呉服屋の別荘に泊まっている北白川宮殿下のところに行って、今村中尉が「何か御用でございますか」と聞くと、次の様に言われた。
「御用じゃないよ。参謀長が、軍司令官を呼びつける用なんかあるものか。『聞きたいことがあるから今村の宿に行く、もう帰ったかどうか、電話で聞いてくれ』と言ったのに、野崎(御附武官)が先走って、君に来いなんか言ったんだな、けしからん…」。
今村中尉が「いや私がまいったほうが手軽でよいのであります。聞きたいことと申されるのは、何のことでございます」と言った。
すると、北白川宮殿下は「君が南軍司令官として戦っている敵はどれかね」と言った。
今村中尉は、変なことを聞くもんだと、不思議に思いながら「敵は依然、四つ壇原から岩出山北方高地に渡り陣地を占めており、他に移動したような情報は得ておりません」と答えると、北白川宮殿下は次の様に言った。
「そうかね。僕が見ていると、君はその北軍の敵を攻撃しているのではなく、吉岡試験官を敵として戦っている。それでは北軍には勝てないよ」。
その瞬間、今村中尉は己の過失に気がつき、「まことにその通りでありました。明日からは、冷静に北軍と戦います。有難くお言葉を拝しました」と言った。
すると北白川宮殿下は、「お言葉じゃない。軍参謀長としての意見具申だよ」と笑いながら言った。今村中尉は翌日からつとめて平静に気をつけ、吉岡試験官との問答にも、礼を失するような言葉を慎んだ。
合同演習の後、学生六十名は天皇陛下御統監の陸軍大演習の審判官附属員にあてられ、東京に帰ったのは、大学校出発以来一ヶ月余後だった。
卒業試験の及第如何を問わず仙台の母隊に帰ることになるので、今村中尉が引越しの準備をしていると、明朝、大学校に登校するように連絡が来た。卒業試験である参謀演習で、試験官に反抗的なやり方ばかりをしたので、「落第でも申し渡されるのだろうか」と不安になった。
翌朝、今村中尉は陸軍大学校に登校し教官室に行くと、教官・阿部信行中佐(陸士九・陸大一九恩賜、大将・首相)が次の様に言った。
「卒業式は、約二週間後に行われる。その時、君が陛下(大正天皇)の御前で、講演申し上げることに昨日決められた。ついては、現に行われている世界戦争中、欧州東方戦場における独露両軍の情報、これは参謀本部の戦史部で集めたものだ。これをもとにし、きっちり四十分間で終わる講演案を四日以内に作って僕に出したまえ。必要なところに手を入れ、幹事と校長に見せ、これで良いと言えば、すぐ印刷所のほうに廻す…」。
阿部中佐は部厚な情報綴りと、ポーランド地域の地図を今村中尉に手渡した。今村中尉は、密かに敬意を払っている幾人かの先輩をさし抜き、新参者の自分がこんなことになってしまい、心中忸怩(じくじ)たるうしろめたさを覚えた。
今村中尉は、四日間、徹夜に近い時間をかけ、案をまとめ、必要な略図幾枚をそえ、指示されていた日時に登校し、阿部中佐に提出したところ、たいした修正はなく、やがて幹事と校長との承認があり、卒業式の二日前にその予行が行われた。
卒業式の当日、陸軍大学校講堂の正面玉座の一側には、陸軍三長官、元帥、軍事参議官以下の高級武官数十名が、他の一側には、学校教職員五、六十名が椅子に着き、卒業生六十名は、玉座に正面して机を前にし、今村中尉だけが玉座の前方十五、六メートルほどの中央に、起立するようにされていた。
やがて大正天皇陛下が、侍従武官長以下を従えて、校長の先導で、諸員最敬礼のうちに、玉座についた。
校長がその席から、今村中尉に向かい、「唯今より講演を申し上げよ」と命じた。
今村中尉は、机上に講演案を開いていたが、暗記しているので、それには目もやらずに口を開いた。緊張しすぎて、声の調子がうわずってはならないと案じていたが、幸いに順調に語りはじめた。
大正天皇は、今村中尉を見つめ視線をそらさなかった。今村中尉は陛下の軍服の第二ボタンの辺りに注目して述べ、直接玉顔に眼をやらないように指示されていたが、講演に気がはいって、つい玉顔を拝しがちになった。それに陛下は、時々今村中尉の言葉に、肯いておられたので、今村中尉は感激した。
夢中であったが、講演の順序は間違わず、途中でつかえもしなかった。だが、指定された四十分で終わったものか、それ以上かかったのか、時間の観念は全く頭から離れていた。
講演終了後、陛下は控え室に入られ、諸員は他の大講堂に移り、今度は、全校学生百八十名が、玉座に正面し、再び最敬礼のうちに陛下を迎え、御前で、校長より卒業生に証書が附与され、卒業式は終了した。
「御用じゃないよ。参謀長が、軍司令官を呼びつける用なんかあるものか。『聞きたいことがあるから今村の宿に行く、もう帰ったかどうか、電話で聞いてくれ』と言ったのに、野崎(御附武官)が先走って、君に来いなんか言ったんだな、けしからん…」。
今村中尉が「いや私がまいったほうが手軽でよいのであります。聞きたいことと申されるのは、何のことでございます」と言った。
すると、北白川宮殿下は「君が南軍司令官として戦っている敵はどれかね」と言った。
今村中尉は、変なことを聞くもんだと、不思議に思いながら「敵は依然、四つ壇原から岩出山北方高地に渡り陣地を占めており、他に移動したような情報は得ておりません」と答えると、北白川宮殿下は次の様に言った。
「そうかね。僕が見ていると、君はその北軍の敵を攻撃しているのではなく、吉岡試験官を敵として戦っている。それでは北軍には勝てないよ」。
その瞬間、今村中尉は己の過失に気がつき、「まことにその通りでありました。明日からは、冷静に北軍と戦います。有難くお言葉を拝しました」と言った。
すると北白川宮殿下は、「お言葉じゃない。軍参謀長としての意見具申だよ」と笑いながら言った。今村中尉は翌日からつとめて平静に気をつけ、吉岡試験官との問答にも、礼を失するような言葉を慎んだ。
合同演習の後、学生六十名は天皇陛下御統監の陸軍大演習の審判官附属員にあてられ、東京に帰ったのは、大学校出発以来一ヶ月余後だった。
卒業試験の及第如何を問わず仙台の母隊に帰ることになるので、今村中尉が引越しの準備をしていると、明朝、大学校に登校するように連絡が来た。卒業試験である参謀演習で、試験官に反抗的なやり方ばかりをしたので、「落第でも申し渡されるのだろうか」と不安になった。
翌朝、今村中尉は陸軍大学校に登校し教官室に行くと、教官・阿部信行中佐(陸士九・陸大一九恩賜、大将・首相)が次の様に言った。
「卒業式は、約二週間後に行われる。その時、君が陛下(大正天皇)の御前で、講演申し上げることに昨日決められた。ついては、現に行われている世界戦争中、欧州東方戦場における独露両軍の情報、これは参謀本部の戦史部で集めたものだ。これをもとにし、きっちり四十分間で終わる講演案を四日以内に作って僕に出したまえ。必要なところに手を入れ、幹事と校長に見せ、これで良いと言えば、すぐ印刷所のほうに廻す…」。
阿部中佐は部厚な情報綴りと、ポーランド地域の地図を今村中尉に手渡した。今村中尉は、密かに敬意を払っている幾人かの先輩をさし抜き、新参者の自分がこんなことになってしまい、心中忸怩(じくじ)たるうしろめたさを覚えた。
今村中尉は、四日間、徹夜に近い時間をかけ、案をまとめ、必要な略図幾枚をそえ、指示されていた日時に登校し、阿部中佐に提出したところ、たいした修正はなく、やがて幹事と校長との承認があり、卒業式の二日前にその予行が行われた。
卒業式の当日、陸軍大学校講堂の正面玉座の一側には、陸軍三長官、元帥、軍事参議官以下の高級武官数十名が、他の一側には、学校教職員五、六十名が椅子に着き、卒業生六十名は、玉座に正面して机を前にし、今村中尉だけが玉座の前方十五、六メートルほどの中央に、起立するようにされていた。
やがて大正天皇陛下が、侍従武官長以下を従えて、校長の先導で、諸員最敬礼のうちに、玉座についた。
校長がその席から、今村中尉に向かい、「唯今より講演を申し上げよ」と命じた。
今村中尉は、机上に講演案を開いていたが、暗記しているので、それには目もやらずに口を開いた。緊張しすぎて、声の調子がうわずってはならないと案じていたが、幸いに順調に語りはじめた。
大正天皇は、今村中尉を見つめ視線をそらさなかった。今村中尉は陛下の軍服の第二ボタンの辺りに注目して述べ、直接玉顔に眼をやらないように指示されていたが、講演に気がはいって、つい玉顔を拝しがちになった。それに陛下は、時々今村中尉の言葉に、肯いておられたので、今村中尉は感激した。
夢中であったが、講演の順序は間違わず、途中でつかえもしなかった。だが、指定された四十分で終わったものか、それ以上かかったのか、時間の観念は全く頭から離れていた。
講演終了後、陛下は控え室に入られ、諸員は他の大講堂に移り、今度は、全校学生百八十名が、玉座に正面し、再び最敬礼のうちに陛下を迎え、御前で、校長より卒業生に証書が附与され、卒業式は終了した。