陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

414.板倉光馬海軍少佐(14)誰が何と言おうと酒を出してはならぬ。甲板士官に厳命されたと言え

2014年02月27日 | 板倉光馬海軍少佐
 そこにいた、佐々木半九(ささき・はんきゅう)中佐(広島・海兵四五・潜水学校教官・水上機母艦「神威」副長・練習艦「八雲」副長・第二一潜水隊司令・大佐・第一二潜水隊司令・潜水学校教頭・少将・第六艦隊参謀長・呉鎮守府付)が板倉中尉に次のように言った・

 「第二艦隊は宿毛湾で待機するよう、命ぜられている。練習艦がまもなく出港して、訓練を実施する予定だ。湾口まででよかったら便乗させてやろう。あとは漁船を雇って帰艦すればいいだろう」。

 地獄で仏とはこのことであった。湾口までということだったが、わざわざ湾内に描泊している「長鯨」の近くに接近し、内火艇を呼んでくれた。それで、板倉中尉は無事帰艦することができた。

 昭和十二年十二月一日、板倉中尉は空母「加賀」乗組みを命ぜられた。板倉中尉は通常礼装に威儀を正して、第十二潜水隊司令・石崎昇大佐のもとに挨拶に行った。

 さすがの石崎大佐もこのときばかりはご機嫌で、ニコニコしながら「わしはずいぶん若い者を殴って鍛えたが、貴様ぐらい強情なやつは初めてだ。どうだ、潜水艦が嫌いになっただろう」と言った。

 「どういたしまして。私は考課表の第一志望、第二志望ともに潜水艦です。失礼ですが、司令のような方がおられては、潜水艦に人は集まりません。私は……」と、板倉中尉が言い終わらないうちに、とてつもない大きな雷が落ちてきた。

 潜水艦勤務から、空母「加賀」に移ったとき、板倉中尉はあまりの巨大さにとまどった。文字通り、浮かべる黒がねの城だった。

 ケップガンとして、艦の士気を鼓舞し、軍紀、風紀を取り締まる甲板士官としての職務は、板倉中尉にとって、男冥利につきるのがあった。

 ところが、日支事変のさ中だというのに、「加賀」の軍紀は地をはらい、風紀は乱れて、まことに寒心に耐えないものがあった。上陸員の帰艦時刻に遅れる者はざらで、逃亡や自殺する者が後をたたなかった。

 板倉中尉が着任した翌朝のことであった。飛行甲板に、糞塊が鎮座していた。明らかに、新任甲板士官に対する面当てであり、挑戦とみて、板倉中尉は徹底的に調べたが、犯人は分らなかった。

 横須賀在泊中のある日、午前の日課手入れ作業が終わったので、副長に報告するため士官室に入ったところ、副長はじめ、機関長や主計長など中佐クラスが、公室で酒を飲んでいた。

 しかも、あろうことか、若い芸妓に酌をさせていた。料亭“魚勝”の女将が副長の横にはべっていた。恐らく、士官室の宴会を頼みに来たのだろうと思われた。

 ゆらい、航空母艦と潜水艦は一般の参観は禁じられていた。機密保持のためであるが、危険でもあったし、空母のように倉庫や小部屋の多い艦内は、風紀上の問題があったからである。したがって、面会人に限り、舷門付近は許されていた。

 それなのに、昼のひなかから芸妓を相手に酒を飲むとは――沙汰の限りであり、怒り心頭に発したが、相手が上官では、板倉中尉が面と向かって詰問することもできなかった。

 だからといって、板倉中尉はこのまま見過ごす訳にはいかなかった。食器室に飛び込んで、従兵長に「誰が何と言おうと酒を出してはならぬ。甲板士官に厳命されたと言え」と板倉中尉が怒鳴りつけたので、当然、士官室の連中には聞こえたはずである。

 それから板倉中尉は舷門に行き、副直将校に、「魚勝の女将が帰るときは、本艦の定期便に乗せてはならぬ。サンパンを呼んで帰らせろ。もし文句を言う者がいたらすぐ電話しろ、俺が談判する」と言った。かたわらに当直将校がいたが、見て見ぬふりをしていた。

 甲板士官には、副直将校に命令したり、指示する権限はなかった。だが、板倉中尉はケップガンであり、ガンルーム士官を指導する義務があった。また、甲板士官には艦の軍紀・風紀を取り締まる責任があった。

 その日は、雨まじりの時化模様だったので、沖がかりの「加賀」に来るサンパンはなかった。当直を終わった副直将校が、ガンルームに帰って来るなり、「女将たちを乗せなかったのは当直将校ですよ。あの連中、いまも舷門のところでふるえています」と言った。

 衣装を大切にする芸妓たちが、濡れねずみになって、サンパンで帰ったのは、日没後だった。恐らく、士官室の誰かが上陸して手配したのだろう。

413.板倉光馬海軍少佐(13)板倉中尉「打ちません」、石崎司令「なぜ打たんかッ」

2014年02月20日 | 板倉光馬海軍少佐
 「司令、降ります。かならず雨になります」と板倉中尉が言った途端、ポカッ! ポカッ!と、連続ダブルパンチをくらった。

 苦労人の先任将校(水雷長)・日下敏夫(くさか・としお)大尉(徳島・海兵五三・少佐・伊一二一艦長・呂六三艦長・伊一七四艦長・伊一八〇艦長・伊二六艦長・中佐・伊四〇〇艦長)が、「鉄砲、あまり向きになるな。泣く子と地頭には勝てんというではないか」と、慰めてくれたが、板倉中尉の腹の虫は容易におさまらなかった。

 第二潜水戦隊が、東シナ海で昼間襲撃の演習をして、旅順港外に入泊したときのことである。単独行動の多い潜水艦は、入港と同時に、旗艦あてに着電を打つことになっていた。

 何事によらず、遅れをとったり、負けることの嫌いな石崎司令は、投錨と同時に「通信長、着電を打ったか?」と言った。

 板倉中尉「打ちません」、石崎司令「なぜ打たんかッ」。危険信号だった。

 しかし、戦務は守らなければならない。「旗艦が視界内にいるときは、無線は使用できません。発行信号で報告します」と板倉中尉は答えた。

 これ位の事を知らない石崎司令ではなかったが、いまだかつて、部下―それも、嘴の黄色い中尉ふぜいから言葉を返されたことはなかった。

 「打てといったら、打てッ!」。怒り心頭に達した石崎司令の大喝が、頭のてっぺんから落ちてきた。だが、板倉中尉は、あえて屈することなく「司令、視界内で着電を発信したら、問題になりますよ」と言った。

 言い終わらぬうちに、石崎司令のげんこつが、ポカッ!ときて、板倉中尉の帽子が吹っ飛んで海中に落ちた。

 ふだんから戦務にうるさい栢原艦長までが、おろおろしながら、「通信長、司令が言われるとおりに、着電を発信するんだ……」と言った。

 かくして、無線封止は破られた。上官の意地が、面子が、重大な戦務を無視したのだ。平時だから、といってすまされない、と板倉中尉は思った。

 その翌日、旗艦の「長鯨」で、演習に関する研究会が開催された。その席で通信参謀が、「昨日、視界内にもかかわらず着電を打ってきた潜水艦がある。本行動中、電波の輻射は厳に禁じられている。特に、艦の行動に関する場合は、全て視覚通信を使用するよう指導されたい」と指摘した。

 あたかも、若い通信長の落ち度であるかのような発言だったが、苦虫を噛み潰したような石崎司令の横顔を見て、板倉中尉の胸の溜飲がいっぺんに下がった。

 昭和十二年七月の暑い盛り、板倉中尉は赤痢の疑いで志布志の東郷病院に入院させられた。骨休みも悪くないと思っていたが、絶食がつらかった。

 入院して間もなく、七月七日、地元の国防婦人会が数名見舞いに来て、盧溝橋事件が伝えられた。さあ、一大事、入院どころではないと、板倉中尉は思った。

 だが、老院長は頑として退院させてくれなかった。所定の潜伏期間が過ぎるまで駄目だといって、耳を貸さなかった。何しろ、赤痢は法定伝染病だった。

 そこで一計を案じた。夕闇にまぎれて板倉中尉は病室を抜け出し、裏通りの飲み屋でビールを飲み始めた。六本あけたところで、女将から勘定を請求された。

 一見の客であり、病衣ときては当然だった。板倉中尉は「金は東郷病院にあずけている。院長に電話して、すぐ持ってくるように伝えろ」と女将に言った。

 案の定、カンカンに怒った院長が、「すぐ退院してもらいます。あなたのような患者をあずかることはできない」と言った。

 院長を怒らせて退院することができたが、板倉中尉は艦隊の所在が分からなかった。鎮守府に電話しても、身分の証明ができないため相手にされなかった。

 いろいろ考えたすえ、おそらく艦隊は燃料を補給するだろうと思い、板倉中尉は陸路、徳山に直行することにした。

 だが、徳山に着いたとき、一足遅れで、艦隊は徳山をあとにしていた。行き先も不明だった。途方に暮れて燃料廠を訪ねた。

412.板倉光馬海軍少佐(12)司令に呼ばれたら三歩前で止まれ、それ以上近寄ると危ない

2014年02月13日 | 板倉光馬海軍少佐
 昭和十一年十二月一日、板倉少尉は海軍中尉に進級し、伊号第六十八潜水艦(イ六八潜)に通信長として乗り組みを命じられた。

 イ六八潜は海大六型の一番艦で、常備排水量一七八〇トン、発射管六門(艦首四、艦尾二)を装備し、水上速力二三・五ノットは、当時、世界のレベルを超えるものだった。

 イ六八潜の艦長は栢原保親(かしわばら・やすちか)少佐(愛媛・海兵四九・イ二四潜艦長・イ六八潜艦長・イ七二潜艦長・中佐・潜水学校教官・イ一〇潜艦長・第十九潜水隊司令・イ一五九潜艦長・大佐・第十九潜水隊司令・第二十二潜水隊司令・戦死・少将)だった。

 板倉中尉がイ六八潜に乗組んだ昭和十一年十二月一日当時、イ六八潜は第十二潜水隊に属していた。当時の第二潜水戦隊の編成は次の通り。

 第二潜水戦隊は、母艦「迅鯨」、第十二潜水隊(イ六八・イ六九・イ七〇)、第二十九潜水隊(イ六一・イ六二・イ六四)、第三十潜水隊(イ六五・イ六六・イ六七)で編成されていた。各指揮官は次の通り。

 第二潜水戦隊司令官は、大和田芳之助(おおわだ・よしのすけ)少将(茨城・海兵三五・第四二潜艦長・潜水学校教官・中佐・第四潜水司令・潜水学校教官・第十八潜水隊司令・大佐・潜水母艦「長鯨」艦長・巡洋艦「那智」艦長・呉防備隊司令・少将・第二潜水戦隊司令官・横須賀防戦司令官・予備役)。

 母艦「迅鯨」の艦長は、岡敬純(おか・たかずみ)大佐(大阪・海兵三九・海大二一首席・ジュネーヴ会議全権随員・大佐・潜水母艦「迅鯨」艦長・軍務局第一課長・軍令部第三部長・少将・軍務局長・中将・海軍次官・鎮海警備府司令長官)。

 板倉中尉の所属する、第十二潜水隊司令は、石崎昇(いしざき・のぼる)大佐(東京・海兵四二・イ五六潜艦長・イ五三潜艦長・中佐・イ三潜艦長・第二十七潜水隊司令・米国出張・大佐・第十二潜水隊司令・給油艦「石廊」艦長・潜水学校教頭・第一潜水隊司令・戦艦「日向」艦長・第八潜水戦隊司令官・少将・第十一潜水戦隊司令官・第二十二戦隊司令官)。

 第二十九潜水隊司令は、原田覚(はらだ・かく)中佐(福島・海兵四一・ロ二六潜艦長・ロ一八潜艦長・イ二四潜艦長・イ三潜艦長・中佐・第六潜水隊司令・第二十九潜水隊司令・大佐・潜水母艦「大鯨」艦長・空母「鳳翔」艦長・少将・第七潜水戦隊司令官・横須賀防戦司令官・第三十三特別根拠地隊司令官・戦病死・中将)。

 第三十潜水隊司令は、伊藤尉太郎(いとう・じょうたろう)大佐(広島・海兵四二・ロ六三潜艦長・イ五七潜艦長・イ六三潜艦長・中佐・潜水学校教官・巡洋艦「磐手」副長・第二十八潜水隊司令・大佐・潜水母艦「剣崎」艦長・潜水学校教頭・呉潜水基地隊司令・水上機母艦「日進」艦長・戦死・少将)。

 イ六八潜座乗の第十二潜水隊司令・石崎昇大佐は、サムライだった。板倉中尉は着任早々、先輩から「司令に呼ばれたら三歩前で止まれ、それ以上近寄ると危ない」と注意されていた。

 日ならずして、通信長である板倉中尉は、司令の雷名を、身をもって知らされた。佐伯湾在泊中のことだった。

 作業地では、司令官や艦長は、投錨すると母艦にゆき、出港間際に帰艦する慣わしになっていた。たまたま、板倉中尉が航海長と当直を交替した直後だった。

 赤旗をかざした内火艇が近づいてきた。赤旗は司令乗艇の合図である。板倉中尉は急いで舷梯に出迎えた。

 石崎司令は、甲板に上がるやいなや、差し出した信号綴りをひったくるようにして目を通していたが、唇がわなわなと震えていた。

 雷が落ちる前兆だった。いやな予感が板倉中尉のみぞおちあたりを走った。その直後、石崎司令はかみつくように「天気図を持ってこいッ!」と怒鳴った。

 板倉中尉が急いで取り寄せると、一目見るなり、石崎司令は天気図をくるくると棒のようにまいて、ポカッ!と板倉中尉の横面を、いやというほどひっぱたいた。

 「馬鹿者ッ! どこに雨が降っているか!」。殴られた原因が、天気予報であったことに、板倉中尉は腹が立った。

 当時の天気予報は、当たるのが不思議なくらいで、はずれて当たり前だった。だが、気圧配置や前線の移動から判断して、天気がくずれるのは明らかだった。

411.板倉光馬海軍少佐(11)三人の将星の前で級友たちは借りてきた猫のようにかしこまっていた

2014年02月06日 | 板倉光馬海軍少佐
 そのとき、奥まった数奇屋造りの離れから、にぎやかな嬌声が聞こえた。おそらく偉方とは思ったが、板倉少尉は当たって砕けろとばかり、ガラリと襖を開けた。

 その途端、「何者だッ!」と、いきなり怒鳴りつけられた。板倉少尉は今更逃げ出すわけにもゆかず、腹をすえて部屋に入ると、ごつい顔をした、いが栗頭が睨み付けていた。
 
見たことのある顔だったが、板倉少尉は思い出せなかった。「『青葉』の航海士、板倉少尉であります」と言うと、「何しに来たッ!」と、いが栗頭。

 その怒声で板倉少尉は思い出した。戦艦「山城」(三九一五〇トン)の艦橋で参謀長を叱した、南雲忠一(なぐも・ちゅういち)少将(山形・海兵三六・海大一八・軍令部一部二課長・戦艦「山城」艦長・少将・第一水雷戦隊司令官・水雷学校長。第三戦隊司令官・中将・海軍大学校長・第一航空艦隊司令長官・第三艦隊司令長官・呉鎮守府司令長官・第一艦隊司令長官・中部太平洋方面艦隊司令長官・戦死・大将・功一級)だった。

 板倉少尉が「クラス会にエスがおりませんので、暫時、拝借したいなと思いまして、参上いたしました」と言うと、南雲少将は「クラス会だと……何人だ」と言った。

 板倉少尉が「九名であります」と答えると、南雲少将はとたんに表情をやわらげて、「ところで、俺はなんだと思うか?」と訊いた。

 板倉少尉は、南雲少将が戦艦「山城」艦長から、第一水雷戦隊司令官に栄転したことを、官報で知っていたので、「一水戦の司令官とお見受けします」と答えた。

 すると、南雲少将は「ウン、よく当てた。俺のとなりは……」とさらに訊ねた。おっとりとした、恰幅のよい大人がニヤニヤしていた。

 真ん中にいるので一番先任であろうと、板倉少尉は思ったが、若ぶりの童顔だったので、「旗艦の艦長ではありませんか……」と答えた。

 「貴様はなかなか眼が高い。その次は」と南雲少将。頭髪をのばし、白(はくせき)の細面に眼鏡がよく似合う。どことなく気品があり、物腰がおだやかだったので、板倉少尉は「先任参謀と思います」と答えた。

 その途端に、三人が吹き出した。エスまでが袂を口に当てて、笑いをこらえていた。

 
 破顔哄笑のあと、おっとりした大人が、連合艦隊の参謀長・野村直邦(のむら・なおくに)少将(鹿児島・海兵三五・海大一八次席・ロンドン軍縮会議随員・空母「加賀」艦長・海軍潜水学校長・少将・連合艦隊参謀長・軍令部第三部長・在中華民国大使館附武官・中将・第三遣支艦隊司令長官・呉鎮守府司令長官・大将・海軍大臣・海上護衛総隊司令長官)と分かった。

 また、眼鏡をかけた貴公子は、第一潜水戦隊司令官・小松輝久(こまつ・てるひさ)少将(東京・海兵三七・海大二〇・巡洋艦「那智」艦長・海軍大学校教官・少将・第一潜水戦隊司令官・潜水学校長・海軍大学校教頭・中将・第一遣支艦隊司令長官・第六艦隊司令長官・海軍兵学校長・予備役・正三位・勲一等・侯爵)だった。

 板倉少尉がびっくり仰天していると、ご機嫌ななめの南雲司令官が「貴様が気に入った。エスを貸す代わりに、クラスの者を全部連れて来い」と言った。

 早速、板倉少尉は行燈部屋に帰り、一部始終を話し級友たちを連れてきた。「おい、大丈夫か、そんなところに行って……」。三人の将星の前で、級友たちみんな、借りてきた猫のようにかしこまっていた。

 「今夜は無礼講だ。遠慮せずに飲め……おい、お前は若い者を見ると、すぐに目じりを下げる。早く酌をせんか」と、ひとり南雲司令官だけがはしゃいでいた。

 野村参謀長もまけていなかった。「近頃の若い者はおとなしすぎる……」と、酒をついで回りながら、怪気炎をあげていた。

 ひとり、小松司令官だけが、席にあって静かに杯をふくんでいたので、板倉少尉が重ねて非礼を詫びたところ、「君たちのような元気のある若者が、潜水艦に来るようになるといいがねェ……」と、しんみり述懐した。

 小松少将は、北白川宮輝久王として、金枝玉葉の身だったが、臣籍に降下し、「進んで潜水艦に身を投じたのは、潜水艦に人なきを憂いたからだ」と聞かされた板倉少尉は、グーと胸が締め付けられた。

 板倉少尉が潜水艦志望に踏み切ったのは、この時だった。

 重巡洋艦「青葉」での一年間、艦長・平岡粂一大佐のすすめで、板倉少尉は第一次世界大戦で活躍したUボートの研究に打ち込んだ。