陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

683.梅津美治郎陸軍大将(23)石原少将は「東亜連盟」構想により、蒋介石の満州国承認と提携が十分できると考えていた

2019年04月26日 | 梅津美治郎陸軍大将
 昭和十二年七月七日の盧溝橋事件以後の出兵をめぐっての論争において、支那事変の「拡大派」・「不拡大派」論争は、この問題を文字通りに解釈して、一般的に次の様な印象を与えている。

 「拡大派」とは、支那事変を際限なく拡大することを望み策謀した一派である。「不拡大派」とは、あくまでその拡大に反対した和平派の一派である。

 だが、これは心情的な通俗論で、「拡大派」・「不拡大派」の論争の要点は、盧溝橋事件以後の出兵をめぐっての論争である。

 すなわち、出兵に対する考え方、方法論に若干の差異はあったとしても、出兵の不可避を認める点においては、結局、同意見だったといえる。

 昭和十二年三月参謀本部第一部長に就任した石原莞爾少将は、七月七日の盧溝橋事件以後の出兵については「不拡大派」であった。

 後に、昭和十四年に参謀本部が作成した石原莞爾中将回想応答録において、石原中将は次の様に述べている。

 「満州事変後の日本の行き方に、石原の考えでは二つの道があったと思います。一つは蒋介石と力強き外交折衝を行い、蒋介石をして満州国の独立を承認せしめ、支那における政治的権益を引上げ東亜連盟の線に沿って進めば、私は蒋介石との間に了解ができたと思います」

 「第二案は停戦協定の線に止まらずに、北京、南京を攻略して蒋介石を屈服せしめ、満州国を承認させて支那本土より撤兵し、その後東亜連盟を作るというのであります。然るにその何れをも行い得ずして『その日暮らし』という状態でございました」。

 つまり、当時の石原少将は「東亜連盟」構想により、蒋介石の満州国承認と提携が十分できると考えていた。だからその考えを基礎にして不拡大方針を主張した。

 ところが、「拡大派」は、昭和十二年三月、参謀本部が、次の三名を東京に招致して、現地の情勢判断を聴取した結果に基づいてその論拠を確定していた。

 在中華民国大使館附武官・喜多誠一(きた・せいいち)少将(滋賀・陸士一九・陸大三一・参謀本部支那班長・歩兵大佐・歩兵第三七連隊長・上海派遣軍情報課長・参謀本部支那課長・少将・在中華民国大使館附武官・天津特務機関長・北支那方面軍特務部長・中将・華北連絡部長官・第一四師団長・第六軍司令官・第一二軍司令官・第一方面軍司令官・大将・終戦・シベリア抑留・昭和二十二年八月シベリアで病死・享年六十歳・正三位・勲一等・功四級)。

 支那駐屯軍参謀・和知鷹二(わち・たかじ)中佐(広島・陸士二六・陸大三四・支那駐屯軍参謀・歩兵大佐・歩兵第四四連隊長・大本営蘭工作機関長・広東特務機関長・少将・台湾軍参謀長・第一四軍参謀長・中将・南方軍総参謀副長・第三五軍参謀長・南方軍総参謀副長兼南方軍交通隊司令官・中国憲兵隊司令官・終戦・戦犯容疑で巣鴨拘置所拘留・重労働六年の判決・仮釈放・公職追放・昭和五十三年十月死去・享年八十五歳)。

 支那駐屯軍参謀・大橋熊雄(おおはし・くまお)少佐(新潟・陸士二九・陸大三九・駐蒙軍高級参謀・歩兵大佐・歩兵第一一連隊長・第五一師団参謀長・山東省特務機関長・少将・北支那方面軍特務部長・昭和十九年四月戦病死・中将・享年四十九歳)。

 上記三名から徴収した現地の情勢判断の結果の概略は次の通りだった。

 一、蒋介石政権の抗日政策は、満州回復まで不変の政策として継続するであろう。北支におけるわが譲歩によって、抗日政策の消滅を予期するごときは見当違いのはなはだしきもので、最も有利な場合においても、ただ一時しのぎの策たりうるにすぎないであろう。蒋介石政権としては、名実ともに絶対抗日方針のもとに、内部の強化、軍備の充実、欧米依存、南京北支一体化などの促進に急進すべきことを、我が日本としては明確に認識して、根本的対策を立てるべきであり、いやしくも小手先の芸によって当面をとりつくろうごときは厳に避けなければならない。同時に、いかなる場合になりても、軟弱政策の結果は、いよいよ現地の事態を悪化するにすぎないことを銘記しておく必要がある。

 二、以上のように、日支関係の悪化は、とうてい一様の手段では調整できるとはおもわれないのであるが、一方、わが対ソ関係を考えれば、応急的には次の方針を取る必要がある。

 (1)わが対ソ戦の場合、少なくとも蒋介石政府がソ連側に参戦の挙に出ぬよう対支国交を調整すること。
 (2)前項の見込みがない場合においては、対ソ行動に先立ち、まだ対支一撃を加えて蒋介石政権の基盤をくじくこと。この場合においては、我が日本としてソ支両面作戦を覚悟して準備する必要がある。
 (3)前二項のいずれの場合たるを問わず、当面まず応急的に対ソ関係の調整をはかり、この間、対ソ支戦備の充実を促進すること。









682.梅津美治郎陸軍大将(22)これはおおげさに言えば、軍務局始まって以来のことだと、局員一同が驚いたた

2019年04月19日 | 梅津美治郎陸軍大将
 私はこの言葉を聞いて、これは偽らざる次官の心境であると思った。そうして次官の慎重なる態度に深く敬意を表し、かつ礼を失した私の態度のお詫びをしたことがある。

 昭和・平成時代の編集者・高橋正衛(たかはし・まさえ・青森・中央大学専門部経済学科卒・学徒動員・みすず書房創立・みすず書房勤務・みすず書房取締役・第十三回菊池寛賞・著書「二・二六事件」「昭和の軍閥」など)は陸軍次官・梅津中将について次の様に述べている。
 
 粛軍人事の推進役は陸軍次官の梅津美治郎中将である。粛軍人事のみならず、機構改革、軍部大臣現役制も当然、梅津の手になると思われる。

 軍務局長の権限をみたとき、実質的には次官よりも権限があると言ったが、次官は文字通り事務次官であった。

 議会にも、大臣と軍務局長は出席するが、次官は陸軍省に残って留守訳である。

 小磯は軍務局長の時、決裁書類の次官のハンを押すところにも自分のハンを押して、大臣のところに書類を持って行ったという逸話さえ残っている。

 梅津は次官になると、大臣や軍務局長をしっかりと押さえたようである。このころの軍務局員の書いたものを見ると、ある日、書類が梅津次官のところに廻った。

 梅津はその書類を訂正して、また差し戻した。これはおおげさに言えば、軍務局始まって以来のことだと、局員一同が驚いたとのことである。

 荒木貞夫氏は、私が梅津についてたずねたとき、次の様に語った。

 荒木氏が陸相の時、梅津は参謀本部の総務部長であった。その頃のある日、荒木陸相が梅津の部屋に入ったことがある。

 その時、彼の机の上には紙一枚はおろか、何一つも置かれておらず、その机の前に、じっと目を閉じて座っていた梅津を見たときは不気味であったと、荒木氏は語ったが、これ以上は私に話してくれなかった。

 陸軍次官・梅津美治郎中将と参謀本部作戦課長・石原莞爾大佐(昭和十一年六月参謀本部戦争指導課長・昭和十二年一月参謀本部第一部長心得)は、二・二六事件(昭和十一年二月二十六日)後の粛軍時代に、陸軍省と参謀本部の実質的協力者として両者は協力し合い、宇垣内閣を協同歩調で流産(昭和十二年一月二十九日)させたところまでは、協調的であった。

 やがて林内閣の組閣(昭和十二年二月二日)で対立的立場になり、近衛内閣時代、支那事変の勃発(盧溝橋事件・昭和十二年七月)に対する国家の対処方針において、陸軍次官・梅津美治郎中将と参謀本部第一部長・石原莞爾少将は腹の底から協調できなかったのである。

 昭和十二年七月支那事変勃発当時、参謀本部第一部長・石原莞爾少将配下の戦争指導課長は河辺虎四郎(かわべ・とらしろう)大佐(富山・陸士二四・陸大三三恩賜・関東軍参謀・砲兵大佐・関東軍第二課長・近衛野砲連隊長・参謀本部戦争指導課長・航空兵大佐・参謀本部作戦課長・浜松飛行学校教官・少将・在ドイツ国大使館附武官・第七飛行師団長・防衛総参謀長・中将・航空本部総務部長・第二飛行師団長・第二航空軍司令官・航空総監部次長・参謀次長・終戦・戦後GHQ軍事情報部歴史課特務機関「河辺機関」結成・昭和三十五年六月死去・享年六十九歳)だった。

 戦後、河辺虎四郎元中将は、当時の参謀本部第一部長・石原莞爾少将を、次の様に評価している。

 「(石原中将は)関東軍あたりをやらせれば立派なものだが、中央で人をまとめて使うことはできない人である」。
 
 昭和十二年四月から八月まで、参謀本部戦争指導課高級課員として稲田正純(いなだ・まさずみ)中佐(鳥取・陸士二九・陸大三七恩賜・参謀本部作戦課長・砲兵大佐・阿城重砲連隊長・第五軍参謀副長・少将・第五軍参謀長・南方軍参謀長・インパール作戦に反対し更迭・第二野戦根拠地隊司令官・第六飛行師団長心得・独自脱出で停職・第三船舶輸送司令官・中将・第一六方面軍参謀長・終戦・九州大学生体解剖事件及び油山事件の戦犯容疑で巣鴨プリズン収監・BC級戦犯として重労働七年の判決・釈放・昭和六十一年死去・享年八十九歳)は勤務した。

 戦後、稲田正純元中将は、当時の、陸軍次官・梅津美治郎中将を、次の様に評価している。

 「梅津は、中央向きの有能な官僚型であり、能率的な態勢をつくって省部を指導するのに向いた人であった」。







681.梅津美治郎陸軍大将(21)いま機密費を送るのは、狂人に刃物を与えるようなものだからネ

2019年04月12日 | 梅津美治郎陸軍大将
 昭和十二年八月中旬夜、陸軍省人事局の便所で、私(人事局補任課高級課員・額田担中佐)は、軍務局長・後宮淳中将と偶然一緒になった。

 私が、少くとも「太原・済南の線に進出するの要あり」と述べると、「そんなことをするためには、五個師団も出さねばならぬではないか」と叱り飛ばされたことがあった。

 軍務局長・後宮淳中将は確かに不拡大派であった。

 軍事課長・田中新一大佐は、単なる拡大派ではなく、たびたび小競合いの起こらぬよう、この際短切なる相当な一撃を加えてすぐ退く案のようであった。

 私は、陸軍次官・梅津美治郎中将は、概ね、軍事課長・田中新一大佐と同様な考えだったと思う。

 私の想像では、軍務局長・後宮淳中将は少し足りない、参謀本部第一部長・石原莞爾少将は俊敏、果断に過ぎて少し危ないと、陸軍次官・梅津美治郎中将が感じられていたことが、二人の転出に起因していたと思う。

 以上が、当時、陸軍省人事局課員だった額田担元中将の回想である。

 諌山春樹(いさやま・はるき)元中将(福岡・陸士二七・陸大三六・参謀本部庶務課長代理・歩兵大佐・参謀本部庶務課長・兼大本営副官兼管理部長・独立歩兵第一一連隊長・少将・東部軍参謀長・第二五軍参謀長・第一五軍参謀長・第二六歩兵団長・公主嶺教導団長・中将・第一四軍参謀長・台湾軍参謀長・第一〇方面軍参謀長・終戦・平成二年死去・享年九十六歳)は、当時参謀本部庶務課高級課員(中佐)だった。

 諌山春樹元中将は、当時の陸軍次官・梅津美治郎中将について次の様に回顧している。

 ある本で見た記憶ですが、梅津陸軍次官の机の上は常にきれいに片づけられ、ただ停年名簿が一冊置いてあったという記事を思い出します。それだけ人事には、深い関心を持っておられたのだと思います。
 
 私が参謀本部の庶務課で参謀の人事を取り扱っていた際、一般から右翼と見られていた長勇君を在京のある職に転任させる案を補任課に差し出した折、当時の補任課長・青木重誠さんが来られて、この案を考慮するよう申されましたが、私は上司の承認を受けたもので、受け容れることは出来ない旨を告げ断ったのですが、その後またやって来られ、実は陸軍次官から考え直すよう云われたとの理由を申され、更に次官のところへ来てくれとのことで行ったのですが、その時のお言葉は忘れましたが、次官の考えは、過激な思想の持主は中央部には置きたくないと云う事のようでした。

 勿論、参謀の人事は従来から参謀本部で取り扱い円満に運んでいたのでありますから、帰って上司に申し東京への転任を取止め、京都の第一六師団に転任させた事があります。

 梅津将軍は、権謀術数などとは全く縁遠い方で穏健中正、それですから、その頃、統制派だの皇道派だのと申す派閥的権力闘争があったように思われますが、将軍はそんな事には全く無関係で、何派にも偏せず、ことに、はったりなどと云うものは微塵もなく、筋を通して中道を信念を持って邁進された方という印象が残っております。

 昭和十二年七月七日、盧溝橋事件が勃発した。当時陸軍省経理局主計課長は、栗橋保正(くりはし・やすまさ)主計中佐(茨城・陸軍経理学校五期・陸軍省経理局建築課長・経理局主計課長・主計大佐・臨時東京経理部長・主計少将・関東軍倉庫長・第二一軍経理部長・南支那方面軍経理部長・朝鮮軍経理部長・陸軍省経理局長兼大本営野戦経理長官・主計中将・関東軍経理部長)だった。

 戦後、栗橋保正元陸軍省経理局長は、盧溝橋事件勃発直後の陸軍次官梅津美治郎中将について、次の様に回想している。

 盧溝橋事件勃発の直後であったが、北支現地軍から機密費送金の要請があり、時の陸軍次官・梅津中将がこれを承認したとの説明が軍務局からあった。

 経理局では、軍務局の要求手続きに基き、さっそく送金の処置をした。

 しかるにその翌朝、私が出勤すると間も無く次官が呼ぶので行ってみると、頗る不機嫌で、「金銭の出納は長官の命令なくしてはできぬと聞いているが、昨日送金した機密費は誰の命令でやったか」との質問である。
 
 気の短い私は癪にさわったがじっとこらえて、「私は次官が承認されたとの軍務局の説明により実施しましたが、直接次官の承認は得ていません。私は弁明はいたしません。御処分を願います」と述べた。

 中佐の階級であった私としては、不遜のそしりは免れないが、次官は怒りもせず、かえって静かな態度になって、「君を責めるわけではない。実はいま少し現地の情勢を見てからにしようと思っていたのだ。いま機密費を送るのは、狂人に刃物を与えるようなものだからネ……」と言った。








680.梅津美治郎陸軍大将(20)君のやったことには、その行為には同意しない。しかし私の言ったことは取り消す

2019年04月05日 | 梅津美治郎陸軍大将
 【片倉衷の追悼談】

 翌年、林内閣ができました時に、私は、組閣に際していろいろやりましたので、梅津次官は最後に非常に怒りまして、「片倉少佐のやった行動はどうもけしからん」。

 それで阿南兵務局長、磯谷軍務局長、また石本軍務課長、町尻軍事課長等皆さんを集めて、「あなた方はどうですか」と聞かれた。

 ところが皆さんは、私から連絡報告を受けているので、何れも私を支持して、「同意です。同意です。同意です」ということになった。

 私は「閣下、気に入らなければ、軍法会議に付して下さい。喜んで受けます」と申し上げた。

 「みんながそういうなら、私の言ったことは取り消す。しかし私は、君のやったことには、その行為には同意しない。しかし私の言ったことは取り消す」と言われ、それは御破算になりました。

 そこで私は、梅津さんが私に対して、非常に信頼しないかと思ったのです。ところが豈に図らんや、私が関東軍の第四課長になって、絶えず次官のところに連絡に行くと、私の申し上げることは悉く是認された。

 修正されたことはひとつもありません。他の局課長は非常にうるさい。私は他の局課長にはいかないで直接に次官のところに行く。(以下略)

 以上が、片倉衷元陸軍少将の回想。

 昭和十二年二月二日、林内閣が発足した。内閣総理大臣と、陸軍大臣は次の通り。

 内閣総理大臣・林銑十郎(はやし・せんじゅうろう)大将(石川・陸士八・陸大一七・英独駐在・久留米俘虜収容所長・歩兵大佐・歩兵第五七連隊長・臨時軍事調査委員・少将・陸軍士官学校予科長・フランス出張・国連陸軍代表・歩兵第二旅団長・中将・東京湾要塞司令官・陸軍大学校長・教育総監部本部長・近衛師団長・朝鮮軍司令官・大将・教育総監・陸軍大臣・予備役・内閣総理大臣・内閣参議・昭和十八年死去・享年六十六歳・正二位・勲一等旭日桐花大綬章・功四級・大韓帝国勲三等八卦章等)。

 陸軍大臣・中村孝太郎(なかむら・こうたろう)中将(石川・陸士一三・陸大二一・在スウェーデン公使館附武官・参謀本部庶務課高級課員・歩兵大佐・歩兵第六七連隊長・陸軍省高級副官・少将・歩兵第三九旅団長・朝鮮軍参謀長・陸軍省人事局長・支那駐屯軍司令官・中将・第八師団長・教育総監部本部長・陸軍大臣・東京警備司令官・東部防衛司令官・大将・朝鮮軍司令官・東部軍司令官・予備役・軍事保護院総裁・終戦・昭和二十二年死去・享年六十六歳・正四位・功四級)。

 林銑十郎大将は、周囲の強硬論に左右されやすく、参謀本部第一部長心得・石原莞爾大佐は「林大将なら猫にも虎にもなる。自由自在にすることができる」と言っていた
参謀本部第一部長心得・石原莞爾大佐が、容易に参謀本部内の意見を、思うままに纏め得たのは、もとより独特の能力にもよるが、主として参謀次長兼総務部長・西尾寿造中将の無気力と、更に遠慮なく申せば、参謀総長殿下が甘く利用されたのだ、と判断せざるを得ない。

 当時の軍務局長は後宮淳(うしろく・じゅん)少将(京都・陸士一七・陸大二九・関東軍附・歩兵大佐・歩兵第四八連隊長・関東軍附・満州国交通部顧問兼特務部鉄道主任・少将・参謀本部第三部長・陸軍省人事局長・軍務局長・中将・第二六師団長・第四軍司令官・南支那方面軍司令官・支那派遣軍総参謀長・大将・中部軍司令官・高級参謀次長・兼航空総監兼航空本部長・第三方面軍司令官・戦後日本郷友連盟会長)だった。

 昭和十二年七月七日、北京西南方向の盧溝橋で日本軍と中国軍の間で突発的戦闘が起きた。この盧溝橋事件を発端として大規模の志那事変に拡大した。

 昭和十二年秋、陸軍次官・梅津美治郎中将は、支那事変不拡大派の次の二人をともに転出させた。

 昭和十二年九月参謀本部第一部長・石原莞爾少将(三月少将進級)を関東軍参謀副長に、十月軍務局長・後宮淳中将(八月中将進級)を第二六師団長に。

 軍務局では、特に陸軍次官・梅津美治郎中将の信任の厚い軍務課長・柴山兼四郎(しばやま・けんしろう)大佐(茨城・陸士二四・陸大三四・輜重兵第一八大隊長・輜重兵大佐・軍務局軍務課長・天津特務機関長・少将・漢口特務機関長・輜重兵学校長・中将・輜重兵監・第二六師団長・南京政府最高顧問・陸軍次官・予備役・終戦・戦犯で禁錮七年・第三回参議院議員選挙で落選・軍人恩給全国連合会会長・昭和三十一年死去・享年六十六歳)は絶対不拡大派だった。

 また軍事課長・田中新一(たなか・しんいち)大佐(陸士二五・陸大三五・軍務局兵務課高級課員・歩兵大佐・兵務局兵務課長・軍務局軍事課長・駐蒙軍参謀長・少将・参謀本部第一部長・中将・第一八師団長・ビルマ方面軍参謀長・第一総軍司令部附・終戦・戦後「田中作戦部長の証言」芙蓉書房出版・昭和五十一年死去・享年八十三歳・功三級)は積極的な拡大派だった。