陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

280.今村均陸軍大将(20)その東條をミスキャストしたのは木戸幸一である

2011年08月05日 | 今村均陸軍大将
 七月、事件がおきた。防空演習のため灯火管制がおこなわれていたことを知らずに電灯をつけていたスカルノが家に踏み込んできた将校にいきなり頬をぶたれたのだ。

 これを聞いた、今村中将は、中山大佐とその将校をスカルノの許に行かせ、詫びさせた。スカルノも「私のほうにも非があった」と笑顔で握手を交わした。

 翌日礼を述べに来たスカルノに向かって、今村中将は「日本軍には昔からビンタという悪弊があり、なかなか改められません。今後民衆にビンタをやる者がありましたら、遠慮なく私に知らせてください」と言った。

 ところが、「スカルノ自伝」(スカルノ・黒田春海訳・角川文庫)によると、スカルノもこの事件に触れているが、「灯りを消し遅れただけで、私は日本の将校に顔をめちゃくちゃにひっぱたかれた」と述べており、今村中将がこの事件に対処したことには一行も触れていない。

 「スカルノ自伝」は、彼が大統領であった一九六一年(昭和三十六年)に、アメリカの女性記者シンディ・アダムスに口述したものである。

 権力の座にあったスカルノだが、インドネシア独立前の日本軍部との関係は、いつまでも彼の“アキレス腱”だったのである。「スカルノ自伝」の随所に、自分の立場を誇張し、正当化しようとする意図が見られる。

 スカルノは「今村大将は本当の侍(さむらい)だった。……紳士的で、丁重で、気品があった」と述べているが、「政治的交渉においては私のほうが上手だった。……私の手にあって、彼は乳児に等しかった」と自分の優位を誇示している。

 また、スカルノは後に副大統領になるハッタにむかって「…私は日本と共に働く道を選ぶ。諸君の力を強化し、日本が敗れるのを待つのだ」とも語っている。

 今村中将とスカルノは互いに相手の立場を理解した上で、個人として好意を抱き合った。それから七年後、インドネシア独立直前のスカルノは、戦犯としてジャカルタの刑務所に収監されている今村元大将を、非常手段を用いても救出しようとしたこともあった。

 「将軍の十字架」(秋永芳郎・光人社)によると、もし、オランダが今村に死刑を宣告するようなことがあれば、その監獄をおそって今村を奪回するか、死刑場を襲って救出する計画をたて、事実、二つの部隊を編成していたという。

 ジャワの第十六軍司令官・今村中将は、その後、昭和十七年十一月九日、ラバウルの第八方面軍司令官に親補され、昭和十八年五月一日、陸軍大将に昇進した。

 「丸・戦争と人物20・軍司令官と師団長」(潮書房)所収「開戦時軍司令官の経歴」(森山康平)によると、今村均(陸士一九・陸大二七首席・大将)は戦後、「人物往来」昭和四十一年二月号で、岡村寧次(おかむら・やすじ・陸士一六・陸大二五恩賜・陸軍大将)と対談している。

 その席で、今村は東條英機(陸士一七・陸大二七・大将・陸軍大臣)について次の様に語っている。

 「あの人(東條英機)を、あの武人を、政治の場に持ってきたのは木戸幸一さんなんです。木戸さんと私とは、私の家内の血縁をたどると親戚関係になるが、いまでも毎年一回親戚中が集まって話をするとき、私は木戸さんの顔を見るとこう言うんです。『大東亜戦争の原因は、あなたが大責任者だ。どうして東條をあんな責任の地位に置いたのか…』と」

 「岡村さんの言われる通り、あの人は政治家じゃない。軍人ですよ。その人が国の政治をやったのが間違いの元だったのです。それに対して、木戸さんは『その通りだ』と言っています。そして、いまだに謹慎していて、誰とも会おうとしません」

 今村均は、この席で岡村寧次に「参謀本部で作戦課長をやっていた時(昭和六年八月から満州事変を挟んでの数ヶ月)、東條さんは編成課長でして、個人的には非常に親しくしていました・・・」と語っている。

 今村均は、太平洋戦争開戦時は第十六軍司令官(インドネシアのジャワ島攻略)、次に第八方面軍司令官(ソロモン・ニューギニア作戦)として、開戦から終戦まで常に第一線指揮官として前線にいた。

 その太平洋戦争の直接の引き金役は、東條であり、その東條をミスキャストしたのは木戸幸一である、というのが、今村均の胸中にわだかまっていた。

 終戦後、今村大将はラバウルで戦犯収容所に収監され、昭和二十二年、オーストラリア軍による軍事裁判判決(禁錮十年)を受けジャワ島移送された。

 昭和二十五年にインドネシアより帰国するが、ニューギニアのマヌス島で服役することを自ら申し出てマヌス島で服役開始。

 昭和二十八年日本の巣鴨拘置所に移送され、昭和二十九年十一月刑期を終え出所した。昭和四十三年十月四日死去。享年八十二歳だった。

(「今村均陸軍大将」は今回で終わりです。次回からは「鈴木貫太郎海軍大将」が始まります)

279.今村均陸軍大将(19)明朝八時に貴官の放送が聞かれなかったら、攻撃をただちに再開します

2011年07月29日 | 今村均陸軍大将
 今村中将はさらに厳しく言葉を次の様に続けた。

 「無条件降伏か、戦争の続行か、いずれか一つです。今から十分間、熟考の時間を与えます。その間に協議の上、決心されることを求めます」。

 日本側全員が退室した。そして十分後に元の席に戻った今村中将に促されて、ボールテン中将は低い声で言った・

 「停戦いたします」。

 そこで今村中将は次のように通告した。

 「では私は、あなたが次の処置を取られるなら、全面的無条件降伏の意思を表明されたものとして、停戦条約を結ぶことにいたします。第一は、明朝八時、バンドン放送からあなた自身が蘭印全諸島にむけ『午前八時以降、日本軍に対する戦闘をすべて停止し、各地ごとに、そこに向かっている日本軍に対し無条件降伏をすべし』と放送すること」

 「第二は、あなた自身が、降伏する将兵、兵器、軍需諸品を明記した表を持って、明日午後一時までに再びここに来ること。以上の二つです」。

 さらにバンドン要塞に帰るボールテン中将に向かって、今村中将は次の様に言った。

 「念のため申しておきますが、明朝八時に貴官の放送が聞かれなかったら、攻撃をただちに再開します」。

 今村中将は、自動車に乗ったオランダ側六人への目隠しをやめさせた。続々と到着してくる第二師団の情況や、爆弾を装備して待機中の多数の飛行機を見せることが、彼らの停戦意思をぐらつかせないことに役立つと考えたからである。

 昭和十七年三月九日午前八時、ボールテン軍司令官の全蘭印軍に対する停戦と無条件降伏との命令が放送された。今村中将ら第十六軍司令部は三月十二日首都バタビアに移った。

 日本軍の占領後間もなく、第十六軍の軍政部はインドネシア民衆の崇拝の的であるスカルノをスマトラの獄から出獄させた。スカルノ支援は軍政上有利と考えたのだ。

 スカルノは、後にインドネシア共和国の初代大統領に就任した人物である。ちなみに現在、テレビタレントのデヴィ夫人はスカルノ大統領の第三夫人だった。

 昭和十七年五月、今村中将は軍政部の中山寧人大佐(陸士三三・陸大四一恩賜・後の少将)と通訳を同席させて、初めてスカルノと会った。

 今村中将はスカルノに次の様に穏やかに言った。

 「スカルノさん、私はあなたの経歴を知っていますから『こうしなさい』などと命令はしません。意に添わないことはやらない人だと、わかっていますから…」

 「また、戦争終結後インドネシアがどのような状態になるか、についても、私は何も言いません。それは日本政府とこの国の指導階級とが協議決定するもので、私の権限外のことですから」

 「私が今、インドネシアの人々に公然の約束できるのは、私の行う軍政により、蘭印政権時代の政治よりも、よりよい政治介入と、福祉の招来だけです。あなたが私の軍に協力するか、中立的立場をとるか、どちらでもあなたの自由です」

 「しかし、もしあなたが日本軍の作戦行動や軍政の妨害をされるなら、戦争終結までは自由行動を許しません。その場合も、オランダ官憲がやったような投獄などはしないつもりです。よく同志の人々と相談して今後の態度を決め、中山大佐を介して私に知らせてください」。

 四、五日後、スカルノから返事が来た。それは、次の様な内容であった。

 「今村将軍のお言葉を信じ、私と同志とは日本軍政に協力します。しかし戦争終結後の私の行動の自由は捨てないことを、言明しておきます」。

 早速、スカルノの軍政協力を具体化するため、スカルノと中山大佐の協議で、一機関を設け、それに必要な費用その他一切を軍が提供することになった。

 その後、スカルノはたびたび今村中将を訪問して誠実に協力を果たし、今村中将もまた、先に約束したインドネシア民衆の福祉増進に努力し、現地人の官吏登用、日本人とインドネシア人との行政諮問院の設置などを実現した。

 ある日、スカルノはインドネシア第一の洋画家を連れて今村中将を訪問し、その日から今村中将の肖像画の制作が始まった。

 その後二人はいつも一緒にやってきて、洋画家が絵筆を走らせる間、今村中将とスカルノは歓談した。この肖像画は現在も今村家の客間に飾ってある。

278.今村均陸軍大将(18)ボールテン将軍!あなたは総督の不同意にもかかわらず降伏しますか

2011年07月22日 | 今村均陸軍大将
 今村中将の頭の回転は早かった。彼は即座に命令を口述させ、東海林大佐宛命令電報を次の様に発信した。

 「貴官は日本軍司令官の回答として次の如く伝えよ。蘭印総督と蘭印軍司令官とは、所要の幕僚を伴い、八日午後二時、カリジャチ飛行場に来り、日本軍司令官と会見の上、直接停戦を申し入れるにおいては、その場に於いて諾否を回答する」。

 今村中将はこのあとに、彼らの安全は保障するという一項を加えた。

 次に今村中将は第二師団長・丸山政男中将(陸士二三・陸大三一)に次の様な命令電報を発信した。

 「敵は戦意を喪失し、停戦を提議せんとしあり。この機に乗じ、特に我が方の戦意を誇示する必要大なり。貴師団は万難を排し、一刻も速やかに、東海林部隊の突破口方面に進出すべし」。

 このとき今村中将は、敵の停戦申し入れに疑いを抱いていた。それは次の様なものであった。

 「バンドン要塞だけでも五万、ジャワ島全体では十万の集結兵力を持っている敵軍司令官が、なぜ約四万の日本軍に対し戦意を喪失したのか。ひょっとすると、敵の軍使は、日本軍の兵力を偵察する目的で来たのかもしれない……」。

 今村中将がとっさに第二師団と軍司令部の急進を決意したのは、「弱勢な東海林支隊の兵力を知られ、敵の戦意を強めてはならない」と考えたためである。

 後に停戦後に分かったことだが、オランダ軍司令官が停戦を申し入れた第一の理由は、日本軍の上陸兵力を約二十万と誤認したことであった。

 さらに、東海林支隊が独力でバンドン要塞の本防衛線まで進撃したとき、日本軍司令官が直接指揮し大軍が攻撃してきたのだろうと観測、統一指揮の困難な、蘭・米・英・豪の連合軍では、とても勝ち目はないと判断したことだ。

 軍司令官・今村中将、参謀長・岡崎清三郎少将(陸士二六・陸大三三・後の中将)、参謀ら第十六軍司令部首脳は三月八日午後二時半、カリジャチ飛行場に到着した。

 すでにチャルダ蘭印総督、ボールテン在ジャワ連合軍司令官らオランダ側六人はすでに待機していて会談は直ちに始められた。

 まず、今村中将がボールテン中将に向かって停戦の意志をただした。

 ボールテン中将は、それを認めて、「これ以上の戦争の惨害を避けたいためです」と答えた。

 次いで今村中将はチャルダ総督へ視線を向け「総督は無条件降伏をしますか」と訊いた。

 すると、チャルダ総督は「私は停戦の意志を持っていません」ときっぱり答えた。

 今村中将「停戦の意志がないなら、なぜあなたはボールテン軍司令官の停戦申し入れを禁じなかったのですか。総督はオランダ憲法により、蘭印における全陸軍を指揮する統帥権を持っているはずですが」。

 チャルダ総督「戦争勃発前は、確かに私が統帥権を持っていました。だが、英軍のウエーベル大将がここの連合軍総司令官となり、統帥権も私から彼に移されてしまいました」。

 ウエーベル大将は日本軍の上陸後間もなく、飛行機でインドへ逃げ、あとに残された英・米・豪軍はボールテン蘭軍司令官の命令に服さず、全般の作戦がやりにくくしていた。これも、ボールテン中将が戦意を喪失した理由の一つだった。

 やがてチャルダ総督は「私は蘭印の民政について協議するために来たのですが、軍事的なことだけの会談なら、退場を望みます」といい、今村中将の同意を得て、庭に出た。今村中将は「敵ながら、あっぱれ」と記している。

 今村中将は再びボールテン中将に向かって「ボールテン将軍! あなたは総督の不同意にもかかわらず、降伏しますか」。

 ボールテン中将「バンドン地区だけの停戦です。もはやすべての通信手段がなくなり、私の命令で停戦できるのはバンドンだけなのです」。

 今村中将「この飛行場にある日本軍の無線通信機は、蘭印軍相互間の通信を傍受しており、バンドン放送局の今朝の放送も聴取しています。全蘭印地域の貴方の部下軍隊に停戦を命ずることは可能のはずです。日本軍はバンドンだけでなく、全蘭印軍の全面的無条件降伏を要求します」。

 オランダ側は無言だった。

277.今村均陸軍大将(17)私はこれを取り押さえ、軍司令部に送り届ける決意をしております

2011年07月15日 | 今村均陸軍大将
 昭和十三年十一月末、今村均中将は第五師団(広島編成・当時南支那駐屯)の師団長に親補された。

 昭和十四年九月初め、「第五師団は関東軍司令官の指揮に入るべし」との命令が発せられた。第五師団の満州派遣は、北満と外蒙古との境界付近に生じた日ソ両軍の衝突(五月四日)によるものであった。ノモンハン事件である。

 関東軍司令部は七万五千の兵力を集めて戦闘体制を整えた。今村中将の師団が満州へ派遣されたのもそのためである。

 大連から新京に飛んだ今村中将は、関東軍司令部の梅津美治郎軍司令官の許へ行った。梅津司令官は二日前に植田謙吉大将の後任として関東軍司令官に着任したばかりだった。

 梅津軍司令官は「第五師団はご苦労です」と今村中将に言った。そして静かな口調で次の様に語った。

 「関東軍参謀たちはまだ満州事変当時の気風を残していたものか、こんな不準備のうちにソ連軍に応じてしまい、関東軍外の君の師団までわずらわす結果となってしまった」

 「今、モスクワで重光中ソ大使が停戦の折衝中で、これが成功すればよいが、万一ソ連がこれに応じない場合は断固応戦の決意を示すことが、ソ連を自重させ、停戦協定を結ぶ結果となろう。第五師団は敵に大打撃を与えるよう、速やかに戦闘体制を整えられたい」。

 今村中将は「私の師団の戦闘加入により、敵に停戦決意を起こさせるよう奮闘いたします」ときっぱり言い切った後、次の様に言葉を続けた。

 「先遣したわが師団参謀の言によりますと、『関東軍参謀が第一線または師団の責任指揮官をさしおき、部隊に直接攻撃を命じたり、叱咤したりして、多くの損害を出している』と、前線の責任者は憤慨しているとのことであります」

 「もし私の師団に対してもそのようなことをやりましたなら、私はこれを取り押さえ、軍司令部に送り届ける決意をしております。この点、あらかじめご了承願います」。

 今村中将のこの申し出を、梅津軍司令官はこころよく受け入れた。この参謀は辻政信少佐(陸士三六首席・陸大四三恩賜・後の大佐・戦後衆議院議員)といわれている。

 今村中将はチチハルに飛んだ。ここで彼は次々に到着する戦闘部隊に指示を出し、戦闘準備を整えた。その後、九月十六日に梅津軍司令官から電報が届いた。「日ソ停戦協定成立」。

 中央に帰り教育総監部本部長を務めた後、昭和十六年六月二十八日、今村中将は第二十三軍司令官に親補された。五十五歳だった。

 昭和十六年十月十六日、第三次近衛内閣が総辞職し、十八日、東條英機内閣が成立し、首相は内相、陸相を兼任した。

 それから三週間後の十一月六日、広東にいた今村中将のもとに「貴官は今般、第十六軍司令官に親補せらる」という陸軍大臣電が届いた。

 昭和十六年十二月八日、日本海軍の真珠湾攻撃が行われ、太平洋戦争が開戦した。今村中将の第十六軍は蘭印(オランダ領インド・現在のインドネシア)のジャワ攻略作戦に当てられた。

 蘭印は十七世紀から約三百年に渡り、オランダが植民地として支配してきた。日本の大本営は、その蘭印の豊富な石油資源の獲得を目的にジャワ攻略戦(蘭印作戦)を起案した。

 昭和十七年二月二十八日、今村中将の指揮する第十六軍の輸送船団はスマトラ島の東に位置するジャワ島に到着した。翌三月一日、ジャワ島西部のバンタン湾から上陸を開始した。

 だが、上陸作戦中、今村中将の乗船していた輸送船「龍城丸」は敵の魚雷艇に攻撃され、撃沈された。今村中将は海に放り出され、泳いでいたが、材木につかまり、やがて発動艇に救助され、無事上陸した。

 今村中将より早く上陸した第二師団の諸部隊は東方十六、七キロのセラン市に向かって進撃を開始した。その後、三月六日にはジャワ島西部の首都バタビア(後のジャカルタ)を占領した。

 三月七日朝、今村中将はバンドン要塞攻撃の指揮をとるためセラン市を出発、午後四時頃、バタビア南部に着き、無人のオランダ軍兵営に入った。

 だが翌八日午前零時半、攻撃中の前線の支隊長・東海林俊成大佐(陸士二四・後の少将)から「敵の軍使が現れ『オランダ軍最高司令官・ボールテン中将は日本軍最高指揮官に対し、停戦申し入れの意志を持っていることを伝達されたい』と申し出があった」と電報が今村中将に届いた。

276.今村均陸軍大将(16)中央の若い参謀たちをけしかけさせるに至っては、言語道断です

2011年07月08日 | 今村均陸軍大将
 やがて、今村少将は梅津次官に対して次の様に言った。

 「お教えはよくわかりました。陸軍の統制を破らないよう、最善の努力をいたします。ただ、現に配置してあります特務機関は、赤化と蒋介石の策謀を探知する任務に限り、また徳王支持も精神的な面は、お認め願いたいと存じます。もちろんこれらについても、ソ連と事を構えることにならぬよう十分注意いたし、中央、特に国家に累を及ぼすことはいたしません」。

 こうして、関東軍の幕僚たちに『梅津次官にかわいがられている今村がいけば』と大いに期待され、押し出されてきた今村少将は、何の収穫もなく帰途に着いた。

 昭和十二年七月七日、北京郊外の盧溝橋付近で夜間演習中の日本軍と中国軍が衝突した。支那事変の勃発である。

 関東軍参謀副長・今村均少将は、関東軍司令官・植田謙吉大将(陸士一〇・陸大二一・戦後日本郷友連盟会長)から、「支那事変に対する関東軍の対策意見書を参謀本部に提出、説明せよ」と命ぜられ、東京へ飛んだ。その意見書の内容は次の様なものであった。

 「天津北京付近に生じた日支両軍の衝突は、速やかに処断しなければ、事変は支那全土に拡がるであろう。なんとしても、中支南支に波及せしめてはならない。ついては、事変を北支五省の範囲内でくいとめるための兵力派遣が準備されなければならない」。

 参謀本部に出頭した今村少将は、予想外の空気に驚いた。石原莞爾作戦部長(陸士二一・陸大三〇恩賜・後の中将)は「日本は満州だけを固めるべきだ」と主張し、戦争拡大の危険を説くが、河辺虎四郎大佐(陸士二四・陸大三三恩賜・後の中将・参謀次長)以下数人がそれを指示するだけだった。

 他の幕僚は、石原作戦部長の主張にそっぽを向いていた。かつての拡大実行者、石原作戦部長の強調する不拡大主義は、宙に浮いていた。

 河辺大佐は満州事変勃発当時、今村少将の下で作戦班長を務め、四面楚歌の今村を強く支持した部下であった。その河辺大佐が今村少将に単独会見を申し入れ、次の様に言った。

 「率直に申します。私は周囲がどれほど不拡大方針に反対しても、驚きません。が、満州事変当時『軍は軍紀によって成る』と説き、出先軍を中央の意思に従わせようと苦心したあなたが、いかに関東軍司令官の意図によるものとはいえ、現在の石原部長の不拡大方針に反する意見書を持参し、部長を苦しめるとは…、大いに遺憾であります」

 「しかも、富永恭次大佐(陸士二五・陸大三五・後の中将)や田中隆吉中佐(陸士二六・陸大三四・後の少将)のような向こう見ずな連中を連れてきて、中央の若い参謀たちをけしかけさせるに至っては、言語道断です」。

 今村少将は素直に、かつての部下の苦言に頭を垂れた。そして次の様に言った。

 「河辺君! 君の言う通りだ。私は軍司令官の命令で新京から来た以上、意見書は提出しなければならない。だが、私の口からは何も言わず、ただ提出だけにする」

 「ただ一言、君にいいたいのは、富永、田中の二人は私が指定して連れてきたのではなく、東條(英機)参謀長(陸士一七・陸大二七・陸軍大臣・首相)の指令で東京に来ているのだ。私はこの二人に、中央の参謀をけしかけろなどと示唆したことはない。……新京に帰ったら、中央の指令に従いその統制に服するように、軍司令官を補佐する」。

 今村少将は、石原作戦部長に会ったが、「関東軍の意見書は、庶務課長に渡しておきました」と述べただけで、一言の説明もせず、「事変の勃発でご苦心のことでしょう。どうか健康に留意してくれ給え」と、いたわりの言葉をかけて別れた。そして、富永、田中の二人を促し、早々に新京に帰った。

 支那事変に対する関東軍の意見書を提出して東京から新京に帰った今村少将は、その数日後に「陸軍歩兵学校幹事に補職」の通知を受けて、帰国した。昭和十二年八月のことである。

 昭和十三年一月、今村少将は阿南惟幾少将(陸士一八・陸大三〇・後の大将・陸軍大臣)の後任として、陸軍省兵務局長に就任し、三月に陸軍中将に昇進した。

 同じ十三年六月には板垣征四郎中将(陸士一六・陸大二八・後の大将)が陸軍大臣になった。だが、今村中将は板垣中将を陸相に推す一派の運動を知ったときから、その不成功を願っていた。

 板垣中将が大度量につけこまれ、晩節を汚すことになりはしないかと怖れたのだ。

 新大臣の板垣中将は少佐時代の一年間を参謀本部に勤務しただけで、中央の勝手がよくわからず、何かにつけて兵務局長の今村中将を呼び、「これはどうすればよいのか」と、昔のままの率直さで訊ねた。

275.今村均陸軍大将(15)遂に君も”満化“し、かつての石原の後を追おうとしている

2011年07月01日 | 今村均陸軍大将
 ところで、当時の満州国を囲む周囲の情勢について、今村少将は次の様に書いている、

 「外蒙を掌中に収めたソ連はここを拠点とし、赤化宣伝謀略の手を、内蒙経由、南方支那本土と東方満州国とに延ばしかけ、それに蒋介石政権までが、この方面から何かと満州国に工作しようと策謀を続ける」。

 内蒙工作のいきさつについて、田中隆吉参謀は着任後まだ日の浅い今村少将に次の様に説明した。

 「関東軍司令部はソ連と蒋介石政権の動きに備えるため、内蒙の徳王に兵器、弾薬、その他の物資を融通して約一万の内蒙人軍隊を建設させ、その協力の下に諜報機関員を配置している」

 「しかし関東軍が熱心に推し進める内蒙工作は、作戦部長・石原莞爾少将(陸士二一・陸大三〇恩賜・後の中将)の反対で中央からの援助が得られず、関東軍は北支那駐屯軍に協力を求め、日本品貿易に課税して政治資金を得ている冀東地区の殷政権を保護して、そこから徳王への財的援助をさせている」。

 だが、その後に殷政権の財政が急速に悪化して、関東軍の内蒙工作は重大な影響を受けることになった。今村少将もその渦中に巻き込まれた。今村少将は次の様に述べている。

 「既に冀東財政が窮乏を来たした以上、内蒙古援助は物心両面とも、いっさい関東軍自身で行うことが必要となった。そのため私は軍参謀長の意図を受け、陸軍省の諒解、とくにこの際、三百万円の内蒙工作費の配当を懇請するため、東上するの已む無きに至った」。

 内蒙工作は参謀本部の石原作戦部長に反対されたため、軍司令部内でも秘密にして板垣参謀長の全責任ですすめてきたものである。

 その危機にあたって、板垣参謀長自身が東京へ行かず、今村少将に代理を努めさせたのか、その理由を今村少将は次の様に述べている。

 「次官は梅津美治郎中将(陸士一五・陸大二三首席・後の大将・参謀総長)。私が中尉時代、陸大入学試験の際、直接指導を受け、また満州事件当時は共に参謀本部にあって心労をわかちあい、私の公的人事はいつもこの中将の配慮を受けており、板垣中将同様、師弟関係に近いことを知っていた周囲の人々は、私に説かせれば、梅津次官は諒解を与えるかも知れないとの思惑から、私の東上を欲したものである」。

 東京に着いた今村少将は、陸軍省の次官室で、梅津次官と人をまじえず会談した。今村少将は関東軍を代表して、内蒙工作の必要とその現状を語り、三百万円の即時入用を説いた。無言でそれを聞き終わった梅津次官は、厳しい表情で反問に移った。

 「既に中央は、大局上の判断から内蒙工作は不可なりと観察して、総長、大臣の意図を石原作戦部長をして伝えしめたにもかかわらず、それを中止せず、今もなお続けている理由は?」

 これに対して今村少将は次の様に答えた。

 「軍司令官は満州国建設上、内蒙方面からするソ連の赤化工作と、蒋介石政権策謀とに対処するため、内蒙工作はどうしてもやめ得ないと判断されております」。

 梅津次官はさらに、中央の代表として新京に派遣された石原作戦部長に対する、関東軍幕僚たちの礼を失した態度をなじった。

 石原作戦部長は中央の内蒙工作反対および戦線拡大反対の意思を伝え、関東軍をそれに従わせるため新京に乗り込んだ。

 だが、現地の参謀たちは「かつて、あなたは中央の意思にそむいて満州事変を拡大し、大成功したではないか。今我々はそれと同じことをやっているのだ」と言い、反発した。

 今村少将は、梅津次官の叱責に対し、関東軍を代表して詫びた。しかし、今村は「私は中央の派遣使節の人選が、当を得ていなかったと思います」と付け加えた。

 梅津次官はなお、二、三の厳しい質問を関東軍参謀副長としての今村少将に向けた後に、最後に語調を変えて、今村少将個人に次の様に語りかけた。

 「今はすべてをぶちまけて、君に言っておかねばならん。関東軍参謀長であった西尾寿造中将が参謀次長に転出、そのあとは板垣と決まったとき、副長は誰がよかろう……と僕は西尾中将と相談した。満州事変当時のような、専断のふるまいをする関東軍の悪傾向はかなり矯正されたものの、まだ根絶には至っていない」

 「結局、満州事変当時、中央の作戦課長として僕らと共に、関東軍の統制無視に苦汁を飲まされた君なら、この悪風根絶に努力するだろう…、ということになり、君を今の地位に据えたのだ。つい先ごろまで、満州から伝わる君の悪評と、その悪評の原因とを知るたびに、僕は君をあの位置に据えてよかった…と喜んでいたのだ」

 「それが、中央は反対だと知りながら、内蒙工作に同意するとは…。僕は、個人としては、君の今日の説明がわからないことはない。赤化工作と蒋介石の策謀に対する心配はもっともであり、ソ連との間に衝突を起こさないようにという特務機関の配置も肯定できる」

 「しかし、何よりも大切なことは、五年前に君が力説した『軍の統制に服する軍紀の刷新』なのだ。遂に君も”満化“し、かつての石原の後を追おうとしている……」。

 今村を見つめる梅津次官の目が、うるんでいた。その言葉に打たれた今村は、うなだれるばかりであった。

274.今村均陸軍大将(14)その後の今村少将は嫌われ者になるほかはなかった

2011年06月24日 | 今村均陸軍大将
 昭和十一年三月、今村少将は関東軍参謀副長として新京(現・長春)に着任した。このときは人事の大異動があり、寺内寿一大将(陸士一一・陸大二一・勲一等旭日大綬章・南方軍総司令官・元帥)が陸相に、植田謙吉大将(陸士一〇・陸大二一・戦後日本郷友連盟会長)が関東軍司令官に就任した。

 今村少将が、新京駅に着いたのは午後九時ごろだが、駅で今村少将を出迎えた副官の永友大尉が「おもだった参謀たちが何かお話したいことがあるからと、司令部に近い料理屋でお待ちしています」と告げた。

 今村少将は不快に感じたが、仕方なく「桃園」という店に行き、五人の参謀たちに会った。一人の大佐が「要職につかれる前に、関東軍の性格を率直に申し上げておくべきだと思い、おいでを願いました」と言い、さらに次の様に話した。

 「満州国の建設はすでに日本の国策でありますが、これは関東軍あって初めて可能であり、万一にも満系、日系の官吏どもが事を軽視するようなことがあれば、満州国の建設や発展は望めません」

 「彼らの指導者の代表である軍司令官、軍参謀長、そして参謀副長であるあなた、この三人の公私一切の言動は軽易に流れず、威重の伴うものでなければなりません。この点を了解しておいていただきたいものです」。

 満州国官吏に対し「やたらに威張り散らす」という関東軍の悪評を、裏書するような言葉であった。

 「今後の言動について、むろん私は十分気をつけます」と今村少将は答えた。そして次の様に語った。

 「ただ私は明治大帝が軍人に下賜された勅諭五箇条のお教えの中で、礼儀の項だけでなく、武勇の項にさえ重ねて礼儀をお教えになっていることに深く感銘し、これを信念としております」。

 ここで今村少将は軍人勅諭を暗誦した。それを長々と聞かされる参謀たちの、苦りきった顔が目に浮かんだ。今村少将は、さらに次の様に続けた。

 「もし満州国官吏に対し威重を示せというのが形態上のことなら、私の信念に反しますから、せっかくのご忠言だが実行いたしません。人間の威重というものは、修養の極致に達し、自然と発するものなら格別、殊更につくろってこれを示そうと努めるぐらい滑稽であり、威重を軽からしめるものはないと思います」

 「私が関東軍司令部にいることが軍の威重上好ましくないと思った時は、いつでも参謀長に意見を具申の上、軍司令官の決裁によって、私の職を免ぜられるようにされたい。では、これで失敬します」。

 到着の夜にこの一幕があり、その後の今村少将は嫌われ者になるほかはなかった。今村少将の手記には五人の参謀たちの名は挙げていない。

 だが、当時、田中隆吉中佐(陸士二六・陸大三四・少将・兵務局長)は、すでに関東軍参謀だった。また、同年六月から武藤章中佐(陸士二五・陸大三二恩賜・軍務局長・中将・近衛師団長・勲一等瑞宝章・第十四方面軍参謀長)が加わった。いずれも一騎当千と自負するクセの強い人物である

 このときの関東軍の参謀長は板垣征四郎少将(陸士一六・陸大二八・陸軍大臣・大将・第七方面軍司令官)だった。着任の翌朝、今村均少将(陸士一九・陸大二七首席・後の大将)が参謀長室のドアを開けると、板垣少将はいきなり立ち上がって彼に近づき、しっかりと手を握って「おお、よかった! これからは、すべて安心してやれる。これからはすべて君にまかせるよ」と喜びの声をあげた。

 着任後一ヶ月もたたないうちに、今村少将は板垣参謀長の同意を得て、満州国要人に対する軍のしきたりを次々に改めていった。

 それまでの車の順序は軍司令官に始まり軍内各部長まですべて軍人が先発し、そのあとにようやく満州国総理大臣が続くことになっていた。

 今村少将はそれを軍司令官、軍参謀長の次に総理大臣および各大臣とし、そのあとに参謀副長以下軍人が続くことに改めた。

 次には、それまで参謀長、参謀副長と面談できるのは満州国の大臣級の人に限られていたのを、次官、局長級も公務用談の申し入れができるように改めた。

 以上、いずれも、到着の夜に今村少将を招いた参謀たちの目には、甚だしく軍の威重を傷つける改革だった。

 さらに六ヵ月後、今村少将は参謀・辻政信大尉(陸士三六首席・陸大四三恩賜・大佐・戦後衆議院議員)の意見を取り入れて、「公費による市中料亭の利用」を禁じた。

 「幕僚が人を招待する必要ある時は、公費で軍人会館を利用せよ」と、付け加えてあった。今村少将の悪評はますます高まった。だが、一方、軍隊の将兵たちは大いに溜飲をさげた。毎夜のように公費で飲食、遊興を続ける軍の参謀たちは、彼らの憤慨の的になっていたのだ。

273.今村均陸軍大将(13)私は軍人をやめて、坊主になる。子供たちは医者になれ

2011年06月17日 | 今村均陸軍大将
 この希望が入れられ、今村大佐は参謀本部付の肩書きで、上海へ出張した。陸海軍協同作戦を円滑にし、また、出先の軍と中央軍部との関係を緊密にする任務であった。

 今村均の長男、和男は、当時の今村大佐について、次の様に語っている。

 「上海から帰った父が、いきなり家族を集めて、『私は軍人をやめて、坊主になる。子供たちは医者になれ』と、言い渡しました」。

 今村はその理由を「上海で私の護衛に当たった海軍陸戦隊の兵二人が、敵弾で死んだ。この二人の後生を弔うため」と説明している。

 これについて島貫重節(陸士四五・陸大五三・中佐・陸将)は、次の様に語っている(島貫重節は昭和十八年、参謀次長とラバウルに同行して今村に会っている。また、戦後、島貫重節は陸上自衛隊に入隊し、第九師団長、東北方面総監を歴任し、今村均とは親しかった)。

 「作戦課長というのは非常に重要な、大変な役目ですよ。それを僅か七ヶ月でやめさせられた今村さんの気持ちは、察するに余りあります。自分の前途がどうこうの問題ではなく。軍中央への強い批判があったはずです」

 「あれほど筋を通して立派に勤めてきたのに、まるで失敗でもあったような扱いですからね。左遷も左遷、上海行きは連絡将校のような役だし、次の役も作戦課長のあとにはふさわしくない。恥をかかされたようなものです。軍人の社会はいやだ~という気持ちにもなりましょう」

 今村大佐の辞職願いは受理されず、昭和七年三月中旬、今村大佐は千葉県佐倉の歩兵第五十七連隊長に転出した。

 このときの今村大佐がどれほど深く心を傷つけられたかは、手記に散見される。昭和十二年に作戦部長の要職にあった石原莞爾少将が部下はじめ周囲の人心を失い、関東軍参謀副長として満州へ去った。

 このことを知った今村均は「かつて私が中央を追われたときを追想し、心から同情を寄せた」と記している。

 昭和八年八月から陸軍習志野学校幹事を務めていた今村大佐は、昭和十年二月、校長の指示で陸軍省へ行き、人事局長・松浦淳六郎少将(陸士一五・陸大二四・後の中将)に会った。

 用談が済んだ後、松浦少将は、今村大佐に次の様に告げた。

 「あなたは来月の異動で将官に進級し、東京の歩兵第一旅団長になると内定しています」。

 今村大佐は、少将への進級を、気の重そうな筆で手記に記している。歩兵第一旅団長になることも、「東京旅団の如き演習場に遠いところの部隊に長となることは、不運とさえ思われた」と、この栄転にも心をはずませてはいなかった。

 ところが、三月一日、人事異動の命令が発表されてみると、今村均少将(陸士一九・陸大二七首席・後の大将)は朝鮮の首都、京城の瀧山にある歩兵第四十旅団長に補されていた。

 その夜少将に進級した将校二十人ほどが、陸相官邸に招待された。その席で松浦人事局長が今村少将に「君には相すまんことをした」と、バツの悪い顔で次の様に語った。

 「実は朝鮮へ行くはずだった工藤義雄少将(陸士一七・陸大二七・少将で待命)から『家内が病気で、東京を離れがたいのだが…』と相談を受け、君と任地をとりかえるほかはなかったのだ」。

 東京の旅団長は近衛師団と第一師団の両師団に二人ずつ、計四名の配置である。この四人は選抜された優秀な人物と目され、将来の師団長を約束されたポストと考えられていた。

 今村少将と工藤少将の任地交換は、たちまち話題になり、中には「皇道派が人事局に干渉した結果だ」と、今村少将に同情の手紙を寄せる人々もいた。

 だが、今村少将は、そうした噂を取り上げず、同情の手紙には返事も出さずに、“軍隊練成に適した任地”である瀧山に明るい表情で出発した。

 ところが、この“任地交換”が、一年後に今村少将の軍人生命を救うという意外な結果を生んだ。

 昭和十一年二月二十六日、二・二六事件が起きた。天皇の「みずから討伐する」という異例の意思表示もあって、間もなく二・二六事件は終結した。

 その年の四月、陸軍は事件発生の責任上、最新参の寺内寿一大将(陸士一一・陸大二一・後の元帥)と植田謙吉大将(陸士一〇・陸大二一・戦後日本郷友連盟会長)の両大将を除く全現役大将の予備役編入、及び事件関係者を出した部隊の連隊長(大佐)以上の現役からの退去を発表した。

 約一年前の異動期に、もし工藤少将が病妻のための東京勤務を申し出なかったら、今村少将が、二・二六事件関係者を出した第一師団の旅団長として現役を退かされ、軍人の生涯を閉じていたのだった。

272.今村均陸軍大将(12)作戦課長・今村大佐自身も中央から飛ばされた一人だった

2011年06月10日 | 今村均陸軍大将
 柳条溝事件は早くから満州占領を企図していた板垣征四郎大佐(陸士一六・陸大二八・陸軍大臣・大将)、石原莞爾中佐(陸士二一・陸大三〇恩賜・中将)ら関東軍参謀の暗躍によるものだった。

 今村大佐は事件不拡大方針堅持の必要を説いた。だが、関東軍は中央や政府の不拡大方針を無視して、着々と満州占領計画を進め、十月八日には満州西南部の錦州を爆撃した。

 その数日後の夜、今村大佐は自宅に池田純久大尉(陸士二八・陸大三六・中将・内閣総合計画局長官)と田中清大尉(陸士二九・陸大三七・大佐)の訪問を受け、この二人から初めて桜会の橋本欣五郎中佐(陸士二三・陸大三二・大佐)を中心とするクーデタ計画を知らされた。

 今村大佐は作戦部長建川美次少将(陸士一三・陸大二一恩賜・中将)に橋本中佐説得を進言し、その結果、橋本中佐は建川少将にクーデタ中止を約束した。

 だが、十月十六日午後、桜会員である根本博中佐(陸士二三・陸大三四・中将)、影佐禎昭中佐(陸士二六・陸大三五・中将)、藤塚止戈夫中佐(陸士二七・陸大三六・中将)が突然、今村大佐に会いに来て、「先日、橋本中佐が約束した中止は虚言である」ことを告げた。

 作戦課長である今村大佐は部局長会議を開き、なお、教育総監部本部長・荒木貞夫中将(陸士九・陸大一九首席・大将・陸相)が説得を試みたが、ついに南次郎陸相(陸士六・陸大一七・大将・陸相・貴族院議員)の決断で、橋本中佐ら急進派十二人を憲兵隊に拘束した。

 『十月事件』と呼ばれるクーデタ計画はこうして未遂に終わった。満州事変はもともと「国家改造」の実現を目指して計画されたもので、十月事件もその一環だった。

 満州事変は作戦が成功し、日本軍占領地域は次々に拡大し、それを抑え得ない軍中央の不拡大方針は急速に色あせてきた。政府も軍の思いのほかの成功を見て、この既成事実に便乗する姿勢を見せ始めた。

 十二月、犬養毅の政友会内閣が成立し、青年将校に人気のある荒木貞夫中将が陸軍大臣に就任した。政府の対外政策は積極方針に転換し、荒木陸相は満州占領を中央で推進しようとした。

 昭和七年初めには日本軍はほぼ満州全土を手中に収めた。満州の独立計画は、政府、軍中央部、関東軍の間で合作されつつあった。

 このような情勢の中で今村大佐は依然として満州武力解決の時期が早すぎたことを憂えていた。今村大佐は、日本の対満州政策に対して、列国がどういう態度に出るかを懸念していた。

 戦後今村は「私記・一軍人六十年の哀歌」に次の様に記している。

 「…大東亜戦争のもとは支那事変であり、支那事変のもとは満州事変だ。陸軍が何等国民の意思と関係なしに満州で事を起こしたことが、結局に於いて国家をこのような破綻にあわせた基である~との国民の非難には、私のように、この事変の局部的解決に成功しなかった身にとっては、一言の弁解の辞がない」

 「私は、満州事変は国家的宿命であったと見ている。板垣、石原両参謀とは事変に関し、多くの点で意見を異にしたが、この人たちを非難する気にはどうしてもなれない。しかしながら満州事変というものが、陸軍の中央部参謀将校と外地の軍幕僚多数の思想に不良な感化を及ぼし、爾後大きく軍紀を紊(みだ)すようにしたことは争えない事実である」

 「これとても、現地の人がそうしたというよりは、時の陸軍中央当局の人事上の過失に起因したものと、私は感じている」

 「板垣、石原両氏の行動は、君国百年のためと信じた純心に発したものではある。が、中央の統制に従わなかったことは、天下周知のことになっていた」

 「にもかかわらず、新たに中央首脳者になった人々は、満州事変は成功裏に収め得たとし、両官を東京に招き、最大の讃辞をあびせ、殊勲の行賞のみでは不足なりとし、破格の欧米視察までさせ、しかも爾後、これを中央の要職に栄転させると同時に、関東軍を中央の統制下に把握しようと努めた諸官を、一人残らず中央から出してしまった」

 作戦課長・今村大佐自身も中央から飛ばされた一人だった。作戦課長の要職についてから僅か七ヶ月後のことだった。

 昭和七年初め、今村大佐は、新たに参謀次長となった真崎甚三郎中将(陸士九・陸大一九恩賜・大将・教育総監)から「都合により、貴官の作戦課長の職を変え、駐米大使官附武官に転補することにした」と申し渡された。

 今村大佐は、これを新作戦部長・古荘幹郎少将(陸士一四・陸大二一首席・大将)に報告し、次の様に述べた。

 「公務上深い因縁を持ちました上海事変の後始末は、まだこれを見ておりません。ついては、私を上海方面の職務に当てていただき、米国のほうは他の適材を当てるよう考えていただきたいものです」。

271.今村均陸軍大将(11)君のことから和田と奥平との喧嘩になり、軍務局長までが怒り出した

2011年06月03日 | 今村均陸軍大将
 軍事課長・津野一輔大佐(陸士五・陸大一五)から今村中尉に電話がかかってきた。来てくれとのことなので、行くと津野大佐は次の様に言った。

 「君のことから和田と奥平との喧嘩になり、軍務局長までが怒り出した。どうなるか心配される。どんなことだったか聞かせてくれたまえ」。

 今村中尉が、これまでのいきさつを述べると、津野大佐は次の様に言った。

 「そうか、わかった。和田は僕とも同期生だ。気持ちはいいんだが、あんまり几帳面すぎるんで、よくこんな問題を起こす。君の考えも奥平の気持ちも尤ものことと同感される。が、こんな小さなことから、省内で軍務局と官房とが、気まずくなっては面白くない。それで僕が仲に入り、君を面罵した点は、和田をして局長にあやまらせるつもりだ。そのきっかけを作る何かの道があるまいか。それで君と相談しようと思い、来てもらったんだ」。

 これを聞いた今村中尉は次の様に答えた。

 「ご心配をかけて相すみません。私は奥平課長の考えは正しい、私も何ら失礼なことは申しておりませんので、副官殿に陳謝などいたしません。しかし冷静になって考えて見ますと、和田大佐殿は、私の将来の心掛けにつき実によい戦史上の教訓を与えてくれました。この点から問題を片付けることが出来ると考えます」。

 津野大佐が「そうか。君もこの事柄を解決しようと思っているなら結構だ。いろいろとデマも飛び出している。早いほうがいいと思うな…」といったので、今村中尉は、「これからすぐ私は副官室に参ります」と答え、和田大佐のところへ行ってみた。

 今村中尉が「今朝のことで一言申し上げたいことがあります」と言うと、和田大佐は「何か」と、依然として、こわばったむずかしい顔をしていた。

 今村中尉は次の様に言った。

 「私は、奥平課長の考えは間違っておらず、私も礼を失したことを、申さなかったつもりでおります。それで副官殿にお詫びはいたしません。しかし、教えて頂きました旅順の戦例は、私の将来に、実によい教訓でありました。その手始めに、私の課の全書記と私とで本夜徹夜し、各師団の点呼計画表を、同一様式の紙に清書しなおし、明朝改めて官房に差し出すことに決心いたしました」。

 こわばっていた、和田大佐の顔が、いっぺんに崩れ、笑みを浮かべて、しんからの喜びの情を表し、次の様に言った。

 「そんなにあの戦例を理解してくれたか。……人から聞いて、僕の短気は知っていたろうが、もって生まれたしょうぶんはなかなか直らんでな…。あんなに大げさなことにして、相済まなかった。君の課もいそがしかろうから、官房のほうからも、手のすいている者を加勢に出す。武官府のほうには、一日遅れることを、こちらから電話しておこう……」。

 三十分後、津野大佐が今村中尉に電話をかけてきた。

 「和田副官がやってきて、今、奈良局長に申し訳の挨拶をして、事柄がおさまった。今夜、僕と和田と奥平の三人で同期生会を開き、一緒に飲むことにした。君もこんなことはなかったことにして、気を休めてくれたまえ」。

 この日以来、今村中尉の書類はほとんどすべて無条件で官房を通り、すらすらと運んだ。和田副官にいつ会っても、にこっと笑い、今村中尉の敬礼に答礼し、時には講話の下書きを頼まれたり、官舎に招かれ、夕食を饗された。

 陸軍省高級副官・和田亀治大佐(陸士六・陸大一五・大分県出身)は、その後、大正八年陸軍少将・陸軍大学校幹事、大正十年参謀本部第三部長、大正十二年陸軍中将・陸軍大学校長、大正十三年欧米出張、大正十四年第一師団長を歴任して、昭和三年待命、予備役編入。後に帝国在郷軍人会副会長を務めた。昭和二十年没。

 陸軍省軍務局歩兵課長・奥平俊蔵大佐(陸士七・陸大一六・東京都出身)は、その後、大正九年陸軍少将、大正十一年歩兵第二旅団長、大正十三年陸軍中将・待命、予備役編入。昭和二十八年没。

 陸軍省軍事課長・津野一輔大佐(陸士五・陸大一五・山口県出身)は、その後、大正七年陸軍少将・近衛歩兵第二旅団長、陸軍士官学校長、大正十二年陸軍中将・教育総監部本部長、陸軍次官を歴任。昭和三年近衛師団長在任中に死去。

 昭和六年八月一日、今村均大佐は軍務局徴募課長から、参謀本部の最も重要なポストの一つである作戦課長になった。大佐の二年目で、四十五歳であった。

 今村大佐が参謀本部作戦課長になって、一月半後の九月十八日、満州事変の発端である柳条溝事件が勃発した。今村大佐は、その処理に奔走した。