陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

153.牟田口廉也陸軍中将(3)牟田口軍司令官の逆鱗に触れ、小畑軍参謀長は解任された

2009年02月27日 | 牟田口廉也陸軍中将
 一方、ビルマでは、英軍がベンガル湾沿いのアキャブ方面からビルマに反抗する兆候が現れたので、この時点で第二十一号作戦の準備は中止となった。

 英軍のグルカ兵がビルマ北部に進攻してきた。第十八師団、第二十三師団が攻撃に向かい、交戦した。英軍部隊の一部が、勇敢にもイラワジ河を渡ってビルマ中央部まで現れた。この部隊は英軍のウインゲート准将率いる三千人の挺身隊だった。

 牟田口中将の第十八師団はウインゲート隊の攻撃に向かったが、捕らえることはできなかった。昭和18年4月になると、ウインゲート隊は反転し、国境の外に去っていった。この挺身隊の基地はインド東北部マニプール州の州都インパールだった。

 ウインゲート挺身隊の侵入で衝撃を受けた牟田口中将に、さらに悪い報告が来た。インドの国境方面に自動車道路が建設されているというのだ。連合軍はビルマ奪回のために進撃道を作っているのだ。

 連合軍の反攻に備え、ビルマ方面軍が編成された。司令官には河辺正三中将(陸士19・陸大27恩賜)が任命された。隷下には第十五軍、第二十八軍、第三十三軍が配置された。

 この改編を機に第十五軍の飯田軍司令官は転出し、昭和18年3月27日、後任の軍司令官に牟田口廉也中将が親補された。

 牟田口中将は自分が軍司令官になったからには、ビルマ防御ではなく、インド進攻を実施しなければならないと考えるようになった。

 「回想ビルマ作戦」(光人社)によると、牟田口軍司令官は、軍参謀長・小畑信良少将(陸士30恩賜・陸大36)をはじめ全幕僚を集めて、次のように訓示した。

 「いまや全般の戦局は行き詰っている。この戦局を打開できるのは、ビルマ方面だけである。ビルマで戦局打開の端緒を開かねばならぬ。そのためにはただ防勢に立つだけではいけない。この際、攻勢に出て、インパール付近を攻略するはもちろん、進んでアッサム州まで進攻するつもりで作戦を指導したい」

 この青天の霹靂のような申し渡しに、小畑軍参謀長は困惑した。小畑軍参謀長は長く陸軍大学校の兵站教官をやり、陸大に小畑兵站ありといわれたほどの兵站の権威者の一人であった。

 小畑軍参謀長は、アッサム進攻は兵站の見識から補給が続かず、後方的に危険であると判断して、反対の苦言を呈した。だが、牟田口軍司令官の意思は動かなかった。

 小畑軍参謀長は「事はあまりにも重大だ。軍司令官の目標はアッサム州にある。これは危険だ、なんとしてでも思いとどまらせなければならぬ。これは外力によって阻止するほかはない」と考えた。

 思い余った小畑軍参謀長は第十八師団長・田中新一中将(陸士25・陸大35)を訪ね、同中将から意見具申をしてもらいたいと依頼した。

 だが、田中師団長は、4月20日に開かれた兵団長会同で、小畑軍参謀長から依頼された内容を伝えるとともに、いやしくも軍参謀長が直接、軍司令官に進言せず、部下の師団長をかいして意見を具申しようとしたのは統率上憂慮すべき問題だと付言した。

 このことが牟田口軍司令官の逆鱗に触れ、小畑軍参謀長は就任後わずか一ヶ月で解任された。5月3日にハルピンの特務機関長に転出させられた。

 小畑軍参謀長の解任を見て、軍司令官の意に反して苦言を呈することは、首が飛ぶことだと知って、幕僚たちは、それから誰一人として諌言を呈する者はいなくなった。

 「丸・エキストラ先史と旅・将軍と提督」(潮書房)によると、昭和18年4月20日、牟田口軍司令官はメイミョウの軍司令部で隷下兵団長会同を行った。この会同で、牟田口軍司令官はインド進攻作戦を披露した。列席した各師団長は、いずれも唖然として驚いた。

 会同終了後、師団長相互の雑談で、第三十一師団長・佐藤幸徳中将は「あんな構想でアッサム州までいけるとは笑止の沙汰」ともらした。

 さらに、第三十三師団長・柳田元三中将(陸士26・陸大34恩賜)も「まったく可能性の無い作戦だ。軍司令官の意図には不同意だ」と反対した。

152.牟田口廉也陸軍中将(2)「日華事変はオレがはじめた」と、見得を切ったが、学生の失笑をかった

2009年02月20日 | 牟田口廉也陸軍中将
 「人物陸大物語」(光人社)によると、昭和12年7月7日に起きた盧溝橋事件は、支那駐屯歩兵第一連隊第三大隊第八中隊に対し、中国側から発砲したというものだった。報告を受けた第一連隊長・牟田口廉也大佐は、躊躇することなく直ちに攻撃開始の命令を出したという。これが日華事変の発端となった。

 その後、牟田口廉也は少将になって、陸軍大学校で講演を行った。その時、「日華事変はオレがはじめた」と、見得を切ったが、学生の失笑をかったという。

 昭和19年3月に開始されたインド攻略のインパール作戦では、指揮官の第十五軍司令官・牟田口廉也中将に対して、隷下の第三十一師団長・佐藤幸徳中将(陸士25・陸大33)が抗命問題を起こした。実は牟田口中将と佐藤中将の対決は、それ以前に根深いものがあった。

 戦後発見された佐藤幸徳中将の回想録によると、昭和8、9年ころから、陸軍は皇道派の暗躍が猛烈を極めており、皇道派は勢いを得て人事まで動かすようになっていた。

 当時、佐藤幸徳は中佐で、永田鉄山少将(陸士16首席・陸大23次席)や東条英機少将(陸士17・陸大27)のグループ、いわゆる統制派であった。

 昭和9年、佐藤中佐は広島の歩兵第十一連隊付から陸軍省人事課の課員となることになった。ところが転任の内達があり、申し送り事項まで受けていたのに、最後の確定の直前に熊本の第六師団作戦参謀に変更された。

 皇道派から勢力拡張の妨げになると、地方に飛ばされたのである。同じころ東條英機少将も久留米の第二十四旅団長に左遷された。

 佐藤中佐が第六師団に着任して間もなく、師団の次級参謀が更迭され、岩屋中佐が着任した。ところが、佐藤参謀が汽車に乗ると、「佐藤参謀が上京せり」と陸軍省に電話する者がいた。

 そのころ佐藤中佐は、東条少将と呼応して皇道派の策謀と対抗しようとしていた。すると「東條と佐藤会談せり」という電報が陸軍省に送られた。それが岩屋中佐だった。

 その後、佐藤中佐が調べていくと、その岩屋中佐と連絡をとっていたのが、参謀本部庶務課長の牟田口廉也大佐であることが分かった。牟田口大佐は皇道派だった。牟田口軍司令官と佐藤師団長の対立は、この当時からあった。

 「全滅」(文春文庫)によると、インパール作戦は、第十五軍(牟田口廉也軍司令官)隷下の第三十一師団、第十五師団、第三十三師団の三個師団が、ビルマからインドへ、国境山脈を越えて急進し、三週間で英軍の基地、インパールまで進攻するというものだった。

 ところが、速い進撃と山脈を越える作戦で、補給困難の問題があった。それで、反対する幕僚や指揮官が多かった。だが、牟田口軍司令官は確信に満ちており、反対者を退け、上層部の作戦承認を得た。大本営は全般的に敗勢の中で、インパール作戦に期待したのだ。

 だが、結果的には、4月下旬までに、三個師団は損害を多く出し、攻撃は挫折した。食糧は三週間分しか持っていかなかったので、食糧が不足してきた。武器、弾薬も足りなくなった。その後は悪戦苦闘の連続となった。

 「抗命」(文春文庫)によると、インパール作戦は、もともと牟田口廉也中将による起案ではなかった。ビルマ平定の余勢をもって一挙にインドに進入し、インドの支配権を握ろうと昭和17年8月6日、インド進攻計画を決定したのは、南方軍総司令官・寺内寿一元帥(陸士11・陸大21)とその幕僚だった。

 この計画は二十一号作戦と呼ばれた。大本営が同意したので、南方総軍は同年9月1日、第十五軍に対し、二十一号作戦の準備を命じた。

 当時の第十五軍司令官であった飯田祥二郎中将(陸士20・陸大27)は驚いた。第十五軍の兵力でやりこなせる作戦ではなかった。

 9月3日、飯田軍司令官は、ビルマ東部のシャン州タウンジーまで出向き、当時隷下の第十八師団長であった牟田口廉也中将を訪ねて意見を求めた。

 すると、牟田口師団長は、「作戦の実施は困難である」と、インド進攻作戦に反対した。第三十三師団長・桜井省三中将(陸士23・陸大31恩賜)も反対した。

 飯田軍司令官は南方軍に第二十一号作戦の再考を促す意見具申をした。南方軍は大本営に報告した。東条英機首相もインド進攻には自信がなかった。そのうちガダルカナル島の戦況が悪化した。

151.牟田口廉也陸軍中将(1) 決して督戦などというケチな考えで一線に出るのではない

2009年02月13日 | 牟田口廉也陸軍中将
 「シンガポールは陥落せり」(青木書店)によると、昭和17年4月8日の朝日新聞に「マレー作戦報告」が掲載された。当時、マレー作戦を行った第二十五軍作戦参謀、辻政信中佐(陸士36首席・陸大43恩賜)が記したものだ。

 辻政信中佐は「マレー作戦報告」の中で、マレー作戦に参加した第十八師団長・牟田口廉也中将(陸士22・陸大29)について、次の様に記している(要約)。

 マレー作戦も終盤になり、最後のシンガポール攻撃のとき、私(辻参謀)は、牟田口兵団(師団)の司令部を訪ねた。

 すると、牟田口兵団長は今から第一線に出るというところで、参謀等が「兵団長が一線に出ては危険であるし、万一のことがあってはかえって兵団の行動に支障を来たすからと、おとめしているが、きかれないから、君とめてくれ」ということなので、私は牟田口兵団長のところへ行き次のように言った。

 「閣下が今第一線に進出されるのは適当な時期ではない。閣下の部隊は今全力を尽くして奮戦中であり、突撃を待機しているが、今は敵の集中射撃が熾烈なので薄暮を利用して突撃ということになっております」

 さらに「第一線将兵の士気は極めて旺盛ですからどうかご安心ください。それに今、兵団長が第一線に進出されると、部下の連隊長は、突撃時期が延びているので、激励督戦に来られたのかと思って、余計な無理をして強行攻撃をやり、不必要な損害を出すかもしれません。今は不適当です、明朝にしてください」と申し上げた。

 すると牟田口兵団長は、司令部の天幕の中に黙然と立って聞いておられたが、ポロリと涙を落とされて、「辻君俺はそんな気持ちで第一線に出るのではない。決して督戦などというケチな考えで一線に出るのではないし、また俺の部下は俺の一線進出を知って督戦に来たなどという、水臭い気持ちや考えを持つものは誰一人おらぬ」

 さらに「恐らく今夜部下の連隊は軍旗を先頭に決死の突撃をやるだろう。そうすれば連隊長、大隊長はじめ部隊将兵の多くが戦死するに違いない。俺は部下将兵が戦死する前に、一目会って手を握って、そして立派に戦死させてやりたい。俺の気持ちは皆部下がよく知っていてくれる。喜んで迎えてくれるだろう。俺も安心していける」と言われ、またポロリと戦塵に汚れた顔に涙を流された。私も思わず貰い泣きした。

 この上下渾然たる兵団一体の統制と気持ち、この兵団長の部下を思う気持ち、それを知り、兵団長を欣然迎え、莞爾と死地に突入する部隊将兵の意気、私は実に尊い日本独特の統帥だと感じた。これこそ本当の武人の情けであろう。

 私は涙が流れてしようがなかったが、悠然と嬉しさが胸に満ち満ちた。もはや言うことはない。「兵団長閣下、第一線に出てやってください!」。兵団長も嬉しそうに頷かれた。

 以上のように、辻参謀は牟田口師団長について感動的に記している。当時、朝日新聞を読んだ読者からも、この箇所には、賞賛の声が多かった。

 それから二年後の昭和19年3月、インパール作戦が行われた。作戦を指揮したのは第十五軍司令官・牟田口廉也中将で、三個師団を率いてインドに進攻した。

 このインパール作戦では、牟田口軍司令官は、部下の幕僚を怒鳴り、督戦どころか、後方から将兵を突撃に激しく追い立て、さらには自分の意に反する隷下の三人の師団長を解任までした。

 それは、マレー作戦で辻参謀が感動して朝日新聞に記した「上下渾然たる兵団一体の統制と気持ち」とは、かけ離れた「統率」であった。

 <牟田口廉也中将プロフィル>

明治21年10月7日、佐賀県出身。
明治43年5月陸軍士官学校卒(22期)。12月歩兵少尉、歩兵第十三連隊附。
大正2年12月歩兵中尉。
大正6年11月陸軍大学校卒(29期・57名中25位)。
大正9年4月歩兵大尉、参謀本部員。
大正15年3月歩兵少佐。8月近衛歩兵第四連隊大隊長。
昭和2年5月軍務局軍事課員。
昭和4年2月フランス出張。8月参謀本部員。
昭和5年8月歩兵中佐。
昭和8年12月参謀本部総務部庶務課長。
昭和9年3月歩兵大佐。
昭和11年5月支那駐屯歩兵第一連隊長。
昭和13年3月陸軍少将、関東軍司令部附。7月第四軍参謀長。
昭和14年12月予科士官学校長。
昭和15年8月陸軍中将。
昭和16年4月第十八師団長。
昭和18年3月第十五軍司令官。
昭和19年8月参謀本部附、12月予備役。
昭和20年1月召集・予科士官学校長。9月召集解除。12月戦犯容疑で逮捕。
昭和21年9月シンガポール移送。
昭和23年3月釈放・帰国。戦後は東京都調布市で余生を送る。
昭和38年4月および昭和40年2月、国立国会図書館政治史料調査事務局の要請で、盧溝橋事件とインパール作戦の談話を録音。
昭和41年8月2日死去。七十七歳。

150.小沢治三郎海軍中将(10) 事故で死ぬなんて。戦争で死なずに、生き恥をさらしおったくせに

2009年02月06日 | 小沢治三郎海軍中将
 小沢司令長官は厚木航空隊に対して断固たる処置に出た。「小薗部隊を叛乱軍として討伐することを命じる。命令を書け」と千早参謀に命じた。

 千早参謀は直ちに、横須賀鎮守府司令官・戸塚道太郎中将(海兵38・海大20)に宛てて、鎮定命令を発令した。鎮守府の鎮定部隊は、ただちに行動を起こした。

 だが、当の小薗司令は精神に異常をきたし、横須賀海軍病院に収容されて、事態は収拾した。

 小沢中将は、最後の連合艦隊司令長官として一切の終戦業務を済ませると、戦後は世田谷の自宅に引きこもった。

 世間の表には一切出ず、マスコミも寄せ付けず、自分のあばら家、それもあまり大きくない建物の大部分を他人に貸し、鶉や七面鳥を飼い、清貧の生活を続けた。

 「小澤治三郎」(PHP文庫)によると、戦後の清貧の生活について、良妻賢母で、夫に尽くし続けた妻の石蕗(つわ)が「電話も売ってしまいました。あの電話は大変おいしゅうございましたよ」とカラッと言ったという話が残っている。

 昭和32年1月航空自衛隊のF86Fジェット戦闘機2機が訓練飛行中、接触事故を起こし、墜落した。
「パイロットが死亡」というニュースが流れた。

 その「死亡した」とされるパイロットは、歴戦の名パイロットで、小沢の親戚に当たった。

 小沢はこのニュースを聞いて「事故で死ぬなんて。戦争で死なずに、生き恥をさらしおったくせに」と低い声だが、はっきりと言った。

 その言葉を聴いた、妻の石蕗は「あなたただって、そうではないですか」と思わず言ってしまった。そのとき、小沢の表情はみるみる哀しさで溢れ、黙したままだったという。(後に、その名パイロットは救助されたことが判った)。

 戦後の小沢はマスコミの取材を受けても黙して語らずの態度を一貫して通した。対外的でなく、家庭でも、小沢は無口であったという。

 十年余り同居している娘婿の大穂利武は「義父と会話を交わしたのは、五回ぐらいしかありませんよ」と言っている。

 食事のとき、差し向かいに座った小沢と大穂の間に会話はなく、無言のまま時が経つ。大穂は「十年間で義父と話した内容は四百字詰め原稿用紙にして十枚あるかないかですよ」と苦笑しながら語ったという。

 小沢が愛読していた吉野秀雄の「良寛和尚の人と歌」の中でも、良寛が自筆でしたためたという「戒語」には、特に小沢は心を惹かれていたという。その「戒語」は次の通りであった。

 一、ことばの多き。一、口のはやき。一、とはずがたり。一、人の物いいきらぬうちに物いう。一、こと葉のたがう。一、たやすく約束する。一、酒に酔いてことわりいう。一、己が氏素性の高きを人に語る。一、学者くさき話。

 小沢は昭和39年4月、排尿が不如意になり、前立腺肥大の疑いで自衛隊中央病院に入院した。その後家に帰ったが、昭和41年8月上旬に足が不自由になり、寝室は二階から一階に移された。

 その後衰えが進み、昭和41年11月9日、呼吸は続いていたが、もう生きている状態ではなかった。

 妻の石蕗が、「あなた、たばこどうですか」と言って火を点けたタバコを渡した。小沢は一日に何十本も喫う男だった。それが、石蕗が小沢に話しかけた最後の言葉になった。

 昭和41年11月9日午後1時20分、小沢治三郎元海軍中将は静かにその生涯を終えた。80歳だった。

 11月13日、葬儀が東京の護国寺で営まれた。参列者は約600名だった。葬儀委員長は長谷川清元海軍大将(海兵31・海大12)だった。

 (「小沢治三郎海軍中将」は今回で終わりです。次回からは「牟田口廉也陸軍中将」が始まります)