入笠牧場その日その時

入笠牧場の花.星.動物

     ’24年「春」(29)

2024年03月25日 | キャンプ場および宿泊施設の案内など


 降る雪を眺めながら、ある冬の日に訪れた上高地でのことを思い出していた。これも、もう、遠い昔の話になる。
 あの時もしんしんと雪が降っていて視界も限られ、誰もいなかったから、周囲はさながら太古の世界のような静けさに支配されていた。
 テントの中では長い時間が過ぎていったはずだが、何をしていたのだろう。どうせいつものように湯を沸かし、それでウイスキーを割ってチビチビとすするように飲み、時たま外の様子を伺う以外は夜になってもそんな時間が続いたような気がする。
 しかし苦痛ではなかったと思う。むしろそんな時間の中に自分を置いてみたくて出掛けていったに違いないからだ。
 
 上高地へはもう何年も行ってない。しかし、あの時のことを思い出したり情景を目に浮かべているうちに、しみじみまた出掛けてみたいという思いが強まった。
 ただ、近年は旅行業者が冬の上高地にも営業域を拡げたり、冬期小屋の営業の話も耳にするくらいだから、あの頃のような雰囲気は変わってしまったかも知れない。そう思えば、どうしても二の足を踏んでしまう。
 
 そんなことを思いながらPCで調べた限りでは、依然として冬季営業の小屋は明神池の近くにある1件だけのようで、あそこならば知っている。記憶違いでなければ、確か10年以上前の初冬のころだったと思う、偶々訪れたら若い夫婦らしきが、丁度その冬から、だったと思うが、冬季営業を始めると言って準備をしていた。多分あの小屋のことだろう。
 もう今冬は無理だが、あそこなら行って泊まってみてもいい気がする。ついでに、釜トンネル入り口近くの温泉旅館も、新しい場所に移ってからは行ってないから、帰りに是非泊まってみたいものだ。

 こういうことを考えていると、つい年齢を忘れてしまう。しかし、いい歳をした老体がスキーを担いで釜トンネルを抜けようなどとすれば、「ちょっと」と声をかけられそうな気もする。が、山スキーには拘る訳がある。
 やはり冬だったが、目的地の上高地まで雪が深くてツボ足では行けず、途中で一夜を明かしたことがあった。翌日、テントをそのままにして上高地まで行き遊んでいたら、若い数人がスキーで颯爽と下っていった。
 それ以来、スキーで上高地へ行くことが一種の憧れになったが、入笠一途になってからはその機会が訪れないまま「光陰矢の如し」になっている。

 MNさん通信ありがとうございました。歩いてくる人のことを考えると、大分迂回を余儀なくされるのは承知しています。ただし、今はあの近くに大事な水関連のバルブなどを複数設置してあり、悩ましいところです。さらに検討します。
 本日はこの辺で。
 


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     ’24年「春」(28)

2024年03月23日 | キャンプ場および宿泊施設の案内など

    M45も春の星座と入れ替わる     Photo by かんと氏(再録)
 
 午前8時の外気温零下3度、体感では昨日より寒く霜柱も立っていた。きょう一日だけの好天、明日はまた天気は崩れる予報だ。
 隣家のカタクリをそっと覗いたらすでに開花していて、今朝の寒さのせいでかうなだれていた。あそこよりか日当たりの良いわが家のは、たった1枚の小さな片葉がかろうじて地上に姿を見せた程度でもどかしい。
 気になって調べてみたら、昨年は27日に開花したその花を写真に残している。とにかく、まだ「春遠からじ」とはならず、今年は2月の方が暖かかったと言う人までいるほどだ。

 昨夜は面倒になって、簡素下品な食材で夕食を済ませた。アルコールもビールのみと、普段は欠かさない日本酒を飲まなかった。
 後で反省したが、こういうことをすると折角の一日を閉じる儀式がその体をなさず、祭事の祭壇に神酒を供え忘れたような終わり方となってしまう。格別に何かあったわけではないけれど、ならばなおさらしっかりと一日いちにちを送ってやらねば還らぬ日々に済まない。
 ついでに言えば飲酒も、何かの理由で昼酒などを飲むと夜の儀式の深み、厳かな気分がそがれてしまう。それに、儀式のために待って、我慢を重ねたことで加わる酒のうま味も大分落ちる。
 きょうはその反省を兼ねて食材はしっかりと買ってきてあるし、出汁も5・1・1の割合ですでに用意してある。和食ならまず問題なくいけるだろう。ついでに、冷蔵庫も古い物を片付けた。

 昼近くになって気温が上がり、少しゴミを燃やした。その中には1冊のノートも含まれていて、それを燃やす前に1ページだけは残しておくつもりでいたのに忘れてしまい、気が付くとメラメラと燃えていた。
 社会に出てからの諸々の節目になった出来事を箇条書きに書き留めておいたもので、昨春だったかもこの呟きのような、しかしもっと個人的なことを記したノートも全て燃やした。これで、もう、ちょっとやそっとでいつ何があったのかは自分でも分からなくなった。
 しかし、それでもいいと思っている。いまさら、個人史を紐解く必要などあるまいし、残しておくようなことは何もない。それに、読み返してみたとて、思い出さない方がいいようなことばかりを書いてある気がする。
 小太郎、HAL、キク、3匹の犬たちの記録も全て消えてしまった。(3月22日記)

 8時間半一気通貫で眠った。さらにそのまま布団の中でとろけるような余韻と充実感を味わった後やれやれと起き出してきたら、ナント!、雪が降っていた。最早、驚くというよりか呆れる。
 本日はこの辺で、明日は沈黙します。
 
 
 
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     ’24年「春」(27)

2024年03月20日 | キャンプ場および宿泊施設の案内など

           花の数が増えた
 
 何か一段落すると、よく一服したものだ。それが今はつい風呂に入りたくなるから困ったことだと自分でも感じている。
 風呂の浮力に馴染むと、そのうちに湯から出た後に外の重力が負担になりはしないかと馬鹿なことを案ずる始末だ。多分、以前に読んだ本の影響だと思う。大富豪が晩年、地球に戻ることを断念した上で、宇宙空間の重力の低い個人の居住施設で負担の少ない暮らしをするという話だった。
 まだ科学技術はそこまで行っていないし、こっちは大富豪どころか清貧に励む身、楽ばかりしていては身体が衰え頭がボケるという程度の心配が、とんでもない杞憂に発展してしまったものだ。
 
 山で生活するようになればこんな自由はできないし、風呂に入るのも自粛することになる。そろそろ、この習慣を改めねばと考えていて、要らざる妄想が湧いてきたということだろう。
 それにしても寒さは依然として続く。今朝も外に出てみれば庭に白い物が薄っすらと残っていて、外気温は零下だった。下がこんなでは、上の状況が想像できる。当然ながら降雪量は下より多かったはずだ。
 昨年は、3月に14,27日と上に行き、4月には仕事を始める20日の前に2日と17日、除雪と撮影の打ち合わせを兼ねて行っている。確か3月14日はド日陰の手前から車を捨て歩きになったが、その後は車で何とか上がれた。
 しかし、今年はそうはいかない。それどころか、最悪の場合はスノーシューズかスキーが必要になるかもと、そこまで考えている。

 NMさん、半世紀以上も昔の牧場の様子、当時の天体観測のこと、大変に興味深く拝読いたしました。ありがとうございました。恐らくバイクに乗っていた管理人は、前々任者かもっと古い人だと思います。
 牧場のキャンプ場へ来てくれる人たちの中には20年、30年という人や団体はいますが、さすがにNMさんのように半世紀以上も古い時代を知る人はいないと思います。また、あのころは、電気が通っておらず発電機だったとは驚きでした。
 それに、管理棟やキャンプ場も現在の場所ではなかったのではないでしょうか。伊那側からの林道は未舗装ながら通っていたと思いますし、不定期化だったかも知れませんが、バスもひと頃走ってもいたようです。
  さらに期待してます。またそのころの写真も拝見出来たら幸甚です。取り急ぎお礼まで、ご無礼します。
 本日はこの辺で。

 


 
 

 

 

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     ’24年「春」(26)

2024年03月20日 | キャンプ場および宿泊施設の案内など

                上はまだこんなだろうか 
 
 昨日、入笠牧場の小屋の近くまで行った人と会い、その際に撮った映像を見せてもらった。驚いた。案じていた現地の積雪の量、恐らく、この時季としてはこれまでの18年間の中でも1,2位を争うだろう。
 幸い、屋根に積もった雪は大分落下していて、小屋の倒壊まで心配することはなさそうだった。しかし、これからどれほど好天が続いて気温が上がったとしても、上で仕事が始まるのまでには残り1ヶ月しかない。今年も、ド日陰を車で行くのは無理だと観念するしかなかった。
 こんなことを言うのは憚れるが、あの「老人の元気春の雪」どころか、さながら「死に下手の病上手」、病んだ冬の名残りはまだまだ続くと思うしかない。

 きょうが祭日だとは知っていたが、何の日か分からず、暦を見て春分の日だったとようやく知った。冬ごもりもいよいよ残り1ヶ月、振り返ればやはり呆気なく、この感慨はいつの年であっても同じだが、その強さは年々増すようだ。
 過ぎた4か月、あれを遠出と言うには迷うも、ともかくどこかへ出掛けたのは思い付く限り入笠ぐらいで、毎春、思い出すようにして行った東京ともすっかり縁が薄くなり、出掛けるる用事もなければ、会うべき人もいなくなってしまった。30数年を暮らした東京という土地は、自分の中では消えつつある。

 明日、長野から担当者が来て、来年度の労働契約をする。実は本来なら、来期からは仕事を後継者に譲る手はずになっていた。もう後期高齢者であることを声高に呟いてきた身、潮時だと決めていた。それが、先方に事情があって、もう少し続けることになったのだ。
 入笠への思いは強いし、身体的には問題がないと思っているから、それはそれでもいいのだが、これから先のことを考えればいろいろな意味で、やはり追い詰められたような気になっている。
 人並み、かどうか分からないが、山にも思い残すこと、諦めなければならないことはある。
 本日はこの辺で。

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     ’24年「春」(25)

2024年03月18日 | キャンプ場および宿泊施設の案内など

        まだ少し気が早かったか
 
 昨日の独り言、「甲斐駒ヶ岳の呼称を止めて」としたのは間違いで、山頂標識に「東駒ケ岳」の山名を追加し、併記すると言うのが正しいと分かった。人伝えに聞いた話で正確ではなく、今度改めて地元紙「長野日報」の3月15日の記事を読んで知った。
 なんでも、甲斐駒ヶ岳開山200周年、その他南アルプスの国定公園指定60周年、ユネスコエコパーク登録10周年の節目でもあり、それらの記念事業の一環としてするのだそうだ。
 
 以上を訂正し、少々追加説明した上で、しかし、二つの山名の併記が仮に山頂の標識だけであったとしても、昨日に呟やいた考えを変える気持ちにはならない。そのことが訪れた登山者にとってどれほど役に立ち、意義があるのか分からないし、むしろ混乱する怖れもあるからだ。
 
 エベレストを「サルガマータ」とか「チョモランマ」と呼んで崇めたネパールやチベットの地元に暮らす人々や、大きな山を意味する「デナリ」と名付けた北米の先住民らにとって、後から来た征服者らに「マッキンリー」などと、どこの馬の骨か知らないような男の名前(アメリカ元大統領)を勝手に付けられたら、さぞかし迷惑だっただろう。
 
 しかし、それと甲斐駒ヶ岳を東駒ヶ岳と新たに併記することとは違う気がする。戸倉山を「伊那富士」の名で呼んで地元の人々が親しむように、後者はそうした愛称程度でも充分ではないのか、と思う。
 
 この独り言にも大阿原を「ヒルデエラ」、芝平峠を「オオダオ」と括弧付で併記し、こういう名前が地元には残っていると紹介している。あくまでも口碑や、古い人々の暮らしに関心のある人の参考になればと思うだけで、しかし、今さら括弧付でも入笠山に「雨乞い岳」などと言う名前を併記する気はない。
 登山の黎明期か、奥穂高岳と前穂高岳が混乱していた例もあるように、文献を残した神足勝記に、地元案内人が間違えて教えた可能性もあるからだ。それに入笠山は入笠山でもう充分だろう。
 
 御所平峠の名前が長年、入笠山の登山口に付けられていて、これは駐車場閉鎖に伴い標識が撤去された。しかし今度は、仏平峠という古くからあった峠の名は、いつの間にか「首切り登山口」にされてしまった。
 こういうことが平気で起きる。任にある人たちがもっとより関心と注意を払って欲しいと思う。
 本日はこの辺で。
 
 
 

 
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