守備隊は動揺しているようだったが、ここを過早に捨てられては、軍の任務達成は不可能になる。七月十二日、本多軍司令官は次の要旨の命令を暗号電報で下達した。
昆作命甲第○号(昆は第三三軍の秘匿名)
「一、軍は主力をもって龍陵正面に攻撃を企図しあり。二、パーモ、ナンカン地区の防備未完なり。三、水上少将はミートキーナを死守すべし。」。
命令は水上部隊ではなく、水上少将個人に対して死守を命じており、異例の型破りの命令であった。死守とは、死ぬまで守れということで、わずかに二文字にすぎないが、その意味するところは深刻であった。
この命令は、作戦主任参謀・辻政信大佐が起案した。辻大佐は眼に涙をためながら電文の起案を終わると、各参謀に合議を求めた。
みな一瞬、シューンとして厳粛な気分になり、悲壮の感に打たれた。安倍参謀が「水上少将は……」を、「水上部隊は……」と訂正しようとしたところ、辻大佐は恐い顔をして「直すな」といって、強く修正を拒んだ。
野口省己少佐も腑に落ちなかったので、あとで辻大佐に命令の真意を質したところ、次のような説明をしてくれた。
「ノモンハン事件の経験からも、無断で退却したり、陣地を放棄したり、落ちこぼれの将兵が出るかも知れない。ノモンハンでは、敵前逃亡の罪で断罪したが、その処置に困ったにがい経験があった」
「精鋭をうたわれた日本軍でも、このようなのが戦場の実相だ。守備隊が最悪の事態に陥って、万一こぼれる者が出ても、命令違反となって不幸な目にあわないために、命令の形式としては異例なものであることは充分知っているが、あえてこのような型破りの命令を起案したのだ」
「最悪の場合は、気の毒だが水上少将個人に責任をとってもらうことを覚悟している。謹厳な水上少将のことだから、軍司令官の意図を了察して、あれで十分目的を達せられるのだ」。
守備隊が全力を尽くして敢闘し、最後の段階に達したとき、水上少将を死に追いやることになるかもしれないが、万一脱落した将兵があっても、その責任を問わない。困難な任務を達成しなければならないという苦肉の策だった。
この命令を作戦主任参謀・辻大佐が起案中に、高級副官・上田孝中佐(陸士三一)が、辻大佐のもっとも嫌いな慰安所の配分計画を持って、合議を求めにきた。
辻大佐はこれを一瞥すると、時が時だけによほど癪にさわたようで、「こんなものは参謀の見るものではない。少なくとも作戦参謀の見るものではない!」と怒鳴りつけて、書類を床にたたきつけた。
上田中佐は、辻大佐のあまりの剣幕にびっくり仰天して、平身低頭して悄然として引き退っていった。野口少佐はこれを見て「あれほどまでにやらないでも……」と、辻大佐のやり方に不快の念を持ち、上田中佐が気の毒でならなかった。
上田中佐は、階級は中佐であったが、辻大佐よりは五期も先輩である。いくら階級が上だからといって、五期も先輩に対して、あれほどまでにやらないでも……と思った。
この型破りの命令を知って、剛直な第五六師団長・松山祐三中将(青森県出身・陸士二二)は憤慨した。松山中将は、参謀長・川道富士雄大佐(陸士三六・陸大四七)を介して、第三三軍司令部に次のように抗議してきた。
「ミートキーナ守備隊長としての水上少将はあるが、水上少将個人はないはずだ。軍は何を血迷ってこんな任務を与えたのか」。
水上少将は第五六師団の歩兵団長なので、松山師団長は直属の部下に対する情宜上からも、異常な軍命令には承服できなかったのである。
しかし、水上少将は、現在は軍直属の守備隊長なので、松山師団長の抗議は筋違いとして、軍はこれを拒否した。
水上少将からは、この命令を謹承して、ただちに次のような返電があったので、軍では命令の主旨は正しく了解されたものと信じて、ひとまず安心した。
(1)昆作命甲第○号謹んで受領す。(2)守備隊は死力を尽くして、ミートキーナを確保す。
当時の水上少将の心境が、「月白の道」(丸山豊・創言社)に記してある。著者の丸山豊氏は、福岡県出身。九州医学専門学校卒。久留米陸軍病院勤務を経て、南方へ軍医として出征した。戦後は、久留米市で医院を開業、詩人としても、日本現代詩の代表的な存在として知られる。第三三回西日本文化賞、先達詩人顕彰受賞。
昆作命甲第○号(昆は第三三軍の秘匿名)
「一、軍は主力をもって龍陵正面に攻撃を企図しあり。二、パーモ、ナンカン地区の防備未完なり。三、水上少将はミートキーナを死守すべし。」。
命令は水上部隊ではなく、水上少将個人に対して死守を命じており、異例の型破りの命令であった。死守とは、死ぬまで守れということで、わずかに二文字にすぎないが、その意味するところは深刻であった。
この命令は、作戦主任参謀・辻政信大佐が起案した。辻大佐は眼に涙をためながら電文の起案を終わると、各参謀に合議を求めた。
みな一瞬、シューンとして厳粛な気分になり、悲壮の感に打たれた。安倍参謀が「水上少将は……」を、「水上部隊は……」と訂正しようとしたところ、辻大佐は恐い顔をして「直すな」といって、強く修正を拒んだ。
野口省己少佐も腑に落ちなかったので、あとで辻大佐に命令の真意を質したところ、次のような説明をしてくれた。
「ノモンハン事件の経験からも、無断で退却したり、陣地を放棄したり、落ちこぼれの将兵が出るかも知れない。ノモンハンでは、敵前逃亡の罪で断罪したが、その処置に困ったにがい経験があった」
「精鋭をうたわれた日本軍でも、このようなのが戦場の実相だ。守備隊が最悪の事態に陥って、万一こぼれる者が出ても、命令違反となって不幸な目にあわないために、命令の形式としては異例なものであることは充分知っているが、あえてこのような型破りの命令を起案したのだ」
「最悪の場合は、気の毒だが水上少将個人に責任をとってもらうことを覚悟している。謹厳な水上少将のことだから、軍司令官の意図を了察して、あれで十分目的を達せられるのだ」。
守備隊が全力を尽くして敢闘し、最後の段階に達したとき、水上少将を死に追いやることになるかもしれないが、万一脱落した将兵があっても、その責任を問わない。困難な任務を達成しなければならないという苦肉の策だった。
この命令を作戦主任参謀・辻大佐が起案中に、高級副官・上田孝中佐(陸士三一)が、辻大佐のもっとも嫌いな慰安所の配分計画を持って、合議を求めにきた。
辻大佐はこれを一瞥すると、時が時だけによほど癪にさわたようで、「こんなものは参謀の見るものではない。少なくとも作戦参謀の見るものではない!」と怒鳴りつけて、書類を床にたたきつけた。
上田中佐は、辻大佐のあまりの剣幕にびっくり仰天して、平身低頭して悄然として引き退っていった。野口少佐はこれを見て「あれほどまでにやらないでも……」と、辻大佐のやり方に不快の念を持ち、上田中佐が気の毒でならなかった。
上田中佐は、階級は中佐であったが、辻大佐よりは五期も先輩である。いくら階級が上だからといって、五期も先輩に対して、あれほどまでにやらないでも……と思った。
この型破りの命令を知って、剛直な第五六師団長・松山祐三中将(青森県出身・陸士二二)は憤慨した。松山中将は、参謀長・川道富士雄大佐(陸士三六・陸大四七)を介して、第三三軍司令部に次のように抗議してきた。
「ミートキーナ守備隊長としての水上少将はあるが、水上少将個人はないはずだ。軍は何を血迷ってこんな任務を与えたのか」。
水上少将は第五六師団の歩兵団長なので、松山師団長は直属の部下に対する情宜上からも、異常な軍命令には承服できなかったのである。
しかし、水上少将は、現在は軍直属の守備隊長なので、松山師団長の抗議は筋違いとして、軍はこれを拒否した。
水上少将からは、この命令を謹承して、ただちに次のような返電があったので、軍では命令の主旨は正しく了解されたものと信じて、ひとまず安心した。
(1)昆作命甲第○号謹んで受領す。(2)守備隊は死力を尽くして、ミートキーナを確保す。
当時の水上少将の心境が、「月白の道」(丸山豊・創言社)に記してある。著者の丸山豊氏は、福岡県出身。九州医学専門学校卒。久留米陸軍病院勤務を経て、南方へ軍医として出征した。戦後は、久留米市で医院を開業、詩人としても、日本現代詩の代表的な存在として知られる。第三三回西日本文化賞、先達詩人顕彰受賞。