陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

580.源田実海軍大佐(40)自衛隊を国防軍に改編し、隊員を軍人として処遇するとともに、国民全部が国防の義務を負う

2017年05月05日 | 源田実海軍大佐
 源田実の著書、「源田実 語録」(善本社)は、昭和四十八年に発行された。六十九歳の時である。この当時の、源田実は参議院議員で、昭和四十三年に自民党政調会国防部会長に就任、昭和四十九年には勲二等瑞宝章を受章している。

 「源田実 語録」(源田実・善本社)所収「軍人にすれば士気はあがる」の中で、著者の源田実は、次の様に述べている。

 自衛隊員に誇りを持たせ、その士気向上をはかることは、多くの人々によって唱えられ、若干その施策も行われて来た。

 私は自衛隊員の全般的な士気が、旧軍人や外国軍隊のそれに比べて、遜色のあるものとは思わないし、総合的にはむしろ、勝っているとさえ思うのである。

 自衛官の処遇改善とか、国民的支持を受けるための諸施策は、いろいろと論議されるが、その根本にメスを入れた意見は、タブーなのか見当たらない。

 根源をつく施策とは何か―それはいうまでもなく、自衛隊の存在や地位に対する憲法上の疑義を完全に払拭することである。

 この事は、憲法論文の法律技術的解釈などの小手先の業によって、解決できるものではない。もちろん、自衛権は、それぞれの国家が本質的に保存しているものであって、この存在に疑義を差しはさむことは許されない。

 しからば、憲法の条文中に、自衛権の存在に対して疑義を抱かせるような表現が使われているならば、当然これを改定して、明々白々たるものにすべきである。

 憲法前文中の「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」、および第九条の「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と……うんぬん」、また同条第二項の戦力不保持、交戦権否認の表現は、疑義を持たせるに十分である。

 大体、一国の国民が祖国防衛の義務を負っていないなどということ自体が、はなはだおかしいのであって、われらは憲法にその義務がうたわれていなくとも、自衛権と同様に、本質的にこの義務を負っているものと考える。

 自衛権の存在や祖国防衛の義務などは、憲法の明文に記載するのが最も好ましい処置であり、次はなんらこれに触れることなく、自明の理として適用させることである。これに疑義を持たせるような表現を憲法に記載することは、下策中の下策である。

 すなわち、憲法を改正して、自衛隊を国防軍に改編し、隊員を軍人として処遇するとともに、国民全部が国防の義務を負うことを、はっきりと明文化すべきである。そうすれば自衛隊員の士気は、必然的に高揚するのである。

 国防や憲法に関する問題は、避けて通れるものではない。これに堂々と取り組むことこそ、国権の最高機関である国会の、そして政治家の当然の責務であると信ずる。

 以上が、旧日本帝国海軍二十四年、戦後の航空自衛隊八年、そして国会議員二十四年を勤めた源田実の、自衛官に対する思いを込めた主張である。

 だが、源田実は、自分自身を、戦闘機パイロットとしての生涯と位置付けている。源田実は五十代になって、自衛隊機のF86F(セイバー)、F104(スターファイター)、米軍機のF11(スーパータイガー)、F102、F106、F5などのジェット戦闘機を操縦している。

 晩年になっても、源田実は、「今でも自由に職業を選べるなら、また戦闘機パイロットを選ぶ」と語っている。「源田実 語録」(源田実・善本社)の中でも、次の様に述べている。

 「わたくしは元来、戦闘機のパイロットである。一九二八年、海軍のパイロットになって以来、ひたすら戦闘機の操縦においては、『技、神に入る』ことを念願して、努力してきました」

 「海軍と自衛隊を通じて、約三十年にわたる飛行生活において、一日たりともこの“希望”を捨てたことはありませんでした」。

 源田実は、国会議員を辞めて間もなく体調を崩し、二年後の平成元年八月十五日、療養先の松山市内の病院で脳血栓のため死去した。従三位、勲二等旭日重光章。享年八十四歳。

 ちょうど終戦の日、そして思い出深い、第三四三海軍航空隊「剣部隊」発足の地、四国の松山で、その波乱万丈な生涯を終えるとは、どこまでも劇的な源田実だった。

 源田実は明治三十七年八月十六日生まれだから、ちょうどぴったり、八十四年の生涯だった。死の二年前まで公職から離れられなかった源田実は、まさにその人生の全てを国に捧げた、稀有で純粋な武人だった。

 (今回で「源田実海軍大佐」は終わりです。次回からは「桂太郎陸軍大将」が始まります)










579.源田実海軍大佐(39)きのう言ったことと、今日言っていることはとは全然違うではないか

2017年04月28日 | 源田実海軍大佐
 昭和三十四年七月十八日、グラマンを強く押していた佐薙空将から源田実空将に代わった。源田空将は第三代航空幕僚長に就任した。

 序列を無視して強行されたこの人事は、様々な憶測を呼んだが、端的に言えば、グラマンからロッキードに鞍替えした岸信介首相の、金がらみの政治的画策によるものだった。

 こうしてFX機種選定問題は、波乱含みの中にも、着々とロッキードに傾きつつあった。それを決定的にしたのが、源田実航空幕僚長の渡米だった。

 昭和三十四年八月、航空幕僚長・源田空将は、FX機種選定のため官民合同の調査団の団長として渡米し、カリフォルニア州のエドワード基地で二か月半に渡り調査を行った。

 源田空将は五十五歳だったが、自ら機種選定候補機の戦闘機に搭乗し操縦し、最適と思われる機種の調査を行った。五十五歳でマッハ2の戦闘機を乗りこなすのはアメリカでも例がなく、称賛された。

 イギリスの当事者たちが、日本の航空自衛隊の最高幹部がアメリカに来て調査していることを聞いて視察にやって来た。

 彼らは、日本の調査団長である源田実航空幕僚長が自ら候補の戦闘機を操縦している実状を見て、非常に驚いていたと、伝えられている。

 帰国後、調査団が提出した報告書により、政府はロッキードF104を採用することに決定し、十一月六日の国防会議で、F104J(一八〇機)、複座型F104DJ(二〇機)が選定された。

 このFX機種選定について、柴田武雄は、「源田実論」(柴田武雄・思兼書房)の第二章「日本敗北の実質的最大責任者は源田である」の中で、次の様に当時の航空幕僚長・源田実空将を非難している。

 「また、戦闘機無用論を主導した責任を攻撃機側に転嫁しようとしたことや、航空自衛隊におけるグラマンとロッキードの問題で、『もしそれロッキードを採用するならば、航空自衛隊は平時にして潰滅するであろう(グラマンを採用すべきである)』と、国防会議において堂々と述べておりながら、平然としてロッキードを採用している無反省・無責任ぶり、その他、『源田を語る会』でも開いて、源田の無責任・責任回避・責任転嫁の資料を出し合ったならば、相当膨大なものになるであろうことは、確かである」。

 また「源田実論」第三章「源田とはこういう人間だ」の中で、著者の柴田は次のように述べている。

 「ところで、私はかつて、源田に、“きのう言ったことと、今日言っていることはとは全然違うではないか”と問い詰めたところ、“きのうのオレと今日のオレとは全然違う”と高圧的に言われ、一瞬、グー!とつまったことがあるが、源田のこうした変化(言い変え)ぶりは、本人の強力な悪魔的信念とは裏腹で、知的な進歩的変化や道徳的な向上的変化とはおよそ縁遠いものなのである」。

 一方、当時の防衛庁長官は赤城宗徳(あかぎ・むねのり・茨城・東京帝国大学卒・上野村村長・衆議院議員・戦後公職追放・衆議院議員・自由民主党・農林大臣・内閣官房長官・防衛庁長官・総務会長・農林大臣・霞ヶ浦高等学校校長・著書「わが百姓の記」など多数)だった。

 赤城防衛庁長官は、渡米して調査した源田空幕長の功績を高く評価し、定年まであと一年ある源田実に、退官して参議院議員に立候補することを勧め、赤城自ら自民党幹部を説得して自民党公認候補とした。

 源田実は赤城防衛庁長官の勧めに従って、全国区選出参議院に立候補し、旧海軍航空や自衛隊関係者を基盤に当選し、昭和三十七年七月から六十一年六月まで、四期二十四年に渡って参議院議員を勤めた。

 この間、自民党の国防部会長も務めたが、空のことをよく知らない議員たちが、空中関係の諸立法を審議したり、法令を制定しようとする中で、戦中・戦後を通じて多年にわたり空中勤務を体験し、空の交通や管制などを身をもって理解している源田実の存在は貴重だった。

 同僚の議員たちは。「閣下、閣下」と呼んで、旧海軍の作戦参謀、元航空幕僚長、軍事専門家である源田実を、一目置いて接したが、参議院議員という役職は、源田にとって必ずしも居心地のいい場所ではなかった。

 源田と海兵同期の末國正雄(すえくに・まさお)元海軍大佐(山口・海兵五二・海大三五・第五戦隊参謀・中佐・第三艦隊参謀・人事局第一課員・大佐・艦政本部出仕兼人事局員)は次のように述べている。

 「生真面目で謀略的嘘のない世界に多年育って来た源田にとって、議事堂内での他の練達な政党人政治家といわれる人たちに伍しての付き合いには、非常な戸惑いや困難を感じていたらしい」

 「同期生の集まるクラス会に出席した時の彼は、議会、議事堂内ほど日本語の通用しないところは日本国内どこに行っても見当たらない、と漏らしていた」。

 クラスメートの末國元大佐が語る言葉に、軍人から馴染みにくい政治の世界に身を投じた源田の苦悩が伺える。





578.源田実海軍大佐(38)この決定には巨額の金が裏で動いたと言われていた

2017年04月21日 | 源田実海軍大佐
 だが、この後大目玉が飛ぶのを覚悟していた小高達に源田大佐は次のように言った。

 「士気高揚のためだ。大いに暴れろ。後の責任は一切司令がとる」。この一言で感激した小高達は、大いに奮起して戦闘に臨んだ。

 昭和二十年八月十五日、終戦となった。「天皇は支那(中国)に連れて行かれ、皇族は全員死刑、皇太子はアメリカに連行される。職業軍人は重労働、婦女子はアメリカ兵に凌辱される」といったうわさが流れた。

 一方では、厚木航空隊事件など、一部の航空隊が徹底抗戦を叫ぶなど、国内は混乱の極みにあった。陸軍では宮城事件なども起きた。

 厚木航空隊事件は、厚木海軍飛行場で、第三〇二海軍航空隊の司令・小園安名(こぞの・やすな)大佐(鹿児島・海兵五一・少佐・第一二航空隊飛行隊長・空母「鳳翔」飛行長・中佐・台南航空隊副長兼飛行長・第二五一海軍航空隊副長兼飛行長・第二五一海軍航空隊司令・第三〇二海軍航空隊司令・東條英機暗殺計画に参加・兼横須賀鎮守府参謀・大佐・兼第三艦隊参謀・兼第七一航空戦隊参謀・厚木航空隊事件の党与抗命罪で無期禁錮・失官)が起こした騒乱事件だ。

 小園大佐は、後に軍法会議にかけられ、党与抗命罪となり、失官、海軍大佐を剥奪された。
党与抗命罪とは、海軍刑法第五十六条で、徒党をなして命令違反を起こした罪。

 そんな終戦の混乱の中、八月十七日、源田実大佐は軍令部から「至急上京せよ」との連絡を受けた。源田大佐は、紫電改で横須賀に飛び、そこから電車で東京の軍令部に出頭した。

 軍令部に着くと、軍令部作戦部長・富岡定俊(とみおか・さだとし)少将(広島・男爵・海兵四五・二十一番・海大二七・首席・第二艦隊参謀・海軍大学校教官・軍令部第一部第一課長・二等巡洋艦「大淀」艦長・南東方面艦隊参謀副長・少将・南東方面艦隊参謀長・軍令部第一部長・終戦・第二復員省大臣官房史実調査部長・著書「開戦と終戦」)から次のような重要な任務を受けた。

 それは、万一、無条件降伏によって、天皇はじめ皇族が戦犯として処刑された場合、陛下の血筋を絶やさないように、皇族のどなたかを密かにかくまってお守りするという、皇統護持の密命だった。軍資金も渡された。

 大村基地に帰った源田大佐は、対策を練り、決死の同志二十三名を募り、候補地となった九州の熊本県五家荘村を中心に展開し、密命を帯びた隊員たちは、赤穂の四十七士のように、様々な仕事に就いてその時を待った。

 源田大佐も一時期、部下と共に長崎県川南の炭鉱で採炭夫として働いたが、統制のよくとれた働きぶりで、群を抜く採炭実績を上げ、「さすが海軍さんは違う」と称賛を浴びた。

 昭和二十一年に入ると、敗戦の混乱も落ち着き、やがて天皇が戦犯に問われることもなく、皇族も何事もない事が判明し、この秘密任務は自然消滅した。

 昭和二十八年源田実は防衛庁に入り、航空幕僚監部装備部長に就任した。その後、航空自衛隊航空団司令を経て、昭和三十一年臨時航空訓練部長、空将。航空集団初代司令、航空総隊司令を歴任した。

 昭和三十三年航空自衛隊のF86F「セイバー」の後継次期戦闘機、FX機種選定問題が起こり、当時の航空幕僚長・佐薙毅(さなぎ・さだむ)空将(愛媛・海兵五〇・海大三二・連合艦隊航空参謀・軍令部第一部第一課作戦班長・大佐・南東方面艦隊首席参謀・戦後航空自衛隊幕僚副長・第二代航空幕僚長)が渡米して調査を行った。

 佐薙空将の報告に基づいて防衛庁が出した結論は、グラマン社がアメリカ海軍向けに開発したグラマンF11F「スーパータイガー」を可とするというものだった。

 最終的に絞られた候補機は、グラマンF11F「スーパータイガー」と、ロッキードF104A「スターファイター」の二機種だった。

 「F104Aは上昇性能と加速性に優れているが、安全性に劣る。F11Fは行動半径、全天候性、多用途性に優れ、かつ長期にわたって使える可能性が高い」というのが防衛庁の決定の理由だった。

 だが、この機種選定問題は政治問題に発展しており、この決定には巨額の金が裏で動いたと言われていた。

 おさまらないのは、河野一郎(こうの・いちろう)経済企画庁長官(神奈川・早稲田大学政治経済学部政治学科卒・朝日新聞入社・山本悌二郎農林大臣秘書官・衆議院議員・戦後公職追放・衆議院議員・自由党入党・日本民主党を結成・農林大臣・自由民主党・経済企画庁長官・党総務会長・農林大臣・建設大臣・オリンピック担当国務大臣・国務大臣兼無任所大臣)らのロッキード派だった。

 彼らは、政商で政界の黒幕であった児玉誉士夫(こだま・よしお・福島・京城商業専門学校卒・向島の鉄工所・右翼団体「建国会」・天皇直訴事件・「国粋大衆党」・海軍嘱託・上海で児玉機関運営・戦後全日本愛国者団体会議・右翼団体「日本青年社」)を担ぎ出して、国防会議での決定を「内定」にとどめさせると共に、巻き返しに乗り出した。





577.源田実海軍大佐(37)司令、最後にあなたゆきますね、紫電改で。どうぞ、やりましょう

2017年04月14日 | 源田実海軍大佐
 雑誌や戦記シリーズでは、「最強戦闘機紫電改」(大型本・丸編集部・光人社)、「紫電改 最後の戦い」(双葉社スーパームック)、「局地戦闘機『紫電改』完全ガイド」(イカロス・ムックWW2傑作兵器シリーズ)、「局地戦闘機紫電改―海軍航空の終焉を飾った傑作期の生涯」(歴史群像・太平洋戦史シリーズ24・学研)などがある。

 「紫電改」が集中配備された、「剣部隊」(第三四三海軍航空隊・松山)は、司令・源田実大佐、飛行長・志賀淑雄少佐の下に、次の三人の個性的な戦闘機隊長がいた。

 戦闘七〇一飛行隊(維新隊)隊長・鴛淵孝(おしぶち・たかし)大尉(長崎・海兵六八・第三六期海軍練習航空隊飛行学生・大分海軍航空隊・戦闘機専修・中尉・横須賀海軍航空隊教官・大分海軍航空隊教官・第二五一海軍航空隊分隊長・第二五三海軍航空隊分隊長・大尉・戦闘第三〇四飛行隊長・セブ島上空の空戦で負傷・別府海軍病院に入院・第三四三海軍航空隊・戦闘七〇一飛行隊長・戦死)。

 戦闘四〇七飛行隊(天誅隊)隊長・林喜重(はやし・よししげ)大尉(神奈川・海兵六九・第三七期海軍練習航空隊飛行学生・大分海軍航空隊・戦闘機専修・中尉・第二五一海軍航空隊・第二五三海軍航空隊分隊長・厚木海軍航空隊・大尉・第三六一海軍航空隊・戦闘四〇七飛行隊長・第三四三海軍航空隊・戦闘四〇七飛行隊長・戦死)。

 戦闘三〇一飛行隊(新選組)隊長・菅野直(かんの・なおし)大尉(朝鮮・海兵七〇・第三八期海軍練習航空隊飛行学生・大分海軍航空隊・戦闘機専修・中尉・厚木航空隊・第三四三海軍航空隊(隼部隊)分隊長・第二〇一海軍航空隊・戦闘三〇六飛行隊分隊長・第二神風特攻隊直援任務・第三四三海軍航空隊・戦闘三〇一飛行隊長・戦死)。

 昭和二十年四月八日、第三四三海軍航空隊(剣部隊・司令・源田実大佐)は、四国、愛媛県松山市から、鹿児島県の鹿屋基地に移動、沖縄に上陸する米軍を迎撃する「菊水作戦」に参加した。その後、四月二十五日には、長崎県の大村基地に移動した。

 その頃、「航空作戦参謀 源田実」(生出寿・徳間文庫)によると、三四三空司令・源田実大佐が、第五航空艦隊(司令長官・宇垣纒中将)司令部から大村基地に帰って来た。帰って来た源田大佐は、飛行長・志賀淑雄少佐と次の様に話し合った。

 源田大佐「うちから特攻を出せと言うんだ」。

 志賀少佐「はあ、わかりました」。

 源田大佐「どうする」。

 志賀少佐「参謀は誰が言いましたか」。

 源田大佐「………」。

 志賀少佐「いいですよ、私が先にゆきましょう。あとは毎回、兵学校出身者を指揮官にしてください。鷲淵(孝大尉)、菅野(直大尉)、みんなゆきます。兵学校全部ゆきます。そのかわり、私が最初にゆくときに、後ろの席に、その参謀を乗せてゆきましょう。敵の艦は沈めます。司令、最後にあなたゆきますね、紫電改で。どうぞ、やりましょう」。

 この志賀少佐の言葉を聞いて、源田大佐はひと言も無く、黙していた。その後、三四三空の特攻は、沙汰止みとなった。

 三四三空には、元気者の暴れん坊が揃っていて、外出先でしばしばトラブルを起こすことがあった。ある日、外出した下士官の隊員が、こともあろうに、陸軍の憲兵と喧嘩して殴り倒してしまった。

 当然ながら大問題となり、呉鎮守府から参謀がやって来て、「軍法会議にまわすから、犯人を引き渡せ」と申し入れて来たが、司令・源田実大佐は次のように言って、きっぱりと断った。

 「今、九州の制空権は、どこの航空隊が握っているか知っているか。言うまでもなく我が三四三空だ。その航空隊の搭乗員を軍法会議に連れて行ったら、あと九州の空は誰が守るのだ。どうしても引き渡せと言うなら、戦死して骨になったら、渡そう。帰り給え」。

 この源田大佐の、小気味のいいタンカに、呉鎮守府の参謀は仕方なく帰っていった。

 これは騒動の当事者の一人である、戦闘四〇一飛行隊の小高登貫上飛曹が、指揮所の陰から見聞した顛末だった。







576.源田実海軍大佐(36)この漫画によって、「紫電改」とともに、源田実の名もクローズアップされた

2017年04月07日 | 源田実海軍大佐
 この通信システムの整備により、地上からの指揮誘導がスムーズになったほか、敵機の機上交信を傍受して在空の味方戦闘機に知らせることができるようになった。

 海軍だけに限らないが、ノイズがひどくてあまり活用されていなかった機上電話の改善にも力を入れ、苦心の末に完成した通信網と地上指揮機構を充分に活かせるようにした。

 こうしてせっかく作り上げた立派な通信システムであったが、有効に機能したのは松山基地の時だけであって、作戦の都合で部隊が鹿屋、大村と移動することによって活用されなくなった。

 また、機材と搭乗員の補充が消耗に追いつかないこともあって、その後は戦力の減退と共に、三月十九日のような大戦果が挙げられなくなった。

 「海軍航空隊始末記」(源田実・文春文庫)によると、著者の源田実は、終戦間近の部隊の状況について、次の様に記している。

 「このころは飛行機の数も少なく、熟練搭乗員の数もずいぶん減っていたが、士気については一分の衰えも見せなかった」。

 新鋭戦闘機「紫電改」で編成された三四三空の活躍は、ゼロ戦が往年の耀きを失ってしまった日本海軍戦闘機隊の中にあって、ひときわ目立ち、「日本海軍に強力な新鋭戦闘機隊が現れた」として、一時は強烈な印象を敵に与えた。

 ちなみに「紫電改」は戦闘機「紫電」の二一型以降の名称である。局地戦闘機「紫電」は、水上戦闘機「強風」を陸上戦闘機化したもので、「紫電改」は従来の「紫電」を低翼に再設計したものであり、自動空戦フラップと層流翼が特徴だった。

 「週刊少年マガジン」に昭和三十八年七月から昭和四十年一月まで連載され、その後新書や文庫による単行本も出版された、「紫電改の鷹」は三四三空を題材にした空戦記漫画である。

 著者のちばてつやの戦争に対する思いが現れており、当時の戦記漫画とは一線を画した異色の作品になっており、人気を呼んだ。

 また、紫電改は日本海軍航空隊の有終の美を飾った名機であり、「剣部隊」(第二次三四三海軍航空隊)はエースパイロットを集めた精鋭部隊であると、子供を中心に当時の人々に認識させるのに一役買った。

 作者のちばてつやは「この作品は失敗作だと思っている。話が地味で悲惨であり、主人公もくそ真面目だから」と述べている。だが、この作品は、近年まで版を重ねて出版され続けている。

 この「紫電改の鷹」の中に搭乗する「源田司令」は、まさに源田実そのもので、この漫画によって、「紫電改」とともに、源田実の名もクローズアップされた。

 漫画は「紫電改の鷹」のほかに、ビッグコミックオリジナル(小学館・昭和五十一年九月一日号)に掲載された「紫電」(松本零士作)、「紫電改のマキ」(野上武志・秋田書店)などがある。

 漫画だけでなく、ほぼ同じ時期に封切された映画「太平洋の翼」にも三船敏郎扮する「千田大佐」として颯爽とした源田実の姿が描かれている。

 映画「太平洋の翼」は、昭和三十八年一月三日に公開された戦争映画で、配給は東宝。監督は、松林宗恵、円谷英二(特撮)、音楽は團伊玖磨。

 戦争末期、新鋭戦闘機「紫電改」を中心とした第三四三海軍航空隊の戦いと人間模様を、事実に基づいて描いた映画だが、フィクション場面も加えられている。

 出演は、三船敏郎(千田大佐)、加山雄三(滝大尉)、夏木陽介(安宅大尉)、佐藤允(矢野大尉)、星由里子(玉井美也子)、池辺良(三原少佐)、渥美清(丹下一飛曹)、西村晃(稲葉上飛曹)など、往年のトップスターが名を連ねている。

 ちなみに、現在、「紫電改」を題材にした書籍は多数発行されているが、主なものは次の通り。

 作家の碇義朗(大正十四年十二月二十一日~平成二十四年十月十六日)が紫電改についての著書が多い。「最後の戦闘機 紫電改―起死回生に賭けた男たちの戦い」「紫電改の六機―若き撃墜王と列機の生涯」(碇義朗・光人社NF文庫)、「紫電改入門―最強戦闘機徹底研究」(碇義朗・光人社NF文庫)、「最後の撃墜王―紫電改戦闘機隊長菅野直の生涯(碇義朗・光人社NF文庫)などがある。

 その他の作家では、「帰って来た紫電改―紫電改戦闘機物語」(宮崎勇・光人社NF文庫)、「『源田の剣』改訂増補版・米軍が見た『紫電改』戦闘機隊全記録」(高木晃治・ヘンリー堺田・双葉社)などがある。






575.源田実海軍大佐(35)、乾坤一擲をねらった「あ」号作戦も、惨澹(さんたん)たる敗北に終わった

2017年03月31日 | 源田実海軍大佐
 源田中佐が研究していたのは、約一年がかりで、一六〇〇機を擁する強い基地航空部隊(第一航空艦隊)を作り上げ、これによって戦局を一気にひっくり返そうというものだった。だが、敵の方がそれまで待ってくれなかった。

 しかもマリアナ進攻に先立つ、敵のビアク島攻略作戦にかきまわされて、基地航空部隊は兵力の消耗を余儀なくされ、肝心の敵がマリアナにやって来た時には満足な活動ができず、第一機動艦隊を孤立無援の形で優勢な敵機動部隊の攻撃にさらさせる結果となり、乾坤一擲をねらった「あ」号作戦も、惨澹(さんたん)たる敗北に終わった。

 源田中佐が計画立案した大作戦としては、失敗した「あ」号作戦の前に、「雄」作戦というのがあった。これは機動部隊および約一〇〇〇機の基地航空部隊を動員して、敵艦隊の補給や休養の基地となっていたメジュロ泊地に先制攻撃をかけ、敵機動部隊が出撃する前に撃滅しようという作戦だった。

 これも周到な作戦計画が立案され、昭和十九年三月初めに、源田中佐は作戦課長と共に飛行機でパラオに飛び、連合艦隊司令部と打ち合わせを行ったが、同司令部の同意が得られず、結論が出ないまま帰った。

 それから間もなく、昭和十九年三月三十一日、連合艦隊司令長官・古賀峯一大将以下多数の幕僚がパラオからミンダナオ島のダバオへ飛行艇(二式大艇)二機で移動中、低気圧に遭遇し墜落、古賀大将が殉職した大惨事(海軍乙事件)があり、「雄」作戦は立ち消えになってしまった。

 作戦を立案してその指導はするが、部隊を自ら指揮することのできない幕僚のもどかしさとむなしさを、こうした体験を通じて、源田中佐は、いやというほど味わった。それで後に、源田中佐は実戦部隊である三四三空司令に自ら希望して着任した。

 昭和十九年七月源田実中佐は陸海軍航空技術委員会委員に就任し、八月陸軍参謀本部部員、大本営陸軍参謀も兼務した。十月、源田中佐は大佐に進級した。

 昭和二十年一月十五日、源田実大佐は四国の松山を基地とした第三四三海軍航空隊(紫電改戦闘機隊)の司令兼副長に就任した。

 「海軍航空隊始末記」(源田実・文春文庫)の中で、著者の源田実は第三四三海軍航空隊について、次のように述べている。

 「十九年の末期、私は帷幕(大本営や軍令部)の重責と、もう一つは戦闘機搭乗員出身の参謀という二重の責任の上から、精強な戦闘機隊をつくりあげ、その戦闘を突破口として敵の侵攻を阻止することを考えた。それが三四三空だ」。

 第三四三海軍航空隊の飛行長は、志賀淑雄(しが・よしお)少佐(東京・海兵六二・空母「赤城」分隊長・真珠湾攻撃に空母「赤城」第二制空隊長・空母「隼鷹」飛行隊長・空母「飛鷹」飛行隊長・海軍航空技術廠テストパイロット・少佐・第三四三海軍航空隊飛行長・戦後ノーベル工業入社・同社社長・同社会長・ゼロ戦搭乗員会代表)だった。

 戦後発行された「三四三空隊誌」の中で、当時の第三四三海軍航空隊飛行長だった志賀淑雄氏は、源田実大佐が三四三空司令として着任した様子を、次の様に記している。

 「源田司令は准士官以上の出迎えを受けて着任された。黙々と報告を受け、言葉少なく語られて余談なし。要の固い扇のごとく空気にわかに引き締まる。夕食後の一刻、士官室で隊長たちと語られる笑顔は慈父のようであった」。

 源田大佐は三四三空を「剣部隊」と命名した。剣部隊の初陣は昭和二十年三月十九日の松山上空の邀撃戦だった。

 この日、満を持した源田大佐の水際立った作戦指揮により、剣部隊は目覚ましい戦果を上げ、後に連合艦隊司令長官から次のような感状が授与された。

 「昭和二十年三月十九日、敵機動部隊艦上機の主力をもって(瀬戸)内海西部方面に来襲するや松山基地に邀撃、機略に富む戦闘指導と尖鋭果敢なる戦闘実施とにより忽ちにして敵機六十余機を撃墜し、全軍の士気を昂揚せるはその功績顕著なり。よってここに感状を授与す。 昭和二十年三月二十四日  連合艦隊司令長官 豊田副武」。

 この感状中で「機略に富む戦闘指導」とあるのは、明らかに源田大佐自身に与えられた賛辞である。

 三月十九日に大きな戦果が上がったのは、源田大佐が部隊の本拠である四国の松山基地を中心に作り上げた警戒情報網と、すぐれた地上指揮機構が大きな要因だった。

 これは有能な通信要員のほか、通信機材が揃っていたせいで、大本営参謀時代の人脈をフルに活かして航空隊レベルを超えた機材調達がものをいった。





574.源田実海軍大佐(34)たとえ正しくとも俺の気にくわねえ奴の言うことなど、絶対にきくもんか

2017年03月24日 | 源田実海軍大佐
 大井篤大佐は、軍令部次長・伊藤整一(いとう・せいいち)中将(福岡・海兵三九・十五番・海大二一・次席・巡洋戦艦「榛名」艦長・第二艦隊参謀長・少将・海軍省人事局長・第八戦隊司令官・連合艦隊参謀長・軍令部次長・中将・兼海軍大学校校長・兼軍令部第一部長・兼大本営海軍通信部部長・第二艦隊司令長官・戦艦「大和」で戦死・大将・功一級)からこの会議に出席するように言われた。

 当時、軍令部第一部第一課部員(航空作戦主務)だった源田実中佐も出席していた。ある幹部が源田中佐に問いかけた。「マリアナに来やせんかね」。

 すると、源田中佐は極めて強い口調で、「いや、絶対にカロリンです」と断定した。嶋田軍令部総長以下、誰もが黙った。

 「マリアナに来たら、どうなるんだ」と、作戦関係の部員が、質した。「いや、そんなことは航空の分らん人が言うことです」と源田中佐は決めつけるように言った。

 こうして、軍令部の予想は、西カロリン諸島付近となった。大井篤大佐は、源田中佐の自信の強さに驚いた。

 昭和十九年一月、柴田武雄中佐は、ラバウルの第二〇四航空隊司令として、ソロモン航空戦を戦い、毎日のように来襲する敵の戦爆連合の大編隊に対し、攻撃を行っていた。

 「源田実論」(柴田武雄・思兼書房)によると、当時、連合艦隊航空参謀・内藤雄(ないとう・たけし)中佐(山形・海兵五二・六番・海大三六・海軍爆撃術の権威・ドイツ出張・中佐・南遣艦隊参謀・南西方面艦隊参謀・第三艦隊航空甲参謀・連合艦隊航空甲参謀・海軍乙事件で殉職・大佐)がラバウルにやって来た。

 内藤中佐は、南東方面艦隊司令部(司令長官・草鹿任一中将)に打ち合わせに来たのだが、その時、官邸山の上にあった、柴田中佐の宿舎を訪れた。内藤中佐は、柴田中佐と海軍兵学校の同期生だった。

 内藤中佐は、開口一番、「源田が、柴田の言うことは全部間違っている。たとえ正しくとも俺の気にくわねえ奴の言うことなど、絶対にきくもんか、と言っていたよ」と柴田中佐に知らせてくれた。

 それを聞いて、「源田はそんな気持ちで重大な航空作戦を指導しているのか」と、柴田中佐の公憤は、その極に達した感があった。

 昭和十九年、六月半ばの「あ」号作戦は、軍令部第一部第一課航空作戦主務・源田実中佐が関わった最大の作戦だった。

 「鷹が征く」(碇義朗・光人社)によると、この作戦は、中部太平洋方面と予想される敵の攻勢に対し、空母を中心とした新編の第一機動艦隊と、陸上基地航空隊群で編成された第一航空艦隊の両方で応戦し、一気に勝敗を決しようというもので、詳細な作戦計画が練りあげられていた。

 昭和十九年五月三日には「大海指第三七三号」として発令された。作戦の詳細について、作戦参加部隊に対する説明および研究会が開催された。

 トラック基地にいた二五一空にも呼び出しがかかって、司令・柴田武雄中佐も出席することになったが、当初、柴田中佐は「そんな会議なんか出る必要はない」と言って出席を渋った。

 軍令部からは、源田中佐のほか、ハワイ真珠湾攻撃の際の空中攻撃隊総指揮官だった淵田美津雄中佐も参謀として来ていた。

 源田中佐、淵田中佐、柴田中佐は海軍兵学校五二期の同期生だったが、柴田中佐は、同期ではあるが、源田中佐と淵田中佐のこれまでのやり方を信頼していなかったのだ。

 柴田中佐は、しぶしぶ出席したが、厚さ三センチにも及ぶガリ版刷りの作戦計画書を見てうんざりした。

 これを読むだけでも大変だが、その精緻な内容は作文としては立派であっても、今の海軍航空隊の実力からしてその筋書き通りに進まないことは、去る二月のトラック大空襲の際のみじめな現実が何よりそれを証明していた。

 <あんな机上の空論を、得々と並べ立ててなんになる>。作戦計画について熱弁を振う淵田中佐や源田中佐に対して、柴田中佐は腹立たしさを通り越して、空しさすら覚えていた。

 確かにこの作戦計画そのものは立派だった。「我が決戦兵力の大部を結集して敵の主反攻正面に備え、一挙に敵艦隊を覆滅(ふくめつ)して敵の反攻企図を挫折せしむ……」に始まる詳細な内容は、もしこちらの思惑通りにことが運べば、大勝利間違いなしと思わせるものがあったし、そのために源田中佐としても精一杯の手は打っていた。

573.源田実海軍大佐(33)源田一人の考えを定説のごとく断定して教えるのはよくない。取り消せ

2017年03月17日 | 源田実海軍大佐
 これに対し、アメリカ軍の戦闘参加者(陸軍・海兵隊)約六〇〇〇〇人のうち、戦死者は約一六〇〇人、戦傷者は約四二〇〇人だった。

 昭和十七年八月から昭和十八年一月までのガダルカナル島争奪戦における日本海軍航空部隊の損害は、飛行機喪失八九三機、搭乗員戦死二三六二人。

 ソロモン方面航空戦、南太平洋海戦などで失われた多数の航空機搭乗員について、源田実は後に、次の様に述べている。

 「三原元一、檜貝襄二、村田重治などの英傑が、南太平洋の航空消耗戦において、相次いで世を去った。海軍がこれらの人々を失ったことは、その人たちの大きな力を後の戦闘に振るわせることができなかっただけでなく、優秀な後進指導力をも失ったのであって、その損失は測り知れなかった」。

 しかし、なぜこのようになったかについては、源田実は、何も語ってはいない。

 昭和十八年二月十一日、連合艦隊司令部は、トラック島の泊地で、戦艦「大和」から、戦艦「武蔵」に移った。通信装置も一段と充実して、儀装成った新しい、戦艦「武蔵」が連合艦隊の旗艦になり、豪華なオフィス兼ホテルとしての役目を果たすことになった。

 この頃、大鑑巨砲の殿堂、横須賀海軍砲術学校において、大尉級の高等学生たちに対して、軍令部第一課部員・源田実中佐は次のように言った。

 「かの万里の長城、ピラミッド、『大和』、『武蔵』、こんなデカいものをつくり、世界中の物笑いになった。あんなものは、一日も早くスクラップにして、航空母艦にしたほうがよい」。

 あまりなことに、横須賀砲術学校教頭・黛治夫(まゆずみ・はるお)大佐(群馬・海兵四七・海軍砲術学校高等科・海大二八・海軍砲術学校教官・戦艦「大和」副長・第三遣支艦隊参謀・大佐・水上機母艦「秋津洲」艦長・第一一航空艦隊兼第八艦隊参謀・横須賀砲術学校教頭・重巡洋艦「利根」艦長・横須賀鎮守府参謀副長・化学戦部長・終戦・ビハール号事件で戦犯・拘留・戦後極洋捕鯨入社)は源田中佐に次のように言った。

 「君が今話していたことは、日本海軍の定説ではない。源田一人の考えを定説のごとく断定して教えるのはよくない。取り消せ」。

 だが、源田中佐は「取り消しません」と言って、応じなかった。

 昭和十八年四月十八日、前線基地刺殺のため、一式陸攻二機に分乗して飛び立った、連合艦隊司令長官・山本五十六大将と、幕僚は、ブーゲンビル島上空で、アメリカ陸軍航空隊P-38ライトニング戦闘機十六機に襲撃された。

 一式陸攻は二機とも撃墜され、山本五十六大将は戦死した。海軍甲事件である。戦死後、山本五十六大将は、ナチスドイツから剣付柏葉騎士鉄十字章を授与された。この勲章は、外国人では山本大将だけだった。騎士鉄十字章の外国人受章者の中では山本大将が最高位だった。

 四月二十一日、連合艦隊司令長官に古賀峯一(こが・みねいち)大将(佐賀・海兵三四・十四番・海大一五・四番・在フランス駐在武官・ジュネーヴ海軍軍縮会議全権随員・海軍省先任副官・戦艦「伊勢」艦長・少将・軍令部第二班長・第七戦隊司令官・中将・練習艦隊司令官・軍令部次長・第二艦隊司令長官・支那方面艦隊司令長官・大将・横須賀鎮守府司令長官・連合艦隊司令長官・飛行機事故で殉職<海軍乙事件>)が親補された。

 昭和十八年七月一日発足した、第一航空艦隊は、昭和十九年二月十五日、連合艦隊に編入された。

 この第一航空艦隊は、開戦時の第一航空艦隊ではなく、基地を移動しながら作戦を行う、予定総機数一〇〇〇機以上という基地航空部隊だった。サイパン、テニアン、グアム、トラック、パラオ、ヤップ、ダバオ、オーストラリア北方、セレベスの各方面に配備される予定だった。

 この時点で、軍令部が予想する決戦海面は西カロリン諸島南方、一方、連合艦隊が予想する決戦海面の第一が、パラオ島付近、第二が西カロリン諸島付近だった。

 昭和十九年五月、海軍省赤煉瓦ビル三階の軍令部作戦室で、参謀肩章を吊った軍令部総長・嶋田繁太郎(しまだ・しげたろう)大将(東京・海兵三二・二十七番・海大一三・巡洋戦艦「比叡」艦長・少将・第二艦隊参謀長・連合艦隊参謀長・海軍潜水学校長・第三艦隊参謀長・軍令部第三班長・軍令部第一班長・軍令部第一部長・中将・軍令部次長・第二艦隊司令長官・呉鎮守府司令長官・支那方面艦隊司令長官・大将・横須賀鎮守府司令長官・海軍大臣・兼軍令部総長・軍令部総長・終戦・A級戦犯)を前にして部員たちが集まっていた。

 敵がマリアナに来るか、カロリンに来るか、討論する会議のためだった。大井篤(おおい・あつし)大佐(山形・海兵五一・九番・海大三四・三番・第二遣支艦隊作戦参謀・海軍省軍務局調査課・海軍省人事局第一課先任局員・第二一特別根拠地隊参謀・軍令部第一部戦争指導班長・海上護衛隊司令部作戦参謀・大佐・兼連合艦隊参謀・戦後GHQ歴史課嘱託)は当時海上護衛隊司令部参謀だった。


572.源田実海軍大佐(32)人間源田の敗北であり、当然、その実質的第一責任者は源田である

2017年03月10日 | 源田実海軍大佐
 引き続き、山口多聞少将は次のように話している。

 「また、南雲長官に、南雲部隊司令部は誰が握っているのかと質問したところ、長官(南雲)は一言もいいませんね。……南雲部隊司令部はいずれも卑怯者ぞろいだ…」。

 南雲部隊の司令長官たるものが山口司令官の質問に対し、『それはもちろん僕である』とハッキリ答えられないということは、南雲部隊を握っていた者は、少なくとも南雲長官でないということを、無言のうちに立証しているようなものである。

 南雲は源田の言い成りになっていた、という事実は、衆目の一致するところである。南雲は、源田の考えを、南雲長官の意見または命令として発表・発信する、ロボットの如き存在に過ぎなかった、と言うこともできる。

 南雲部隊司令部を実際に握っていたのは源田であり、そして、ミッドウェー海航空戦は、諸資料、諸研究によって裏付けられるとおり、人間源田の敗北であり、当然、その実質的第一責任者は源田である。

 以上が、柴田武雄の「源田実論」よりの要旨抜粋である。

 一方、月刊誌「丸」(昭和三十三年・新春二月特大号)所収「源田空将縦横談」の中の「ミッドウェーの二つの敗因」で、源田実は次のように述べている。

 「僕が二つの失敗をやった。一つは、あのとき四隻しか母艦がいないでしょう。真珠湾は六隻でやったが、第五航空戦隊というのが、珊瑚海の戦で一隻傷ついて、間に合わなかった」

 「しかも、どうしてもあの時期にミッドウェーをやるというので、第五航空戦隊は残して行った。これが、もともと時期的に無理であって、こちらが十分整えたところで行くべきなんで、急ぐべきもんではなかった」。

 これに対して、柴田武雄は次のように反論している。

 「源田が言っていることを結論すれば、『時期的に無理であり、十分整えてから行くべきであった』ということになるが、こちらは正式空母四隻でも敵空母三隻よりは優勢であり、ミッドウェーの敵陸上機を加味して考えても、こちらにはなお空母鵬翔ほか北方部隊の空母二隻がおり、更に零戦および搭乗員の優秀性を考慮するときは、実質的総合的にはこちらが優勢であるので、航空戦の計画指導実施に誤りさえなかったならば、勝っていたはずである」。

 ミッドウェー海戦後の、六月二十七日、瀬戸内の岩国沖の柱島泊地に碇泊中の戦艦大和に嶋田繁太郎海軍大臣がやって来た。

 連合艦隊の宇垣纒参謀長は嶋田海相に挨拶を行い、ミッドウェー海戦について、「この前は、いろいろまずいことをやりまして、申し訳ありません。ご心配をおかけして申し訳ないと思っています」と神妙なおももちで、嶋田海相に頭を下げた。

 すると、嶋田海相は、「いやいや、なんでもない」と、愛想よく答えたと言われている。「ミッドウェー海戦で空母四隻を失った帝国海軍の海軍大臣はなんと楽観的であることか」と感じた軍人も多数いたそうである。

 ミッドウェー海戦後、山本五十六大将の連合艦隊司令部も異動はなく、そのままの陣容だった。南雲忠一司令長官、草鹿龍之介参謀長、源田実甲航空参謀ら機動部隊首脳も、敗戦の責任は問われなかった。

 南雲中将は第三艦隊司令長官、草鹿少将は参謀長に就任した。さすがに、参謀らは異動になり、源田中佐も、参謀をはずされ、第三艦隊の第一航空戦隊旗艦、空母「翔鶴」の飛行長に任命された。

 昭和十七年十月八日、山本五十六司令長官の意向で、源田実中佐は、臨時第一一航空艦隊参謀として、ラバウルに赴任した。ガダルカナル島攻防戦の作戦指導を行ったが、マラリヤになり、入院した。

 十一月中旬、源田中佐は、中央の航空作戦主務になるために、ラバウルから内地に帰された。軍令部第一課長・富岡定俊大佐から静養を勧められ、源田中佐は九州の別府温泉で十日間、身体の回復を図った。

 その後、十二月十日、中央に呼び帰され、軍令部第一部作戦課航空部員(大本営海軍航空主務参謀)に就任、陸軍と共にガダルカナル島撤退作戦の研究を行った。

 昭和十八年二月上旬、ガダルカナル奪還の成算を失った日本陸軍は、ガダルカナル島から撤退した。ガダルカナル島での戦没者は、陸軍が約二八〇〇〇人、海軍が約三八〇〇人である。そのうち約一五〇〇〇人が病死だが、飢餓からの病死がほとんどだった。





571.源田実海軍大佐(31)士官室のあちこちから「ザマー・ミヤガレ」という罵声が起こった

2017年03月03日 | 源田実海軍大佐
 「しかし真珠湾からラバウル、インド洋に至る一連の成功から、『今度も成功するだろう。真珠湾やセイロン攻撃だって不安はあったのだ』という自己満足的なものがあって、不安に対して徹底的な『メス』を入れなかった。『臆病者』と罵られても、さらに深い検討を加え、必要な意見具申もすべきであった」。

 戦後に記された源田のこの説明は、詭弁と言えるかもしれない。なぜなら、それほど東正面が不安だったら、実際の場面で索敵機数を増やし、厳重な索敵を実施したはずである。だが、実際には、機数も増やさず、気休め程度の索敵をやらせていた。

 昭和十七年六月五日から七日まで、ミッドウェー島を巡る日本とアメリカ、両海軍の海戦、ミッドウェー海戦は日本海軍の惨敗に終わった。

 「決定版・太平洋戦争『第二段作戦』連合艦隊の錯誤と驕り」(学習研究社)によると、日本海軍は、海戦前に保有していた六隻の正規空母のうちの四隻(「赤城」「加賀」「蒼龍」「飛龍」)と多数の飛行機及び熟練の搭乗員を、ミッドウェー海戦で失った。

 だが、六月十日午後三時三十分、大本営海軍報道部がミッドウェー海戦の戦果を次のように発表した。

 「米航空母艦エンタープライズ型一隻およびホーネット型一隻撃沈。彼我上空において撃墜せる飛行機約一二〇機。重要軍事施設爆破」

 「わが方の損害。航空母艦一隻喪失、同一隻大破、巡洋艦一隻大破。未帰還飛行機三十五機」。

 以上が大本営発表の数字だが、実際のアメリカ海軍の損害は、航空母艦「ヨークタウン」大破(後に、伊号「六十八潜」が撃沈)。駆逐艦「ハンマン」沈没。航空機喪失一〇〇機未満。戦死者は、航空機搭乗員二〇八人を含む三六二人。

 また、日本海軍の実際の損害は、航空母艦「赤城」「加賀」「蒼龍」「飛龍」の四隻沈没。重巡洋艦「三隈」沈没。駆逐艦「荒潮」大破。重巡洋艦「最上」中破。航空機喪失二八九機。戦死者は、航空機搭乗員一一〇人を含む三〇五七人。

 ミッドウェー海戦における日本海軍の敗因には、様々な複合要因がある。戦術的には、各空母のミッドウェー基地攻撃隊の収容、二度の兵装転換などによる攻撃隊発進の遅れなどがある。

 だが、それら戦術的要因以前の問題として、日本海軍の慢心から来るアメリカ軍への過小評価があった。真珠湾攻撃をはじめとする緒戦時における連合艦隊の大勝利で、連合艦隊は敵の戦力を過小評価していた。

 連合艦隊司令長官・山本五十六大将自身が、ミッドウェーに向けての出撃では、大名行列のごときお祭り気分で、「戦艦の行列を揃えて、示威運動を行い、敵出てきたらば軽く捻る考えにて」出撃したという。

 「源田実論」(柴田武雄・思兼書房)によると、ミッドウェー海戦当時、柴田武雄中佐は、第三航空隊副長兼飛行長として、セレベス島のケンダリー基地にいた。

 ミッドウェー海戦で、空母「赤城」「加賀」「蒼龍」が次々にやられていくことが、第三航空隊士官室にいた柴田中佐らに、電信室で傍受した電報によって、知らされていた。

 士官室のあちこちから「ザマー・ミヤガレ」という罵声が起こった。だが、この罵声は、決して、苦境に陥っている南雲艦隊全員に対するものではなく、南雲艦隊の航空甲参謀・源田実中佐ひとりだけに対するものであることは、お互い以心伝心的にわかっていた。

 なぜなら、源田中佐が真珠湾から帰ってから、あちこちで、「真珠湾はオレがやったんだ。お前らぐずぐずしていると、オレがみんなやってしまうぞ」と公言しまわっていた。

 その、人を馬鹿にした驕慢不遜な態度・暴言に、南方作戦において連戦連勝の大戦果を上げていた、柴田中佐たちは、はらわたが煮えかえるほど憤慨していたからだ。

 しかし、やがて、時間の経過とともに、大乗的なわれに帰り、「これは大変なことになった。せめて飛龍だけでも助かってくれ」と、みな、心の中で祈っていた。

 以上が、柴田の回想だが、真珠湾攻撃およびそれ以後について、第二航空戦隊司令官・山口多聞少将(海兵四〇・次席・海大二四・次席)が、連合艦隊参謀長・宇垣纒少将(海兵四〇・九番・海大二二)に答えた話として次のようなものがある。

 「好機を捉えて戦果の拡大を計り、あるいは状況の変化に即応して臨機適切な処置をするなどは、南雲部隊では一回もやっていない」