★英語検定
10月に入って矢継ぎ早に岐阜新聞を皮切りにテストが続きます。昨日は英語検定でした。後今月は数学検定が22日に、漢字検定が29日と検定が続きます。中学3年生は内申点を上げるために検定の受験をしますが一般的には非常に力のある生徒は別としてあまり受けたがらないのが普通です。
私どもでは漢字検定にしろ数学検定、英語検定にしろすべて準会場になってはいますが強制にしていませんので人数を集めるのが大変です。毎回毎回続けて受験ができるというものではありませんしそれなりに勉強しないとできないわけですから大変です。そしてもっと大変なのが受験に対する人数であります。特に英語検定は学校、英語塾、一般塾にしましてもそれなりに10人以上が必要となります。私どもでは漢字検定は夏の特別回を入れて4回、数学検定は2回、英語検定も2回としていますが数学検定は最低人数が5人は必要となります。しかし、回数は非常に多くいつでもできるようですが教室では6月、10月と年2回の実施にしています。特に数学検定を実施している塾は少なく準会場になっていてもやらない塾が多いです。私どもはどちらかと云いますと理系に特化した塾の様になっていますが何とか100%の合格を目指して頑張っています。試験はほぼ100%に近い合格率を誇っていますが前回は16名の受験で15名が合格。落ちた生徒も1点に泣き今回リベンジであります。
そう云う中で一つ一つ実績を積み重ね志望校が決まってきます。先日例によって大宰府天満宮の合格祈願をしたお守りを送っていただきました。10月1日に毎年宮司様に祈祷をしていただくのですがその後受験生のみ購入させていただきました。早速大学受験生にはお渡しをしました。中学3年生にはお正月に手渡しになります。また受験生以外には鉛筆をお渡しするようにしています。
さて、今日は『あの頃』という抽象的なタイトルで書いています。私にとってあの頃とは学生時代を指しているのですがもう少し広い意味では昔作家を目指した文学仲間と云うことにもなります。
そして『あの頃』と云うのは私の小説のタイトルでもあるのですが懐かしさと煩わしさが交差し何とも言えない単なる酒を飲む機会のような場でもあります。ただ2年に1度は会いましょうということでその2年後がこの15日、16日と云うことになるのです。
私は学生時代受験に失敗したということに責任を転嫁するわけではないですがほとんど授業には出席はしませんでした。今考えるとよくぞ4年で卒業したなと思いますが真面目に学校に通って勉強をしている生徒を尻目に文学の世界に没頭していたのです。そしてその影は益々変貌し70年安保へと変わっていきます。70年安保は赤軍派の浅間山荘事件や三島由紀夫の盾の会による自衛隊市ヶ谷駐屯地内での総監部室での割腹自殺をもって一応の終結を見ました。私は正直そちらの方は相当なショックはありましたがあまり関心がなくひたすら売れない小説を書いていたのです。
そのことは私の心の中ではもう整理はついていますが先日からまた小説を書き始めました。このことは一部の友人しか知らなくて勿論学生時代の仲間も知らないわけですが新たな挑戦を始めました。
最近の小説は殆どパソコンで書くのですが今まで原稿用紙に書き込んでいましたのでちょっと面食らっていますがこれも時代の流れでしょうか・・・。
私の仲間は大きく三つに分かれます。幼馴染の仲間、学生時代の仲間、文学仲間に分かれるのですがいままで続いているのが幼馴染と文学仲間であります。しかし、昨年の今頃のことです『故郷を捨てた日』という日記を書いています。田舎は丁度秋祭りの最中です。その後に実家を処分したわけですが非常にその頃には金木犀の香りがしてきます。この時期必ず思い出してくることだろうと思います。
そして、今年はOB会と云うことでまた味噌煮込みうどんを食べながら話し込むことになるのでしょうか。東京、岡山から東西に渡って名古屋に集結であります。
あの頃私はぼんやりとお世話になっていた名古屋の泉称寺に住んでいた頃を思い出します。何故か私はそこを出て松風町という昭和区の方に本格的に文学を志すために引越ししましたがここでの生活はかなりな悲惨な生活でありました。それでも近くに先輩もいましたのでいつもたむろしていました。その先輩も今や大学教授になっていますが今年で退職されるとのことです。高校は有名な四天王寺高校の先生でしたがその後、大学の方に変わり溜池の日本の研究家として有名な第一人者となっています。
それぞれに過去に傷を抱えそして言えないことをぐっと奥歯を噛みしめて我慢をして耐えて生きています。そしてその影に寄り添うように居心地の良さを感じ生きているわけですが最近では白紙領収書は慣例ですとかいうマジ馬鹿げた政治家も見えこの世もどうなっているのだろうかと思う時があります。そういう中で真面目に頑張っているものは馬鹿を見るような酷く傷つけられたような気になります。それでも小さくなって自分の世界で自分のしたいささやかな楽しみを貫いてみたいと考えているのです。
青春時代は恋愛もし激しく友を罵り叩かれ、それでも酔いが覚めたようにケロッとしていましたが今では極右傾化が進み米国の大統領選挙にしましてもどちらがなっても怖い存在です。
私の方は文学界の同人誌の久保田万太郎氏の言葉で書くことを断念し書くことよりも才能の限界を知り純文学から手を弾いていたのですが最近やっと書けるようになりました。村上春樹の書籍に『職業としての小説家』と云うのが2年ほど前に刊行されました。その彼の話を聞いて非常にまた書きたい欲望にかられたのです。たった一行でも名文が残せたらなんて思ったりしています。
三浦哲郎の『忍ぶ川』の「志乃を連れて深川に行った」のようなシンプルで素朴で情のある様な文章がどうしても書けない。書こうとすると腰が引けてしまいそして気が付けば40年近く経っていたのです。
しかし、あまり気取らなくていいじゃないか、語るように書けばいいんじゃないかと村上春樹が云うのです。私はその言葉や太宰治が織田作之助に送った葉書の一節に「書けよ、たとえ一日一行でも・・・」そう云った言葉が矢継ぎ早に心に響いてくるのです。もう私は迷うことはないかと思います。
純文学であろうと中間小説であろうと大衆小説であろうともいいではないでしょうか。そんなことよりも書くことの本質を見逃して書けない理由を転嫁してある意味卑怯な気がしてきたのです。評価は他人がするものです。自分が思っている以上に他人の評価は厳しいです。自分が100%とすれば他人の評価は60%がいいとこではないでしょうか。将に自惚れしかないのです。そういう意味では学生時代村上春樹と共に文学を語り彼のジャズ喫茶に行ってみたかったのも事実でありますが今はTwitterやFacebookで繋がっているだけであります。いつもお世話になっている哲学者山崎行太郎先生や慶応大学教授の金子 勝先生など非常に有難い先生方であります。
私は残りの時間を『次代のエース!』を作ると共に自分のやりたいことをしていこうと考えています。もうそれほどの時間と云いますか取材する元気も左程ありませんが気持ちだけは若いつもりであります。この週末はそういう意味で仲間たちと英気を養ってきます。
<今日の言葉>
『ビジネス上の競争でも,ケンカでも、やる以上は勝たなきゃならない。ところが自前のパワーを考えると、どうしても勝てないヤツってのもいる。その見極めがポジショニング(相対的に自己をとらえるということ)だ。オレは男だ、根性だというようなやり方、そんなのはダメだ。しかし、負けそうだからやらない、というのじゃなくて、どうやれば勝つか、それを考え、勝てるアイディアや戦力を備える』
岡野 邦彦
<今週のYouTube>
この時期は思い出します。永井龍雲の『つまさき坂』を選びました。
https://www.youtube.com/watch?v=5iJaf-5I9-A
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