
 仙丈岳はどこよりか伊那から見るのが相応しい、これはそう言っても許されよう。しかし、甲斐駒は伊那からは前衛の山に隠れてしまっていて、入笠山と同じくそれほど目に馴染んできた山とは言いにくい。
 それと比べたら、あの堂々たる甲斐駒の山容を間近にするのは長野県の一部と、多くは山梨、甲斐の人たちである。「おらが山」と思っても仕方あるまい。

 山名ばかりか、伊那谷のことを「伊那バレー」と呼びたがる人もいるらしいが、いい加減にしろと言いたい。valleyではなく、スポーツのバレーと間違えられる。フェスタ、コラボ、伊那を「イーナ」と言ったりするのと同様、親しみも品もない。誰がこういうことを言い出すのか。
 
 本日はこの辺で。
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     ’24年「春」(23)

2024年03月16日 | キャンプ場および宿泊施設の案内など


 一昨日の独り言、またまた大失敗をした。喬木村にわざわざ「うるぎむら」とルビを振ってしまった。正しくは「たかぎむら」である。南信州のこの辺り、「木」とくれば「うるぎ」と、犬が食物を見て涎をこぼすような、これも愚かな反射神経、と言っても、しかし、拭えない。TDS君には危うく嗤い殺されかけた。
 今朝5時に目が覚め、布団の中でそのことを思い出したら、もう、眠ることができなくなってしまった。「椋鳩十を知らんのかェ」の声、耳に痛く今も響く。

 これを年齢のせいにはできない。この呟き、聞き直すと、他にもいろいろと頓珍漢なことを言っている。その程度、ただただ「嗚呼」というしかない。

 昨夜は、かつて縁あった俳句の会に顔を出した。はるばる江戸から同人3名が"下向"して、それで知らぬ存ぜぬはないだろうと、その中の一人Hさんに言われて恥を忍んで参加したのだ。
 なぜ恥を偲んだかと言えば、実はこの会から脱退、といえば聞こえがいいが、駄句を乱作しまくり討ち死にをした、と言った方がいいかも知れない過去があったからだ。で、大酌して、後はメロメロ不覚の限り。
 それはそうと、昨夜の宴の会費、あれは一体どうなったのだろう。ムー、もう少ししたらTDS君にお尋ねしないと、恥を上塗りしてしまう。

 この呟き、酒の残臭が漂ってくるようで聞く人に申し訳が立たない。これ以上混乱を深めるのは止めよう。文字変換までめちゃくちゃだ。
 最後に一言、あの落花生(地豆)、地豆に一過言持つ身でも大変おいしゅうございました。
 本日はこの辺で、明日は沈黙します。
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     ’24年「春」(22)

2024年03月15日 | キャンプ場および宿泊施設の案内など


 一日いちにちが過ぎていくのは早いが、季節の進み具合はそれに比べると遅い。今朝も屋外の寒暖計はまだ零下を示しているほどで、ぼつぼつ耳にするようになった桜の話題もまだ遠くに聞いている。
 西山の経ヶ岳はさらにまた雪の量を増やした。それを見て、反対側の入笠の雪を心配している。
 
 午前中、隣村に紙芝居を見にいくつもりでいたが思い違いをしていて、明日と思っていたきょう、東京から客が来ることに気付いた。さて、どうしたものか。
 紙芝居というのは、段々と忘れられ、消えていく方言を惜しみ、篤志家矢島さんがそれらの言葉を紙芝居にし、人々に伝えようとしている地域活動のことである。

 この地方の方言、大分使わず忘れたが、語尾に「ずら」が来るのがよく知られている。「そうでしょう」とか「そうだろう」と言う代わりに、「そうずら」と同意を求める時などに使う。格式張らなければ、年長者にも言うことができて便利である。
 他にすぐに思い付く方言では「ごしたい」がある。「疲れた」という意味で、都会に出て何年もの間、本当に疲れた時はこの言葉を使わなければ気持ちを表すことができないと思ったくらいだ。
「前にある」と言わず「前でにある」と「前」の後に「で」が付くことも、指摘されて初めて気付いたりしたものだ。「もう」という代わりに「へえ」とも言う。「へえ駄目だ」などと。「おい」も「やい」ではなく、男でも女でも呼びかけに使い、都会では注意されて驚いた。

 長野県は南北に長く、南に位置する「南信」でも上伊那と下伊那がある。諏訪や松本は「中信」で、県庁所在地の長野は「北信」になる。
 ここまで離れてしまえば言葉ばかりでなく気象も大分違う。全国の天気情報では、長野市を中心とした北信の天気では役に立たないことが多く、われわれは名古屋の天気を参考にすることもあるほどだ。

 今、紙芝居が行われる北殿公民館へ行ってきた。驚いた、玄関先には何人もの案内する人が出ていて、会場にもたくさんの人でいっぱいだった。70人以上になるらしい。
 控室にいた矢島さんにも会えた。紙芝居の道具を積んだ古き良き時代の自転車も見ることができたというのに、その写真を撮るのを忘れたのは残念なことをした。ともかくも事情を話し、今回はご無礼を赦してもらった。
 それにしても、80歳になんなんとする年齢で、いい歳の取り方をしていると頭が下がった。是非、わが福島にも来てもらおう。
 
 なお、上伊那郷土研究会の会報「伊那路」にも長く携わるなど、よく知られた人なので、本名をそのまま使わせてもらった。
 本日はこの辺で。
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     ’24年「春」(21)

2024年03月14日 | キャンプ場および宿泊施設の案内など

          もう、待ちきれない

 午前7時50分、外の気温は零下2度、快晴。これから気温が上がれば、水気の多い雪のために無惨な姿を晒していたユキワリソウ、「もどき」はもう付けない、も復活しつつあり、きっと可憐な花を咲かすだろう。よく見ると蕾の数も増えている。あんな寒さの中で、健気なものだ。

 人間の方はそうはいかず、取り敢えずは風呂を沸かし身体を暖めなければ、あの国のワオキツネザルさながら、何をする気にもなれない。
 風呂と言えば、あまりその回数を増やすと、皮膚から油気がなくなって身体のあちらこちらがむずがゆくなるような気がする。やはり、過ぎたるは及ばざるがごとし、ということか。
 
 著者の名前もそうだったが、出身地が下伊那郡喬木(たかぎ)村で、「牧場経営する父に連れられ伊那、赤石山系を渉猟した(長野県文学全集 5)」とあり、しかも「山窩(さんか)小説家として名を広めた」のだと。そうなれば、以前からこういう方面には関心があり、もう無視はできない。椋鳩十(むくはとじゅう)のことである。
 名前はどこかで見たか聞いたか、うっすらと知っていた。しかし、それ以上のことは何も知らず、著作を読んだこともなかった。それが偶然、別な作家の本を読もうとして、この人に出会えた。

 小説だから、「山窩」と呼ばれた人たちの実態にどこまで近づいているかは分からない。それでも、かつて山の中でその時々に集団を作り、定住することなく生きた人たちがいて、その暮らしの様子、雰囲気は幾つかの作品から伝わってくる。
「天幕」とか単に「幕」と書く。テントのことだが、彼らが使用していたそれが実際はどんなものだったか、今のテント並みにちゃんと雨露をしのぐことができたとは思えない。

 稼業と言えば、狩猟以外にはおよそ生産的なことはせず、里へ下り盗みをしたり、むしろそれが本業だったかも知れない。男女のことも風紀はかなり乱れていたように書いている。これも本当かどうかは分からない。
 それにしても、どれほどこんな人たちが日本の山の中にいたのだろうか。「赤石山脈」も今では「南アルプス」と呼ばれているが、「飛騨山脈」と呼ばれた「北アルプス」よりか山は深いとよく言われる。こういう人たちが生きていけるだけの場が赤石山脈や秩父にはあったのだろうと想像するが、その人々の謂れについても興味が湧く。
 
 言い添えておくが、同じ山の暮らしをして来た集団である木地師や落人と、山窩とは違う。こちらは誇り高き人々で、木地師は文徳天皇の第一皇子である惟喬親王に縁のある人々だと言われ、墓標には16弁の菊の紋章が彫られている。
 確か今ごろだった、そうした墓を辰野町の横川の上流まで北原のお師匠と見にいったこともある。
 また、落人の集落は伊那の長谷の奥「裏」にも、平家に縁のある人々の末裔が住んでいたとされる場所があり、知られている。ただし、古くからの人は殆どいないようだ。
 本日はこの辺で。
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     ’24年「春」(20)

2024年03月13日 | キャンプ場および宿泊施設の案内など


 昨日呟いた続きになるが、友人のムラカミ君によれば、春の花を語るのであれば福寿草、次はセツブンソウだと教えられた。福寿草は知っているが、セツブンソウなど、名前すらも聞いたことがなかった。それで、図鑑を開いて調べてみたら、なるほど楚々としたいい花だ。実物を見たことがあるかも知れないが記憶にはない。
 
 また、梅の花と同じく樹に咲く花なら今の時季、マンサクを忘れてはいけないと言われた。恥ずかしながらこれも分からない。名前だけは聞いたような気がしてPCで調べてみたら、見た覚えはあった気がした。が、ハッキリしない。存外と近所で目にしているかも知れないとも思った。

 ここまで呟くだけでPCの打ち間違いを大分した。特に最近は左の小指と薬指の震えがひどく、もしかしたら母親の患ったパーキンソン病を受け継いだかも知れない。
 
 それでいて最近、何年ぶりかで素描を始めた。もう若いころから、当時は油絵だったが、4年とか5年の間を開けて描くので、色を忘れてしまうことが多かったし、当然ながら上達もしなかった。
 こっちの場合は、手の震えは何とかなっているとはいえ、緊張は長くは続かない。
 
 モデルがいないから、写真を見て描いている。それにしても、大きな黒目が二つ、鼻梁の通った鼻の先に穴が二つ、締まった唇、なるほど目鼻立ちは良くても、正直、何が美人を美人にしているのかよく分からない。
 
 そのうちもう少し暖かくなったら、外に出て風景画も描き、彩色もするつもりでいる。そのために分不相応な透明の水彩絵具、英国製の「ウインザー&ニュートン」、フランス製の真新しい画帳「アルシュ」を2冊、以前から持っている。
 先日、話のついでにTDS君にそれらを見せたら、画帳の枚数を数えてから、やおら「40枚も全枚数を描けるかェ」と聞いてきた。それで、つい、二人して笑った。後期高齢者に、残された時間がそれほどあるのかという意味である。クク。
 本日はこの辺で。















































































































 
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