陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

460.乃木希典陸軍大将(40)乃木大将の死後に、山縣公爵は、識者の非難を受けた

2015年01月16日 | 乃木希典陸軍大将
 山縣公爵は軍将でこそあったが、和学の造詣が深く、歌の道にかけては、なかなかに長じていたから、一見して、これは辞世の歌であるという事が、分った。

 山縣公爵が、「ヤッ、これは」と声を出すと、乃木大将は、「イヤ、素人の作ったものだから、天爾遠波(てにをは)も合うまい。よく直しておいてもらいたいのじゃ、ハッハハハハハ」と笑いに紛らわして、去ってしまった。山縣公爵は、けげんな顔をして乃木大将の後姿を、見送っていたと言われている。

 この事が世間にもれて、乃木大将の死後に、山縣公爵は、識者の非難を受けた。いやしくも、山縣公爵のような、歌の上手な人が、この歌を読んでみて、すぐに乃木大将が死ぬという事の感じが起きなかった、というのは、はなはだ不思議な訳で、もし、これを知っておいて、そのままに棄てておいた、とすれば、山縣公爵は、はなはだ情誼の薄い人である、というような非難だった。

 翌十二日には、乃木大将は軍務局長の田中義一(たなか・ぎいち)少将(山口県萩市・陸士旧八・陸大八・日清戦争・ロシア留学・日露戦争で児玉源太郎の参謀・少将・軍務局長・中将・参謀次長・陸軍大臣・大将・政界へ転身・政友会総裁・勅選貴族院議員・首相・男爵・功三級・勲一等旭日桐花大綬章)を訪ねた。

 田中少将は当時、軍制上の事については、意見を持っていて、陸軍のうちでも、屈指の人物だった。乃木大将は、田中少将を訪ねて、軍制上の話をしていたが、突然次のように言った。

 「時に、田中、わしは、お前に、今日は頼みがあって、来たのじゃ……」。田中少将が「ははア、どういう事ですか」と答えると、乃木大将は次のように言った。

 「他の事はでもないが、わが陸軍は、日清、日露と、二つの大戦役を経て、にわかに世界に名を成したのであるが、今や、わが陸軍は日本の陸軍でなくして、世界の陸軍である、というような重要な関係に、なって来たのであるから、今後は余程の考えを以って、経営して行かぬと、一大事になろう、と思う」

 「わしは我が軍制上について、容易ならぬ危機が含まれている、という憂いを持っているのじゃ。その意見は、かねてしばしば話もしてあるが、今後ともに、君のような少壮の軍将によって、大いに改革をして、もらわなければ困るのじゃ。それについて意見をしたためて来たから、見ておいてくれ」。

 田中少将が「ハッ、かねて閣下の御意見はしばしば伺うておりまするし、この御書面は確かに拝見いたしまする」と答えると、乃木大将は「しかし、田中、他人に見せてはいかぬぞ。君が、他人に見せる時は、すでにその議論を実行している時でなければならぬぞ。どうか秘密に伏しておいてもらいたい」と言った。

 田中少将が「委細承知いたしました」と答えると、乃木大将は、ズッと立ち上がって「それじゃここで別れる」と言って田中少将の手をぐっと握って「しっかり、頼むぞ」と言って帰りかけた。

 玄関を出ると、再び乃木大将は引き返して来て、田中少将の手をグッと握って「よいか、頼むぞ」と繰り返して去って行った。

 九月十三日、明治天皇の御大喪が終わったその夜、午後八時頃に、乃木希典大将と静子夫人は、殉死を遂げた。

 乃木大将の、気風というものは、厳格なものであったために、陸軍部内には、乃木大将を喜ばない人が多かった。昔からの諺にも「水清ければ魚棲まず」ということもある通り、あまり清廉硬直の人は、却って、その時代には容れられないで、後世になってから光を放つものである。

 乃木大将は年金廃止論者だった。軍人が俸給を貰って国家から養われているのは、要するに、戦争が始まった時に死んでくれ、という意味であるから、戦争になって働いたからといって、それが為に、特別の年金を貰うのは、余計なことである。

 また、武士というものは、貧乏していてこそ、値打ちがあるので、生活が豊かで、贅沢を覚えるようになっては、武士の本領、というものは無くなってしまう。軍人は、軍人らしい一生を送れば、よいのであるから、余分の金を貰うには及ばない。こう言って乃木大将はしきりに主張した。

 けれども、乃木大将一人の主張では、年金を廃するわけにもいかず、また、乃木大将だけには、それを与えない、という事も出来ないから、その主張は乃木大将の思うようにはならなかった。

 また、乃木大将のこの議論にはいつも賛成者が少なかった。といって、表面で反対論を唱える者もなく、うやむやのうちに、葬られてしまって、陰になると、乃木大将の悪口を言う者がある、というような訳で、結局、問題にならなかった。

 それならば、乃木大将は口ばかりで、潔白な事を唱えて、実際においては、金を欲しがったか、というと、決してそんなことはなかった。

 その証拠には、殉死の後を、整理した時、一文の余財もなかった。もし、年金の廃止論は唱えたが、調べてみたら、銀行の預貯金が二冊も三冊もあった、というようなことでは、平生の潔白な議論は、世を欺く手段であったとも言える。

 だが、乃木大将の死後においては生前に、沢山貰った金が、一文も無かったのだから、その纐纈は察するに余りあると言える。

 しかもその金は、平生、多くの人のために費やしていた、という事実から考えて見れば、乃木大将の精神はどこまでも高名であった。

 (「乃木希典陸軍大将」は今回で終わりです。次回からは「東郷平八郎元帥海軍大将」が始まります)

459.乃木希典陸軍大将(39)だが、この兄弟は、容易な事では口を開かなかった

2015年01月09日 | 乃木希典陸軍大将
 明治四十四年四月、乃木希典陸軍大将は、東伏見宮依仁(ひがしふしみのみや・よりひと)親王・海軍少将(伏見宮邦家親王王子・皇族・海軍兵学校入校・英国留学・仏国ブレスト海軍兵学校卒・海軍少尉・大勲位菊花大綬章・少佐・海軍大学校選科学生・大佐・高千穂艦長・功三級金鵄勲章・春日艦長・少将・横須賀鎮守府艦隊司令官・中将・横須賀鎮守府司令長官・第二艦隊司令長官・大将・軍事参議官・英国差遣・薨去・元帥大勲位菊花章頸飾)に随行して、英国皇帝戴冠式に参列することになった。

 東伏見宮依仁親王一行は、四月十二日、「賀茂丸」で英国に向けて横浜港を出港した。

 海軍からは東郷平八郎(とうごう・へいはちろう)海軍大将(鹿児島・英国商船学校卒・浪速艦長・日清戦争・海軍少将・常備艦隊司令官・連合艦隊第一遊撃隊司令官・佐世保鎮守府司令長官・舞鶴鎮守府司令長官・連合艦隊司令長官・日露戦争・日本海海戦で勝利・海軍軍令部長・大勲位菊花大綬章・功一級金鵄勲章・元帥・大勲位菊花章頸飾・英国メリット勲章・ロイヤルビクトリア勲章ナイト・グランドクロス・仏国レジオンドヌール勲章グランドフィシェ・イタリア聖マウリツィオラゾラ勲章・ポーランド復興勲章一等・ロシア神聖アンナ第一等勲章・スペイン海軍有功白色第四級勲章・従一位・侯爵)が随行した。

 当時、海の東郷、陸の乃木と、世界中にその名が轟いている二人が一緒に渡英するというので、その人気は、他の船客のみならず、あらゆる寄港地や訪問地でも沸騰した。

 旅行中、乃木大将は何事にも二歳年上の東郷大将を兄として立てたといわれる。だが、この兄弟は、容易な事では口を開かなかった。それぞれ読書をするか、二人で、無言で碁を囲んでいることが多かった。

 ある船客のごときは、デッキ・ゴルフで、乃木大将が球を突きそこね、かすかに「あッ!」というのを聞いたのが、乃木大将の声の聞き始めで、聞き終わりであったと、後に語っていた。

 二人は英国でも最高の国賓として優遇された。やがて戴冠式も終わり、二人とも英国皇帝から懇篤な御言葉を賜り、表向きの役目を終えた。

 二人は、東伏見宮依仁親王に御暇乞いをし、東郷大将はアメリカを訪問して帰国した。乃木大将はドイツ、フランス、オーストリア、バルカン半島諸国を巡り、各地で大歓迎を受けた。

 乃木大将は諸国巡りのときは、平生の質素にも似合わず、ベルリンでもパリでも、いつも一流のホテルに泊まり、外出には自動車を用い、宴会のたびごとに白皮の手袋をとりかえ、煙草も上等の品ばかりを吸って、まるで別人のようだった。

 それというのは、日本の陸軍大将、伯爵という体面があるからで、乃木大将は、それを汚してはすまないと、心ならずも贅沢な真似をしたと、言われている。

 帰国後は、再び質素な乃木大将にもどり、相変わらず、「朝日」をふかしながら、学習院長として、華冑(高貴な生まれの)子弟の薫陶に専念した。

 明治四十五年七月三十日午前零時四十三分、明治天皇は崩御された。当時、六千万人の国民の誰とてして、悲嘆にくれぬ者はなかった。

 乃木大将の憔悴は、傍の見る目も痛々しい位だった。乃木大将は、毎日かかさず殯宮に伺候し、昼は数時間木像のように拝伏黙祷し、夜は必ず御通夜に伺候した。

 九月六日、乃木大将は、学習院の生徒を講堂に集めて、御大喪についての心構えを語り聞かせた後、「諸行無常といって、はかりがたきは、人の命である。自分としても、いつ亡き数に入るか、予め知ることができない。しかしながら、前途春秋に富む諸子は、よく勤勉して身を立て、名をあげ、これまで繰り返し申し聞かせたように、真に皇室の藩屏たるの覚悟を忘れないでもらいたい」と、よそながら、永の暇を告げた。

 九月十一日、珍しくも、乃木大将は、山縣有朋(陸軍元帥)公爵を訪ねた。山縣は、意外の来訪に驚いたが、快く迎えた。「やア、しばらくじゃったね」。

 乃木大将は、姿勢を正しく、山縣公爵に向かって、「このたびは、何とも申し上げようのない事が起こって、お互いに、これ以上の悲しみは無い」と言った。その言っているうちに、もう、乃木大将はさん然として涙を流した。

 山縣公爵も、共に涙を抑えて、「イヤ、その事を思うと、悲しみに堪えない。まあ、椅子へかかったら、よかろう」。それから、しばらく椅子によって、いろいろな話をした。

 別れに臨んで、乃木大将が、「こういうものができたが、ちょっと、見ておいてくれ」と言って、差し出したものを、山縣公爵が受けて見ると、「うつし世を 神さりましし 大君の みあとはるかに おろかみまつる」と歌が記してあった。





















458.乃木希典陸軍大将(38)これでいいんだ。院長閣下がおっしゃったんだから、これでいいんだ

2015年01月02日 | 乃木希典陸軍大将
 乃木大将の学習院長としての日常は、午前七時三十分には登院し、午後三時の授業の終わるまで退出せず、その間、院務の暇をみては教室を巡視した。

 全寮制を敷いてからは、日常寄宿舎に泊まりきりで、月に二、三度日曜日だけ赤坂の自邸に帰るのみで、それも生徒の門限になっている午後六時には学校に帰るのだった。

 稀に自邸に泊まるのは、翌朝の参内の時間の都合の止むを得ない時に限られ、ほとんど学習院を家とし、好きな煙草・酒もこの時に絶った。

 朝は、毎朝四時から五時の間に起床し、小使いに世話をかけないように静かに自分で寝具の整頓をし、軍服を着け、洗面を終わると、校内を見回りながら、雑草や枯れ枝の刈り取りをしながら一巡し、生徒の起床後は、時々幼年寮に立ち寄り、掃除の仕方、箒の使い方、窓の開け方などを教えた。

 朝夕の食事は青年・中学・幼年の各寮を回って生徒と一緒にし、夜は自習時間の見回りと読書をして、消灯時間の十時には生徒と共に就寝する毎日だった。

 乃木大将は万事実践躬行をもって生徒に臨み、勤勉・質素等、生徒に教えようとすることは、すべて自ら実行し、身をもって範を垂れた。

 片瀬の遊泳、演習見学の際の露営においても生徒と共に起臥し、生徒と剣道の稽古をし、自らも鍛錬した。そして生徒を我が子と思い、熱愛を傾倒したので、生徒は“おじいさま”と呼んで敬慕した。

 明治四十一年四月、皇孫廸迪宮裕仁親王(昭和天皇)の学習院初等科に御降学があった。乃木大将は、裕仁親王の御降学に際し、次の六項目の覚書を初等科主任に命じて作成し、これを全職員に徹底した。

 (一)御健康第一と心得べきこと。(二)御宜しからの御行状と排し奉る時は、之を御矯正申上ぐるに御遠慮あるまじきこと。(三)御成績については、御斟酌然るべかざること。(四)御幼少より御勤勉の御習慣をつけ奉るべきこと。(五)成るべく御質素に御育て申上ぐべきこと。(六)将来、陸海の軍務につかせられるべきにつき、その後指導に注意すること。

 昭和四十六年四月二十日、ご旅行先の松江での記者会見で、昭和天皇は乃木大将について、次のように述べておられる。

 「乃木大将については、私が学習院から帰る途中、乃木大将に会って、その時、乃木大将から“どういう方法で通学していますか”と聞かれたのです」

 「私は漫然と“晴天の日は歩き、雨の日は馬車を使います”と答えた。すると大将は“雨の日も外とうを着て歩いて通うように”と言われ、私はその時、贅沢はいけない、質実剛健というか、質素にしなければいけないと教えられました」。

 裕仁親王(昭和天皇)は、乃木大将を院長閣下と呼んで、尊敬し慕われた。乃木大将が御所にご機嫌伺いに参上した時、側近の者が「乃木大将が拝謁でございます」と申し上げると、裕仁親王は「いや違う。それは乃木大将ではいけない。院長閣下と申し上げなくてはいけない」とたしなめるように言われた。

 乃木大将の教えを忠実に、そしてすぐに、裕仁親王は実行された。乃木大将が初等科生徒に対して訓話をした十四ヶ条の中の一つに「破れた着物をそのまま着ているのは恥だが、そこをつぎして繕って着るのは決して恥ではない。いや恥どころではない」とある。

 御所に帰られると、裕仁親王は「院長閣下が、着物の穴の開いているのを着てはいけないが、つぎの当たったのを着るのはちっとも恥ではない、とおっしゃるから、穴の開いている服につぎを当ててくれ」と、女官に洋服や靴下につぎを当てさせた。

 そして、それをお召しになって、「これでいいんだ。院長閣下がおっしゃったんだから、これでいいんだ」と満足そうにされたという。

 ある日、熱海に避寒をされていた裕仁親王に、乃木大将が早朝に拝謁した時、裕仁親王は火鉢に当たっておられた。

 それを見た乃木大将が、「殿下、お寒いんでございますか。お寒い時は火鉢に当たるより、御運動場に行って駆け出していらっしゃったらいかがですか。御運動場を二、三回お周りになったら暖かくなります」と申し上げた。裕仁親王は、早速火鉢に当たるのをやめられた。

 また、熱海での山遊びの際に、乃木大将が「山へお登りになる時には、駆けてお登りになりますか。それとも山を下る時に、駆けてお下りになりますか」と聞いた。

 裕仁親王が「登る時には駆けて登れないけれども、下りる時には駆けて下ります」と答えられると、乃木大将は「お登りになる時には、いくら駆けて登っても、お怪我はりませんが、下りる時に駆けられると、お怪我をいたします。下りる時はゆっくり下りられた方がよろしい」と教えた。

 また、ある日、裕仁親王が、一日の学業を終えられて退出される際、玄関に立っていた乃木大将の数歩程前に進まれて敬礼をされた。

 乃木大将が「先生に対しては、何時何処ででも、心から御敬礼の誠を尽くされますように」と申し上げると、裕仁親王は、再び敬礼をされた。乃木大将は感激のあまり、目に涙を浮かべたという。

457.乃木希典陸軍大将(37)乃木ってえのが、鬼も鬼、涙のこれっぽちのねえ野郎で

2014年12月26日 | 乃木希典陸軍大将
 老婆が、あわてて熊吉をさえぎった。「熊さん、およしなさいよ。今更仕方がない。そんなことをこの親切なご隠居さんに聞かせちゃあ悪いじゃないか」。「そりゃそうだが……。だがねえ、愚痴も言いたくならあ。年端もいかねえこのお妙坊が、辻占売りに出なきゃならねえなんて、全く、この世はお先真っ暗だ」。乃木大将は黙ってうつむいていた。

 熊吉は、その乃木大将に、「ねえ、ご隠居さん、たった一人の稼ぎ手の甚太郎が骨で帰ってくるなんて、神様も仏様もねえや。甚太郎が鬼のような大将に使われたのも、不運には違いねえが」。

 老婆が布団の上で言った。「熊さん、ご隠居さんが迷惑するじゃないかね」。すると熊吉は「いいじゃねえか。誰だって知ってらあ、あの第三軍の総大将、乃木ってえのが、鬼も鬼、涙のこれっぽちのねえ野郎で、兵隊ばかりを無理やりに進めて殺したってのは」。

 「およしなさい。せっかく、ご親切にこうしてお見舞いに見えたのに……」。語気を強めて言った老婆の声に、さすがに熊吉も不承不承口を閉じた。
 
 黙然と目を閉じて熊吉の言葉を聞いていた乃木大将が、ぽつりと言った。「よく分りました。お国のためとは言いながら全くお気の毒なことです」。

 「運がなかったもののと思って、今はあきらめています」と、老婆は力なげに笑顔を見せた。「すんませんねえ、ご隠居さん」。熊吉も頭を下げた。

 乃木大将は、胸の内ポケットから財布を出すと、そのまま老婆の前に置いた。「これは持ち合わせですが、薬代にでも使って頂きたい」。「とんでもない。先日もたくさん頂いたうえに、また、こんな……」。「いや、お国から息子さんに賜ったものと思って、受け取ってください」。

 熊吉が乃木大将の前に両手をついた。「ありがとうござんす」。妙も小さなひびだらけの手を揃えて「おじいちゃん、どうもありがとう」とこっくり頭を下げた。「では」と乃木大将は立ち上がった。

 すると、老婆が、腰を浮かして言った。「どちらのお方か、お名前をお聞かせください」。「いや、名前を言うほどの者ではない。ただ行きずりの年寄りです」。熊吉も「そんなことってねえや。お名前だけでも」と、土間に下りる乃木大将に声をかけた。

 「いや、いいのだ」。乃木大将が一礼して戸口に出ようとするのに、熊吉が「ご隠居、じゃ、あっしの車に乗ってくんねえ。何もできねえお礼に、車でお送りしやすから」。「歩いてもわずかな所だ。車はいりません」。

 「それじゃあ、ここは通せねえ」。熊吉はいきり立った。「ここまでして貰って、名前も聞けねえ、お送りもできねえとあっちゃあ、江戸っ子の面汚しだ。この熊吉が仏の甚太郎に顔向けできねえ」。

 乃木大将は困ったように、布団に座った老婆を見た。老婆があきらめたように言った。「熊さん、無理を言ってご隠居さんを困らすもんじゃないよ。ご隠居さんお通り下さいまし。本当にありがとうございました」。「ではお大事に」。乃木大将は歩き出した。

 熊吉はその後姿を見送りながら、「妙な人だなあ。何もそんなに隠さなくたって……」。すると、妙が、「あたい、あのおじいちゃんの名前、知ってるわ」と得意そうに言った。老婆も熊吉もびっくりした。「な、なんだって……。本当かい」。

 うん、さっき家に来るとき、聞いたわ。“まれすけ”って言ってたわ」。「“まれすけ”……? へええ、そうかい。ただ、まれすけ、だけかい? その上に何かつかねえのかい?」。「言わなかったわ。ただまれすけよ」。

 でも、と、熊吉はくびをかしげた。「あのご隠居は、どっかで見たような気がするな。ばあさん、おらあ、ちょっとあのご隠居のあとをつけて行ってくるぜ」。

 それからものの二十分もたたぬ間に、熊吉が帰って来た。はあはあ、苦しそうな息を吐いていたが、むっつりして、上りかまちに腰を下ろした。「どうしたんだい、熊さん。分らなかったのかい」。

 「おらあ、とんでもねえことを、言っちまった」。「何がさ、熊さん。はっきりおしなよ」。あのご隠居の家は、新坂町、門構えの大した家だった。だが、その表札を見てたまげちまった」。「どうして?」。「あのご隠居さん、乃木さん、だったよ。乃木希典てえ、でけえ表札が、かかっていた」。

 老婆は、布団の上に突っ伏して、泣いた。うなだれた熊吉の両眼から、ぽたぽた音をたてて、涙が畳に落ちた。「あれだけの悪態を聞かされていながら、ただ、黙って聞いていなさった。すまねえ、かんべんしておくんなさい」。熊吉は心の中で、何度も詫びた。

 明治四十年一月三十一日、明治天皇の聖旨によって、乃木大将は第十代学習院長に任命された。

 「乃木希典の世界」(桑原嶽・菅原一彪編・新人物往来社)によると、学習院長としての乃木大将の教育方針は、当時華族界の子弟が、華美に流れ軟弱に陥ることを憂えられた明治天皇の御心を受けて、質実剛健の学風を作り上げることだった。

 そのために、従来の学科に加えて剣道を正課とし、夏には湘南片瀬においてテント生活をして遊泳を行い、また、陸軍大演習の見学など武課教育を行って、体力・志操の鍛錬と忍耐力の涵養に努めた。

456.乃木希典陸軍大将(36)うちのお父さんばかりじゃない、日本中のたくさんの人を殺したんだって

2014年12月19日 | 乃木希典陸軍大将
 鎌次郎が駆け戻って来た。「とても喜んでおりました」。「うむ」。ふたりはぽつぽつ歩き出した。「閣下、いい功徳をなさいました。年を聞いてみましたら、やっと十になったばかりでそうで。粗末な身なりですが、可愛い顔をした女の子で……。ぽろぽろ涙を流しておりました」。乃木大将は無言だった。

 その後のある日曜日、乃木大将は旧友の摺沢静夫中将の家に行った。摺沢中将は、西南戦争当時からの乃木大将の部下で、その後の日清、日露の役にも副官として従った軍人である。

 戦争中の回顧談でつい時間を忘れ、日が暮れかかって、乃木大将はようやく帰宅することになった。乃木大将は、摺沢邸の人力車も断って、歩いて麹町平河町の邸をでた。

 薄暮の赤坂見附を左に折れた時、「おじいさん」と、不意に呼ばれた。振り返って見ると、小さな女の子が、薬瓶を持って立っていた。

 「この間は、どうもありがとう」。こっくり頭を下げて、年の割にしっかりした物の言い方である。くりっとした瞳に見覚えがあった。

 「ほう、辻占売りの……」。乃木大将はにっこり微笑むと、皺の多い掌を女の子のお下げの髪においた。「どこへ行くのかね?」。「今、お医者さんからの帰りなの」。「誰か、病気なのか」。「うん、おばあちゃんが寝ているの」。「そうか、ではお父さんやお母さんは……」。「死んじゃったの」。

 二人は歩き出した。黄昏の光に見る少女は、つぎの当たった粗末な袷であるが、洗濯のきいた小ざっぱりしたなりをしていた。

 「家は、どこかね?」。「中ノ町の郵便局の裏。おじいさんの家はどこ?」。「新坂町だよ」。「あたい妙(たえ)と言うの。おじいさんは何て名前?」。「希典と言うんだよ」。「おじいさん、お金持ちなので」。

 乃木大将は、目を細めて、少女の手を引き、上機嫌だった。すると、妙が言った。「おじいさん、新坂町にこわい人がいるの、知ってる?」。「こわい人?」。「うん、隣の熊おじさんが、言っていた、こわい人」。

 「知らないなあ、どんな人だね?」。「そう、うちのお父さんを殺した人だって」。乃木大将は驚いて、足を止めた。「お父さんを殺した人……?」

 「そうなの、うちのお父さんばかりじゃない、日本中のたくさんの人を殺したんだって……。ロシアの弾がうんと飛んでくる所へ、皆を無理に行かしたのよ」。

 乃木大将の顔色が、急に変わった。「お父さんは兵隊だったのかね?」。「うん」。「お母さんは?いつ」。「あたいが赤ん坊の時に死んだのよ」。「病気のおばあさんと二人きりなのだね。それで、夜、辻占売りにでているんだね」。

 急に語気の変わった乃木大将に、妙は不安そうに乃木大将を見上げた。「妙、さんと言ったね。おじいさんが一緒に家まで行こう」。「どうして?」。「おばあさんを見舞いに行こうと思ってな」。

 じめじめした長屋の狭い路地の奥に、妙の家があった。暗い土間を一歩入ると、妙が、「おばあちゃん、お薬買ってきたよ。それから、お客さんよ。おばあちゃんをお見舞いに来るんだって」。

 障子の奥で、太い男の声がした。「お帰り、お妙坊。誰だいお客さんてエのは」。出てきたのは四十過ぎの法被腹掛け姿の鉢巻をした男だった。「あら、熊おじさん、来てたの?」。「うん」と答えながら熊吉は、妙の後ろに立つ老人に、軽く頭を下げて、「どちらさんでござんしょう?」。

 すると妙が「この間の晩、たくさんお金をくれた人よ」。目を丸くした熊吉は「鉢巻を取るより早く、その場に座って、「こりゃどうも、先だっては大枚のお金をいただきやんして、ありがとうござんす」。

 妙が「隣の熊おじさんよ」と乃木大将に紹介した。熊吉は「むさくるしい所でござんすが、どうそ、お上がりなすって下さいまし、病人も大変喜んで、一度お目にかかってお礼が言いたいと…」。

 乃木大将が上がってみると、わずか一間きりの六畳に、裸電灯がわびしい光を投げていた。老婆があわてて煎餅布団の上に起き上がり「わざわざありがとうございます」と憔悴した身体を平伏した。

 乃木大将は、「いや」と答えたのみだった。何とも言いようがなかったのだ。このひどい暮らしを見ては、慰めの言葉も却って、空々しい位だった。

 「先日は妙が大そうなお金を頂きまして……」。だが、乃木大将の目は位牌に向けられたままだった。熊吉がその様子に気づき「ありゃね、お妙坊の父親でしてね。旅順の戦争で死んだんでさ。二〇三高地とかの攻撃で決死隊に入って、ロシアに射たれたそうで……」。

 乃木大将は感慨深げにうなずきながら、「名誉のご戦死ですな」と、つぶやくように言ったが、熊吉が急に「名誉かなんか知らねえが、この家にとっちゃ大変な迷惑でさ」。

 熊吉は、腹が立ってどうにも仕方がないと言わんばかりに、鼻の穴をふくらませて言った。「死んだ甚太郎はあっしの幼友達だ。いい腕の大工だったが、酒を飲むでもなし、博奕を打つでもねえのに、長屋住まいから足を洗えなかった野郎だ。だがね、たとえ裕福な暮らしでなかったにしろ、親子四人、結構笑ってやっていたんだ。このお妙坊だってそれ相応の支度をやって貰っていたんだ。それが、あのろくでもねえ戦に狩り出されたために……」。

455.乃木希典陸軍大将(35)これは「乃木大将の時計配達」と言われ、語り継がれている

2014年12月12日 | 乃木希典陸軍大将
 やがて、力なく起き上った乃木大将は、お暇を言上して、とぼとぼと退下しかけた。その時、後ろから、「乃木、乃木」という、力強い明治天皇の御声がかかった。

 「はっ、と乃木大将が思わず平伏すると、明治天皇から次のように御沙汰を賜った。

 「お前の胸の中は、朕がよく存じている。しかし、生は難く死は易い。今はまだ死すべき秋(とき)ではないぞ。強いて死なねばならぬと思うならば、朕が世を去った後にせよ。決して早やまるではないぞ」。

 乃木大将は、あまりの勿体なさに、全身汗みどろになり、一言も御答え申し上げることもできず、涙にくれながら、ほとんどよろめくように退出したと言われている。

 乃木大将は、機会のある毎に、旅順その他の戦場で戦死した部下の将卒の遺族を慰問した。慰問というよりは、それは謝罪というべき形のもので、懇ろに悔みを述べた後に、次のように言った。

 「ご子息を殺したのは、まったくこの希典に違いないので、本来ならば、割腹してなりと罪を謝すべきですが、今日のところ、残念ながらそれができなんだ。しかし、いつかは希典の一命を、君国に捧げる時があるはずだから、その時こそは希典があなた方に対して謝罪したものとご承知願いたい」。

 凱旋後は、乃木大将の給料は一度も静子夫人に渡されたことがなく、邸の賄は一切合財、那須野別荘から送ってくるもので間に合わせていた。

 出征中に陸軍省その他から頂戴したものは、乃木大将が凱旋するなり、そっくりそのまま、どこかへ寄付してしまったという。

 明治天皇からの拝領の御目録は、全部時計にかえて、部下であった将校たちの家を一軒一軒自分でまわって、届けて歩いた。これは「乃木大将の時計配達」と言われ、語り継がれている。

 各界の人々が、乃木大将の高風を慕って、字を書いてもらいに来る者は、毎日数えきれないほどあったが、乃木大将は「私は書家ではない」と言って一切断った。

 だが、戦死者の遺族から、墓に刻むための字を頼まれると、どんな忙しい時でも、喜んで字を書いてやった。そんな場合でも礼金は絶対に受け取らなかったので、土地の名物や作物などをお礼に送ってきたが、それも送り返した。

 だが、後に、静子夫人の注意で、それらの物を、廃兵院に寄付することにした。乃木大将は何の前触れもなく暇をみては、度々廃兵院を訪ね、旅順、その他の戦場で廃兵となった白衣の勇士たちと、膝を交えて話をし、何かと慰めて帰った。

 そんな日々の、ある寒い夜、乃木大将は、従僕の鎌次郎を従えて、向島の百花園に咲き出した梅の花を見に行った。百花園を出て、帰路についたのは、午後十一時近くだった。

 凍てついた道に、馬蹄が澄んだ音を立て、主従二人は、無言で寝静まった山王下を新坂町に折れた。待合の多い界隈で、黒坂塀の角に、客待ちの人力車が二台置いてあり、車夫が寒そうに、煙草を吸っているのが見えた。

 その時、どこかで、よく透る声が聞こえて来た。「あわじ島、かよう千鳥の、恋のつじうら……」。遊客を求めて歩く辻占売りの声だった。

 提灯が見え、角を曲がって、こちらへ来た。傍を通りかかる姿を見て、乃木大将は急に馬を止めた。提灯の薄明かりに見えたのは、十歳を過ぎたばかりの可愛らしい女の子だった。

 馬を止めた乃木大将に気が付いた辻占売りの少女は、近づくと声をかけた。「おじさん、辻占買ってくれない?」。声も寒さに震えているようだった。みすぼらしい袷に羽織もつけず、黄色い兵児帯をしめ、風呂敷を頭巾代わりにしていた。

 鎌次郎が、あわてて前に立ちふさがって言った。「いらないよ、あっちへ行きな」。「そう」と少女は、か細い声で言うと、ちらっと黒目がちの瞳を、馬に乗ったいかめしい軍服姿の乃木大将に向けた。

 暗い提灯に見える馬上に人は、白い頬髯がよりつきにくい、怖いものに見えた。くるっときびすを返すと、少女は、また歩き出した。「あわじ島、かよう千鳥の……」。細い声で歌うそれは、泣いているようにも聞こえた。

 乃木大将は、じっと、その小さい後姿を見送りながら、鎌次郎に言った。「これで、買ってやれ」。見ると乃木大将の手に、一円紙幣があった。「はい、いくら買いましょうか?」「みんなだ」「へえ?」。

 鎌次郎は乃木大将の顔を見上げた。「そんなに辻占をお買いになるので……?」「辻占は要らぬ。とにかくこの金をやって来ればいいのが」「はい」。

 鎌次郎は、紙幣を手にして遠くの提灯を目指してかけていった。少女と鎌次郎の話す声が聞こえ、やがて、「おじさん、どうもありがとう」と言う少女のひときわ高い声が聞こえた。

454.乃木希典陸軍大将(34)万歳万歳の嵐の中に、ふと、乃木大将の耳を突き刺すような言葉があった

2014年12月05日 | 乃木希典陸軍大将
 日露戦争の戦死者は、日本軍が、陸軍約八五〇〇〇人、海軍約三〇〇〇人の合計八八〇〇〇人。戦争後三年以内に、戦傷、脚気等が原因で死亡したものが約三〇〇〇〇人で、これも含めると、日露戦争で死亡した人は、約一一八〇〇〇人になる。負傷者は約一五三五〇〇人。

 これに対して、ロシア軍の戦死者は約二五〇〇〇人で、戦傷死や病死が約一七〇〇〇人で、日露戦争で死亡した人は、約四二〇〇〇人である。負傷者は約一四六〇〇〇人。

 勝利したものの、多大な犠牲を出した日露戦争は、終わった。乃木希典陸軍大将と東郷平八郎海軍大将は、帰国し、ともに凱旋した。

 「将軍乃木希典」(志村有弘編・勉誠出版)所収、「嗚呼乃木将軍」(池田信太郎)によると、沿道は数万の群集で埋められていた。

 手に手に小旗を打ち振り、万歳の声は渦のようにひっきりなしに湧き上がっていた。宮中差し回しのオープンカーに乗った二人の将軍の凱旋を迎えて、人々は狂気のように叫んでいた。

 静かに走る車上で、東郷大将は特長のある大きな瞳で前方を凝視し、身じろぎもしなかったが、隣の乃木将軍は、たえず挙手の礼で群集の歓呼に応えていた。

 何回も何回もお辞儀するように頭を下げる乃木大将のその姿は、微動だにしない隣の東郷大将に比べ、哀れにも見える挙動だった。

 一方は日本海海戦で赫々たる戦果をあげた将軍であり、一方は莫大な犠牲を払って勝利を得た将軍だった。同じ凱旋の帰国でも、互いの心中はまるで違っていた。

 戦中戦後における乃木大将に対する国民の批判は手厳しいものだった。旅順攻撃に肉親を失った家族は、乃木大将に怨嗟の声を投げたのだった。

 だが、乃木大将は、あまりに日本の武士でありすぎた。ようやく近代戦の様相を呈し始めた日露戦争に臨むにしては、古い型の軍人だった。幼少から葉隠れの精神を叩き込まれ、武士として育った乃木大将の性格は、近代戦に対処するには、律義でありすぎた。

 十分な攻撃兵器弾薬が支給されずに、肉弾をもって不落の要塞に当たらなければならなかった乃木大将の苦境は、誰も理解してくれなかった。

 天皇陛下に軍状を奏上すべく車上にある将軍は、ただこれが国民への最後の別離であり謝罪であるとこころに決め、何度も答礼を重ねながら、怒涛のような歓声の人垣を過ぎて行ったのである。

 万歳万歳の嵐の中に、ふと、乃木大将の耳を突き刺すような言葉があった。その声は嵐のような雑音の中に、たちまち消えて行った。耳のせいだったかも知れない。周囲の誰もが聞き取ることのできなかった短い声だった。

 だが、乃木大将の白手袋の手は、はたと止まった。白い髭が、かすかにふるえていた。「人殺し!」と確かに聞いた。女の声だった。若いのか年寄りなのか分らなかった。

 乃木大将が帰国して、初めて直面した国民の憎悪の壁だった。ひれ伏して謝罪しても、どうしても許してくれそうもない黒い大きな壁が、目の前に立ちふさがっているように感じられた。走る車上に揺られながら、乃木大将の両眼はきつく閉じられていた。

 
 宮中に参内したその日の将軍たちは、次々に陛下への奏上を終わり、最後に乃木大将が伺候した。この日乃木大将が明治天皇に奏上した復命書は、型破りと言ってよいほどの、長いものだった。

 それには、自分の失敗や過失はもとより、兵器弾薬の附属から、作戦計画の拙劣まで、一切ありのままに書かれていた。乃木大将は、この復命を奏上しつつ、旅順攻撃において多数の忠勇の将卒を失った一段になると、顔面は蒼白になり、涙は滝のように流れ、声は震えて、途中幾度も途切れた。

 ようやくのことで復命が終わると、乃木大将は、がっぱと明治天皇の御前に拝伏して、次のように奏上したと言われている。

 「陛下! 微臣希典、五十四年が間、海嶽の寵恩を蒙りながら、今またこの大罪をおかしました。もはや、生きる力もございませぬ。何卒、微臣に死をお許し下さい。割腹して罪を謝し奉るよりほかに、途はございませぬ」。

 乃木大将は、しばらくは顔も上げ得ず、嗚咽にむせんでいた。明治天皇は、ただ乃木大将の言葉をお聞きになられただけで、何の言葉も無かった。

453.乃木希典陸軍大将(33)それでは、この戦いで、あなたは子供の総てを失ったのですか

2014年11月28日 | 乃木希典陸軍大将
 児玉大将は、乃木大将の権限を取り上げようとはせずに、側面から、第三軍の指導に当たった。児玉大将は、やはり、軍司令官としての乃木大将を立て、乃木大将の参謀長のような顔をして作戦指導を行った。

 明治三十七年十二月五日午後一時、二〇三高地は遂に陥落した。これまでに攻撃に参加した日本軍将兵は約六四〇〇〇人、そのうち、死傷者は約一七〇〇〇人だった。

 十二月六日から、高地に海軍の観測所が設置され、旅順港のロシア艦隊に向けて砲撃が開始され、戦艦を次々に撃沈した。港外に逃げた戦艦は、待ち受けていた日本艦隊が殲滅した。こうして、ロシア太平洋艦隊は全滅した。

 旅順艦隊が全滅したという事は、旅順を守るロシア軍にとって大きなショックだった。明治三十八年一月一日午後三時半、ロシア軍から、ステッセル軍司令官からの降伏の書状をもった軍使が来た。旅順はついに陥落した。

 「伊藤痴遊全集第五巻・乃木希典」(伊藤仁太郎・平凡社)によると、明治三十八年一月五日、旅順から北西約四キロにある水師営で、乃木希典陸軍大将とロシア軍の軍司令官・ステッセル陸軍中将の会見が行われた。

 ステッセル中将が、数名の将校を従えて、約束の時間に水師営にやって来ると、乃木大将もこれを迎えて、初めて、両将軍が握手をした。

 両将軍は、互いに携えてきた缶詰を開けたり、酒を飲み合って、昨日までの砲煙、弾雨の中に命を懸けて攻防の戦いをしたことは、一切忘れて、談笑の中に、戦争の思い出などを語り合った。

 その談笑の中で、ステッセル中将が乃木大将にむかって「あなたの御子息は、あなたと共にこの戦争に参加しておられた、という事であるが、御無事で従軍しておられますか」と尋ねた。以後のやり取りは次のようなものだった。

 乃木大将「倅は、戦死しました」

 ステッセル中将「エッ、何と言われます。戦死したのですか」

 乃木大将「そうです」

 ステッセル中将「そういう噂も、聞いておりましたが、果たしてそうであったのですか」

 乃木大将「両人とも、戦死いたしました」

 ステッセル中将「(眼を丸くして)両人とも、戦死いたしました」

 乃木大将「左様」

 ステッセル中将「オー、それは、何とも申し上げようのない、不幸の事でした。しかし、令息は、幾人おりますか」

 乃木大将「私の子供は、その両人の外に、一人も無いのです」

 ステッセル中将「何と、戦死せられた、令息の外に、子共は無いのですか」

 乃木大将「そうです」

 ステッセル中将「それでは、この戦いで、あなたは子供の総てを失ったのですか」

 乃木大将「左様」

 ステッセル中将「フ、ム……(感慨に堪えぬという風で、何回も太い息を漏らした)。それは何とも申し上げようのない事であります。私も国許には沢山の子供をのこして来ている。この長い戦闘中に、ややもすれば、子供の事を思い出した位でありますから、あなたに於いても、たった二人の御子さんを亡くされたという事は、どれ程の苦痛であるか、御心の中は、御察しいたします」

 乃木大将「いや、ステッセル将軍よ、私は、この両人の倅を失ったために、我が日本帝国のために、幾分の務めを尽くした、という事を考えて、まことに喜びに堪えません」

 ステッセル中将「(感に堪えなくなって、思わず乃木大将の手を握り)貴国の兵士が勇敢に、これまでの戦いを継続できたのは、全くあなたのような、将軍があって、よくその士卒を励まされたから、ここに至ったのであります。私は、あなたの御心を察して何とも申し上げる言葉がありません」

 ステッセル中将が、乃木大将の子供の事を言い出したために、何となく話が寂しくなって、列席している将校たちも、皆頭を下げて、両将軍の対話を、聞いているばかりだったという。

452.乃木希典陸軍大将(32)児玉大将は乃木大将の顔を猛獣のような目で睨みつけた

2014年11月21日 | 乃木希典陸軍大将
 満州軍総司令官・大山巌(おおやま・いわお)元帥(鹿児島・討幕運動・ジュネーヴ留学・西南戦争・陸軍大臣・日清戦争では陸軍大将として第二軍司令官・日露戦争では元帥として満州軍総司令官・内大臣・大勲位・功一級・公爵)も乃木大将の更迭に反対した。

 大山元帥は、乃木大将更迭を進言する幕僚の意見を退けて、次のように言った。

 「旅順のような困難な要塞を破るには、将兵がこの人のもとでなら喜んで死のうと思うようでなければできないものなのだ。乃木はその信望を得ている。乃木は必ずやり通すじゃろう」。

 いよいよ第三次旅順総攻撃が行われることになった。この総攻撃の前に、山縣有朋総参謀長から乃木大将に、「今や旅順の攻略は一日を争う」などと、切々たる苦衷を訴える電報が届いた。

 明治三十七年十一月二十二日には、第三軍に対して、明治天皇から「成功を望ム甚ダ切ナリ」という勅語が下された。さらに満州軍総司令官・大山元帥からも激励の言葉が送られて来た。国民からも多数の激励や非難の電報が届いた。

 こうなると、乃木大将のプレッシャーは最大になり、痛苦にあえいだ。必死であった。今度こそ、最後の一兵になっても戦い抜かなければならなかった。

 乃木大将は各師団に対して、悲壮な訓示を与えた。「乃木希典も必要とあらば予備隊の総兵力を率いて突撃する覚悟である」。事実乃木大将は、第三次攻撃が失敗に終わったら、残存兵力を率いて突撃、戦死しようと思っていた。

 十一月二十六日、攻城砲の猛砲撃で、第三次旅順総攻撃の火ぶたが切られた。肉弾戦が繰り返され、多数の戦死者を出して、攻撃は失敗に終わった。乃木大将は二〇三高地攻略に集中することにした。

 この時、満州軍総司令官・大山巌元帥は、総参謀長・児玉源太郎大将を作戦指導者として、第三軍に派遣することにした。

 その命令を受けて、児玉大将は大山元帥に「私が行く以上は、必要な場合は私が総司令官に代わって乃木に命令を下す権限を与えてください」と言った。

 大山元帥は黙然と目をつぶった。「児玉大将が乃木大将に代わって第三軍の指揮をとれば、乃木はおそらく自決するだろう。だが、それもこの戦いに勝つためには仕方がないことだ。陛下は乃木をご信任あそばせているが、目をつぶっていただくしかない。最後には乃木を殺すしかない」と考えた。そして児玉大将の申し出に承知した。

 二〇三高地攻撃は開始された。突撃は何度も繰り返され、肉弾攻撃で多数が戦死した。乃木大将の次男・乃木保典少尉もこの攻撃で戦死した。乃木大将の長男・乃木勝典中尉は五月に戦死していた。

 満州軍総参謀長・児玉大将が第三軍司令部に乗り込んできたのは明治三十七年十二月一日であった。児玉大将は、非常な不機嫌ですごい剣幕だった。第三軍司令部の幕僚たちはびくびくしていた。この時、第三軍司令官・乃木大将は前線の視察に出向いて、司令部にはいなかった。

 児玉大将は幕僚室へずかずかと入っていくなり、兵站参謀・井上幾太郎(いのうえ・いくたろう)少佐(山口・陸士四・陸軍砲工学校・陸大一四・ドイツ私費留学・日露戦争第三軍参謀・ドイツ駐在・大佐・陸軍省軍務局工兵課長・軍務局軍事課長・少将・陸軍運輸部本部長・初代航空部本部長・中将・第三師団長・航空本部長・大将・予備役・帝国在郷軍人会会長)たちに勤務ぶりがたるんでいると言って、まず雷を落とした。

 やりどころのない憤懣が八つ当たりになっていることはお互いに分っているが、どうしようもなかった。そのあと、児玉大将は、田中参謀を連れて高崎山に向かった。高崎山の司令部は敵弾を避けるために穴ぐらになっていた。

 しばらくすると、乃木大将が、戦線視察を終えて、戻って来た。「やあ」と乃木大将のほうから言った。「うん」と児玉大将は簡単に答えて、お互いに挙手の礼を交わした。

 児玉大将と乃木大将は、同じ長州(山口県)の出身であり、明治維新以後、国事を共にしてきた、何かと気の合う、仲の良い親友だった。今までもお互いに助け合ってきた仲だった。

 だが、この時、非常な決意をもって乗り込んできていた児玉大将は乃木大将の顔を猛獣のような目で睨みつけた。二人は二畳ばかりの狭い穴ぐらの一室で、アンペラを敷いた上にあぐらをかいて、人を交えずに、向き合った。会談の内容は公表されていない。

 だが、穴ぐらの外には、時々、怒号する声や、涙ぐむ声すら聞こえたという。あるときは、静かな声で話し合ったり、あるときは怒号のような激しさで論じ合っていたという。結局、児玉大将は、大山巌総司令官から許された、「乃木大将の代わりに、自分が命令する」という懐刀を取り出すことはしなかった。

451.乃木希典陸軍大将(31)乃木は腹を切れ、腹を切らせろ!

2014年11月14日 | 乃木希典陸軍大将
 乃木大将はついに攻撃を断念せざるを得なかった。二十四日の夜、乃木大将は、連合艦隊司令長官・東郷大将に対して、「軍は今日までの激戦において、ほとんど一万以上の兵力を失い、いかに比類なき勇気も強襲的戦闘をもってしては、とうてい精鋭なる機械をもって要塞を守る敵を屈する能わざるを実験せり」と、攻撃を一たん中止せざるを得ない旨の通知を出した。

 この第一次旅順総攻撃に参加した日本陸軍将兵は約五〇七〇〇名、そのうちの三分の一に近い一五八〇〇余名が戦死した。第一次総攻撃は無残な失敗に終わったので、乃木大将は、強襲は打ち切り、正攻法の攻撃に移ることを決定した。

 
 正攻法に移るというので、大本営から第三軍司令部に派遣されていた参謀・上泉徳弥(かみいずみ・とくや)中佐(山形・海兵一二・丙号学生・佐世保海兵団副長・海軍中佐・竹敷要港部第二水雷施設隊司令・軍令部副官・日露戦争で大本営運輸通信部参謀・浪速艦長・大佐・生駒艦長・薩摩艦長・少将・大湊要港部司令官・横須賀水雷隊司令官・第一艦隊司令官・中将・予備役・国風会会長)が引き揚げることになった。

 その際、上泉参謀が「私はこれから連合艦隊を訪問して、東郷司令長官にもご挨拶申し上げるつもりですが、何かご伝言がございますか」と言うと、乃木大将は「あなたが、目撃されたありのままをお伝えください。今回はやむを得ず中止しましたが、海軍の絶大なるご協力に感謝します。今後は正攻法でやるので、左様ご承知ください、とお伝えください」と言った。

 さらに、上泉参謀が「旅順陥落までにあと何日ぐらい要しますか。連合艦隊としてもそれが分れば大いに便利でしょうから」と尋ねると、乃木大将は「私にもわかりません。はっきり言えることは、ここ十日や二十日では陥落しないということだけです」と答えた。

 上泉参謀が、三笠の東郷司令長官を訪ねて、そのことを伝えると、東郷司令長官は、例の大きな目をギョロッと光らせたが、「戦だから仕方がないね」と一言、言っただけだった。そこで上泉参謀が「では、今後はどうなさいますか」と問いかけると、「どうもこうもあるものかね。このままさ」と平然として答えたという。

 正攻法は、地下道を掘って、できるだけ敵陣の近くまで前進し、いよいよというところで突撃に移るというものだった。九月一日から工兵隊が作業に取り掛かり、十七日に塹壕路はようやく完成した。

 その頃、海軍側はしきりと二〇三高地を攻略してもらいたいと言ってきた。その高地からは旅順港が見渡せるので、港内の敵艦を砲撃する観測所を設けることができると言うのだった。

 これにより第二次総攻撃はまず二〇三高地から攻撃することになった。九月十九日にその前哨戦の火ぶたが切られた。二〇三高地を大したものと考えていなかった第三軍司令部は、第一師団から一個連隊だけをさいて、攻撃に当たらせた。

 だが、攻撃の連隊はバタバタ打ち倒れて、少しも前進できなかった。十九日の夜までにすでに連隊の半数は戦死していた。そこで、第一師団の予備隊の全兵力と中央部隊からの一部をさいて、攻撃に投入した。

 激闘の末、二十日未明、二〇三高地の一角を占領したが、ロシア軍の猛反撃にあい、占領軍は全滅し、再び二〇三高地はロシア軍に取り返された。その後、砲撃や肉弾戦が繰り返されたが、二〇三高地は落ちなかった。

 まさに、二〇三高地は旅順攻略戦の、天王山となった。十月になっても二〇三高地は落ちなかった。攻撃は繰り返され、十一月になった。

 このころ、国内では、軍人や国民の間に、乃木大将の戦法を非難する声が出始めた。旅順が落ちないうちに、ロシアのバルチック艦隊が来たら、いかに名将・東郷司令長官でも苦戦に陥ることは間違いなかった。

 国内の軍人、政治家、国民たちの中から、「乃木が悪いんだ。あんな軍司令官を取り替えて、もっと戦争のうまい指揮官にしろ!」「乃木は兵隊ばかり殺して、自分は何をしているのだ!」「乃木は腹を切れ、腹を切らせろ!」と言う声がいたるところに出始めた。

 激昂した市民たちの一部は、新坂町の乃木邸に押し寄せ、毎夜のように、投石を繰り返した。石は窓ガラスを割り、屋根瓦を砕いた。

 旅順が落ちないのは、乃木大将だけの責任ではなかった。旅順という大要塞をあまく見て、それだけの準備をしなかった大本営にこそ本当の罪があり、それだけの兵力を与えなかった満州軍総司令部にも罪があった。

 連合艦隊司令長官・東郷平八郎大将は、乃木大将の苦衷をしっていたが、それでも、大本営に対して、二〇三高地の陥落を要求せざるを得なかった。

 大本営でも、乃木大将を更迭しようという話が出ていた。だが、明治天皇が「乃木をかえてはならぬ」と仰せられたのだった。