陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

120.花谷正陸軍中将(10) 花谷さんを『アラカンの鬼将軍』とお呼びしたくなった

2008年07月11日 | 花谷正陸軍中将
 軍刀の柄に手をかけたまま長沢少将は言った。

 「花谷がやめるか、私がやめるか、対決しよう」

 栗田高級副官は二人をさえぎった。

 「ぬいたら終わりですぞ」

 宿舎の周りは竹やぶであった。竹やぶの中に二枚のむしろを敷いて、師団長と歩兵団長は向かい合って座り、論戦で対決することになった。

 二人はにらみ合っていたが、やがて、目をそらせた。

 そのまま無言でいたが、少しして花谷師団長が言った。

 「おれが悪かった。あやまる」

 その後、花谷中将は、昭和20年7月9日第39軍参謀長、7月14日第18方面軍参謀長をつとめ、終戦を迎えた。

 「丸別冊、回想の将軍・提督」(潮書房)の中に、「ビルマ戦線の将軍群像」と題して、元ビルマ方面軍参謀、前田博元陸軍少佐が寄稿している。

 その中で、前田氏は花谷師団長の容姿を次のように述べている。

 「容姿全体が、闘魂の固まりとして私の目に映った。私なりに、その精悍な面貌から、花谷さんを『アラカンの鬼将軍』とお呼びしたくなった」

 またその作戦結果について

 「アキャブ方面守備の大任を見事に果たし、とくにインパール主攻勢方面に対する陽動作戦として、プチドン、モンドウ付近の敵に対する攻勢は猛烈を極め、英軍をして二個師団の増援を求めさせた程の戦果をおさめた」

 と評価している。

 「丸別冊、軍司令官と師団長」(潮書房)の中に、元ビルマ第三十三軍参謀・野口省己元陸軍少佐が「ビルマ戦の将軍たち」と題して寄稿している。

 その中で、片倉衷参謀が

 「花谷は物事をかくしだてできない性格なので、重要な機密にわたることは知らせなかった」

 と述べている。

 野口元少佐は辻政信参謀から、花谷師団長にどう仕えたらいいか、次のように教えられた。

 「こちらも軍服を脱ぐが、相手にも軍服を脱がせる覚悟で体当たりすることだ」

 「花谷さんという人は、案外小心で、自分の地位とか、権威の保持に汲きゅうとしているので、相手と心中する覚悟でぶつかれば、相手はコロリと参り、虎は変じて猫のようにおとなしくなる」

 「戦死」(文春文庫)によると、戦後の花谷師団長は「曙会」という憂国同志と称する人々の集まる会を主宰していた。

 晩年は東京の代々木八幡の商店街の二階のひと間に住んでいた。

 花谷元中将が病気になってから、病院に入院した。福富繁元参謀は斉藤元高級参謀を案内して病院に見舞いに行った。

 看護婦は

 「もうおわかりにならないでしょう」

 と病勢が進んでいることを告げた。

 二人が声をかけると、目を開いた。

 何か答えたが、入れ歯をはずしていたので、発音がわからなくて、

 「わかいな」

 というように聞こえた。

 花谷元師団長が亡くなったのは、昭和三十二年八月二十八日であった。病死で、肺臓ガンであった。六十三歳だった。

 葬儀は東京都港区の高野山東京別院で行なわれた。葬儀委員長は満州時代付き合いのあった十河信二国鉄総裁であった。

 友人代表として挨拶したのは、元参謀本部第二部長・有末精三元中将だった。

 政界、財界からは多くの花輪や生花がおくられた。

 その中にひときわ注目をあびた花輪があった。その贈り主は、故人と浅からぬ縁故のあった、時の総理大臣・岸信介であった。

(「花谷正陸軍中将」は今回で終わりです。次回からは「井上成美海軍大将」が始まります)。

119.花谷正陸軍中将(9) なんだ貴様、蒋介石のおかげで少将になれたんじゃないか

2008年07月04日 | 花谷正陸軍中将
 後に兵器部長の人見大佐は花谷師団長から重謹慎三十日の処分を言い渡された。

 そのあと、花谷師団長は人見大佐に

 「貴様はカデットじゃないか」

 と怒鳴りつけた。

 「貴様、カデットの誇りを知れ。カデットのつらよごしだ」

 と殴りつけた。

 人見大佐は兵器部長の部屋に帰っていった。しばらくして、銃声が響いた。栗田中佐は急いでかけつけた。

 人見大佐は寝台の上に横たわっていた。右手には小型のコルトを握っていた。

 額から血が流れていた。四十九歳であった。死亡の広報には次のように記されている。

 「昭和十九年八月二十五日、ビルマ、アキャブ県ノータンゴにおいて、頭部貫通銃創のため戦死」

 死亡した人見大佐に少将に進級の手続きがとられたのは、戦後の昭和三十一年であった。

 「戦死」(文春文庫)によると、昭和20年3月、鳥取の歩兵第百十一連隊の長沢貫一連隊長は第百十位連隊はアキャブ南方のラムリー島で連合軍の上陸に対し防戦を行なった。

 その直後、長沢大佐は少将に進級し、第五十五歩兵団長に任命され、転出した。長沢少将は夜も寝ないでラムリー島の戦況を心配していた。

 長沢少将は部下を思い涙を流した。栄転も意中になくただ残る将兵に気を引かれていた。そういう軍人であった。

 このようにして長沢少将はヘンザダの五十五師団司令部に着任した。花谷師団長は自分の宿舎に迎えた。

 花谷師団長、参謀ら司令部の幕僚が列席して、長沢歩兵団長の歓迎の宴が開かれた。

 花谷師団長はゆかたを着込んで機嫌が良かったが、沈痛な長沢少将の胸中を思いやろうとはしなかった。

 花谷師団長は、長沢少将にいきなり

 「なんだ貴様、蒋介石のおかげで少将になれたんじゃないか。無天の低能め」

 と、いつものように、陸軍大学校の卒業生でないことを軽蔑した言葉をはいた。

 長沢少将は気持ちが練れていたので、にやにや笑って聞いていた。

 花谷師団長はさらにしつこくからんだ。

 「平時なら貴様のような低能は閣下になるような人間じゃないぞ」

 長沢少将も、さすがに怒りを押さえかねて

 「私はいかにも無天だ。しかし、歩兵団長としての任務は遂行しているつもりだ。何を言うか。貴様は大阪幼年学校では、俺の後輩じゃないか」

 花谷師団長は顔を赤くして、ビール瓶をつかむと、永沢少将の頭をなぐりかかった。長沢少将はすばやく立ち上がって、軍刀の柄に手をかけた。

118.花谷正陸軍中将(8) 貴様のような、ば、ばかもんが、大佐になれるか。この階級ぬすっと

2008年06月27日 | 花谷正陸軍中将
 大迫大佐は敬礼のやり直しを何回もさせられた。

 「だめだ、貴様は誰に向かって敬礼をしているんだ。俺は師団長だぞ」

 「はい、申し訳ありません」

 大迫大佐は、おどおどして答えた。師団長と年齢も同じであるだけに、ひどくみじめに見えた。

 師団長は許さなかった。

 「やりなおし」。

 炊事場に飯上げに行く時刻だったので、兵たちが沢山見ていた。

 第二次アキャブ作戦が始まる前に、師団司令部で作戦会議が行なわれた。師団長、参謀、各連隊長、各部隊長が列席していた。

 花谷師団長は、出席者に指名して意見を言わせた。

 「山砲連隊長、作戦の対策はどうか」

 井上山砲連隊長が起立して説明を行なった。

 花谷師団長は、

 「なんだ、お前の説明は。上等兵にもおとるぞ。それでよく連隊長になれたな」

 と言ってぎょろりとした赤い目でにらんだ。

 昭和19年6月、アキャブの戦場を下がってきた山砲第三大隊はアンリーの谷間に終結した。この時、師団から弾薬集積所を作る命令を受けた。

 二月以来悪戦苦闘を続けてきたので全員が疲労していた。だが、雨季の雨に打たれながら作り上げた。

 師団兵器部長の人見中佐が視察に来た。弾薬集積所は道路の近くと、密林の中であった。

 ところが後に道路の近くの弾薬集積所が英軍の飛行機に爆撃された。このことで、人見兵器部長は花谷師団長から責任を問われた。

 花谷師団長は毎日、人見中佐を呼びつけて、弾薬集積所の被害について詰問を続けた。人見中佐は連日殴られ顔は青黒く膨れていた。

 兵器部勤務隊長の藤岡大尉が花谷師団長のところへ行って書類を差し出すと、いきなりたたき返された。

 「貴様ら応召の将校に何が分かるか。士官学校を出ていない奴はだめだ。部長を呼べ」

 人見部長が、改めて持って行くと、書類を放り投げられた。書類が間違っていいるというのだった。

 「人見が悪くありました。申し訳ありません」。

 謝っても殴られた。

 人見部長が中佐から大佐に進級したのは「ハ」号作戦が終った後であった。人見部長は花谷師団長に申告に行った。

 「申告いたします。陸軍中佐人見重吉は昭和19年8月1日付けをもって、陸軍大佐に任ぜられました。ここに謹んで申告いたします」

 それを言い終わった途端、人見大佐は花谷師団長の大きなこぶしで殴り倒された。

 「きっ、きっ、貴様のような、ば、ばかもんが、大佐になれるか。この階級ぬすっと」

 人見大佐は乱打されて、口から血を流した。

 「弾薬集積所の管理もできんやつが、大佐に進級するのは、もってのほかだ」

117.花谷正陸軍中将(7) 貴様か、ゆうべ、調子っぱずれな声を出していたのは

2008年06月20日 | 花谷正陸軍中将
 栗田中佐は「低能め、貴様、それでもカデットか」と罵倒された。カデットは陸軍幼年学校出身者の意味だ。花谷師団長は大阪幼年学校で、栗田中佐の先輩であった。

 栗田中佐は一日に数回殴られた。時には激しく乱打された。そのため栗田中佐の顔は赤くはれあがり、血を流し、まともであることはなかった。

 師団の将兵は栗田中佐のゆがんだ顔に目をそむける思いをしながら同情していた。

 もともと栗田中佐は傍若無人で反抗心が強かった。陸軍士官学校在学中、横着な生徒であることを自認してわざと反抗した。

 区隊長の訓辞の時などはわきを向いて、つばをはいたりした。本科の時、区隊長室に呼ばれて、しかられた時があった。

 区隊長は殴るのはもったいないと言って、そばにあったバケツの水を栗田候補生の頭からかぶせた。

 栗田候補生は退校を覚悟で、区隊長に殴りかかろうとした。その時、年をとった母の顔が目の前にあらわれた。母は泣いていた。栗田候補生は、殴ろうとした手をおろし、涙をボロボロ流しながら区隊長室を出た。

 栗田中佐がアキャブの第五十五師団司令部に高級副官として着任すると、師団司令部は異様な空気だった。将兵の動作はいじけ、表情までがおどおどしていた。

 栗田中佐は大いにやってやる、という気概を高くした。その夜の栗田中佐の歓迎の宴では、南方に来たという開放感もあって、さかんに放歌高吟した。

 翌日花谷師団長に呼ばれた。「貴様か、ゆうべ、調子っぱずれな声を出していたのは」花谷師団長は赤い大きな目で、直立不動の栗田中佐を見据えた。

 「高級副官だなどと、いい気になるな」花谷師団長はこぶしを固めて、栗田中佐を殴りつけた。

 栗田中佐はおどろいた。前には横着をするだけあって、よく殴られた。しかし佐官になってからは、殴られることはなかった。

 花谷師団長はつづけざまに殴りつけ「どうだ、こたえたか」と冷笑を浮かべた。

 栗田中佐は、思わず悲憤の涙を流こぼした。猛将花谷の名は聞いていた。異常なことも分かっていた。

 だが天下の将校を、それも陸軍中佐を殴るとは何事かと思った。それ以来、殴られない日はないといってよかった。

 栗田中佐についでよく殴られたのは軍医部長の大迫大佐だった。軍医部長の大佐と言えば師団でも要職の一人だった。

 将兵たちは大迫大佐が怒鳴りつけられている声を聞いた。「その敬礼はなんだ。貴様のような将校が誠意のない敬礼をするから、兵隊がみんなまねをする。敬礼をやりなおせ」

 師団長の前に直立していた大迫大佐は初年兵のように敬礼のやり直しをさせられた。

116.花谷正陸軍中将(6) 花谷師団長は鬼よりこわい。河村、斉藤の鬼がいる

2008年06月13日 | 花谷正陸軍中将
 つまり「ハ」号作戦は、インパール進撃のための牽制作戦であった。この「ハ」号作戦に実施したのが第五十五師団であり、その師団長が花谷正陸軍中将であった。

 花谷中将は昭和18年11月に古閑師団長に代わり、第五十五師団長に着任した。花谷中将を迎えたのはビルマ方面軍の片倉衷高級参謀が工作したと言われている。

 「陰謀・暗殺・軍刀、一外交官の回想」(岩波新書)によると、著者の森島守人は当時奉天総領事代理であった。彼は次のように回想している。

 「板垣征四郎大佐を筆頭に、石原莞爾中佐、花谷少佐、片倉大尉のコンビが、関東軍を支配していたので、本庄関東軍司令官や三宅光治参謀長はまったく一介のロボットに過ぎなかった」

 「本庄司令官の与えた確約が後に至って取り消されることはあっても、一大尉片倉の一言は関東軍の確定的意志として必ず実行されたのが、当時の関東軍の姿であった」

 このように花谷と片倉は満州事変当時から行動を共にして、関東軍中枢で軍を動かしていた。このころから花谷中将の強烈な意志力と個性はは際立っていたといわれている。

 「戦死」(文春文庫)によると、スインズエユウの包囲戦に敗れて、第五十五師団は「ハ」号作戦の第二段作戦に入った。

 アラカン地区にいる日本兵は、花谷師団長のことを赤鬼といった。そのうち変な節回しの歌が広まった。「花谷師団長は鬼よりこわい。河村、斉藤の鬼がいる」

 河村参謀長、斉藤高級参謀の鬼よりこわい、というのだ。花谷師団長は師団司令部の上層将校を殴り飛ばしたが、殴られなかったのは河村、斉藤の二人だけといわれた。

 しかし、斉藤高級参謀は殴られなかっただけで、師団長からは、ふたこと目には「貴様は専科参謀だから、だめだ」といじめられた。

 専科参謀というのは、日華事変が始まってから、多数の現地参謀が必要となり、陸軍大学校で短期に教育して参謀を養成した。

 専科参謀は陸軍大学校の正規の教育課程を終えた参謀とは区別された。専科参謀を花谷師団長が軽蔑したのは、陸大出を誇る優秀者意識のためだった。

 斉藤高級参謀だけでなく、他の将校に対しても「貴様は無天だから、だめだ」「大学校を出ておらんやつは話しにならん」などと怒鳴った。

 正規の陸軍大学校卒業を表す徽章は、その形が似ていることから「天保銭」と呼んで、それを持たない、一般将校のことを「無天」と称した。花谷師団長は天保銭組以外は同等に相手にする資格はないとみていた。

 師団司令部で一番多く殴られたのは高級副官の栗田中佐だった。役目柄、師団長の前に行くことが多かった。その時、三度に一度は殴られた。

115.花谷正陸軍中将(5) 突然、花谷師団長はこぶしをふるって、村山中佐をなぐりつけた

2008年06月06日 | 花谷正陸軍中将
 三原氏も時々、花谷師団長の碁の相手を命じられた。機を見るに敏な三原氏は、碁の相手をしていて、雲行きが怪しくなって危険と感じられたという。

 そうなったら、いち早くその場をずらかり、雲隠れして、ほとぼりが醒めるまでは、決して現われなかった。お陰で難をのがれた一人であった。

 「昭和史の謎を追う・上」(文春文庫)によると、著者の秦郁彦氏が東大教養学部在学中の1953年から翌年にかけて、柳条湖事件の解明のため、旧軍人からヒアリング作業を行なった。

 そのとき、当時東京・代々木に住んでいた花谷正にヒアリングを行なった。秦氏はこの事件が関東軍の陰謀であると確信していたので、計画の実行と細部を聞き出すことだった。

 最初は口が重かった花谷も少しづつ語り始め、前後八回のヒアリングでほぼ全貌をつかんだ。

 それから三年後の1956年秋、河出書房の月刊誌「知性」が別冊の「秘められた昭和史」を企画した。

 そのとき、秦氏は花谷談を整理してまとめ、補充ヒアリングと検閲を受けたのち、花谷正の名前で「満州事変はこうして計画された」を発表した。当時、かなりの反響が出た。

 「戦死」(文春文庫)によると、昭和18年10月、中国の第一軍参謀長だった花谷中将はビルマの第五十五師団長に任命された。

 アキャブの飛行場に到着の時は、工兵連隊長・村山誠一中佐、師団次級副官・大西幸一大尉、その他多くの将校が迎えに出た。

 飛行場で花谷師団長は出迎えの人々のあいさつを受けていた。村山工兵連隊長も進み出て、氏名職階を名乗った。突然、花谷師団長はこぶしをふるって、村山中佐をなぐりつけた。

 「貴様の服装はなんだ。それでも連隊長か」。村山連隊長は工兵を率いるだけに粗暴なところもあり、服装もかまわなかった。

 その夜の師団長歓迎の酒宴の時、村山中佐は裸になり、下帯にさした軍刀を抜いて、花谷師団長を斬ろうとして、止められた。

 その後、村山中佐は中村獣医部長に語った。「花谷が今度俺をなぐったら、その場で射殺してやる」。

 「戦死」(文春文庫)によると、「ハ」号作戦は楯作命第五七号・第五十五師団命令として昭和19年2月1日に発令された。

 「ハ」号作戦はインパール作戦の支援作戦として実施された。インパール作戦は、1月7日に大本営が許可し、インドのインパールに進撃して、その付近の要地を占領するという作戦だった。

 インパール作戦を強引に推進したのは第十五軍司令官・牟田口廉也中将であった。

 「ハ」号作戦の目的はアラカン地区から日本軍がインドに積極的に攻勢に出ると見せて、敵の連合軍の兵力をこの方面に引き付けて、インパールの主作戦を容易にさせることだった。

114.花谷正陸軍中将(4) 中尉より大尉のほうが偉いと決めてかかるな

2008年05月30日 | 花谷正陸軍中将
 昭和15年8月、花谷正少将は第二十九旅団長になり、中国河南省の信陽県にいた。

 「愛の手紙は幾歳月」(朝日新聞社)の中で、著者の川島正巳氏は当時花谷旅団長の部下だった。川島氏は次のように述べている。

 花谷少将は旅団長に着任されたその日、司令部の全員を集めて訓示した。

 「諸君は階級を段々に考えるではない。中尉より大尉のほうが偉いと決めてかかるな。わが味方は大将から二等兵までおり、わが敵にもまた大将から二等兵まである。わが味方の上には、上ご一人(天皇陛下)をいただいているのだ」

 陸軍広しといえども、こんなことを言う人は他にはあるまい。さすがに横紙破りだと、噂された。

 三井信託社員で旅団司令部付の鈴木中尉が着任の申告に旅団長の部屋に入り、型通りの申告の儀式を終えると、「ご苦労、掛け給え」と花谷少将は言った。

 すると花谷旅団長は机の上にあった支那新聞を取り上げると、「これを読んでみ給え」と言った。新聞を読むくらい何とも無いので声を出して読んでみると、「よろしい」と言った。

 そのあと突然「満州事変は俺が起こした」とやりだした。鈴木中尉は何のことやら判らぬままに、唯「はあ、はあ」と答えて高級副官の部屋に戻った。

 ある日、鈴木中尉は呼ばれて、花谷旅団長の碁の相手をした。対局したが、二たて食わせて三局目には花谷旅団長が鈴木中尉の「しちょう」にはまった。

 「閣下、こりゃしちょうです。駄目です」と言うと、「いや、しちょうじゃない」と言って、花谷旅団長は強情に逃げ出した。

 鈴木中尉は待ってやるつもりだったが、余りに強情なので、しちょうを続けて追った。そして遂に死んでしまった。

 花谷旅団長は「うっ」と奇妙な声を出すと、いきなり碁盤に手を掛けひっくり返してしまった。

 「何をする」鈴木中尉は怒鳴った。そしてにらみ合いが続いた。「俺が悪かった。今夜は酔っていたんで」と花谷旅団長は謝った。

 鈴木中尉は静かに散らばった石を集め碁笥に容れ、盤を直すと黙って部屋を出た。

 その夜、鈴木中尉は癪に障って寝つかれなかったが、その内に急に可笑しさが込み上げて来て、大声で笑い出した。

 「しちょう知らずに碁を打つな」昔からいわれている言葉だが、花谷旅団長はその通りにやってしまった。

 花谷中将が師団長時代、かつてプロ野球の大洋ホェールズの名監督、三原氏は、第五十五師団の参謀部に勤務していた。

113.花谷正陸軍中将(3) 三河少尉、わしの頭が変になったんじゃないか。見てくれ

2008年05月23日 | 花谷正陸軍中将
 森島氏の妻が取次ぎに出ると酒気を帯びた花谷少佐のただならぬ剣幕だったので、官邸に取り付けてあった領事館警察の非常ベルを押したため、官邸は武装警官で取り囲まれた。

 森嶋氏が浴衣のままで応対すると、花谷少佐は威丈高に「政府が朝鮮軍の越境を差し止めたのは、総領事館から中国軍は無抵抗だとの電報を出したためだ」

 「こんな有害無益な電報を出すなら、いますぐ一小隊の兵を持って来て無電室を打ち壊す。閣議の席上で幣原外相から中国軍は抵抗をしていないから、我が軍も攻撃を中止すべきだとの意見が出たが、右は総領事館の誤った電報の結果だ」とのことだった。

 森島氏は反論し、念のため総領事にも引き合わした上、帰した。

 「戦死」(文春文庫)によると、昭和12年日華事変が始まると、徳島の歩兵第四十三連隊は華中のの上海に上陸、戦線に出動、南京を目指して進撃した。

 この時、花谷大佐が連隊長として着任した。連隊は混城湖を舟艇で渡って、対岸の敵陣に突入した。

 その夜は暴風雨であった。この時、堀井大隊長の舟艇が遅れた。強風に流されたためであった。

 あとで、花谷連隊長は多くの将兵の前で堀井大隊長を口汚く叱りつけた。その後の追撃戦で、後方にいた花谷連隊長の本部が、堀井大隊に追いついた。

 その時、「なにをぐずぐずしているか」と花谷連隊長は堀井大隊長にムチを振り上げて殴りつけた。

 その後、連隊が台湾の高雄に移動したとき、将校ばかりの宴会が催された。その最中に、花谷連隊長は突然、大声を上げた。「堀井、ちょっとこい」

 堀井少佐が前に行くと、花谷大佐は口をきわめて、ののしった。

 堀井少佐は花谷大佐とは陸軍士官学校二十六期の同期生であった。一方は大佐で一方は少佐のままだった。堀井少佐は頭の悪いことを自認していたから、進級が遅れても不満を持たなかった。

 花谷大佐は陸大卒であり、満州事変の首謀者の一人で、関東軍を動かして満州国をつくり、軍の実力者となっていた。

 突然、花谷大佐はビール瓶をふりあげて、堀井少佐の頭を殴りつけた。堀井少佐は前のめりに倒れこんだ。その座にいた他の将校たちは飛んで逃げてしまった。

 間もなく連隊は徳島にもどった。その頃から、堀井少佐は何かを悩んでいるようだった。

 堀井少佐が三河軍医の部屋に入って来た。目つきがおかしかった。「三河少尉、わしの頭が変になったんじゃないか。見てくれ」

 三河軍医は妙に思ったが、頭の外面には何も異変は見られないので、「なんともないですよ」と、帰した。

 それから三日目の朝であった。連隊の弾薬庫の裏の堤防にもたれて、堀井少佐が死んでいた。ピストルでのどから一発撃ちこんでいた。

 遺書はあったが花谷連隊長が没収した。診断書には「神経衰弱のため自決」と書かれていた。

112.花谷正陸軍中将(2) 軍刀を引き抜き、「統帥権に容喙する者は容赦しない」と威嚇的態度に出た

2008年05月16日 | 花谷正陸軍中将
 昭和6年9月16日、満州事変の起こる二日前のことである。関東軍の高級参謀、板垣征四郎大佐は同志を集めて、打ち合わせをした。  

 顔ぶれは、作戦主任参謀・石原莞爾中佐、奉天特務機関長・花谷正少佐、張学良顧問・今田新太郎大尉、それに鉄道独立守備隊の大、中隊長などであった。

 議題は鉄道爆破と北大営攻撃を決行するかどうかということだった。議論をし酒を飲んでいるうちに夜が明けた。

 板垣大佐はやむなく、「おれがハシを立てて、右に倒れたら中止、左に倒れたら決行だ」

 ハシは右に倒れた。中止である。みんなが諦めようとした時に、今田大尉が立ち上がって「命の惜しい者はやめろ。おれがひとりでやる」と軍刀を持って出ようとした。

 それを花谷少佐が押さえた。「ぬけがけはゆるさんぞ。俺も行く」といきり立った。

 この勢いに板垣大佐が負けて、「それでは、やることにするか」と採決した。こうして満州事変は起こった。

 昭和7年6月、花谷少佐は富山市の歩兵第三十五連隊の第一大隊長になった。満州事変の張本人として処罰のため左遷させられたのだ。

 そのころ富山市で発行されていた北陸タイムスが、昭和8年3月10日の陸軍記念日に、軍部に対して批判的な記事を掲載した。

 花谷少佐は大いに怒った。翌早朝、非常呼集を命じて大隊の兵を率いて営門を出た。花谷大隊は北陸タイムスの社屋を包囲して発砲した。

 「陰謀・暗殺・軍刀、一外交官の回想」(岩波新書)によると、著者の森島守人は当時奉天総領事代理であった。

 9月18日満州事変の発火点となった柳条溝事件の夜の十時四十分頃、特務機関から、柳条溝で中国軍が満鉄線を爆破した。至急来てくれと電話があった。

 特務機関では板垣大佐をはじめ参謀連中が荒々しく動いていた。板垣大佐は「満鉄線が爆破されたから、軍はすでに出動中である」と述べて総領事の協力を求めた。

 森島氏は「軍命令は誰が出したか」と尋ねたところ、「緊急突発事件でもあり、司令官が旅順にいるため、自分が代行した」との答えであった。

 森島氏は軍が怪しいとの感想を抱いたが繰り返し、外交交渉による平和的解決の必要を力説した。

 板垣大佐は語気も荒々しく「すでに統帥権の発動を見たのに、総領事館は統帥権に容喙、干渉せんとするのか」と反問した。

 同席していた花谷少佐の如きは、森島氏の面前で軍刀を引き抜き、「統帥権に容喙する者は容赦しない」と威嚇的態度にさえ出た。

 9月20日深夜、森島氏の自宅を「軍の使いだ、早くあけろ」とて軍刀をちゃらつかせながら、非常な力で戸を叩く者があった。

111.花谷正陸軍中将(1) それにつけて思うのは花谷を育て、彼の自信のとなった陸軍幼年学校の教育だ

2008年05月09日 | 花谷正陸軍中将
 高木俊郎が週刊朝日に「戦死」を連載したとき、多数の手紙が著者に寄せられた。

 その中に「花谷中将と幼年学校」と題した投書があった。要約すると次のようなものであった。

 「この花谷将軍を中心とした、日本陸軍の悲劇はどうにもやりきれない。花谷だけでなく陸軍の軍人の中にはこういった傾向の人が少なくなかった」

 「それにつけて思うのは花谷を育て、彼の自信となった陸軍幼年学校の教育だ。中学一、二年から入学し、三ヵ年徹底的な戦闘技術者としての訓練と、エリート軍人としての意識を叩き込まれる」

 「そして士官学校を出て任官。さらにすぐれた者は陸大にいき軍の指導者になるが、この陸軍幼年学校出身者が日本陸軍の主流として君臨するのである」

 「中学初級からせまい偏った教育を受けてきたら、その連中は一体どうなるのか。花谷中将の言動は、幼年学校出の単細胞でかたくなな自信家である。人間形成の最も大切な時代の教育は狭くかたくななものであってはならない」

 花谷正大佐が満州国治安部高級顧問時代。黒岩少将が慰問団を新京中央飯店に招待したときのこと。

 卓一つ隔てて蛮勇の噂の高い花谷大佐を、恐怖と尊敬をもって熱っぽく凝視していたのは、ほかならぬ黒岩少将であった。

 また、黒岩少将を司令部に訪ねてきた花谷大佐が「黒岩おるか、花谷が来たといえ」と少将閣下を見下していた。その尊大さも、兵隊の噂になっていたという。

 時代は少し遡って、松岡満鉄総裁主催の宴会が大連で開かれた時のこと。当時関東軍参謀であった花谷中佐も招かれていた。牧野海軍退役少将もいた。

 宴の半ば、花谷参謀は牧野少将のところに来て、いきなりわけもなく「このハゲ頭!」と言って、ピシャリと、したたかにたたいた。そしてそのまま立ち去って行った。

 牧野少将は、頭のつるつるハゲた、きわめて温厚な人であったが、さすがにこの時ばかりは、「何だ、けしからんことをする」と、憤激の色を見せた。周囲にいた人は多いに同情した。


<花谷正陸軍中将プロフィル>

明治27年1月5日生まれ。岡山県勝田郡広戸村出身。

大正3年5月陸軍士官学校卒(26期)。12月歩兵少尉第54連隊付。

大正7年7月歩兵中尉。

大正11年11月陸軍大学校卒(34期・六十八名中二十一位)。12月参謀本部付。

大正12年8月歩兵大尉。

大正14年5月参謀本部部員。12月参謀本部支那研究員。

昭和3年8月関東軍参謀。

昭和4年8月歩兵少佐。第37連隊大隊長。

昭和5年8月関東軍司令部付(奉天特務機関)。

昭和7年1月参謀本部付。6月第35連隊大隊長。

昭和8年8月歩兵中佐。参謀本部付(済南武官)。

昭和10年8月関東軍参謀。

昭和11年12月参謀本部付。

昭和12年3月第2師団司令部付。4月留守第2師団参謀長。8月歩兵大佐。11月第43連隊長。

昭和14年1月満州国顧問。

昭和15年3月陸軍少将。8月第29旅団長。

昭和16年12月第1軍参謀長。

昭和18年6月陸軍中将。10月第55師団長。

昭和20年7月9日第39軍参謀長。7月14日第18方面軍参謀長。

昭和21年7月復員、予備役。

戦後、憂国同志の集まりである「曙会」を主宰。

昭和32年8月28日、死去。肺ガンであった。享年63歳。