陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

522.永田鉄山陸軍中将(22)側にいた庶務将校は、身に冷や汗を覚えて恐縮した

2016年03月25日 | 永田鉄山陸軍中将
 第二部長時代の永田鉄山少将は、将軍になっても、その執務ぶりは、課長時代と少しも変わらなかった。

 当時、満州経済建設のため、陸軍省、参謀本部合体で編成した満蒙委員会の一人に、永田少将の部下の一部員がなっていた。

 部下の委員が「満州の経済建設は計画的に進み、国家経済の理論的建設によって日本の跛行(はこう)経済を矯正せねばならぬ」との永田少将の厳然たる指示により満州の炭業統制問題につき一案を書きあげ、委員会に臨んだ。跛行経済とは足並みの揃っていない、不釣り合いな経済状態をいう。

 ところが、委員会では、議論百出で、ついに大勢に押されて、「非常情勢に応ずるため急速に開発を要する企業は、不本意ながら財閥資本の急速入満を要す」という議案に決しそうになった。

 その日の委員会が終わると、部下の委員は直ちに第二部長室に行き、部長の永田少将に委員会の顛末を報告した。

 報告を聞き終わった永田少将は、部下の委員に、ゆっくりと、時間をかけて、その議案の不可であることを、説いた。そして最後に次のように言った。

 「一歩譲ると万歩退却の因をなす。満州の経済開発はその基本部門において、軍は厳然として素志の貫徹を期し、それによって財閥、政党を覚醒せしめ得るにあらずや」。

 永田少将のこのような考えは、政党の腐敗と財閥の横暴とは、いつかは抜本塞源(彼が常に用いた言葉)の大改革をしなければならない、との主張が含まれていた。塞源とは弊害などの生じる根本の原因をなくすことである。

 ある時、永田少将自ら、ある人物と面会を約束していたが、そのことを庶務将校に告げていなかったので、その人物が第二部長・永田少将を訪ねて来た時、取り次がれた庶務将校は「部長は要談中である」と、独断でその客を帰してしまった。

 あとで、その事を報告すると、永田少将は「それはしまった、実は……」と言ったきりだった。翌日その人物が再び面会に来た際、庶務将校のことには一切触れることなく、永田少将は「昨日は手離せない要務突発のため失礼」と挨拶した。側にいた庶務将校は、身に冷や汗を覚えて恐縮したが、同時に、自然と頭が下がった。

 公務上処することには極めて謹厳な永田少将は、敬礼においても常に極めて厳格だった。部長室に頻繁に出入りする部員に対して、永田少将はいかに繁忙な時でも、正確な答礼をした。

 また、廊下などで、給仕が敬礼しても、少しも変わらぬ立派な答礼をするのが常であった。この点は、海軍の山本五十六元帥と同様であった。

 第二部長・永田少将は、部下から提出される作業は、思い切って修正を行なった。その反面、その作業を生かすことにも苦心をし、部下の使った文字を一句でも活用するよう心掛けてはいた。

 だが、あまりの修正の多さに、また永田少将の苦心を解せない若い部員たちは、宴会の席などで、この大修正について、不平を漏らした。それを耳にした、永田少将は彼らに次のように諭した。

 「そのことはよく判っているが、自分は幕僚だから上官に御迷惑をかけることはできないので、良心の命ずるままに君たちの作業を修正するが、自分が隊長になればまた別の態度を取るつもりだ」。

 ところで、永田鉄山少将と、小畑敏四郎少将の対立の構図と軌跡をたどってみる。昭和七年四月、永田鉄山大佐と小畑敏四郎大佐は、ともに少将に進級し、永田少将は参謀本部第二部長(情報)に、小畑少将は第三部長(運輸・通信)に、それぞれ、就任した

 この頃から、二人の間に亀裂が入って来た。「昭和陸軍の軌跡」(川田稔・中公新書)によると、当初、永田少将ら「一夕会」は陸軍主流の宇垣系に対抗して、非宇垣系である荒木貞夫中将、真崎甚三郎中将らを擁立し、陸軍の実権を把握しようとした。

 だが、昭和六年十二月荒木中将が陸軍大臣に、昭和七年一月真崎中将が参謀次長となるや、「一夕会」の土佐系(小畑敏四郎大佐、山下奉文大佐、山岡重厚大佐など)や佐賀系(牟田口廉也中佐、土橋勇逸中佐など)を一気に抱き込み、彼らを有力ポストに着けて皇道派を形成した。

 これにより、「一夕会」に亀裂が入り、永田少将ら「一夕会」主流は、荒木陸軍大臣、真崎参謀次長らをコントロールすることが困難になり、皇道派がヘゲモニーを掌握することになった。

 一方、永田少将のもとには、東條英機、武藤章、富永恭次、池田純久、影佐禎昭、四方諒二、片倉衷、真田穰一郎、西浦進、堀場一雄、服部卓四郎、永井八津次、辻政信ら中堅少壮の中央幕僚が集まっていた。

 ただ、真崎参謀次長らも、「一夕会」の完全な分裂は、自らの基盤を弱体化させることになるため、その後も強力な永田少将らとの完全な疎隔は避けようとしていた。




521.永田鉄山陸軍中将(21)閑院宮載仁参謀総長と真崎参謀次長との間に溝が生じてしまった

2016年03月18日 | 永田鉄山陸軍中将
 昭和六年十二月犬養内閣成立と共に、荒木貞夫(あらき・さだお)中将(東京・陸士九・陸大一九首席・陸軍大学校兵学教官・兼元帥副官・ロシア軍従軍・中佐・参謀本部附・ハルピン特務機関大佐・浦塩派遣軍参謀・歩兵第二三連隊長・参謀本部欧米課長・少将・歩兵第八旅団長・憲兵司令官・参謀本部第一部長・中将・陸軍大学校長・大六師団長・教育総監部本部長・陸軍大臣・大将・男爵・予備役・内閣参議・文部大臣・A級戦犯で終身刑・釈放・従二位・勲一等・功三級・男爵)が陸軍大臣に就任した。 

 これは、「三月事件」「十月事件」などで、重臣や政党、財界などが、中堅幕僚、青年将校層の急進的な行動に恐怖を感じ、彼らに人気のある荒木中将を登用し、行動を鎮めようとした。

 「二・二六事件・第一巻」(松本清張・文藝春秋)によると、荒木中将は皇道派の先頭に立っている人物であり、生来の陽気な性格から、国粋主義を吹聴していたので、青年将校たちの人気を集めるようになった。

 一方、政党や財界は、荒木中将なら部内の急進分子を抑えることが出来ると期待した。ここに荒木中将の人気の矛盾があった。この矛盾のため、結局、彼は両方とも満足させることが出来なかった。

 昭和七年一月、陸軍大臣となった荒木中将は、陸士、陸大ともに同期で、同じ皇道派、親友の真崎甚三郎(まさき・じんざぶろう)中将(佐賀・陸士九・陸大一九恩賜・陸軍省軍務局軍事課長・近衛歩兵第一連隊長・少将・歩兵第一旅団長・陸軍士官学校本科長・陸軍士官学校教授部長兼幹事・陸軍士官学校長・中将・第八師団長・第一師団長・台湾軍司令官・参謀次長・大将・教育総監・従二位・勲一等・功三級)をさっそく参謀次長に据えた。

 満州事変以来、参謀総長と軍令部長には皇族を置いたが、これは内部的には派閥対立の感傷的な意味があり、外部的には軍の威信を示す象徴的な意味があった。

 だから実際の権限は参謀次長にあった。皇族に責任を負わせないという建前からも真崎参謀次長は事実上の参謀総長だった。

 このため、真崎参謀次長が自分をさし置いて権限を振り回すのを不満とした閑院宮載仁参謀総長と真崎参謀次長との間に溝が生じてしまった。

 また、昭和七年二月から八月にかけて、陸軍大臣・荒木中将は次のような陸軍人事を行なった。彼らは、やがて、荒木中将を筆頭に、皇道派を結成することになる幕僚であった。

 人事局長に同じ皇道派の松浦淳六郎(まつうら・じゅんろくろう)少将(福岡・陸士一五・陸大二四・参謀本部庶務課長代理・歩兵大佐・歩兵第一三連隊長・教育総監部庶務課長・陸軍省副官・少将・歩兵第一二旅団長・陸軍省人事局長・中将・陸軍歩兵学校長・第一〇師団長・予備役・賀陽宮家別当・第一〇六師団長・従三位・勲一等・功五級)。

 軍事課長に山下奉文(やました・ともゆき)大佐(高知・陸士一八・陸大二八恩賜・歩兵第三連隊長・陸軍省軍務局軍事課長・少将・陸軍省軍事調査部長・歩兵第四〇旅団長・支那駐屯混成旅団長・中将・北支那方面軍参謀長・第四師団長・陸軍航空総監・遣ドイツ視察団長・関東防衛軍司令官・第二五軍司令官・大将・第一四方面軍司令官・戦犯によりマニラで死刑)。

 教育総監部本部長に香椎浩平(かしい・こうへい)中将(福岡・陸士一二・陸大二一・歩兵第四六連隊長・少将・陸軍戸山学校長・支那駐屯軍司令官・中将・教育総監部本部長・第六師団長・東京警備司令官・兼戒厳司令官・予備役)。

 憲兵司令官に秦真次(はた・しんじ)中将(福岡・陸士一二・陸大二一・歩兵第二一連隊長・第三師団参謀長・東京警備参謀長・少将・歩兵第一五旅団長・陸軍大学校兵学教官・奉天特務機関長・第一四師団司令部附・中将・東京湾要塞司令官・憲兵司令官・第二師団長・予備役)。

 参謀本部作戦課長(二度目)に小畑敏四郎(おばた・としろう)大佐(高知・陸士一六・陸大二三恩賜・歩兵第一〇連隊長・陸軍大学校兵学教官・参謀本部作戦課長・少将・参謀本部第三部長・近衛歩兵第一旅団長・陸軍大学校監事兼兵学教官・陸軍大学校長・中将・予備役・留守第一四師団長・国務大臣)。

 陸軍次官に柳川平助(やながわ・へいすけ)中将(佐賀・陸士一二・陸大二四恩賜・騎兵第二〇連隊長・参謀本部演習課長・少将・騎兵第一旅団長・陸軍騎兵学校長・騎兵監・中将・陸軍次官・第一師団長・台湾軍司令官・予備役・第一〇軍司令官・興亜院総務長官・司法大臣・国務大臣)。

 軍務局長に山岡重厚(やまおか・しげあつ)少将(高知・陸士一五・陸大二四・歩兵第二二連隊長・教育総監部第二課長・少将・歩兵第一旅団長・陸軍省軍務局長・中将・第九師団長・予備役・第109師団長・善通寺師管区司令官)。

 この時、永田鉄山大佐は陸軍省軍務局軍事課長(昭和五年八月~)だったが、昭和七年四月、永田鉄山大佐は少将に進級し、参謀本部第二部長に就任した。同時に小畑敏四郎大佐も少将に進級し、参謀本部第三部長に就任した。







520.永田鉄山陸軍中将(20)小畑敏四郎さんの方が、永田さんよりもよっぽど偉い

2016年03月11日 | 永田鉄山陸軍中将
 「昭和陸軍秘史」(中村菊男・番町書房)によると、荒木貞夫大将について、有末精三(ありすえ・せいぞう)元中将(北海道・陸士二九恩賜・陸大三六恩賜・陸軍省軍務局軍務課長・北支那方面軍参謀副長・少将・参謀本部第二部長・戦後対連合軍陸軍連絡委員長・日本郷友連盟会長)は次のように述べている。

 荒木さんが陸軍大臣になって一番力を入れられたのは、やっぱり陸軍の皇道精神ですね。つまり、わが陸軍は単純なものじゃない、大元帥の本当の股肱としての陸軍なんだ、その精神をよく覚えていろという意味で、皇軍精神ということを非常に唱えたのです。

 その時分に、参謀本部に小畑敏四郎という人がいました。第三部長でしたが、荒木さんと非常に仲がいいから、直接陸軍省においでになるので、いろいろの話が出たんでしょう。

 やっぱり、陸軍省なら陸軍省で組織があってやっておるのに、参謀本部からしばしば来るので、省内の人にあまり面白くない感じを与えたことはあると思いますが、派閥という感じはなかった。

 それから、荒木さんは性格からいって非常に人を見込まれました。それだから、つい好き嫌いが出てくるんじゃないかと私は思うのです。

 その点、一番荒木さんが信頼されたし、何といったって、もののできるのは小畑敏四郎さんだという頭、これは変わらないでしょうね。

 今でも荒木さんは小畑敏四郎さんの方が、永田さんよりもよっぽど偉いと思っておられましょう。だから非常に小畑さんを重用されたという事は事実です。

 以上が有末精三元中将の回顧談だが、著者の中村菊男氏の「永田さんを嫌った理由というのは、どういうところにあるのでしょうか?」という質問に対して、有末精三元中将は次の様に答えている。

 「それは、ぼくにはわからないんですけれどもね。そのもとは、小畑さんとの関係じゃないかと思うのです」。

 「軍閥」(大谷敬二郎・図書出版社)によると、小畑敏四郎は土佐の出身で、小畑の父は維新の時、討幕に奔走した功により、明治政府より男爵を受けていた。

 小畑の長兄、小畑大太郎は、長く貴族院議員(男爵)をしており、また、小畑利四郎の夫人は衆議院議長・元田肇(後に枢密顧問官)の娘だった。

 こうした家門の関係から、小畑敏四郎は佐官時代から、貴族院方面の政治家と近づきがあり、近衛文麿とは、最も親しい間柄だった。

 この小畑敏四郎の頭脳と手腕を買ったのが、真崎甚三郎であり、荒木貞夫であった。そして小畑は荒木、真崎の皇道派陣営に飛び込んで、その謀将となり、中心人物となって、永田鉄山ら統制派と対立していく。「バーデン・バーデンの密約」から十年目のことである。

 このような背景もあり、荒木陸軍大臣は、永田大佐より、小畑大佐の方を重用した。中佐時代にすでに作戦課長をやっている小畑大佐を、陸軍大学校教官から再び参謀本部の作戦課長にするという異例な人事さえ、敢えて実施した。

 この人事は、さすがに周囲を驚かし、唖然とさせた。実は荒木陸軍大臣は、そのあとで、小畑大佐を参謀本部第一部長(作戦)に、永田大佐を第二部長(情報)にするつもりだった。

 当時の第一部長は古荘幹郎(ふるしょう・もとお)少将(陸士一四・陸大二一首席・近衛歩兵第二連隊長・陸軍省軍務局兵務課長・陸軍省軍務局軍事課長・少将・歩兵第二旅団長・陸軍省人事局長・参謀本部総務部長・参謀本部第一部長・中将・第一一師団長・陸軍次官・陸軍航空本部長・台湾軍司令官・兼第五軍司令官・第二一軍司令官・大将・軍事参議官・正三位・勲一等・功二級)だった。

 ところが、意外にも、小畑大佐は、「第一部長は今の古荘幹郎少将のままでいいです」と言って、第三部長(運輸通信)を希望したのである。

 小畑大佐は、古荘少将を前面に置いてロボットとして、作戦のことは裏で自分が牛耳るつもりだった。つまり影の第一部長になり、同時に第三部長に就任し、参謀本部を動かす、それが小畑大佐の考えだった。
 
 だが、このような、荒木、小畑の野望の前に、最大の”敵”として、頭角を現し、立ち塞がって来るのが陸軍の傑出した英才、永田鉄山と、その盟友、東條英機だった。
 
 永田大佐と小畑大佐は、それぞれ、第二部長、第三部長に就任して以後、その戦略思想の対立もあり、何かにつけて激突するようになっていく。

519.永田鉄山陸軍中将(19)やがて二人の関係は犬猿の仲になっていった

2016年03月04日 | 永田鉄山陸軍中将
 「十月事件」で「桜会」は解体され、中堅幕僚たちの動きも静まって行った。だが、彼ら中堅幕僚たちは、その後のいわゆる「統制派」を構成していく。

 「十月事件」は、その構成分子に三様の区別があった。第一は永田軍事課長ら中央軍部の幕僚であり、第二は、橋本中佐ら中央の幕僚と密接な関係にあった「桜会」に属する将校であり、第三は皇道派青年将校達だった。

 第一と第二は大川周明の指導、第三は北一輝、西田税の影響下にあった。第一、第二は国家社会主義的思想傾向を持ち、第三は天皇主権の絶対的信念下にあった。

 この革新派の思想的対立が「十月事件」以後、「血盟団事件」「五・一五事件」「神兵隊事件」そして「相沢事件」「二・二六事件」となって混乱を重ねていった。

 ところで、永田鉄山(昭和二年三月五日大佐に進級)と小畑敏四郎(昭和二年七月二十六日大佐に進級)は大佐時代に、徐々に交流がなくなり、手紙のやり取りもしなくなった。

 岡村寧次(昭和二年七月二十六日大佐に進級)は二人の仲を取り持つことに努力し続けたが、やがて二人の関係は犬猿の仲になっていった。

 この二人の関係について、鈴木貞一元中将は、戦後、次のように証言している。

 永田という人は、小畑とは非常な性格の相違があるのだが、非常に幅広く物を考えて行動する人で、そういう性格の持ち主であった。

 小畑という人は、とにかく統帥一点張りに物を考えてやっていく狭く深い考えで行く人である。私は両方に仕えているから知っているが、それが二人の性格の差であった。

 その差が、世間が騒ぐようなことになったんだが、本人同志は別に何という事はないように覚えている。ただ性格の差から物の考え方に相違ができているという程度で、世間でいうような派閥の関係とかそういうようなことは一つもない。

 以上が鈴木貞一元中将の見解だが、戦後の記述なので、意図的な配慮があるのだろうが、「性格の差」を素因とした一面的な見方でしか述べていない。

 実際は永田と小畑の、派閥的(統制派と皇道派)対立、軍歴(軍政畑と軍令畑)の違い、戦略(対支戦重視と対ソ戦重視)の相違など、もっと複雑多肢に渡った原因から来ている。

 二人の関係の悪化が顕著になって来たのは、昭和六年十二月、荒木貞夫(あらき・さだお)中将(東京・陸士九・陸大一九首席・歩兵第二三連隊長・参謀本部欧米課長・少将・歩兵第八旅団長・憲兵司令官・参謀本部第一部長・中将・陸軍大学校長・大六師団長・教育総監部本部長・陸軍大臣・大将・男爵・予備役・内閣参議・文部大臣・A級戦犯で終身刑・釈放)が犬養内閣の陸軍大臣に就任したことから始まった。

 それまでの永田大佐の軍歴は、昭和三年三月歩兵第三連隊長。昭和五年八月陸軍省軍事課長(~昭和七年四月)。

 小畑敏四郎大佐の軍歴は、昭和三年八月歩兵第一〇連隊長。昭和五年八月陸軍歩兵学校研究部主事。昭和六年八月陸軍大学校兵学教官(~昭和七年二月)。

 荒木貞夫中将が陸軍大臣に在任中(昭和六年十二月十三日~昭和九年一月二十三日)の二人の軍歴は次の通り。

 永田大佐は、昭和七年四月少将、参謀本部第二部長(情報)。昭和八年八月歩兵第一旅団長。

 小畑大佐は、昭和七年二月参謀本部作戦課長、四月少将、参謀本部第三部長(運輸・通信)。昭和八年八月近衛歩兵第一旅団長。

 「軍閥」(大谷敬二郎・図書出版社)によると、荒木貞夫中将は、参謀本部第一部長、陸軍大学校長、大六師団長(熊本)を歴任し、昭和六年八月教育総監部本部長に転補された。

 その際、東京着任時には、軍の革新将校が出迎えた。また、右翼の歓迎デモが計画されたほど、彼の東京入りは、革新陣営の大きな期待だった。

 そして間もなく、「十月事件」が計画されたが、そのクーデター計画では荒木中将は首相に予定されていた。「革新」における荒木中将の名声は確たるものがあった。

 この荒木中将を犬養内閣に推薦したのは、南次郎陸相だったが、これには教育総監・武藤信義大将の強い要請によるものだった。また、上原勇作元帥もわざわざ組閣本部に犬養を訪ねて、荒木中将の入閣を推薦した。

 青年将校らは、荒木中将の教育総監部本部長時代から、そのもとに集まっていたが、陸軍大臣になるにおよんで、完全にその傘下に入った。