海相・西郷従道元帥が軍務局長・山本権兵衛中将に海軍大臣就任を承諾させた経緯は、次のようなやりとりがあった。
西郷元帥「おはんを海軍大臣にして、おいは内務と思っちょたが、おはんが引き受けんなら、おいも御免じゃ」。
山本中将「止むを得もはん、引き受けもそ。じゃどん、外交に関することは、必ずおいに相談してもらいたか思めもすが」。
西郷元帥「よか。山縣さんと青木(周蔵外務大臣)さんに約束させもそ」。
最初に山本権兵衛中将が辞退したのは、まだ早いと思ったこともあったが、長州閥の領袖であり、官僚的で権謀性があり、陸主海従の内閣総理大臣・山縣有朋元帥を好きではなかったのだ。
武田秀雄(たけだ・ひでお)海軍機関中将(高知・海軍機関学校旧二期・フランス留学・防護巡洋艦「厳島」乗組・日清戦争・軍令部第二局・機関少監・フランス駐在・艦政本部・海軍教育本部第二部長・機関大監・海軍火薬廠製造部長・機関少将・海軍教育本部第三部長・機関中将・海軍機関学校長・予備役・三菱造船会長・三菱内縁機製造会長・三菱電機初代会長・勲四等瑞宝章・フランスレジオンドヌール勲章シェヴァリエ)は、予備役編入後、三菱電機初代会長など、実業家として活躍した稀有の軍人である。
その武田機関中将が、山本権兵衛海軍大将が死去した翌年の昭和九年六月、山本権兵衛大将について、次の様に述べている。
「かつて、山本大将は、人から『近代の偉人は?』と聞かれ、山本大将は、『往年は大西郷を崇拝した。近年は、西郷従道を補佐して働いたが、従道候は寛仁宏量、大度の人であった。よくあらゆる人を容れられた。学ぶところが大いにある。両西郷のほかは伊藤(博文)公だ。公は海軍をよく理解して、公平無私の偉大な人だった』と、語られた」。
小栗孝三郎(おぐり・こうざぶろう)海軍大将(石川・海兵一五・五番・海大二・英国駐在・潜水母艦「韓崎」艦長・大佐・巡洋艦「鈴谷」艦長・防護巡洋艦「音羽」艦長・水路部測器科長・海軍省副官・戦艦「香取」艦長・艦政本部第一部長・少将・在英国大使館附武官・軍務局長・第一特務艦隊司令官・中将・呉工廠長・第三艦隊司令長官・舞鶴鎮守府司令長官・大将・正三位・フランス共和国レジオンドヌール勲章グラントフィシェ等)は、明治三十四年当時、海軍大臣・山本権兵衛中将の秘書官だった。
昭和九年六月二十五日、小栗大将は、山本権兵衛大将について、次の様に語っている。
「山本大将は伊藤博文公と西郷従道候を尊敬しておられた。他の人のことを話す時は敬称をつけないことが多かったが、この二人には必ず『さん』をつけていた」。
山本権兵衛中将が、第二次山縣有朋内閣の海軍大臣に就任する前のある日の話。宮中の廊下で、山縣有朋元帥に出会った山本権兵衛中将が、「やあ、山縣君、しばらく」と声をかけ、山縣元帥を鼻白ませた。山縣元帥六〇歳、山本中将四六歳だった。
明治三十一年十一月八日、第二次山縣有朋内閣の海軍大臣に就任した山本権兵衛中将は、海軍部内の重要役職者の刷新を決行した。年齢・経歴よりも、実力により、新しく任命した。
海軍次官は、明治二十三年五月以来、五十八歳の伊藤雋吉(いとう・しゅんきち)中将(京都・維新後海軍兵学寮中教授・海軍少佐・通報艦「春日」艦長・中佐・コルベット「筑波」艦長・海軍兵学校次長・装甲艦「金剛」艦長・大佐・海軍兵学校長・少将・横須賀造船所長・艦政局長・海軍参謀部長・第二局長・海軍次官・中将・海軍次官・軍務局長・海軍次官・男爵・中将・海軍次官・予備役・貴族院議員・勲一等瑞宝章・フランス共和国レジオンドヌール勲章コマンド―ル等)だった。
山本海軍大臣は、この伊藤次官に勇退してもらい、四十歳の防護巡洋艦「厳島」艦長・斎藤実(さいとう・まこと)大佐(岩手・海兵六・三番・大佐・防護巡洋艦「秋津洲」艦長・防護巡洋艦「厳島」艦長・海軍次官・少将・海軍総務長官兼軍務局長・海軍次官・中将・海軍次官兼軍務局長兼艦政本部長兼教育本部長・海軍大臣・男爵・大将・予備役・朝鮮総督・子爵・ジュネーヴ会議全権・枢密顧問官・首相・内大臣・議定官・暗殺・従一位・大勲位菊花大綬章・ロシア帝国白鷲勲章等)を、海軍次官に抜擢した。
また、山本権兵衛中将の後任の軍務局長に任命されたのは、山本権兵衛中将と海軍兵学寮同期の海軍軍令部次長・諸岡頼之(もろおか・よりゆき)少将(東京・海兵二・海軍参謀部第一課員・大佐・コルベット「大和」艦長・コルベット「迅鯨」艦長・造兵廠長・防護巡洋艦「吉野」艦長・水雷術練習所長・少将・軍令部次長・軍務局長・教育本部長・常備艦隊司令官・中将・正四位・勲三等・功四級)だった。
上位の斎藤実海軍次官(四十歳)が大佐で、下位の諸岡頼之軍務局長(四十七歳)が少将では逆だが、法規上では、海軍省の役職は階級に無関係とされていたので、山本権兵衛海軍大臣はそれを利用したのである。
西郷元帥「おはんを海軍大臣にして、おいは内務と思っちょたが、おはんが引き受けんなら、おいも御免じゃ」。
山本中将「止むを得もはん、引き受けもそ。じゃどん、外交に関することは、必ずおいに相談してもらいたか思めもすが」。
西郷元帥「よか。山縣さんと青木(周蔵外務大臣)さんに約束させもそ」。
最初に山本権兵衛中将が辞退したのは、まだ早いと思ったこともあったが、長州閥の領袖であり、官僚的で権謀性があり、陸主海従の内閣総理大臣・山縣有朋元帥を好きではなかったのだ。
武田秀雄(たけだ・ひでお)海軍機関中将(高知・海軍機関学校旧二期・フランス留学・防護巡洋艦「厳島」乗組・日清戦争・軍令部第二局・機関少監・フランス駐在・艦政本部・海軍教育本部第二部長・機関大監・海軍火薬廠製造部長・機関少将・海軍教育本部第三部長・機関中将・海軍機関学校長・予備役・三菱造船会長・三菱内縁機製造会長・三菱電機初代会長・勲四等瑞宝章・フランスレジオンドヌール勲章シェヴァリエ)は、予備役編入後、三菱電機初代会長など、実業家として活躍した稀有の軍人である。
その武田機関中将が、山本権兵衛海軍大将が死去した翌年の昭和九年六月、山本権兵衛大将について、次の様に述べている。
「かつて、山本大将は、人から『近代の偉人は?』と聞かれ、山本大将は、『往年は大西郷を崇拝した。近年は、西郷従道を補佐して働いたが、従道候は寛仁宏量、大度の人であった。よくあらゆる人を容れられた。学ぶところが大いにある。両西郷のほかは伊藤(博文)公だ。公は海軍をよく理解して、公平無私の偉大な人だった』と、語られた」。
小栗孝三郎(おぐり・こうざぶろう)海軍大将(石川・海兵一五・五番・海大二・英国駐在・潜水母艦「韓崎」艦長・大佐・巡洋艦「鈴谷」艦長・防護巡洋艦「音羽」艦長・水路部測器科長・海軍省副官・戦艦「香取」艦長・艦政本部第一部長・少将・在英国大使館附武官・軍務局長・第一特務艦隊司令官・中将・呉工廠長・第三艦隊司令長官・舞鶴鎮守府司令長官・大将・正三位・フランス共和国レジオンドヌール勲章グラントフィシェ等)は、明治三十四年当時、海軍大臣・山本権兵衛中将の秘書官だった。
昭和九年六月二十五日、小栗大将は、山本権兵衛大将について、次の様に語っている。
「山本大将は伊藤博文公と西郷従道候を尊敬しておられた。他の人のことを話す時は敬称をつけないことが多かったが、この二人には必ず『さん』をつけていた」。
山本権兵衛中将が、第二次山縣有朋内閣の海軍大臣に就任する前のある日の話。宮中の廊下で、山縣有朋元帥に出会った山本権兵衛中将が、「やあ、山縣君、しばらく」と声をかけ、山縣元帥を鼻白ませた。山縣元帥六〇歳、山本中将四六歳だった。
明治三十一年十一月八日、第二次山縣有朋内閣の海軍大臣に就任した山本権兵衛中将は、海軍部内の重要役職者の刷新を決行した。年齢・経歴よりも、実力により、新しく任命した。
海軍次官は、明治二十三年五月以来、五十八歳の伊藤雋吉(いとう・しゅんきち)中将(京都・維新後海軍兵学寮中教授・海軍少佐・通報艦「春日」艦長・中佐・コルベット「筑波」艦長・海軍兵学校次長・装甲艦「金剛」艦長・大佐・海軍兵学校長・少将・横須賀造船所長・艦政局長・海軍参謀部長・第二局長・海軍次官・中将・海軍次官・軍務局長・海軍次官・男爵・中将・海軍次官・予備役・貴族院議員・勲一等瑞宝章・フランス共和国レジオンドヌール勲章コマンド―ル等)だった。
山本海軍大臣は、この伊藤次官に勇退してもらい、四十歳の防護巡洋艦「厳島」艦長・斎藤実(さいとう・まこと)大佐(岩手・海兵六・三番・大佐・防護巡洋艦「秋津洲」艦長・防護巡洋艦「厳島」艦長・海軍次官・少将・海軍総務長官兼軍務局長・海軍次官・中将・海軍次官兼軍務局長兼艦政本部長兼教育本部長・海軍大臣・男爵・大将・予備役・朝鮮総督・子爵・ジュネーヴ会議全権・枢密顧問官・首相・内大臣・議定官・暗殺・従一位・大勲位菊花大綬章・ロシア帝国白鷲勲章等)を、海軍次官に抜擢した。
また、山本権兵衛中将の後任の軍務局長に任命されたのは、山本権兵衛中将と海軍兵学寮同期の海軍軍令部次長・諸岡頼之(もろおか・よりゆき)少将(東京・海兵二・海軍参謀部第一課員・大佐・コルベット「大和」艦長・コルベット「迅鯨」艦長・造兵廠長・防護巡洋艦「吉野」艦長・水雷術練習所長・少将・軍令部次長・軍務局長・教育本部長・常備艦隊司令官・中将・正四位・勲三等・功四級)だった。
上位の斎藤実海軍次官(四十歳)が大佐で、下位の諸岡頼之軍務局長(四十七歳)が少将では逆だが、法規上では、海軍省の役職は階級に無関係とされていたので、山本権兵衛海軍大臣はそれを利用したのである。