岩倉大使一行がベルリンを去った後、その年の九月には、四年間のドイツ留学を終えた桂も帰国の途についた。パリを経て、マルセイユから横浜に帰着したのは明治六年十月だった。
「桂太郎(三代宰相列伝)」(川原次吉郎・時事通信社・昭和34年)によると、桂太郎の帰国した頃の国内の事情は、征韓論が破れて、新たに岩倉具視、大久保利通を中心とした内閣のできた時だった。
横浜に着いた桂太郎は、さっそく、伊藤博文や木戸孝允を訪問し、国内事情を聴いて、日本の近況を把握した。
桂はいったん郷里に帰って再び上京して、木戸孝允邸に寄留することになった。その木戸の推薦によって、桂は陸軍に出仕することになった。
明治七年一月十三日、桂太郎は、陸軍歩兵大尉に任じ、陸軍省第六局分課勤務を命ぜられた。これが桂の帝国陸軍の軍人として第一歩だった。
だが、桂はすでに、戊辰戦争や奥羽戦争にも出て、軍人としての経験もある。たとえ一旦軍籍を離れて、一書生としてヨーロッパに私費留学したとはいえ、その研究はひたすら軍事、軍制についてであった。
つまり、軍人としての修養を積んできたのだった。それらのことを考えれば、桂太郎をいきなり大佐にしても、誰も異議を差しはさむ者はいなかった。まして、かつて桂と同僚であった者で、すでに少将になっていた者もいたのだ。
しかし、当時、初任は大尉以上なるべからずということになっていた。陸軍もだんだん秩序ができてきていたが、その規律を厳重にすることに政府も鋭意努めている時だった。情実などを努めて排し、万事規律に従って、事に処していくといく大方針もようやく確立しかけていた。
この様な情勢と規律から、桂も初任であるからというので、大尉に任じられたのだった。ところが、この処置に対して、桂は不満を持つどころか、かえって、大いに喜んだと言われている。
桂は任官の日に、陸軍卿・山縣有朋(やまがた・ありとも・山口・高杉晋作の奇兵隊創設時に入隊・奇兵隊軍監<二十五歳>・維新後各国の軍事制度を視察・徴兵令を定める・陸軍大輔<三十三歳>・陸軍中将<三十三歳>・陸軍卿<三十五歳>・参軍<三十九歳>・陸軍卿・参謀本部長・内務卿<四十五歳>・伯爵・内務大臣・内閣総理大臣<五十一歳>・陸軍大将・枢密院議長・第一軍司令官・陸軍大臣・元老・公爵・元帥<六十歳>・第二次山縣内閣・枢密顧問官・参謀総長・公爵・枢密院議長・従一位・大勲位菊花章頸飾・功一級・国葬・ロシア帝国神聖アレクサンドルネフスキー大綬章・ドイツ帝国赤鷲大綬章・フランスレジオンドヌール勲章グランクロウ・大英帝国メリット勲章など)に会った。
山縣は桂に言った。「我が陸軍も桂の留学中、漸次整頓し、秩序も立ってきた。大尉に任ぜられたことは不満足かもしれないが、初任は大尉以上としないという規律を乱すわけにはゆかない。秩序を正す点からもやむを得ないが、了とせよ」。
山縣が「不満足かもしれないが」と言った背景には、この当時(明治七年)における、桂太郎と同郷の他の軍人たちの立身出世の現実があった。当時、桂太郎大尉は二十六歳だった。
明治七年当時、長州藩(山口県)出身で、桂太郎と同世代の主要な陸軍軍人は次の通り。
乃木希典(のぎ・まれすけ)少佐(二十六歳・名古屋鎮台大貳心得)は、明治四年陸軍少佐。最終階級は大将。宮内省御用掛、学習院長。伯爵、正二位、勲一等旭日桐花大綬章、功一級。
鳥尾小弥太(とりお・こやた)少将(二十七歳・陸軍省第六局長)は、明治四年陸軍少将。最終階級は中将。貴族院議員、枢密顧問官。子爵、正二位、勲一等旭日大綬章。
三浦梧楼(みうら・ごろう)少将(二十五歳・陸軍省第三局長)は、明治四年陸軍大佐。最終階級は中将。駐韓国特命全権大使、枢密顧問官。子爵、従一位、勲一等旭日桐花大綬章。
長谷川好道(はせがわ・よしみち)中佐(二十四歳・歩兵第一連隊長心得)は、明治四年陸軍大尉。最終階級は元帥陸軍大将。参謀総長、朝鮮総督。伯爵、従一位、大勲位菊花大綬章。
岡沢精(おかざわ・くわし)少佐(三十歳・近衛歩兵第一連隊大隊長)は、明治四年陸軍少佐。最終階級は大将。大本営軍事内局長、侍従武官長。子爵、正二位、勲一等旭日大綬章、功二級。
佐久間左馬太(さくま・さまた)少佐(三十歳・西海鎮台付)は、明治五年陸軍大尉。最終階級は大将。東京絵衛戌総督、台湾総督。伯爵、正二位、勲一等旭日桐花大綬章。
山口素臣(やまぐち・もとおみ)少佐(二十八歳・近衛歩兵第一連隊第一大隊長)は、明治四年陸軍大尉。最終階級は大将。第五師団長、軍事参議官。男爵、正四位、勲一等旭日大綬章、功三級。
滋野清彦(しげの・きよひこ)少佐(二十八歳・陸軍省第一局第三課長)は、明治四年陸軍少佐・最終階級は陸軍中将。陸軍士官学校長、将校学校監。男爵、従三位、勲一等瑞宝章。
「桂太郎(三代宰相列伝)」(川原次吉郎・時事通信社・昭和34年)によると、桂太郎の帰国した頃の国内の事情は、征韓論が破れて、新たに岩倉具視、大久保利通を中心とした内閣のできた時だった。
横浜に着いた桂太郎は、さっそく、伊藤博文や木戸孝允を訪問し、国内事情を聴いて、日本の近況を把握した。
桂はいったん郷里に帰って再び上京して、木戸孝允邸に寄留することになった。その木戸の推薦によって、桂は陸軍に出仕することになった。
明治七年一月十三日、桂太郎は、陸軍歩兵大尉に任じ、陸軍省第六局分課勤務を命ぜられた。これが桂の帝国陸軍の軍人として第一歩だった。
だが、桂はすでに、戊辰戦争や奥羽戦争にも出て、軍人としての経験もある。たとえ一旦軍籍を離れて、一書生としてヨーロッパに私費留学したとはいえ、その研究はひたすら軍事、軍制についてであった。
つまり、軍人としての修養を積んできたのだった。それらのことを考えれば、桂太郎をいきなり大佐にしても、誰も異議を差しはさむ者はいなかった。まして、かつて桂と同僚であった者で、すでに少将になっていた者もいたのだ。
しかし、当時、初任は大尉以上なるべからずということになっていた。陸軍もだんだん秩序ができてきていたが、その規律を厳重にすることに政府も鋭意努めている時だった。情実などを努めて排し、万事規律に従って、事に処していくといく大方針もようやく確立しかけていた。
この様な情勢と規律から、桂も初任であるからというので、大尉に任じられたのだった。ところが、この処置に対して、桂は不満を持つどころか、かえって、大いに喜んだと言われている。
桂は任官の日に、陸軍卿・山縣有朋(やまがた・ありとも・山口・高杉晋作の奇兵隊創設時に入隊・奇兵隊軍監<二十五歳>・維新後各国の軍事制度を視察・徴兵令を定める・陸軍大輔<三十三歳>・陸軍中将<三十三歳>・陸軍卿<三十五歳>・参軍<三十九歳>・陸軍卿・参謀本部長・内務卿<四十五歳>・伯爵・内務大臣・内閣総理大臣<五十一歳>・陸軍大将・枢密院議長・第一軍司令官・陸軍大臣・元老・公爵・元帥<六十歳>・第二次山縣内閣・枢密顧問官・参謀総長・公爵・枢密院議長・従一位・大勲位菊花章頸飾・功一級・国葬・ロシア帝国神聖アレクサンドルネフスキー大綬章・ドイツ帝国赤鷲大綬章・フランスレジオンドヌール勲章グランクロウ・大英帝国メリット勲章など)に会った。
山縣は桂に言った。「我が陸軍も桂の留学中、漸次整頓し、秩序も立ってきた。大尉に任ぜられたことは不満足かもしれないが、初任は大尉以上としないという規律を乱すわけにはゆかない。秩序を正す点からもやむを得ないが、了とせよ」。
山縣が「不満足かもしれないが」と言った背景には、この当時(明治七年)における、桂太郎と同郷の他の軍人たちの立身出世の現実があった。当時、桂太郎大尉は二十六歳だった。
明治七年当時、長州藩(山口県)出身で、桂太郎と同世代の主要な陸軍軍人は次の通り。
乃木希典(のぎ・まれすけ)少佐(二十六歳・名古屋鎮台大貳心得)は、明治四年陸軍少佐。最終階級は大将。宮内省御用掛、学習院長。伯爵、正二位、勲一等旭日桐花大綬章、功一級。
鳥尾小弥太(とりお・こやた)少将(二十七歳・陸軍省第六局長)は、明治四年陸軍少将。最終階級は中将。貴族院議員、枢密顧問官。子爵、正二位、勲一等旭日大綬章。
三浦梧楼(みうら・ごろう)少将(二十五歳・陸軍省第三局長)は、明治四年陸軍大佐。最終階級は中将。駐韓国特命全権大使、枢密顧問官。子爵、従一位、勲一等旭日桐花大綬章。
長谷川好道(はせがわ・よしみち)中佐(二十四歳・歩兵第一連隊長心得)は、明治四年陸軍大尉。最終階級は元帥陸軍大将。参謀総長、朝鮮総督。伯爵、従一位、大勲位菊花大綬章。
岡沢精(おかざわ・くわし)少佐(三十歳・近衛歩兵第一連隊大隊長)は、明治四年陸軍少佐。最終階級は大将。大本営軍事内局長、侍従武官長。子爵、正二位、勲一等旭日大綬章、功二級。
佐久間左馬太(さくま・さまた)少佐(三十歳・西海鎮台付)は、明治五年陸軍大尉。最終階級は大将。東京絵衛戌総督、台湾総督。伯爵、正二位、勲一等旭日桐花大綬章。
山口素臣(やまぐち・もとおみ)少佐(二十八歳・近衛歩兵第一連隊第一大隊長)は、明治四年陸軍大尉。最終階級は大将。第五師団長、軍事参議官。男爵、正四位、勲一等旭日大綬章、功三級。
滋野清彦(しげの・きよひこ)少佐(二十八歳・陸軍省第一局第三課長)は、明治四年陸軍少佐・最終階級は陸軍中将。陸軍士官学校長、将校学校監。男爵、従三位、勲一等瑞宝章。