陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

340.岡田啓介海軍大将(20)赤松は確実に本日の会見趣旨を岡田氏に伝達したのか

2012年09月28日 | 岡田啓介海軍大将
 「東条英機暗殺計画」(工藤美知尋・PHP研究所)によると、四月九日、岡田大将は木戸幸一内府を訪ねた。

 その結果、嶋田海相の悪評は、とうに宮中深くまで達しているが、海軍側から具体案が出なければ天皇も手のつけようがなく、米内の現役復帰に関しても同様であるとのことだった。

 「東條秘書官機密日誌」(赤松貞雄・文藝春秋)によると、著者の赤松貞雄陸軍大佐(陸士三四・陸大四六恩賜)は東条英機首相の秘書官で、歩兵第一連隊勤務の中尉のとき東条英機連隊長と出会い、以後、東条英機から目をかけられ、東条次官時代から秘書官に抜擢された。

 海軍出身の重臣である岡田啓介大将、米内光政大将らは、高松宮や伏見宮を動かして、嶋田海相に辞任を強く要請した。

 抗しかねた嶋田海相は、東条首相にその進退について相談するに至った。これに対して、東条首相は嶋田海相に次のように言って、激励した。

 「もしお上のご信任が薄くなったということであるならば、臣下としては一刻といえども輔弼の責任のある地位にあってはならない。しかし、外部のものから強要されて、これに屈服する必要は少しもないのだ」。

 嶋田海相は、その地位に止まることを決心した。このために重臣方面の圧力はますます強くなったのみならず、より露骨になった。

 東条首相は陸軍次官、参謀次長、軍務局長など軍首脳部の人々と、如何に対処すべきやについて要談した。

 第一次世界大戦のとき、フランス軍の戦況が不利になってきたとき、フランス軍の師団長ら高級指揮官の中で、直接に戦場からフランス首相や代議士などと連絡してフランス議会に策動するものが出た。

 このため著しく作戦指導が困難になった。このとき、最高指揮官のジョルフ元帥は策動していた師団長らを捕らえ、彼らと行動をともにしていた政治家を軟禁抑留し、その裏面策動を抑えて、マルヌ会戦でドイツ軍を破って国の危急を救った先例があった。

 これに準じて、策動している連中を一時抑留して、裏面工作を阻止すべきであるという強硬論者もいた。これがどうして洩れたのか、伏見宮が急いで熱海に帰った、という一場面もあった。

 しかし軍務局長・佐藤賢了少将(陸士二九・陸大三七・中将・第三十七師団長)の意見で、強硬措置はとらず、赤松秘書官が岡田啓介大将と逢い、首相と会見の機会をつくるよう処置するということになった。

 赤松秘書官はさっそく東大久保の岡田邸を訪問、その旨を伝えた。岡田啓介大将は、赤松秘書官の申し出をあっさりと承認した。

 東条首相と岡田大将は、首相官邸で会見をした。その日は、赤松秘書官は他の公用で外出し、帰ってから東条首相に会見、結果の如何を尋ねた。

 ところが、東条首相は、意外にも不機嫌だった。そして「赤松は確実に本日の会見趣旨を岡田氏に伝達したのか」と詰問した。

 聞けば、岡田大将は、嶋田海相排斥などの策動に対しては、一応は簡単に陳謝した。しかし、それだけに止まり、会見時間の大部分は海相に対する海軍部内の不評を縷縷(るる)陳述したとのことだった。

 赤松秘書官は岡田大将に面談したとき、首相に逢ったらよく陳謝した上、今後は自重し策動と疑われる行動はしない旨をはっきりと申し述べるように、と話し、そして岡田大将も「よしよし承諾したよ」と言っていた。

 にもかかわらず、事実は、これと反対に、会見の機会を逆用したことを知り、赤松秘書官としても、使者の任務を全うし得ぬ結果になってしまい、真に遺憾至極だった。

 この岡田大将が東条首相と会見した頃から、陸軍部内でも、東条ではどうにもならないという空気が流れ始めた。

 それからは、岡田大将ら重臣により、海相更迭工作が表面では内閣強化の改造工作と称しながら、裏面では内閣更迭の工作に変わっていた。

 昭和十九年七月七日、サイパン守備部隊が玉砕し、マリアナ諸島の島々も米軍の手に帰する事は自明のこととなった。

 七月十七日、重臣会議が開かれ、東条内閣不信任をはっきり打ち出した。

 七月十八日、遂に東条英機は総理の座から降りた。岡田啓介大将が東条を退陣させようと決心してから一年の歳月が流れていた。

 七月二十二日、後継内閣組閣の大命は、朝鮮総督・小磯国昭陸軍大将、海軍大臣・米内光政海軍大将の両名列立で降下した。

 (「岡田啓介海軍大将」は今回で終わりです。次回から「辻政信陸軍大佐」が始まります)

339.岡田啓介海軍大将(19)それは大変だ!年寄りもこうしてはおれん!

2012年09月21日 | 岡田啓介海軍大将
 「いったいこの内閣は温かみがない、と一般が言っております。東条は地方長官会議で、国民に対し親切に扱えと訓示しましたが、官吏は力ずくで国民を圧迫して、民心は政府を離れています。これでは、何が起こるかわかりません」

 「一時混乱状態になることもありうることで、そういう際には、海軍の事情をよく知っている者が局に当たることが必要だと思います。それには人望の比較的多くある米内大将を現役に復帰せしむる必要ありと思われます」。

 低姿勢ながらも、嶋田に対する支持を断念するように迫る岡田大将の言葉に、伏見宮元帥はたじろいだ。伏見宮元帥は次のように答えた。

 「準備がなくていくさをすれば、こういうことになるのは明らかだ。大東亜戦の前に陛下から御下問があった際、この戦いはとうてい免かるることはできませぬ。免かるることはできぬとすれば、早くやった方がよろしいと申し上げた」

 「すると陛下は、『それにしても今少し待ちたい。結局やらなければならぬだろう。私もその覚悟はいたしている』と仰せられたが、準備はなかったが仕掛けられたいくさだから、これはやむを得なかった」

 「嶋田は一部長としても、次長としても、二回下におって、人となりはよくわかっている。あれは腹も据わっているし、言葉少なで実行力が大だ。及川が辞めるとき、そのあとに豊田を持ってきたが、豊田は口数が多く実行力が少ない。陸軍との間には、どうしても(協調して)行けない関係がある」

 「それゆえ私は嶋田を推した。今でも最も適任の海軍大臣と思っている。……米内を現役に列してどうしようとするのか」。

 この言葉を待っていたように、岡田大将は身を乗り出して、次のように述べた。

 「軍事参議官としておけばよろしいと思います。嶋田を助け、内情を承知しておれば、何かあったときにも、現役でないと予備ではどうすることもできません」。

 これに対し、伏見宮元帥は次のように話した。

 「それはそうだ。予備では何もできない。米内が総理大臣になるとき、私は米内がこれを辞して軍務に専念してくれたらよいと考えておった。米内が受けたものだから、はなはだ遺憾に思ったのだ」

 「それでも米内を現役に置きたかったが、米内が現役の方を辞したからやむを得なかった。岡田大将の米内を現役にするという考えは一応道理があると思う」。

 岡田大将の必死の説得により、伏見宮元帥の嶋田支持もだいぶ崩れてきた。それを見た岡田大将は、次のように述べ、最後の詰めをした。

 「私がこのことを嶋田に申してもよろしゅうございますが、さよういたしますと、これがもつれると非常に厄介でありますから、殿下の御内意を御附武官にでもお含め下さって嶋田にお伝え願えますれば、実にありがたいと存じます……」。

 すると、伏見宮元帥は次のように答えた。

 「それは岡田大将が言ったのではいかん。私が二十日か二十一日、卒業式のために東京に行くときに嶋田に言うのがいちばんよい。そして早い方がよいと思う。しかし、私にもなお考えさせてくれ」。

  以上でこの会見は終わった。当初岡田大将としては、海相・米内光政大将、次長・末次信正(すえつぐ・のぶまさ)大将(海兵二七・海大七恩賜・連合艦隊司令長官・横須賀鎮守府司令長官・内務大臣)の腹案で米内の現役復帰を図りたいと思っていたが、伏見宮元帥の嶋田支持が相当に強いのを感じたため、米内の軍事参議官就任という線で妥協し、説得したのだった。

昭和十九年三月三十一日、パラオからフィリピンのダバオへ航空機で移動中の連合艦隊司令長官・古賀峯一大将(海兵三四・海大一五・元帥)が低気圧に遭遇し墜落、殉職した(海軍乙事件)。

 「自伝的日本海軍始末記」(高木惣吉・光人社)によると、古賀司令長官行方不明後、後任の連合艦隊司令長官に豊田副武大将(海兵三三・海大一五首席・軍令部総長)の親任式が四月四日午後に済んでいた。

 四月八日、当時教育局長であった高木惣吉少将がこの古賀司令長官殉職の悲報を、岡田大将を訪ね伝えると、岡田大将は「それは大変だ!年寄りもこうしてはおれん!いったいどうすればいいと思うか?」とたたみかけて、真剣な質問をした。

338.岡田啓介海軍大将(18)嶋田は東条と妥協して総長をごまかす

2012年09月14日 | 岡田啓介海軍大将
 「さらに要領(二)には、『帝国は迅速なる武力戦を遂行し、東亜及び南太平洋における米英蘭の根拠地を覆滅し、戦略上優位の態勢を確立すると共に、重要資源地域並主要交通線を確保して、長期自給自足の態勢を整ふ』とある」

 「ここでは、戦争をどの辺で、どのように終結させるか具体的に書かれていない。この辺が日清・日露戦争と違う点である。どうするつもりか。戦争に関係のない国へしかるべき人をやって和平工作をなすべきではないか」。

 東条首相は散々に重臣たちに問い詰められて苦り切った顔で、「そんな手立てなど考えておりませぬ」と不愉快そうに言った。

 しかし、この重臣懇談会は岡田大将が予期していた以上に効果があった。近衛文麿の宣伝効果である。というのも近衛にはひとつの後悔があった。

 組閣後間もない昭和十二年の盧溝橋事件の時、蒋介石の国民政府の首都・南京占領に際して駐華ドイツ大使トラウトマンの仲介によって日中妥協ができるかに見えた時があった。

 だが、近衛は強行策を採って、「国民政府を相手とせず」と声明してしまった。事変解決に苦しみながらも誤って戦争への階段を作り、内閣を放棄し、そこから東条が戦争へと飛び込んだ形である。

 近衛としては責任上もなんとしても極力戦争拡大を阻止しなければならない。近衛は、重臣懇談会の席上の東条首相苦悩の様子を会う人ごとに吹聴した。

 議会まで言わず語らずのうちに反東条の空気が濃くなっていった。今まで東条首相が登壇するだけで拍手がわいたものであるが、東条首相が重々しく現れても手ひとつならない。

 答弁草案で(ここで拍手)と書いてあるのに拍手がない。「今やァ帝国陸海軍はァ」とやっても、各地で連戦連敗していることが分かっているだけに、東条首相が声を高めるほどしらけてくる。

 東条首相もこの状態を察し内閣の補強を考えた。まず国防と統帥の緊密化をはかるといって、自ら参謀総長をかねて首相、陸軍大臣の三者を一身に集め、独裁体制を完全に確立することにした。

 昭和十九年二月二十一日、東条首相兼陸相、嶋田海相は、参謀総長・杉山元元帥(陸士一二・陸大二二・教育総監・陸軍大臣・第一総軍司令官)、軍令部総長・永野修身元帥(海兵二八恩賜・海大八)を罷免して、現職のまま参謀総長、軍令部総長に就任した。

 首相から参謀総長へ転身という岡田大将のねらいははずれたが、参謀総長兼務ということは責任がさらに重くなり、戦況不利の場合、内閣崩壊の一つの可能性を示したことになる。

 「東条英機暗殺計画」(工藤美知尋・PHP研究所)によると、岡田大将は三月七日、嶋田海相のパトロン的存在である元帥・伏見宮博恭王を熱海に訪ねて、米内光政大将の現役復帰を図り、海軍の建て直しを行いたい、との意見を述べた。

 岡田大将は伏見宮元帥に慇懃次のように切り出した。

 「本日は、とくと殿下の御意見を伺いまして思召しに従い、この戦局に善処して働きたいと存じ、伺いました。昨今、陸海の中堅のところでは首脳部に対して信頼を失い、また前線と中央とが離れているように見受けます。これは大変なことと思います」

 「嶋田は、私はよく知りませんが、善い人だと思っておりました。議会の答弁も初めは評判がよろしゅうございましたが、しだいに評判が落ち、朦朧であるとか、春風駘蕩であるとか、だんだん批判が出てまいりました。というのは霞がかかって先がはっきりせぬという意味らしゅうございます」

 「中堅のところで見ましたところでは、永野は、結果は出なかったが、努力しようといたしますが、嶋田は東条と妥協して総長をごまかすと見ているようであります」

 「嶋田に対する信頼は、かような次第で失われているようであります。また次長(伊藤整一中将・海兵三九・海大二一次席・第二艦隊司令長官・大将・勲一等旭日大綬章)、次官(沢本頼雄中将・海兵三六次席・海大一七・大将・呉鎮守府司令長官・戦後水交会会長)、軍務局長(岡敬純中将・海兵三九・海大二一首席・海軍次官・鎮海警備府司令長官・極東軍事裁判で終身禁錮・昭和二十九年釈放)にも不満があるようであります」

 「前線の将兵も中央に信頼を失いました。その理由はよくわかりませんが、私の聞きました一、二の理由は、アッツやギルバートの玉砕は、何とかならないかという前線帰りの希望に対しまして、嶋田は『島の一つや二つ取られても驚くことはない』と言ったとのことです。嶋田は上には当たりがよいが、下には強く出ているように思われます」

337.岡田啓介海軍大将(17)重臣たちは東条首相一人を取り囲むように東条首相に迫った

2012年09月07日 | 岡田啓介海軍大将
 思案の末、木戸内大臣は次のように答えた。

 「内大臣というものは、鏡のようなものであって、つまり、世論や世間の情勢を映してそのまま陛下のお耳に入れる役目をするものです。自分自身の意見で動いてはならないし、世論を自分の感情でゆがめて陛下にお伝えすることもつつしまなければなりません」

 「しかし、もし、世論が東条内閣に反対だということになったら、その時は陛下にそのままお取次ぎをします。念のためですが私はあくまで東条内閣を支持するつもりはありません」。

 これに対し、迫水は次のように言った。

 「世論が大切だとおっしゃられるご高見もっともなことです。しかし、現実に今の世の中、世論の実態というのがつかみにくくなっています。新聞は検閲制度で口を封じられ、戦意高揚の記事ばかりのことは毎日ご覧の通りです」

 「議会だって翼賛政治で政府案はすべて満場一致で賛成。うかつに本当のことを言えばたちまち検束、たとい東条内閣に反対していても表に出せる状態ではありません。しかし、国民の心の中に、言わず語らずのうちに湧き上がっている気持ちを世論と見なすわけにはいきませんか」

 「事実、軍部内でも物資の需給、戦況の推移など確かな情報を持っている人たちは、日本が壊滅的な状態になる前に戦争を終結できないものかと考えています。しかし、仰せの通り現状では世論は形になりません。でもなんとかしなければ……」。

 迫水の言葉にしばらく目を閉じていたが、木戸内大臣はやがて、つぶやくように次のように言った。

 「世論というものは、そういう形ばかりではないでしょうな。たとえば、重臣たちが…、重臣とはその名の通り、日本の運命を支えてきた中枢の方々です。それらの人が一致してあることを考えたとする、それも一つの世論となりますよ」。

 迫水は木戸内大臣の含みのある言葉を反芻し、有馬邸を辞して、岡田大将に、木戸内大臣の言葉を報告した。

 昭和十八年十月、岡田大将は近衛文麿(東京帝国大学哲学科・京都帝国大学法学部卒・貴族院議員・貴族院議長・首相・公爵)、平沼騏一郎(東京帝国大学法学部卒・司法大臣・首相・男爵・法学博士)との三者連盟で、東条首相に対し、第一回重臣懇談会への招待状を出した。

 岡田大将の意図は、東条首相一人だけを呼んで、忌憚のない意見を彼に浴びせ、やりこめることにあった。重臣懇談会の場所は華族会館の貴賓室だった。

 他の重臣たちもこの際東条首相に遠慮のないところを言ってやろうと、七名全員が集まった。やがて東条首相がやってきたが、東条首相も重臣たちの魂胆を知ってか、なんと、大本営、政府連絡会議員などぞろぞろと手勢を引き連れてやって来たのだ。

 これでは、何のための会か分からなくなってしまい、誰もおざなりのことしか言わなかった。だが、これがきっかけとなって、月ごとに主催が交代して毎月例会となった。

 岡田啓介大将は、いつかは機会がくると考えて、若槻禮次郎(わかつき・れいじろう・東京帝国大学法学部首席卒・大蔵省主税局長・大蔵次官・貴族院勅撰議員・大蔵大臣・内務大臣・首相・勲一等旭日桐花大綬章・男爵)や近衛文麿としばしば会合して情報の交換をしていた。

 毎回、とりとめもない会合なので東条首相も安心したのか、五回目、年が明けての昭和十九年二月、一人でやって来た。チャンスが到来した。

 重臣たちは東条首相一人を取り囲むように東条首相に迫った。言葉こそ穏やかだったが、匕首のような鋭さがあった。

 中でも若槻禮次郎が一番熾烈だった。若槻は歴代政治家の中でも最高の頭脳明晰な人物とされ伝説的に語られる人である。

 若槻は現在の政治・経済の分析、また戦況に関する判断はきわめて明快であり、それを適切に指摘していった。東条首相の知らないことまであった。さらに次のように批判した。

 「政府は口では必勝を唱えているようだが、戦線の事実はこれと相反している。今は引き分けという形で戦争が済めばむしろいい方ではないか。ところがそれも危ない。こうなれば一刻も早く平和を考えなければならないはずだが、むやみに強がりばかり言って戦争終結の策を立てようともしない」

 「開戦直前の昭和十六年十一月十三日、十五日に決定された『対米英蘭蒋戦争終結促進に関する腹案』を見ると、まず方針の(一)に次のように書いてある。『速に極東における米英蘭の根拠地を覆滅して自存自衛を確立するとともに、更に積極的措置に依り蒋政権の屈服を促進し、独・伊と提携して先ず英の屈服を図り、米の継戦意志を喪失せしむるに勉む』と」