陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

105.大西瀧治郎海軍中将(5) 君はアメリカと戦争しているのか、日本の海軍と戦っているのか

2008年03月28日 | 大西瀧治郎海軍中将
 「海軍中将・大西瀧治郎」(光人社NF文庫)によると、緒戦の航空撃滅戦に武勲をたてた第十一航空艦隊参謀長の大西少将は昭和17年3月、海軍航空本部総務部長に栄転した。

 その年の5月、国策研究会が、大西少将の歓迎会を兼ねて、大西少将の話を聞く会が開かれた。出席者は朝野の名士や陸海軍の将星多数であった。

 主賓の大西少将は、開会劈頭、すくっと立ち上がると、明快な口調で言った。

 「上は内閣総理大臣、海軍大臣、陸軍大臣、企画院総裁、その他もろもろの長と称する人々は単なる書類ブローカーに過ぎない」

 「こういう人たちは百害あって一利なし、すみやかに戦争指導の局面から消えてもらいたい。それから戦艦は即刻たたきこわして、その材料で空軍をつくってもらいたい。海軍は空軍となるべきである」

 それだけ言ってのけると、大西中将は悠然と腰を下ろして、シラケ切った一座を見回し、その反応を確かめるように、唇に薄い笑いを浮かべた。

 大西少将の航空至上、戦艦無用論は、昔からの持論だった。

 「特攻の思想 大西瀧治郎伝」(文藝春秋)によると、昭和18年11月大西中将は軍需省航空兵器総局総務局長に就任した。

 陸海軍が兵器の取り合いをする中、海軍は陸軍に負けない大物を航空兵器総局に送り込んだ。陸軍が送り込んだのは遠藤三郎陸軍中将である。

 ところが大西中将は長官の椅子をさっさと遠藤中将にゆずり、自分は下位の総務局長になった。

 そして遠藤中将に大西中将は言った。「航空機の配分は、遠藤さん、あなたがいいように配分してくださいよ。海軍のバカドモは海軍の飛行機をたくさん作ってくれれば海軍はやる、なんて言っているが、海軍だろうと、陸軍だろうと空は空ですよ。半々でいいじゃないですか。海軍大臣が率いるのを第一航空部隊」

 あとをひきとって遠藤中将が言った。「陸軍のを第二航空部隊としますか」「それでいいハズです」遠藤中将は同調した。

 遠藤中将はこれを文書にして陸軍部内にばらまいた。ところが、早速、東條首相に呼びつけられて「余計な意見をいうな」と叱られた。

 遠藤中将は癪に障ったので、富永次官や秦彦三郎参謀次長に噛み付いた。

 すると秦次長は「君はああいう文章を、敵側に出すとはなにごとか」と怒った。

 そこで遠藤中将は「君はアメリカと戦争しているのか、日本の海軍と戦っているのか」と尋ねた。それほど日本の陸海軍はひどい対立だった。

 ところが、大西中将は陸軍がどうの、海軍がどうのと、一度も口にしたことが無かったという。

 昭和19年7月22日、軍需省航空兵器総局総務局長の大西中将は米内光政海軍大臣の官邸を訪ねた。

 大西中将は大きな巻紙と太い筆を持ってきた。それを米内海軍大臣の前で広げると、筆にたっぷり墨をふくませて「海軍再建」と巻紙一杯に書いた。

104.大西瀧治郎海軍中将(4)山口少将は盃を投げつけ、徳利をつかんで大西少将に打ちかかった

2008年03月21日 | 大西瀧治郎海軍中将
 その日、横須賀の料亭で飲んでいたが、新田大尉は大西大佐が日頃の言動からすれば決起した青年将校に少しは共鳴すると思ったのに、かえって訓戒的態度をとったのは甚だおもしろくないと言い出した。

 新田大尉は居合わせた大西大佐に「あなたの血は赤誠の赤い血ではなく灰色に濁った血だ」とからみ始めた。

 すると大西大佐は「この野郎、灰色の血か赤い血か見せてやる」と新田大尉につかみかかり、大佐と大尉は四つに組んだまま階段から転がり落ちた。

 その後、昭和12年8月、新田大尉は渡洋爆撃に参加、爆撃隊長として不帰の客となった。大西大佐は通夜の席に駆けつけ、新田大尉の写真の前に一睡もせずに端座し続けた。

 それから七年後、大西海軍中将は軍需省航空兵器総務局次長として、朝日講堂で「血闘の前線に応えん」という講演を行なっているが、この中で「美談のある戦争はいけない」と述べている。

 「だいたい非常に勇ましい挿話がたくさんあるようなのは決して戦いがうまくいっていないことを証明しているようなものである」

 「たとえば、足利・北条が楠木正成に対して、事実は勝った場合がそれである。足利や北条の方には目ざましい武勇伝なり、挿話なりというものはなくて、かえって楠木方に後世に伝わる数多い悲壮な武勇伝がある」

 「だから勇ましい新聞種が沢山できるということは、戦局からいって決して喜ぶべきことではない」などと話した。

 昭和15年重慶に入った蒋介石軍に対して、第一、第二および南支連合航空隊が合同して一挙に攻撃することになった。

 各航空隊の司令官が漢口に集まり、曙荘というクラブで飲んだ。山口多門少将、大西瀧治郎少将、寺岡謹平少将、それに特務機関長の左近直允少将である。いずれも海軍兵学校の同期生である。

 先任の山口多門が中央から司令を受けているので「重慶爆撃は各国大使館もあることだし、慎重にやらないといかんぜ」と念を押した。

 これが大西少将の癇に触った。「なにをいうか、日本は今戦争をしているんだ。イギリスだって、ヨーロッパで負けかかっているではないか。アメリカも戦争に文句はあるまい。絨毯爆撃で結構だ」と言った。

 山口少将は「大西、馬鹿なことをいうんじゃない」と応じた。

 すると大西少将は「ふん、へっぴり腰。だいいち貴様のところのあの飛行機はなんだ。古くてガタガタじゃないか」

 そう言ったとたんに山口少将は盃を投げつけ、徳利をつかんで大西少将に打ちかかった。寺岡少将と左近少将が止めようとしたが、二人は取っ組み合いの大喧嘩になった。

 そのあと二人はなんとか和解をしてまた飲みなおした。山口少将は「おれも徹底的に叩きたいのだが、中央が重慶は慎重にやれというんだ」と告白すると、大西少将が「それが戦争だよな、山口」と言って、酒を飲み続けた。

103.大西瀧治郎海軍中将(3) だから緒戦の奇襲攻撃はやってはならない

2008年03月14日 | 大西瀧治郎海軍中将
 艦隊派は加藤寛治大将(海兵十八期)、末次信正大将(海兵二十七期)を中心として艦隊決戦を考えている派で、大西大佐の戦艦無用論の反対の派であった。その二人の大将が担ぎ上げておられるのが、軍令部総長の宮殿下であった。

 その後昭和13年4月、吉岡大尉は台湾嘉義の陸軍練兵場で爆弾投下の研究をやっていた。大西大佐がわざわざその研究を見に来た。

 そのとき大西大佐は「僕はね、海軍をやめることは、何とも無かった。しかし、君たちを辞めさすことは絶対にやってはならぬと思ったから、何も言わなかった。私の考えは今も全く変わっていないよ」

 「私の具申は通らなかった。そして叱られたよ。注意を受けたよ。大和は呉、武蔵は長崎で絶対秘密として建造しているよ」と言った。

 「丸別冊・回想の将軍・提督」(潮書房)の「日本の敗戦を予言した大西瀧治郎中将」によると、昭和16年9月29日、第一航空艦隊と第十一航空艦隊両司令部の、ハワイ奇襲攻撃実施の可否についての合同会議が鹿屋航空隊で開催された。

 第一航空艦隊は司令長官が南雲忠一中将(海兵三十六期)、参謀長が草鹿龍之介少将(海兵四十一期)、第十一航空艦隊は陸上航空部隊群で、司令長官が塚原二四三中将(海兵三十六期)、参謀長が大西瀧治郎少将(海兵四十期)であった。

 この会議ではハワイ奇襲攻撃に幕僚全員が反対であった。大西参謀長は山本五十六連合艦隊司令長官が最初にハワイ奇襲について密かに相談した人物である。

 だが、その会議で大西参謀長が発言した。全員固唾を呑んで聞いた。

 大西参謀長は「わしはねえ」と関西弁丸出しで話を始めた。「米国との戦争でハドソン川で日本海軍が観艦式はできないから、どうしても途中で講和を結ぶことを考えなくてはならない」。これは日本は負けるということであった。

 「講和を結ぼうとするとき、日本が米本土にも等しいハワイ奇襲攻撃をやると、米国の世論が硬化して絶対に和を結ぶことを聞いてくれない。だから緒戦の奇襲攻撃はやってはならない」

 この会議で、両司令長官もハワイ奇襲攻撃に反対した。10月2日、両参謀長と源田実、吉岡少佐の四人は両司令長官の反対の意を持って、柱島停泊中の長門に行って山本五十六長官に進言した。

 山本長官は固い決意で言った。「君らがやらないのなら、わしが行く」と。

 「特攻の思想 大西瀧治郎伝」(文藝春秋)によると、昭和11年の2.26事件のとき、大西海軍大佐は横須賀海軍航空隊副長兼教頭の職にあった。

 大西大佐は部下が青年将校に同調の色を見せる者があると、殴り飛ばして訓戒を与えた。

 後日、大西の訓戒的態度がおもしろくないと、新田慎一大尉が食ってかかった。新田大尉は大西大佐が日頃目をかけていた飛行機乗りだった。

102.大西瀧治郎海軍中将(2)大和、武蔵はまったく無用の長物だ。ウドの大木だ

2008年03月07日 | 大西瀧治郎海軍中将
 軍令部が戦艦大和を建造することを決定した昭和10年頃、大西大佐は軍令部の第二部に座り込み、部長の古賀峯一少将に食い下がったことがある。

 「今日、戦艦を新造することは、自動車の時代に八頭建ての馬車を作るようなものだ。だいいち、税金を納める国民に申し訳が立つまい」と主張した。

 古賀少将は「大国の皇帝ともなれば、新しい八頭建ての馬車一台も必要だろう」と応酬した。

 大西大佐は「それなら四頭建ての建ての馬車一台にしたらどうですか。大和、武蔵の一方を廃して、かつその排水量を五万トン以下にすれば、その余力で空母三隻ができるのです」と熱烈に提言した。

 だが古賀少将はそれでも首を縦に振らなかった。

 「丸別冊・回想の将軍・提督」(潮書房)に元第二十六航空戦隊先任参謀・海軍中佐の吉岡忠一氏(海兵五十七期)が「日本の敗戦を予言した大西瀧治郎中将」と題して寄稿している。

 昭和12年4月9日、吉岡大尉は横須賀海軍航空隊高等科飛行学生に選ばれ、航空戦術を勉強していた。

 そこへ突然、大西瀧治郎航空本部総務部長から電話があり、「明日10日午後、話したいことがあるから、君のクラスの飛行機の者数名と東京芝水交社に来てくれ。こちらは、海軍大学の安延多計夫(海兵五十一期)と源田実(海兵五十二期)を呼んでおく」と呼び出しが掛かった。

 4月10日、吉岡大尉ら八名は水交社に集まった。大西大佐は出席者を鋭い眼で睨むように話し始めた。

 「わが国の想定敵国は米国である。わが海軍の作戦思想は『逸を以て労を迎え討つ』との邀撃作戦で、明治三十八年日本海海戦いらい昭和十二年現時点まで、まったく変わっていない」

 「この時期に軍令部や海軍省の偉い方が、大学出(海軍大学校出身者)の兵隊さんたちの意見により密かに排水量七万トンの大和、武蔵の建造を計画し、いよいよ予算を取り実行に移そうと言っている」

 「私は大至急この計画を中止するように意見具申する。これが日本のためにいちばん大事なことと信ずる。国のために命を張ってやる」

 「大和、武蔵はまったく無用の長物だ。ウドの大木だ。一隻の建造費は二億円かかる。二隻で約四億円だ。四億円あれば何ができるか。鹿屋の飛行場、あの大飛行場をつくるのに五百万円かかる。難攻不落の対空防御砲火を設備して約一千万円」

 「二億円あれば二十箇所の飛行場ができる。あと二億円あれば新鋭の戦闘機と爆撃機を各飛行場に展開できる」

 「今、無用の不沈戦艦を建造するのをやめて、航空軍備の充実に努めることをやらなければ、米国との戦争は必ず負ける」

 大西大佐はそう言って話を締めくくった。吉岡大尉ら一同は感謝感激して解散した。

 ところが十日後、吉岡大尉は突然、横須賀航空隊司令・杉山俊亮少将(海兵三十五期)から呼び出しを受けた。そして厳重注意を受けた。

 「軍令部総長の宮殿下の厳命である。今後、海軍軍備の問題を口にしないように。君は惜しい人間である。しかし、この問題を口にするようなことがあったら、海軍をやめてもらう。ほかの者にも君から伝えておくように」