後に、加藤友三郎大将の系統を引く海軍士官は「条約派(軍縮派)」、加藤寛治中将の系統は「艦隊派(艦隊拡張派)」と呼ばれるようになった。
野村吉三郎大佐は後に、ワシントン会議の思い出を次のように回想している。
十一月十一日の初会議で、ヒューズ氏はいわゆる爆弾的といわれる軍縮案を提案して、場内から盛んな喝采を博していた。
その初会議からの帰途、加藤(友三郎)さんは、井出謙治海軍次官(十六期、後、大将、佐世保鎮守府長官)宛ての電報を示されたが、要領は『アメリカ案を基礎として交渉する決意である。もちろんこのことは日本海軍としては造艦対策上、人事行政上大問題であるが、これは国内問題として善処すべきである』という意味であった。
井出次官はスマート、かつ俊敏な人であったが、帰朝した時。私に『あの電報で大臣の決意のほどを知り善処するを得た』と語っていた。
またあるとき、宿舎のショーラム・ホテルの次の部屋で聞くともなく聞いていると、加藤(友三郎)全権が加藤(寛治)随員に向かって、
『加藤。お前ももう中将になったのだから、いつまでも若い者に尻を叩かれて旗ばかり振っておらずに、ときによっては冷静沈着に物事を考えねばいかんよ』
と叱っているのが耳に入ったことがある。
小加藤は海兵に入る頃、大加藤は教官だったのだから、まったく生徒か子供並みの扱い方だった。
さすがの猛将・加藤(寛治)中将や末次(信正)らも大加藤にかかるとどうにもならず、最終的に会議は妥結したのである。
このように生徒でもたしなめるように叱ってはいたが、一面では加藤さんは小加藤の一身上についてつねに意を用いていた。
帰朝してからの話だが、無二の親友・島村速雄大将と同車した際に、『加藤(寛治)も五十になったのだから、そろそろなんとかしてやらねばならんね』と語っておられたが、それからすぐに加藤(寛治)中将は海大校長から軍令部次長となり、主流コースに乗って出世街道を歩むようになった。
余談になるが、私も加藤さんに叱られたことがあった。それは海軍省宛ての電報中、東郷元帥へ報告するように言い付けられた時に、私が一寸苦笑を浮かべたら、
『野村、元帥はあれでなんでも大綱は知っておられるのだよ。隠居扱いにするつもりでいたら、大変だぞ。君にはまだ元帥の偉さが分かっていない』
とたしなめ叱られたのである。
東郷元帥は加藤さんをもって適材適所の全権と認め、加藤さんもまた、元帥を太極に通ずる偉い人と認めていたのであった。
加藤(友三郎)全権のワシントンにおける大局的判断は、今日においても深く敬意を表しているが、このほかに同会議に関係して、さすがはと瞠目させた人物は渋沢栄一子爵である。
子爵は日本国交の改善について自ら民選全権と称して出かけていったが、ワシントン会議にも大きな関心を持ち、ワシントンやニューヨークで盛んに側面活動をやりながら、あたかも会議がわが七割主義で緊張している最中に、
『日本は国力からいえば、アメリカの十分の一ぐらいのものだ。したがって海軍は十分の一でも仕方がない。米国は寛大であって、六割というのだから欣んで受諾すべきだ』と論じていた。
海軍側は全権以下、『あのじいさんには早く帰ってもらわなければ困る』とぶうぶういったものだ。
でも、それだけのことを平気で主張した勇気と見識には驚かされるとともに、偉いじいさんだと感心させられたものである。
以上が、野村吉三郎大佐のワシントン会議の思い出の回想である。
ワシントン会議後、野村吉三郎大佐は、大正十一年六月一日、少将に進級し、軍令部第三班長、第一遣外艦隊司令官、海軍省教育局長を歴任した。
野村吉三郎大佐は後に、ワシントン会議の思い出を次のように回想している。
十一月十一日の初会議で、ヒューズ氏はいわゆる爆弾的といわれる軍縮案を提案して、場内から盛んな喝采を博していた。
その初会議からの帰途、加藤(友三郎)さんは、井出謙治海軍次官(十六期、後、大将、佐世保鎮守府長官)宛ての電報を示されたが、要領は『アメリカ案を基礎として交渉する決意である。もちろんこのことは日本海軍としては造艦対策上、人事行政上大問題であるが、これは国内問題として善処すべきである』という意味であった。
井出次官はスマート、かつ俊敏な人であったが、帰朝した時。私に『あの電報で大臣の決意のほどを知り善処するを得た』と語っていた。
またあるとき、宿舎のショーラム・ホテルの次の部屋で聞くともなく聞いていると、加藤(友三郎)全権が加藤(寛治)随員に向かって、
『加藤。お前ももう中将になったのだから、いつまでも若い者に尻を叩かれて旗ばかり振っておらずに、ときによっては冷静沈着に物事を考えねばいかんよ』
と叱っているのが耳に入ったことがある。
小加藤は海兵に入る頃、大加藤は教官だったのだから、まったく生徒か子供並みの扱い方だった。
さすがの猛将・加藤(寛治)中将や末次(信正)らも大加藤にかかるとどうにもならず、最終的に会議は妥結したのである。
このように生徒でもたしなめるように叱ってはいたが、一面では加藤さんは小加藤の一身上についてつねに意を用いていた。
帰朝してからの話だが、無二の親友・島村速雄大将と同車した際に、『加藤(寛治)も五十になったのだから、そろそろなんとかしてやらねばならんね』と語っておられたが、それからすぐに加藤(寛治)中将は海大校長から軍令部次長となり、主流コースに乗って出世街道を歩むようになった。
余談になるが、私も加藤さんに叱られたことがあった。それは海軍省宛ての電報中、東郷元帥へ報告するように言い付けられた時に、私が一寸苦笑を浮かべたら、
『野村、元帥はあれでなんでも大綱は知っておられるのだよ。隠居扱いにするつもりでいたら、大変だぞ。君にはまだ元帥の偉さが分かっていない』
とたしなめ叱られたのである。
東郷元帥は加藤さんをもって適材適所の全権と認め、加藤さんもまた、元帥を太極に通ずる偉い人と認めていたのであった。
加藤(友三郎)全権のワシントンにおける大局的判断は、今日においても深く敬意を表しているが、このほかに同会議に関係して、さすがはと瞠目させた人物は渋沢栄一子爵である。
子爵は日本国交の改善について自ら民選全権と称して出かけていったが、ワシントン会議にも大きな関心を持ち、ワシントンやニューヨークで盛んに側面活動をやりながら、あたかも会議がわが七割主義で緊張している最中に、
『日本は国力からいえば、アメリカの十分の一ぐらいのものだ。したがって海軍は十分の一でも仕方がない。米国は寛大であって、六割というのだから欣んで受諾すべきだ』と論じていた。
海軍側は全権以下、『あのじいさんには早く帰ってもらわなければ困る』とぶうぶういったものだ。
でも、それだけのことを平気で主張した勇気と見識には驚かされるとともに、偉いじいさんだと感心させられたものである。
以上が、野村吉三郎大佐のワシントン会議の思い出の回想である。
ワシントン会議後、野村吉三郎大佐は、大正十一年六月一日、少将に進級し、軍令部第三班長、第一遣外艦隊司令官、海軍省教育局長を歴任した。