陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

144.小沢治三郎海軍中将(4) 不賛成です。軍人がこのような運動に携わるのは間違いだと思います

2008年12月26日 | 小沢治三郎海軍中将
 横井少尉が困って立っていると、大柄な参謀少佐がひとり立ち上がり、「よろしい。すぐにやりたまえ」と大きな声で言った。小沢少佐だった。小沢は部下には細かい心遣いをしていたので、小沢を慕う部下は多かった。

 大正15年12月、小沢は40歳で中佐に進級し、第一水雷戦隊参謀になった。当時の連合艦隊司令長官は加藤寛治大将(海兵18)、参謀長は高橋三吉少将(海兵29・海大10)、先任参謀は近藤信竹中佐(海兵37・海大17)だった。

 昭和2年8月、連合艦隊は本州一周の移動訓練の途中で、島根県の美保湾に入港し、8月24日、夜間演習を行うことが決定された。

 演習は、第一水雷戦隊が好機を捉えて、敵主力部隊に夜襲をかけ、魚雷を発射するというものだった。

 小沢参謀は加藤連合艦隊司令長官から発せられた計画を綿密に検討した結果、水雷戦隊が出港直後の暗夜、護衛巡洋艦多数が妨害する間を抜けて戦艦を攻撃するのは、練度からみて難しい、衝突の危険があると判断した。

 小沢参謀は、さっそく、旗艦「長門」を訪ね、近藤先任参謀に「この計画は危険です。せめて、数日間の暗夜航海訓練を実施した後に行うべきです」と申し入れた。

 近藤先任参謀は、高橋参謀長に取り次いでくれた。だが高橋参謀長は「すでに連合艦隊命令として発令されているんだ。いまさら変更するわけにはいかん。このまま実施してもらいたい」と小沢の進言を取り入れなかった。小沢参謀も、くいさがったが、駄目だった。

 夜間襲撃演習は予定通り行われた。はたして大惨事が起こった。駆逐艦「蕨」と「葦」の二隻が、巡洋艦「神通」と「那珂」に、それぞれ衝突した。「蕨」は一瞬にして沈没、「葦」は船体が切断され、後半部が沈没した。多数の乗組員が死亡した、美保ヶ関事件である。

 近藤参謀も高橋参謀長も、小沢のようなたたき上げの船乗りではなく、しかも鉄砲屋だった。だからペーパー計画と実際の演習との間に無理があることに気がつかなかった。

 昭和6年12月、小沢大佐は海軍大学校教官兼陸軍大学校兵学教官になった。小沢教官の講義は、読めば分かるようなことや、先輩が述べているようなことには触れず、重要なポイントや独創的な着想だけをしゃべった。

 また、一つの重要事項、学生に必要なことなどは、どこまでも掘り下げて討論、研究させ、自得させるという徹底した教え方であった。

 「海戦要務令」は海軍最高の機密図書で、海戦のやり方を書いた虎の巻で、海軍戦術研究者必読の書であった。学生の中にはその中身を丸暗記した者も多くいた。

 ある日、成績優秀な学生である、土井美二大尉(海兵50・海大32)が小沢教官を訪ねてきた。「海戦要務令にこのように書いてありますが、これはどういう訳でありますか?」と質問した。

 すると、小沢教官は即座に答えた。「諸君は、本校在学中は、海戦要務令などは一切読むな。このような書物にとらわれず、独創的戦術を研究せよ」。

 この海戦要務令は対米軍遊撃作戦を根本目標として書かれていた。だが太平洋戦争が終わってみると、この海戦要務令は旧式固着の戦術であったことが判明した。

 「最後の連合艦隊司令長官」(光人社NF文庫)によると、昭和9年11月、小沢大佐は「摩耶」艦長を命じられた。当時第二艦隊司令長官は米内光政中将(海兵29・海大12)、参謀長は三木太市少将(海兵35・海大18)だった。

 ある日、米内司令長官が小沢艦長を一人呼んで言った。「ほかでもない、加藤寛治大将を、元帥に推薦するという有志の署名運動があるようだが、君はどう思うか」

 小沢艦長は歯に衣を着せずに言い放った。「不賛成です。軍人がこのような運動に携わるのは間違いだと思います。それに加藤大将は美保ヶ関事件の最高責任者です。あのとき、当然しかるべき責任を負わねばならないにもかかわらず、今日に至っております」

 米内司令長官は「君の意見は良く分かった」と大きくうなずいた。加藤大将は元帥にはならなかった。

143.小沢治三郎海軍中将(3) ロシア文学、特にドストエフスキーを愛し、良寛和尚の資料は悉く集めた

2008年12月19日 | 小沢治三郎海軍中将
 小沢が取り組んでみると、相手は柔道の心得があるらしく、強い腰で小沢を投げようとした。小沢も宮崎中学で柔道をやっていたから、その手には乗らず、相手を上回る腕力で投げ飛ばした。相手はいさぎよく降参し、後でお互いに仲直りした。

 この小沢に投げ飛ばされた男は、後に日本一の柔道家になった三船久蔵十段であった。当時小沢は売られた喧嘩は買うが、自分から喧嘩をしかけることはなかった。

 明治39年、小沢は鹿児島の第七高等学校の工科と海軍兵学校の両方を受験した。小沢は兵学校を落ちたら海軍造兵官になろうと思っていた。

 「最後の連合艦隊司令長官」(光人社NF文庫)によると、海軍兵学校の合格発表は秋にある。第七高等学校に合格した小沢は、とりあえず、七高に入学した。

 秋になり、小沢は海軍兵学校の合格通知を受け取ったので、七高を退学して、明治39年11月、江田島の海軍兵学校に入学した。

 歴史学者の平泉澄博士によると、十代で手のつけられないような乱暴者が、何かの動機でひとたび志を立て、何ごとか始めると、偉大な業績を上げ、人間的にも大成するという。

 第二次大戦中のイギリスの指導者チャーチルも、青少年時代は札付きの不良だった。少しも勉強しないで親や先生を泣かせ、陸軍士官学校へ入るのに、三度も受験した。

 大蔵大臣だった父がたまりかねて叱りつけた。「おまえはチャーチル家の名をけがすものである。しっかり勉強せよ」。

 チャーチルは平然と答えた。

 「父上、ご安心ください。父上は、将来、ウインストン・チャーチルの父であることによって、世界に名を知られるでしょう」。

 「最後の連合艦隊司令長官」(光人社NF文庫)の序文で、小沢中将と兵学校同期の元海軍中将・草鹿任一氏(海兵37・海大19)が小沢中将の人柄を次のように述べている。

 「小沢はわれわれ兵学校同期の中の傑物である。若い頃は、中学校を退学処分にされるほどのきかん坊であったが、大きな度量を持ち、物事を深く考え、大局を誤らなかった。これは彼の天性であるとともに修練の賜といえる」

 「鬼がわらのような顔をしておりながら酒に強く、なかなか美声の持ち主で、酔余の歌や踊りなど隅におけぬものがあった。それでいて、ロシア文学、特にドストエフスキーを愛し、良寛和尚の資料は悉く集めた」

 小沢中将と兵学校37期の同期生には、井上成美中将(海大22・海軍次官)、大川内伝七中将(海大20・南西方面艦隊司令長官)、草鹿任一中将(海大19・南東方面艦隊司令長官)、小松輝久中将(海大20・海軍兵学校長)、鮫島具重中将(海大21・第八艦隊司令長官)、高須三二郎中将(艦政本部七部長)らがいる。

 「小澤治三郎」(PHP文庫)によると、大正8年、小沢は甲種学生19期として海軍大学校に入学した。当時の校長は佐藤鉄太郎校長(海兵14)だった。口八丁、手八丁で、戦史や戦術が得意だった。定評のある戦術家の講義だから、学生たちは一言一句聞き漏らすまいとノートをとった。

 だが、小沢はノートは全くとらなかった。後年、小沢はその頃を回想して言った。「校長から、いろいろな話を聞いたが何も覚えていない。頭に残っているのは、たった一言だけだ。それは、『いくさは人格なり』という言葉だ」。

 海軍大学校19期の同期には草鹿任一中将(海兵37・南東方面艦隊司令長官)、岩村清一中将(海兵37・第二南遣艦隊司令長官)、松崎伊織中将(海兵35・艦政本部大阪監督長)、杉山俊亮中将(海兵35・航空本部技術部長)、近藤英次郎中将(海兵36・第十一戦隊司令官)、堀江六郎中将(海兵36・第十一連合航空隊司令官)らがいる。

 大正15年、小沢少佐は連合艦隊参謀になった。あるとき、天皇陛下が、急に旗艦「長門」に行幸されることになり、艦内の大消毒が始まった。

 甲板士官の横井忠雄少尉(海兵43・海大26・のち少将)は、消毒の済んでいない幕僚室をノックした。中には参謀肩章をぶらさげた偉い連中がたむろしている。若い将校にはおっかないところであった。

 横井少尉は「消毒をいたしますから、しばらく立ち退いてください」とおそるおそる言った。

 だが、参謀たちは素知らぬ顔で、誰も見向きもしない。一種の意地悪は軍隊生活にはつきものだった。立ち去るわけにもいかず、横井少尉は、困惑していた。

142.小沢治三郎海軍中将(2) 自分の過ちであったならば、いさぎよく之を改むるに憚る勿れ

2008年12月12日 | 小沢治三郎海軍中将
 「最後の連合艦隊司令長官」(光人社NF文庫)によると、小沢治三郎は少年のころから、こせこせせず、土性骨が座っていた。腕力が強く、絶えず喧嘩をした。そのくせ頭が良かったから、いつも餓鬼大将だった。

 県立宮崎中学校に入学したのも頭が良かったからである。しかし乱暴な性格はなおらず、校長からマークされ、喧嘩をしては教員室に呼び出された。「お前のように勉強もせんで、喧嘩ばかりしていると落第だぞ」

 ある日、校長夫人が人力車に乗って町を通っているところに出会った。校長に恨みでもあったのかどうか、小沢は人力車に近づくといきなり梶棒をひったくって、ひっくり返してしまった。体も大きく柔道も強かったので車夫も防ぎようがなかった。

 中学三年のとき、正義派と不良学生が大喧嘩になった。正義派の旗色が悪かった。小沢はこれを聞いて駆けつけた。元来無口で雄弁ではなかった小沢は、何処からか日本刀を持ち出してきて、「叩き切ってやる」と不良学生たちを追い回した。

 新聞にこの事件がでかでかと掲載された。この事件が元で、職員会議の結果、小沢はとうとう退学処分となった。小沢はさすがにがっくり来たと言われている。

 明治37年11月のことで、日露戦争の真っ最中だった、小沢の長兄の宇一郎は陸軍軍曹で満州へ出征していた。宇一郎は弟の治三郎のことを家族からの手紙で知り、乱暴者の弟のことを上官の牛島貞雄大尉に相談した。

 牛島貞雄大尉(陸士12・陸大24)は、後に陸軍大学校長(昭和5年)、第十九師団長(昭和8年)、第十八師団長(昭和12年)、陸軍司政長官(ビサヤ支部長・昭和17年~18年)、在郷軍人会副会長(昭和19年6月)などを務めた清廉潔白な軍人であった。

 当時、満州軍第六師団歩兵第二十二連隊第十中隊長だった。部下思いで教育熱心だった牛島大尉は、早速見たこともない南九州の一少年に次のような手紙を書いて送った。

 「過ちて改むるに憚ること勿れ。本夕、生が骨肉の親しみある小沢宇一郎君は、悄然たる態度で私に告げて曰く、治三郎は退学を命じられたりと。私は炉辺をたたいて、寧ろこれを賞讃せり。蓋し君が退学の原因は必ず簡明で、半面純美なる真理を含み罪ありとするも、其の罪や白雲の如きを信じたればなり。」

 「宇一郎君曰く、喧嘩のためなりと。多分然らん。世には実にずーずーしき懦弱(だじゃく)漢なしとせず、これらを排撃するは青年時代の一快挙なり。然りと雖もまた私は君が頭を冷静にして、さらに一考を煩わしたきや切なり。」

 「なんとなれば学校には教員あり、舎監あり、それぞれ学生を戒むべき当局者あり、血気に逸りて無謀の行為をなすことは、あまり奨励すべきことに非ず。学生には学生の本分があり、過ちを正すは友誼的徳義心から発するものなればなり。」

 「当局者を措いて勝手の振る舞いをする如きは、将来大いに慎重に去るべく、生は誠実に君に希望するものなり。宇一郎君の話を聞き、取り敢えずしたたむ。君は天地に俯仰(ふぎょう)して疾しき所なきも、自分の過ちであったならば、いさぎよく之を改むるに憚る勿れ、これ、真の勇気ある少年なり」

 「十二月二十五日(明治二十七年)夜九時 盛なる銃声を聞きつつ牛島貞雄したたむ」。

 小沢はこの手紙を表装し、生涯、大切に保存していた。

 小沢の兄、宇一郎は、この日露戦争で偉勲をたてて戦死した。牛島貞雄大尉は後に陸軍中将まで栄進した。小沢治三郎も海軍中将になった。二人は戦後、よく顔を合わせ、談笑していたという。

 明治38年、宮崎中学を退学させられた小沢は東京、日比谷の私立名門校・成城中学に編入学した。

 「小澤治三郎」(PHP文庫)によると、ある日、山の手一番の繁華街だった神楽坂を小沢はぶらぶらしていたら、一人の男から「おいっ」と声をかけられた。「大きな顔をして歩いているじゃないか」と喧嘩を吹っかけられた。

 小沢は、色が黒くて大柄で、ひと癖ありそうな面構えをしている。南九州から出てきたばかりで、いかにも田舎くさい。

 小沢は相手にしなかったが、相手の男は小沢の前に立ちはだかり、小沢の胸倉をつかんだ。小澤は自制心が消えうせ、立ち向かった。

141.小沢治三郎海軍中将(1) 小沢参謀長は「それはいけません」と、永野司令長官に反対した

2008年12月05日 | 小沢治三郎海軍中将
 昭和11年12月、小沢治三郎(海兵37・海大19)は海軍少将に昇進し、再び海軍大学校教官に発令された。だが、二ヵ月後の昭和12年2月、連合艦隊参謀長兼第一艦隊参謀長に補された。前任の連合艦隊参謀長の岩下保太郎少将(海兵37・海大20)が病気のため、その後任として発令された。

 当時の連合艦隊司令長官は永野修身大将(海兵28・海大8)だった。永野大将は、米国駐在勤務、軍縮全権などを勤め、赤煉瓦の中央勤務を歩んできた軍人で、連合艦隊勤務はほとんどなかった。

 したがって、連合艦隊の演習や訓練計画、指導などは、万事小沢参謀長にまかせた。

 ある日、永野司令長官が、「主力艦を持って、青島の砲台を攻撃してはどうか」と言いだした。(昭和11年12月7日に、支那事変が勃発した)。

 小沢参謀長は「それはいけません」と、永野司令長官に反対した。小沢参謀長の反対があまり強いので、永野司令長官は、今度は先任参謀の中沢佑大佐(海兵43・海大26)をくどいた。

 中沢大佐は小沢参謀長に泣きついた。仕方なく小沢参謀長は一策を案じた。

 「それでは艦隊を佐世保に入港させ、主力艦の弾薬を陸上攻撃用のものに積み換えることにしよう」。

 艦隊は佐世保に入港し、軍需部長に交渉して火薬庫を開けさせた。同時に、海軍大臣宛に搭載弾薬変更の申請電報を打った。案の定、大臣から不許可の返電があり、この計画は中止となった。

 永野司令長官は、主力艦で青島を砲撃して、将兵の志気を鼓舞し、論功行賞にあずからせようという意図があった。

 だが、小沢参謀長は、主力艦の弾薬はそんなことに使うべきではなく、東の敵に備えて、猛訓練に励むことが本務であると考えていた。

<小沢治三郎海軍中将プロフィル>

明治19年12月2日宮崎県児湯郡の風光明媚な城下町、高鍋町に生まれる。
明治37年県立宮崎中学校退校処分。
明治38年東京・成城中学に編入学。
明治39年第七高等学校へ入学。11月海軍兵学校に入校(37期)。
明治42年11月海軍兵学校卒業。179人中45番。
明治43年12月海軍少尉。
明治45年海軍砲術学校普通科学生。
大正元年8月水雷学校学生。12月海軍中尉。
大正3年「比叡」乗り組み。第一次世界大戦従軍。
大正4年「千歳」乗り組み。12月海軍大尉。
大正5年12月海軍大学校乙種学生。
大正6年水雷学校高等科学生。8月石蕗と結婚。12月水雷学校教官。
大正8年12月海軍大学校甲種学生(19期)。
大正10年海軍大学校卒業。12月海軍少佐。
大正14年「第三号」駆逐艦長。11月「金剛」水雷長。
大正15年連合艦隊参謀。
昭和2年12月水雷学校教官兼砲術学校教官。
昭和4年12月海軍軍令部第一班長。
昭和5年2月~12月欧米各国に出張。12月海軍大佐。第一駆逐隊司令。
昭和6年1月第四駆逐隊司令。7月海軍水雷学校長。10月第十一駆逐隊司令。12月海軍大学校教官兼海軍技術会議議員兼陸軍大学校兵学教官。
昭和9年11月第一艦隊「摩耶」艦長。
昭和10年10月「榛名」艦長。
昭和11年12月海軍少将。海軍大学校教官。
昭和12年2月連合艦隊参謀長。11月第八戦隊司令官。
昭和13年11月海軍水雷学校長。
昭和14年11月第一航空戦隊司令官。
昭和15年11月第三戦隊司令官。海軍中将。
昭和16年9月海軍大学校長。10月南遣艦隊司令長官。
昭和17年11月第三艦隊司令長官。
昭和19年3月第一機動艦隊司令長官兼第三艦隊司令長官。11月軍令部次長兼海軍大学校長兼大本営海軍通信部長。
昭和20年5月海軍総司令長官兼連合艦隊司令長官。8月15日終戦。10月予備役。11月旭日大綬章受賞。戦後、戦争を一切語らず、清貧の生活を送る。
昭和30年防衛庁顧問。下村定元陸軍大将らと郷友連盟を結成。
昭和39年前立腺肥大症で入院。
昭和41年11月9日死去。享年81歳。