一方、ビルマでは、英軍がベンガル湾沿いのアキャブ方面からビルマに反抗する兆候が現れたので、この時点で第二十一号作戦の準備は中止となった。
英軍のグルカ兵がビルマ北部に進攻してきた。第十八師団、第二十三師団が攻撃に向かい、交戦した。英軍部隊の一部が、勇敢にもイラワジ河を渡ってビルマ中央部まで現れた。この部隊は英軍のウインゲート准将率いる三千人の挺身隊だった。
牟田口中将の第十八師団はウインゲート隊の攻撃に向かったが、捕らえることはできなかった。昭和18年4月になると、ウインゲート隊は反転し、国境の外に去っていった。この挺身隊の基地はインド東北部マニプール州の州都インパールだった。
ウインゲート挺身隊の侵入で衝撃を受けた牟田口中将に、さらに悪い報告が来た。インドの国境方面に自動車道路が建設されているというのだ。連合軍はビルマ奪回のために進撃道を作っているのだ。
連合軍の反攻に備え、ビルマ方面軍が編成された。司令官には河辺正三中将(陸士19・陸大27恩賜)が任命された。隷下には第十五軍、第二十八軍、第三十三軍が配置された。
この改編を機に第十五軍の飯田軍司令官は転出し、昭和18年3月27日、後任の軍司令官に牟田口廉也中将が親補された。
牟田口中将は自分が軍司令官になったからには、ビルマ防御ではなく、インド進攻を実施しなければならないと考えるようになった。
「回想ビルマ作戦」(光人社)によると、牟田口軍司令官は、軍参謀長・小畑信良少将(陸士30恩賜・陸大36)をはじめ全幕僚を集めて、次のように訓示した。
「いまや全般の戦局は行き詰っている。この戦局を打開できるのは、ビルマ方面だけである。ビルマで戦局打開の端緒を開かねばならぬ。そのためにはただ防勢に立つだけではいけない。この際、攻勢に出て、インパール付近を攻略するはもちろん、進んでアッサム州まで進攻するつもりで作戦を指導したい」
この青天の霹靂のような申し渡しに、小畑軍参謀長は困惑した。小畑軍参謀長は長く陸軍大学校の兵站教官をやり、陸大に小畑兵站ありといわれたほどの兵站の権威者の一人であった。
小畑軍参謀長は、アッサム進攻は兵站の見識から補給が続かず、後方的に危険であると判断して、反対の苦言を呈した。だが、牟田口軍司令官の意思は動かなかった。
小畑軍参謀長は「事はあまりにも重大だ。軍司令官の目標はアッサム州にある。これは危険だ、なんとしてでも思いとどまらせなければならぬ。これは外力によって阻止するほかはない」と考えた。
思い余った小畑軍参謀長は第十八師団長・田中新一中将(陸士25・陸大35)を訪ね、同中将から意見具申をしてもらいたいと依頼した。
だが、田中師団長は、4月20日に開かれた兵団長会同で、小畑軍参謀長から依頼された内容を伝えるとともに、いやしくも軍参謀長が直接、軍司令官に進言せず、部下の師団長をかいして意見を具申しようとしたのは統率上憂慮すべき問題だと付言した。
このことが牟田口軍司令官の逆鱗に触れ、小畑軍参謀長は就任後わずか一ヶ月で解任された。5月3日にハルピンの特務機関長に転出させられた。
小畑軍参謀長の解任を見て、軍司令官の意に反して苦言を呈することは、首が飛ぶことだと知って、幕僚たちは、それから誰一人として諌言を呈する者はいなくなった。
「丸・エキストラ先史と旅・将軍と提督」(潮書房)によると、昭和18年4月20日、牟田口軍司令官はメイミョウの軍司令部で隷下兵団長会同を行った。この会同で、牟田口軍司令官はインド進攻作戦を披露した。列席した各師団長は、いずれも唖然として驚いた。
会同終了後、師団長相互の雑談で、第三十一師団長・佐藤幸徳中将は「あんな構想でアッサム州までいけるとは笑止の沙汰」ともらした。
さらに、第三十三師団長・柳田元三中将(陸士26・陸大34恩賜)も「まったく可能性の無い作戦だ。軍司令官の意図には不同意だ」と反対した。
英軍のグルカ兵がビルマ北部に進攻してきた。第十八師団、第二十三師団が攻撃に向かい、交戦した。英軍部隊の一部が、勇敢にもイラワジ河を渡ってビルマ中央部まで現れた。この部隊は英軍のウインゲート准将率いる三千人の挺身隊だった。
牟田口中将の第十八師団はウインゲート隊の攻撃に向かったが、捕らえることはできなかった。昭和18年4月になると、ウインゲート隊は反転し、国境の外に去っていった。この挺身隊の基地はインド東北部マニプール州の州都インパールだった。
ウインゲート挺身隊の侵入で衝撃を受けた牟田口中将に、さらに悪い報告が来た。インドの国境方面に自動車道路が建設されているというのだ。連合軍はビルマ奪回のために進撃道を作っているのだ。
連合軍の反攻に備え、ビルマ方面軍が編成された。司令官には河辺正三中将(陸士19・陸大27恩賜)が任命された。隷下には第十五軍、第二十八軍、第三十三軍が配置された。
この改編を機に第十五軍の飯田軍司令官は転出し、昭和18年3月27日、後任の軍司令官に牟田口廉也中将が親補された。
牟田口中将は自分が軍司令官になったからには、ビルマ防御ではなく、インド進攻を実施しなければならないと考えるようになった。
「回想ビルマ作戦」(光人社)によると、牟田口軍司令官は、軍参謀長・小畑信良少将(陸士30恩賜・陸大36)をはじめ全幕僚を集めて、次のように訓示した。
「いまや全般の戦局は行き詰っている。この戦局を打開できるのは、ビルマ方面だけである。ビルマで戦局打開の端緒を開かねばならぬ。そのためにはただ防勢に立つだけではいけない。この際、攻勢に出て、インパール付近を攻略するはもちろん、進んでアッサム州まで進攻するつもりで作戦を指導したい」
この青天の霹靂のような申し渡しに、小畑軍参謀長は困惑した。小畑軍参謀長は長く陸軍大学校の兵站教官をやり、陸大に小畑兵站ありといわれたほどの兵站の権威者の一人であった。
小畑軍参謀長は、アッサム進攻は兵站の見識から補給が続かず、後方的に危険であると判断して、反対の苦言を呈した。だが、牟田口軍司令官の意思は動かなかった。
小畑軍参謀長は「事はあまりにも重大だ。軍司令官の目標はアッサム州にある。これは危険だ、なんとしてでも思いとどまらせなければならぬ。これは外力によって阻止するほかはない」と考えた。
思い余った小畑軍参謀長は第十八師団長・田中新一中将(陸士25・陸大35)を訪ね、同中将から意見具申をしてもらいたいと依頼した。
だが、田中師団長は、4月20日に開かれた兵団長会同で、小畑軍参謀長から依頼された内容を伝えるとともに、いやしくも軍参謀長が直接、軍司令官に進言せず、部下の師団長をかいして意見を具申しようとしたのは統率上憂慮すべき問題だと付言した。
このことが牟田口軍司令官の逆鱗に触れ、小畑軍参謀長は就任後わずか一ヶ月で解任された。5月3日にハルピンの特務機関長に転出させられた。
小畑軍参謀長の解任を見て、軍司令官の意に反して苦言を呈することは、首が飛ぶことだと知って、幕僚たちは、それから誰一人として諌言を呈する者はいなくなった。
「丸・エキストラ先史と旅・将軍と提督」(潮書房)によると、昭和18年4月20日、牟田口軍司令官はメイミョウの軍司令部で隷下兵団長会同を行った。この会同で、牟田口軍司令官はインド進攻作戦を披露した。列席した各師団長は、いずれも唖然として驚いた。
会同終了後、師団長相互の雑談で、第三十一師団長・佐藤幸徳中将は「あんな構想でアッサム州までいけるとは笑止の沙汰」ともらした。
さらに、第三十三師団長・柳田元三中将(陸士26・陸大34恩賜)も「まったく可能性の無い作戦だ。軍司令官の意図には不同意だ」と反対した。