陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

70.南雲忠一海軍中将(10) サイパンが陥ちると、私は総理を辞めなければいけなくなるのだ

2007年07月20日 | 南雲忠一海軍中将
 もっとも、南雲長官は第一航空艦隊司令長官になってから、専門違いのためか精彩を失ったという噂もあった。やはり草鹿艦隊、源田艦隊という噂が真相をうがった声であったのかも知れない。

 昭和17年8月25日の第二次ソロモン海戦で、南雲支援部隊は米軍空母エンタープライズを大破させたが、空母龍驤と駆逐艦睦月を失った。

 飛行機も損害を出したが、ガダルカナルを中心とするアメリカ、オーストラリア軍の容易ならぬ反攻態勢を窺知することができた。

 10月26日の南太平洋海戦では、旗艦翔鶴が被弾損傷したが、米軍の大型空母ホーネットと駆逐艦ポーターを撃沈、空母エンタープライズも大破、その他戦艦1隻、巡洋艦1隻、駆逐艦1隻に損傷を与えて勝ち戦となった。

 南雲長官は悲願であったミッドウェイ海戦の敵討ちを果たす事ができた。

 南雲中将はその後、昭和17年11月11日佐世保鎮守府司令長官、昭和18年6月21日呉鎮守府司令長官、10月20日第1艦隊司令長官を歴任した。

 昭和19年3月4日 南雲中将は中部太平洋方面艦隊司令長官兼第14航空艦隊司令長官に転補された。

 中部太平洋方面艦隊は第四艦隊と第十四航空艦隊で編成されていたが、陸軍の小畑英良中将の率いる第三十一軍(四十三師団・二十九師団)が南雲司令長官の指揮下に編入された。

 総理大臣の東條英機は東京に出た南雲司令長官を官邸に呼んで「何とかサイパンを死守してほしい。サイパンが陥ちると、私は総理を辞めなければいけなくなるのだ」と言ったという。

 南雲は東條とは親しくなかった。同じ東北出身であるが、とくに付き合いはなかった。東條は南雲より三歳年長であるが、進級の早い陸軍では、二年以上前に大将に進級していた。

 後に南雲は「いくら、東條さんに頼まれてもな。無理なものは無理じゃよ。何しろ武器も兵員もない所へ行くんではな」と洩らしている。

 3月9日、南雲司令長官は幕僚を伴いサイパン島に進出した。サイパン島は皇国皇軍の不沈運命を背負う重大な戦局の基点となっていた。

 南雲長官は島を視察した後、参謀長の矢野英雄少将に「こんな装備で戦争ができると思うとるのかね」と嘆かわしげに言った。矢野参謀長もサイパンのあまりの無防備に驚いていたところだった。

 サイパンの日本軍の兵力は海軍15000名、陸軍29000名の合計44000名であった。

 昭和19年6月15日、米軍は米海軍全艦隊支援のもとに大軍でサイパン島に上陸、総兵力16万人の圧倒的な兵力は、たちまち同島の飛行場を占領した。

 海軍は小沢中将の率いる第一機動艦隊の全力を以って6月19日、20日にわたってサイパン島西方海域で戦ったが、大した戦果もなく、主力空母3隻を失って敗退した。大本営はついに6月24日、サイパン島奪回を断念した。

 サイパン島の南雲中将率いる陸軍部隊、海軍部隊は孤立無援となり、孤軍奮闘したが、玉砕した。

 南雲司令長官の最後について「悲劇の南雲中将」(徳間書店)では、次のように述べている。

 7月6日早朝、第四十三師団長斉藤義次中将は、南雲長官に「長官、この時をのがさず自決しますか」と訊いた。南雲長官は「そうですね、すぐ私も後を追っかけます」と言った。

 白布の上に端座した斉藤中将が、参謀長井桁少将の介錯で自刃したのに続いて、南雲長官も参謀長矢野少将の介錯で自刃した。そのあと第六艦隊司令長官、高木中将も自刃した、となっている。

 「波まくらいくたびぞ」(講談社文庫)によると、南雲長官の最後は次のようになっている。

 7月6日よる、地獄谷の陸軍洞穴で、斉藤中将と井桁少将が自決した。

 南雲中将は海軍の残存将兵を集めると「では今から突撃する。全員俺に続け!」と海軍中将の襟章をもぎ取った軍装のまま拳銃を構えるとジャングルを抜けて、米軍の陣地に向かった。

 「バンザーイ」「ワッショイ、ワッショイ」「ツッコメー」日本軍の万歳突撃が始った。突撃部隊は武器らしい武器ももたず、マタンシャからタナバダの方向に向かった。撃っても撃っても押し寄せてくるので、米軍も一時はタナバグの南まで後退した。

 万歳突撃が終わったのは7月9日である。南雲中将はこのあたりのいずれかで最期を遂げたもので、時刻は7月7日未明とされる、となっている。

(「南雲忠一海軍中将」は今回で終わりです。次回からは「有末精三陸軍中将」が始まります)

69.南雲忠一海軍中将(9) 「長官はふるえておられた」というささやきが伝えられた

2007年07月13日 | 南雲忠一海軍中将
 「波まくらいくたびぞ」(講談社文庫)によると、自室に呼んだあと、「ご苦労だったね」とウイスキーと機密費二千円を草鹿参謀長に渡した宇垣参謀長は、次のように言った。

 「いや、GF(連合艦隊司令部)の方も、気のゆるみがあった。実は、五月二十五日ごろから六月一日にかけて、ハワイ方面の敵電報が非常に増えてきていた」

 続けて「何かあったな、と考えていたが、これが敵の空母の出撃だったわけだな。何とかして、君に知らせたいと考えたが、ご承知の無線封止でな、参謀たちここで無電を打てば、大和の位置がわかってしまうと猛反対だったんだ、こういうことになるのなら、危険をおかして、通報すべきだったな。君にはすまなかったと思っている」と頭を下げた。

 草鹿は体がふるえるのを覚えた。旗艦大和の、主力部隊の安全を計る為に赤城の司令部が最も欲しがっていた情報を握りつぶしたのだ。

 長良に帰った草鹿参謀長は、ふんまんの面持ちで南雲長官にそれを報告した。

 「そうか、わかっていたのか」南雲長官は暗然とした。そもそも大和が出て来たのは余計なことではなかったか。大和が太平洋上に来た為に、無線封止をせねばならなかった。

 柱島におれば、自由に情報を打電し、機動部隊を指導することができたはずだ。だが大和司令部を恨む気にはなれなかった。俺が戦い、そして負けたのだ。

 元海軍大佐、淵田美津雄氏はその著書「ミッドウェー」(日本出版協同)の中の第六章で、南雲長官論を記している。

 昭和8年当時、淵田大尉は巡洋艦摩耶の飛行長であった。摩耶は第二艦隊第四戦隊の二番艦であった。同じ戦隊の三番艦高雄の艦長が南雲忠一大佐だった。

 当時南雲大佐は新進気鋭の俊英であった。艦隊には艦長が何人もいたが、その中でも、ぴカ一の存在として光っているように見えた。

 やることなすことにソツがないし、うまいもんだなあと感ずることばかりである。艦隊の研究会でも、南雲大佐の陳述を聞いていると、なるほどと良く筋が通って、啓蒙されることばかりであった。

 これはたいした切れ者と頭が自然に下がった。淵田たち若い士官たちは心からなる尊敬をもって、この有能な艦長に絶対の信頼をおいていた。

 その後、淵田は南雲忠一に接する機会はなく、8年後の昭和16年、淵田は、航空母艦赤城の飛行隊長に補せられた。そして機動部隊長官として南雲中将を仰いだ。

 ところが、航空という畑違いのせいもあってか、溌剌爽快な昔の闘志が失われ、何としても冴えない長官であったと淵田は述べている。

 作戦指導も長官自らイニシアチブをとるという風はなかった。最後に「ウン、そうか」で決裁するだけのようだった。

 淵田と同期の源田作戦参謀が淵田に漏らしたという。

 「いつでも自分の起案した命令案が、すらすらと通ってしまう。抵抗がなくていいようなもんだが、実は違う」

 「自分だけの考えで起案したものが、いつも上のほうで、何のチェックも受けずに、命令となって出て行くと思うと空恐ろしい。俺自身はいくら己惚れても、全知全能ではない」と。

 丸別冊「回想の将軍・提督」(潮書房)の中で元連合艦隊参謀・海軍中佐、中島親孝氏寄稿の「私の見たアドミラル採点簿」によると、ミッドウエー海戦で壊滅した第一航空艦隊の跡継ぎとして、第二艦隊が新しく生まれた。

 司令長官・南雲忠一中将、参謀長・草鹿龍之介少将が第一航空艦隊から横すべりしたのは「ミッドウェーの敵討ち」をさせてもらいたいと懇願し、山本五十六連合艦隊司令長官のとりなしによったものと言われている。

 昭和17年8月7日、米軍がツラギ、ガダルカナルに上陸してきた。第二艦隊と第三艦隊で支援部隊を編成、ガダルカナルの陸上戦闘を支援する事になったが、連合艦隊司令部が細かい行動まで指示してきた。

 陸軍部隊の作戦が敵を過小評価し、拙速をねらっていたため、小刻みの予定繰り下げが続いた。支援艦隊も海面で似たような行動を繰り返す事を余儀なくされた。

 敵潜水艦の考慮から、毎回なるべく違った行動をとるように考えると、南雲長官は連合艦隊司令部の指示と違うと言って、なかなか首を縦にふらない。

 ようやく同意してもらって電報すると、連合艦隊司令部から指定地点に行けとのおしかりがくる。説明に行った参謀から「長官はふるえておられた」というささやきが伝えられた。

 これがかって日本海軍きっての水雷戦術のオーソリティとうたわれ、海軍省と争って軍令部の権限を拡大させた時の、軍令部側の先頭に立った論客とは思えなかった。

68.南雲忠一海軍中将(8) 草鹿君、逝かしてくれい、武士の情けだ

2007年07月06日 | 南雲忠一海軍中将
 12月24日、山本司令長官は永野修身軍令部総長とともに、空母赤城を訪れた。

 山本は赤城の舷梯を登り、艦内に一歩踏み入れると同時に「これはいかん」と思った。彼が感じたのは士気よりも驕りであった。

 山本長官は、赤城の長官公室に参集した各級指揮官を、きびしい表情で眺めた。そして次のように話した。

 「緒戦には幸いに一勝できたが、戦争は長期戦であり、これからが、真の戦いである。幸運の一勝に驕ってはいかん。勝って兜の緒を締めよ、という言葉を忘れてはいけない。勝利を得て凱旋したなどと考えてはいかん。次の戦闘準備のため、一時帰投したのである。一層戒心して事に当たるよう希望する」

 これが山本司令長官の訓示であった。戦利を誉めるでもなく、労苦をねぎらうでもない。叱咤激励に近い口調であった。

 これについて「悲劇の南雲中将」(徳間書店)では、阿川弘之著の「山本五十六」の内容を引用し、赤城の長官公室に参集した各級指揮官への山本司令長官の訓示について、次のように批判している。

 「態度や言葉が、いかにも冷酷で、これは南雲中将に対する積年の公怨私怨がこめられているようである」と。

 「悲劇の南雲中将」(徳間書店)の著者、松島慶三氏(海兵45期・海大卒・元海軍報道部長)は、「山本五十六と同期で親友の堀悌吉を、ロンドン軍縮会議のときに首を切った艦隊派の加藤寛治、末次信正の一派が南雲長官であった」と述べている。

 さらに「しかし、当時軍令部の一課長にすぎない、南雲大佐がその実力があったかどうか」とも記している。

 また松島氏は山本五十六について、「世紀の大事業たる真珠湾攻撃の功罪にかかる私怨をさしはさむほど連合艦隊司令長官たる山本五十六大将は小人物ではなかった」と述べている。

 なお、このあと一悶着があった。真珠湾攻撃後の航空機搭乗員の二階級進級問題である。

 機動部隊の草鹿参謀長と、軍令部の福留部長や人事局との間に「約束が違う」という衝突が起った。

 これは真珠湾攻撃前に福留部長が「真珠湾攻撃が成功したら、全員二階級特進させるから、必ず成功させてくれ」と発言した。

 それで、結果的に二階級特進はなくなったので、草鹿参謀長の「約束が違う」となったのである。

 だが、これは福留部長だけの口約束で、実際は上部との連絡が取れていなかったのである。

 真珠湾攻撃の大成功に、日本内地では、軍人も国民も熱狂、歓喜の渦であった。

 だが、そんな中、敵空母を逃した事に、きびしい批判をしたのは、横須賀航空隊司令の上野敬三少将だったと言われている。

 また、後日、南雲長官が永野修身軍令部総長会ったとき、永野総長は真珠湾攻撃の「一撃避退」に不満を漏らしたとも言われている。

 昭和17年6月5日~7日 ミッドウェイ海戦で南雲長官の機動部隊は空母四隻を失い大敗した。

 軽巡長良に移った南雲司令部に対して連合艦隊はミッドウェイ作戦の中止を命じた。

 南雲長官は命令を受け取ると、司令官公室に引き篭もった。

 草鹿参謀長は南雲長官が短剣に真刀を仕込んでいるのを聞いていたので、司令官公室に向かった。

 中に入ると「作戦の失敗は誰にあると思う。わしはこの日の為に用意してきた」と言って、短剣を抜き鞘を払った。

 ほの暗い灯りの中で相州物の真剣がにぶく光っていた

 長官、いけません」草鹿参謀長は、その短剣を取り上げようとした。

 「なにをするか」南雲長官は抵抗したが、山岡鉄舟の無刀流を修練した草鹿参謀長に短剣を取り上げられた。

 「草鹿君、逝かしてくれい、武士の情けだ」

 「だめです、長官。仇をとりましょう。空母もまだ翔鶴と瑞鶴があります。搭乗員も淵田、村田、江草などのベテランが残っています。もう一回だけやってみましょう」

 南雲長官は「うむ」と言って草鹿参謀長から短剣を受け取り鞘に収めたという。

 6月10日、軽巡長良は戦艦大和と海上で会合し、草鹿参謀長は大和に乗り移り、山本五十六長官に報告した。

 草鹿参謀長は負傷しており、もっこにかつがれていた。

 山本長官は南雲長官と草鹿参謀長をもう一度作戦に参加させる事を了承した。

 そのあと宇垣参謀長が草鹿参謀長を自室に呼んだ。

67.南雲忠一海軍中将(7)連合艦隊司令部と機動部隊司令部の間には感情敵的な対立があった

2007年06月29日 | 南雲忠一海軍中将
 機動部隊は結局、天候不良を理由として、ミッドウェイ攻撃をやらなかった。

 すると連合艦隊司令部は、機動部隊に、12月15日、ウェーキ島攻略作戦の支援を命じた。

 開戦と同時にマーシャル群島のケゼリンに本部を置いた第四艦隊は、ウェーキ島の占領を試みたが、敵の抵抗は頑強だった。

 空母エンタープライズが運んだグラマン戦闘機のため、第二艦隊は逆に駆逐艦二隻を撃沈されてしまったのである。

 第四艦隊長官の井上成美中将は、航空部隊の援助を要請した。

 南雲中将と井上中将とは、お互い大佐の時に「省部事務互渉規定改正」をめぐって「判を押さんか」「絶対に押さない」、「殺すぞ」「そんな脅しはこわくない」とやりあった、犬猿の仲であった。

 それは条約派と艦隊派、軍令部と海軍省の闘いでもあった。

 このような立場の南雲と井上であったが、機動部隊の南雲長官は「井上も困っているだろう。こちらはうまくいったが、向こうはウェーキ一つとれなくては、山本さんに合わせる顔もあるまい」と言って攻撃を下令した。

 井上は、山本五十六が次官の時の軍務局長で、山本の秘蔵っ子である。

 12月16日夕刻、南雲長官は山口多聞少将の二航戦に、八戦隊をつけて、ウェーキ再攻撃の増援を命じた。

 再攻撃で、12月22日、米軍のウェーキの航空部隊を全滅させた。その結果、全島占領は成功した。

 機動部隊の旗艦、空母赤城が瀬戸内海の柱島泊地に投錨したのは12月23日午後6時半であった。

 赤城入港の報を聞くと、山本五十六連合艦隊司令長官は、宇垣纏参謀長を呼んで、「君、行ってきたまえ」と言った。

 それは怒ったような口調であったという。いつもの悠揚迫らず、といった山本らしくもなかった。

 理由は、連合艦隊司令部と機動部隊司令部の間には感情敵的な対立があった。

 それは真珠湾攻撃の時に始った。真珠湾に出掛ける直前までは、両者は心が通じ合っていた。

 しかし、機動部隊が一応成功を収めた時から、溝は掘られ始めていた。

 機動部隊には、連合艦隊司令部が何と言おうと、実際に砲火を浴びて戦果を上げたのは俺達だという自負がある。

 連合艦隊司令部としては、前線が戦果を上げ得たのは連合艦隊司令部の指導よろしきを得たからだ、常に連合艦隊司令部を立てるべきだ、それを忘れるな、と言いたいのである。

 柱島泊地に投錨した赤城に宇垣纏参謀長が乗り込んできたが、以上のようないきさつがあるので、あまり歓迎されなかった。

 宇垣参謀長は長官公室に入ると、南雲長官にお祝いの言葉を述べ、次いで、草鹿参謀長と握手しようとした。

 「草鹿、おめでとう。よくやってくれた」そう言ったが、草鹿はすぐには手を出さなかったという。

 なぜ、山本長官が自ら出向いてこないもだろう。出撃の時には、山本長官が赤城の飛行甲板に立って悲壮な激励の辞を贈ったではないか。

 今、成功を収めて凱旋した時、山本長官が赤城に来て労をねぎらってくれたら、どんなに将兵もやりがいを感じたか、と草鹿参謀長は思っていた。

 草鹿参謀長は言った「宇垣参謀長、長官はこられなのですか」。

 「うむ、長官はな、」口ごもった後、宇垣は答えた。

「今夜は遅いので、明日来られるだろう。その前に、南雲長官に、長門に来ていただかなければならんが。まあ、おめでとう」と言った。

 草鹿参謀長は「いや、天佑神助の賜物ですよ」と謙遜したが、「ありゃ何です?帰りにミッドウェイを攻撃しろというのは。作戦命令にないことを付け加えられちゃあ、困りますなあ」と言った。

 すると宇垣纏参謀長は「いや、命令作第一号に出ていたはずだぞ」と応えた。

 草鹿はそれに対して「あれは、敵の攻撃に対して大なる考慮を要せざる場合、という条件だったでしょう。こちらは無線封止中ですからね。もっと現地の状況を考えてもらわなければ困りますよ」と噛み付いた。

 やむを得ず宇垣纏参謀長は「いや、すまんことをした」と、滅多に下げた事のない頭を下げた。

 宇垣纏参謀長のそりかえり挨拶というのは軍令部時代から有名だった。下僚が挨拶すると、「やあ」と言って頭を後ろにそらせるのであった。

 また、滅多に表情をくずさないので、「黄金仮面」とあだ名されていた。ちなみに宇垣纏参謀長は陸軍の宇垣一成(かずしげ)大将、海軍の宇垣莞爾中将と遠い親戚である。

 宇垣は愉快でなかったとみえ、その日の日誌に「偉勲を立てて帰ってきたので、意気当たるべからず、だが、空母の二隻もなくして帰ったら、ああもゆくまい」と記している。

66.南雲忠一海軍大中将(6) 機動部隊を小僧の使い走り使いのように考えてもらっては困る

2007年06月22日 | 南雲忠一海軍中将
 山本司令長官は立ち上がるとおもむろに口を開いた。

 「大切な事を一つ付け加えておく。それは攻撃中止についてである。機動部隊は間もなく単冠湾に向けて発進するのであるが、まだ、戦争は始ったわけではない。ワシントンでは、野村大使と、ハル長官の間で日米交渉が続行されている。これが成立した場合には、機動部隊は攻撃中止、即時引き揚げの命令を打電するから、おとなしく内地に帰ってきてもらいたい」

 その時、草鹿参謀長が立ち上がり「長官、もし、母艦から攻撃機が発進後であったときは、どうしますか」と言った。

 すると山本長官は「同じだ。飛行機が母艦を離れて、攻撃の途中であっても、交渉が成立次第、帰ってきてもらう」

 南雲長官がたまりかねて立ち上がった。「長官、それはちとむりですぞ。あなたが平和を願う気持ちは分かりますが、一旦、母艦を離れたら、搭乗員には、攻撃するか、死ぬるかの、二つしか道は残されていない。発艦した魚雷を海に捨てて、もう一回着艦しろとは、指揮官としては口がさけても言えません。そりゃあ、士気に関係しますからな」

 草鹿参謀長も補足した。「艦攻や艦爆は電信員が乗っているから、引き返しの無電を受信できますが、戦闘機は無理だと思いますな。艦攻と同行しているときは手信号で伝えられますが、問題は天候不良などの原因で分散した時です」

 その時、南雲長官が「しかけたしょんべんは、やめられませんぞ」と太いしわがれた声で言った。それを聞いて、塚原二四三中将がくすりと笑った。

 山本長官は声を励ますように言った。「いいか、南雲も草鹿もよく聞いておけ。百年兵を養うは、一日の用に当てる為だ、という言葉を君達は知っているだろう。肝心のご奉公の時に、大切な命令が実行できないと思うようなら、出すわけにはいかん。今すぐ辞表を出せ」。

 南雲長官も山本長官の血相に気押された。

 会議が終わり、一同は岩国市内の料亭「深川」に向かった。山本司令長官初め、艦隊の将官が席を同じくして料理を囲んでいた。

 南雲中将も料理をむしゃむしゃ食っていた。

 酌に来た芸者が「よう食べんなさるねえ、こちらの中佐さん」と言った。

 「おい、中佐じゃないぞ」横から草鹿参謀長が注意をした。

 岩国では航空隊の士官が飲みに来るだけなので、将官は見たことがないのであった。

 「こちらの方は中将だ」

 「へえ、ほんなら、航空隊の司令よりもえらいんかね」

 「当たり前だ」

 「ほんなら、あんたは少将で、あのまんなかの大将は、誰いうのやね」女は山本司令長官の方を指差した。

 「余計なことを訊くな」草鹿参謀長は不機嫌に答えた。

 反対に南雲長官は機嫌が直っていた。田舎丸出しの芸者の素朴さが気に入ったのである。

 「おい、白頭山節を歌えるか」彼は平素自慢の歌を女に歌わせることにした。

 女は歌った。「泣くな嘆くな、必ず帰る、桐の小箱に錦着て、エエ、帰る、九段坂、テンツルシャン」

 南雲長官はぐいのみを掌にしたまま、それに聞き入っていたよいう。

 大戦果の真珠湾攻撃を成功させて南雲機動部隊は帰路についた。

 だが、真珠湾攻撃は一応成功ではあったが、第二回目の攻撃を行い、徹底的に真珠湾の米軍を壊滅させるという進言を南雲司令部は受け入れず、攻撃を終了させたのだった。

 連合艦隊司令部の殆どの参謀は、真珠湾攻撃で、機動部隊の南雲司令部に、第二撃による戦果拡大を下令すべきだと主張した。

 山本長官はいきりたつ参謀を抑え、「将棋のさしすぎはいかん」と言って戒めた。

 だが山本長官は後に、やはり真珠湾は第二撃を、行い徹底的に叩いておくべきだったと反省している。

 連合艦隊司令部は第二撃下令を強行しなかった代わりに、真珠湾攻撃を終えて引き上げ中の機動部隊に、帰路、ミッドウェイ攻撃を行うよう指令した。

 12月10日朝、この命令を受け取った赤城では、南雲長官よりも、草鹿参謀長がふんがいした。

 「決死の大作戦を終わって、やっと帰途についたのに、こんな小さな島をついでにやって来いとは何たる言い草だ。機動部隊を小僧の使い走り使いのように考えてもらっては困る」と言った。

 南雲長官も苦笑して「奇襲のけたぐりで、やっと横綱を倒したんだ。そしたら、帰りに、大根やねぎを買ってこいと言うのかね」と言った。

 機動部隊は結局、天候不良を理由として、ミッドウェイ攻撃をやらなかった。

65.南雲忠一海軍中将(5) 南雲、貴様、この二航戦をおいてけぼりにしようというのか

2007年06月14日 | 南雲忠一海軍中将
 南雲司令長官は海軍兵学校36期で山本五十六連合艦隊司令長官より4期下、山口二航戦司令官は40期で南雲より4期下だった。

 しかし山口は長く連合艦隊航空司令官を勤め、航空戦の指揮には自信を持っていた。また、山口は40期を2番で卒業し、欧米勤務も長く、近代戦の指揮にも精通していた。

 陸奥での図上演習の後、山口少将は、長官室にいる南雲中将のところに押しかけた。

 「二航戦の飛行機を、五航戦に移すだって!」。かねて憂いていたことが、表面化したので、熱血漢の山口多聞は興奮し、逆上に近い状態になった。

 山口少将は、いきなり、南雲中将の胸部を両掌でつかむと言った。「南雲、貴様、この二航戦をおいてけぼりにしようというのか」。興奮すると山口少将は上官も部下もなかった。

 「おい、何をするか。何も、おいてゆくとは言っておらん。話は最後まで聞けい」柔道二段の南雲中将は毛深い山口少将の両の掌をしっかり握りながら一呼吸した。

 いかに参加したい熱情があるとはいえ、この山口少将の態度は無礼である。明るみに出れば軍法会議ものである。しかし、今は忍従の時である、と南雲中将は考えた。

 その時航空参謀の源田實中佐が顔を出した。南雲長官に用事があり、書類をかかえていた。

 長官と司令官が取っ組み合っているのを目撃した源田中佐は一種の気迫に押されて、そのまま扉を閉めた。五十を過ぎた二人が取っ組み合いを演じていたのである。

 結局山口少将の熱情が功を奏し、山口率いる二航戦も真珠湾攻撃に参加する事になった。

 「波まくらいくたびぞ」(講談社文庫)によると、昭和16年11月2日、真珠湾攻撃に備えて、機動部隊司令長官を兼ねる、南雲忠一第一航空艦隊司令長官は、編制による各艦を九州南端の有明湾(志布志湾)に集合せしめた。30隻に近い軍艦が集合し、投錨した。

 翌11月3日(明治節)の午後1時半、南雲中将は機動部隊の各司令官、艦長、幕僚たちを旗艦の空母赤城に召集した。

 将官、佐官が長官公室にあふれた。南雲中将はこの日、初めて、真珠湾奇襲攻撃の大要を発表したが、参集の高級士官たちはすでに承知していたので、驚く者はいなかった。

 攻撃計画案を説明した後、南雲司令長官は訓示を行った。

 「いうまでもなく、開戦と同時に行われる、この奇襲攻撃は、わが帝国の命運をも左右するものであるから、この機密保持には万全を期してもらいたい。各航空部隊は、この際一層、練度の向上に努力すべきこと。それから、これは非常に重要な事であるが」と言って南雲司令長官は息をついた。

 彼は右隣に座っている二航戦司令官の山口多聞少将を意識していた。

 南雲司令長官はことばをついだ。「このような重大な作戦を遂行するのに必要な事は、何よりも同志的結合である、と本長官は考える。多様な艦種、科目が集まっているのであるから、緊密な同志的結合なくしては、順調な運営は不可能である。その点をよく認識してもらいたい」

 南雲司令長官はそう結んで、山口多聞司令官の方をじろりと見た。山口多聞司令官は「何をこの野郎」というような表情をしていたという。

 昭和16年11月13日、真珠湾攻撃に関する連合艦隊司令部と機動部隊司令部の最後の打ち合わせの会議が、岩国航空隊の司令室で行われた。

 山本五十六連合艦隊司令長官、宇垣纏参謀長、南雲忠一機動部隊司令長官、井上成美四艦隊長官、塚原二四三、清水光美六艦隊長官、細菅戊子郎五艦隊長官、近藤信竹二艦隊長官、高須四郎一艦隊長官、高橋伊望三艦隊長官らが顔をそろえた。

 会議の初めに、山本司令長官が訓示を行った。そのあと会議に移った。

 会議が終わり、南雲長官が立ち上がり、各艦隊の協力に感謝し、攻撃は迅速果敢、徹底的に行う旨の決意を述べた。

 出席者一同は拍手を送った。一人だけ拍手をしない男がいた。山本司令長官だった。

64.南雲忠一海軍中将(4) 「けしからん」と、火鉢をひっくり返した

2007年06月08日 | 南雲忠一海軍中将
「悲劇の南雲中将」(徳間書店)によると、南雲忠一は明治41年、海軍兵学校を5番の成績で卒業した。
 
 首席は佐藤市郎だった。佐藤市郎は戦後の岸信介、佐藤栄作の兄弟宰相の長兄。

 南雲忠一の兵学校二年終了時の成績は、航海340(満点350)、砲術330(350)、水雷327(350)、運用265(300)、機関340(350)、普通学659(750)、合計2193(2400)点だった。ちなみに首席の佐藤市郎は2295点だった。

 大正9年12月、南雲忠一は海軍大学校甲種を優等で卒業し、海軍少佐に昇進している。

 その後、海軍大学校教官や艦長を歴任し、昭和10年、海軍少将に昇進した。続いて第1水雷戦隊司令官、第8戦隊司令官、水雷学校校長などを歴任し、昭和13年第3戦隊司令官になった。

 南雲少将が第3戦隊司令官で戦艦金剛に載っていたときの話である。

 艦隊が別府に入り、司令部も「なるみ」で宴席をもうけた。この時、美津丸という年増の芸者が島田を結って客席に待っていた。

 南雲少将は美津丸の酌で茶碗酒をやっていた。別席では、若い士官達が宴席を張っていた。

 廊下に出た美津丸は、顔なじみの中尉と出会った。「おい美津丸、どこの席に来ているんだ」と色白で、長身の中尉は聞いた。「司令官の席やし」美津丸は答えた。

 すると中尉は「なに、あのカニの司令官か、よせよせ。それよりこちらへこい。生きの良いのが揃っているぞ」「でも、面白いよ、司令官も」「いなかものだよ、ほとけほっとけ」

 若い中尉にひきずられた美津丸はそのまま若手士官の席に入り、歌を歌って騒いだ後、途中からその中尉と姿を消してしまった。

 一方、南雲少将は、待てど暮らせど、気に入りの芸者が帰って来ないので、いらいらし始めた。

 美津丸が姿を消したと聞くと「けしからん」と、火鉢をひっくり返した。そして、もうもうたる灰神楽のなかで寝てしまった。

 南雲忠一は昭和14年海軍中将に昇進し、海軍大学校校長から昭和16年4月に 第1航空艦隊司令長官に就任した。

 昭和16年10月、軍令部は真珠湾の攻撃において、山口多聞少将率いる二航戦の飛龍、蒼龍の飛行機を、五航戦と加賀の三隻に移して作戦を行う案を機動部隊指揮官で第一航空艦隊司令長官・南雲忠一中将に提案した。

 二航戦の飛龍、蒼龍は航続距離が短い。12ノットの巡航速力で、加賀が13800マイル、翔鶴が15500マイルである。

 一方、飛竜型は12200マイルである。それで補給の問題が争点となったのである。軍令部は飛龍、蒼龍を作戦からはずす案を南雲長官に提案したのである。

 「山口多聞」(PHP文庫)によると、10月中旬、徳山沖で、戦艦陸奥を宿泊艦として真珠湾攻撃の図上演習が行われた。

 その席で連合艦隊の航空参謀・佐々木彰中佐が軍令部の意向だとして、驚くべき発言をした。

 「南方作戦の為に、航続距離の短い赤城、飛龍、蒼龍は、フィリピン作戦に使い、ハワイは距離の長い加賀、瑞鶴、翔鶴、でやっていただきたいのですが。そのかわりパイロットは、従来通りハワイに行ってもらう。とにかう、あっちも足りない、こっちも足りない、それで戦争をしろというんだから、無茶な話です」。航空参謀としては大胆な発言だった。

 「それは絶対にできない」。源田中佐が即座に言った。

 山口多聞少将も怒った。「何だと、それは誰の考えだ。艦は南方に行け、可愛い搭乗員はハワイに行けだと。馬鹿なことを言うな。よろしい。この山口に自決せよと言うんだな。おお、死にもしよう。だが、死ぬなら真珠湾を叩いてから死ぬ。ほかでは死なぬ。誰がなんと言おうと、他のところでは死なん。この山口は絶対に行くぞ!」血相を変えて詰め寄った。

 山口が喧嘩っ早いのは有名である。佐々木中佐は知らないわけではなかったが、南雲司令長官も了解しており、航空参謀としては、考慮しなければならない立場にあった。

 山口はどこか、南雲中将とそりが合わなかった。山口は父親は島根だが、生まれも育ちも東京である。開成中学という洒落た学校で幅をきかせ、海軍兵学校でもすべてを仕切った。なんでも自分でやらないと気がすまない。

 対する南雲司令長官は、なにせ質素倹約で名高い上杉鷹山の米沢である。米沢なまりが抜けないため、時々、何を言っているのか分からなかった。「訓示は英語でやった方が、まだいいですなあ」副官がポツリと漏らしたほどである。

63.南雲忠一海軍中将(3) 忠一は駅の陸橋を母を背負って越えた事もある

2007年06月01日 | 南雲忠一海軍中将
 「波まくらいくたびぞ」(講談社文庫)によると、南雲忠一の父、周蔵は上長井村(現米沢市遠山地区)の村長をしていたが、経済的には恵まれなかった。

 南雲忠一は六人兄妹の末っ子で次男である。長女のこまと次女のふみは早く他家に嫁し、三女は生まれると間もなく死亡したといわれている。

 長男徳一郎は生涯無為に暮らし、昭和14年、隠居して、家督を忠一に譲っている。

 南雲家の向かいにある本間家の主人は「徳一郎さんは、戦争前、よくお茶を飲みに遊びに来た。しばらく世間話をしたかと思うと、一旦帰り、またお茶を飲みに来た」と戦後語っている。悪い人間ではないが働く気がしないのである。

 忠一のすぐ上の姉、きくは幼い時から知恵が遅れ、生涯、忠一の世話になり、昭和17年3月、台山の家で死亡している。そして、その一月前に徳一郎も世を去っている。

 忠一の母、志んは、昭和5年8月7日、81歳で世を去った。忠一は母親孝行で、昭和3年、鎌倉市扇ヶ谷に借家を借りて、母を引き取っている。

 また、忠一は駅の陸橋を母を背負って越えた事もある。海軍中佐の頃である。父、周蔵は大正14年に没している。忠一自身は、妻りきとの間に、娘一人、男子五人の子供をもうけている。


<南雲忠一海軍大将プロフィル>

 1887(明治20)年3月25日生れ。山形県米沢市信夫町出身。父、南雲周蔵、母、南雲志ん。二男で6人兄弟の末子。終生米沢弁が抜けなかった。

 1908(明治41)年 海軍兵学校(36期)卒 卒業成績191人中5番。

 1910(明治43)年1月海軍少尉、砲術学校。

 1911(明治44)年12月海軍中尉、水雷学校。

 1914(大正3年)12月海軍大尉。

 1920(大正9)年12月 海軍大学校甲種(優等)卒、海軍少佐。軍令部出仕。1923(大正12)年11月 海軍大学校教官。

 1924(大正13)年12月 海軍中佐。

 1929(昭和4)年11月 海軍大佐、軽巡「那珂」艦長。1930(昭和5)年11月1日 第11駆逐隊司令。

 1931(昭和6)年10月10日 軍令部第2課長。1933(昭和8)年11月15日 重巡「高雄」艦長。ワシントン廃棄の上申書作成で先頭に立つ。1934(昭和9)年11月15日 戦艦「山城」艦長。

1935(昭和10)年11月15日 海軍少将 第1水雷戦隊司令官。1936(昭和11)年12月1日 第8戦隊司令官。

 1937(昭和12)年11月15日 水雷学校長。1938(昭和13)年11月15日 第3戦隊司令官。

1939(昭和14)年11月15日 海軍中将。1940(昭和15)年11月1日 海軍大学校校長。

 1941(昭和16)年4月10日 第1航空艦隊司令長官。1941(昭和16)年12月8日 ハワイ海戦(真珠湾攻撃)。

 1942(昭和17)年6月5日~7日 ミッドウエイ海戦。7月14日 第3艦隊司令長官。8月23日~25日第二次ソロモン海戦。10月26日南太平洋海戦。11月11日 佐世保鎮守府司令長官。

 1943(昭和18)年6月21日 呉鎮守府司令長官。10月20日 第1艦隊司令長官。

 1943(昭和18)年 南西方面艦隊司令長官。1944(昭和19)年3月4日 中部太平洋方面艦隊司令長官兼第14航空艦隊司令長官。 サイパン島へ着任。

 1943(昭和18)年6月15日 「フォーリンジャー」作戦 アメリカ軍、サイパン上陸。7月8日 サイパン島で参謀長・矢野秀雄少将の介錯で自刃。7月9日 ターナー中将、サイパン占領を宣言。7月18日 大本営、サイパン玉砕を発表。死後、海軍大将に昇進 。

62.南雲忠一海軍中将(2) おいっ、井上!貴様みたいな、物分りの悪い奴は殺してやる

2007年05月25日 | 南雲忠一海軍中将
 軍令部の海軍省に対する態度は、俄かに強硬になった。軍令部長が皇族であることを背景に、高橋軍令部次長は大角岑生海軍大臣に圧力をかけてきた。

 昭和8年3月、軍令部長から海軍大臣宛てに「軍令部令及び省部事務互渉規定改正」の商議が廻ってきた。その要求の内容は次のようなものであった。

 一、統帥に関する事項の起案、伝達等の権限は、すべて軍令部に移管すること。

 二、警備、実施部隊の教育訓練、編制、兵科、将官及び参謀の人事の起案権を軍令部に移管すること。

 以上のものであった。旧来の海軍の伝統や習慣を無視し、天皇直属をよいことに、一切の権限を軍令部に集約しようとした、部内の叛乱にも匹敵する傍若無人の要求だった。

 「最後の海軍大将井上成美」(文春文庫)によると、当時、海軍省軍務局で制度改革に関する業務は河野千万城中佐の主務であった。

 だが、内容の重大さを読み取った、軍令部第一課長・井上成美大佐が、軍令部との折衝役を買って出た。海軍部内で叛乱ともいえる不埒なことがまかり通ってしまうことは断じて許されないという気迫だった。

 軍令部からは毎日のように「省部事務互渉規定改正案」を起草して捺印せよと使者が押しかけてきた。

 井上が起草して上級者に廻さなければ改正案は陽の目を見ない。判を押せということは、起草せよと迫るに等しかった。

 押しかけてくる使者は毎日変わらない。「米沢の海軍」のひとりである軍令部第二課長・南雲忠一大佐だった。

 南雲忠一大佐は海軍兵学校36期、井上大佐の1期先輩である。艦隊経験が長く、実戦派であった。

 そのため、前線から遠い建物の中で事務をとる士官たちを頭から軽蔑していた。判例を盾にしてしか行動できない輩として、南雲たちは「諸例則ども!」と呼んでいた。

 その南雲大佐が海軍省軍務局第一課長・井上大佐の部屋に日参した。

 靴音も荒く飛び込んでくると、井上の机の前に椅子を引き寄せて対峙した。せりふは毎回「井上!早く判を押さんか!」だった。

 しかし、いくら南雲大佐が険しい表情で声も荒げて、時には机を叩いて迫っても、井上大佐は南雲大佐を静かに見据えるだけだった。

 苛立った南雲大佐が、立ち上がって机をひっくり返さそうと下日もあったが、井上大佐は机から離れて腕を組んだまま言葉一つ発しようとはしなかった。

 容易に井上大佐の信念が曲げられないと知った南雲大佐は、遂に「おいっ、井上!貴様みたいな、物分りの悪い奴は殺してやるっ!」と詰め寄った。

 山形なまりまるだしの言葉だけに迫力があり、室内の課員たちは思わず一瞬息を詰めた。

 井上大佐は椅子から立ち上がろうともせず、「殺されるのが怖くてこの職務がつとまるか。いつも覚悟しておる。脅しにもならんことを口にするな!」と言った。

 さらに「海軍大臣に反旗をひるがえすようなことはつつしめ!」と怒鳴り返した。そして静かに机の引き出しをあけると遺書を取り出した。

 さすがの南雲大佐も井上大佐の捨て身の態度に大きくたじろいだ。井上は「南雲!よく聞け、おれを殺したとしても、おれの精神は曲げられないぞ」と浴びせかけた。

 井上大佐に対する非難攻撃は日に日に増していった。ある日、軍令部長・伏見宮邸で恒例の園遊会が開催された。

 官邸の庭園は江戸時代から残された見事な庭園であった。井上大佐も招かれて、出席した。宴も終わりに近づき、退席しようとした井上大佐は、「おい、井上!」と呼び止められた。

 南雲大佐であった。かなり酒に酔っているらしかった。「この腰抜け奴、貴様はいつまで反対を続ける気か。戦争がこわいのか、何の為に海軍に入ったのだ」と井上大佐の前に立ちふさがって罵倒し始めた。

 場所柄もあり、とりあわずに立ち去ろうとする井上大佐に「井上の馬鹿!貴様なんか殺すのは何でもないんだぞ。短刀で脇腹をざくっとやれば、貴様なんかそれっきりだ」そこには南雲大佐の激しい殺気が感じられた。

 背を向けて立ち去る井上大佐の背に、さらに南雲大佐の罵声が飛んだ。「腰抜け!いくじなし!死ね!」

 「米沢海軍」の総帥・山下源太郎の遺志を継ぎ、天皇直属の軍令部の統帥権を確立し、強い海軍をつくろうとする南雲大佐の意思の激しさをさまざまと見せ付けられたのだった。

 しかしこれは南雲大佐個人の意思ではなく軍令部全体の意思であった。

61.南雲忠一海軍中将(1) 艦隊派と条約派は5.15事件の処分をめぐっても対立した

2007年05月18日 | 南雲忠一海軍中将
 昭和5年1月21日ロンドン軍縮会議が始った。補助艦艇対米比率を巡って会議は紛糾した。

 だが、結局補助艦合計の対米比率0・697で、日本政府は閣議決定し、ロンドンの若槻礼次郎全権に回訓を発した。

 4月22日、ロンドンのセント・ジェームズ宮殿で五カ国全権により調印、ロンドン軍縮条約は成立した。

 このとき、海軍省はロンドン条約に不満はあるがひとまず協定すべきという意見が大半であった。

 財部彪海軍大臣は、全権でロンドンにいたし、海軍省に残っていた山梨勝之進次官、堀悌吉軍務局長ら首脳も条約派で、ロンドン条約に賛成だった。

 ところが、軍令部は、加藤寛治軍令部長、末次信正軍令部次長ら、ワシントン会議以来の艦隊派の首脳だったので、ロンドン条約に猛反対した。

 ロンドン条約成立の二日前の4月20日、末次軍令部次長は条約派に「ロンドン条約には不同意である」旨の覚書を山梨海軍次官に送りつけた。

 このようにして当時の軍令部と海軍省、つまり艦隊派と条約派の対立はロンドン条約を契機に一気に噴出した。

 「最後の海軍大将井上成美」(文春文庫)によると、昭和7年5月15日午後5時25分、海軍士官6名、陸軍士官学校生徒11名、農民同志らによる集団テロが決行された。

 犬養毅首相をピストルで射殺、牧野伸顕邸と警視庁と政友会本部に手りゅう弾を投げ込んだ。5.15事件である。

 この5.15事件をめぐって、海軍部内は批判、同情二つの意見に割れた。当時海軍大学校教官であった井上成美大佐は徹底した5.15事件批判論者であった。

 井上大佐と意見を異にして、5.15事件を起した海軍青年士官に同情の立場をとっていた側に軍令部第二部長・南雲忠一大佐がいた。

 南雲大佐は「五・一五事件の解決策」という一文を草し、強力なる海軍を実現して国を救おうと決起した青年士官らの行動を高く評価した。その内容は次のようなものであった。

 一、判決の公正。イ、死刑又は無期は絶対に避けること。ロ、被告の至誠報国の精神を高揚し、その動機を諒とすること。

 二、検察官の論告に対し、責任ある者に対しては、適当の処置をとること。

 三、ロンドン条約に関連し、軟弱にして統帥権干犯の疑義を生ぜせしむに至った重要責任者に対して、適当なる処置をとること。

 四、右一、二の処置は、速やかにとるほど効果大なり、而して、その処置をとるとともに、軍紀を刷新するを要す。

 付、青年将校の念願は、要するに強力なる海軍を建設するにあり。部内統制の見地においても、明年度大演習の施行、第四艦隊の編制、訓練等術力練磨に寄与する方策の実現は絶対に必要なり。

 これは軍縮条約に反対する艦隊派の終始変わらない考え方でもあったのである。

 この考え方に反対し断罪を望んでいたのが、条約派であった。艦隊派と条約派は5.15事件の処分をめぐっても対立した。そしてその溝は深まる一方であった。

 さらにこの対立に火をつけたのが、「省部事務互渉規定」であった。

 この規定は明治26年に制定されたもので、軍機・軍略を始め、軍艦、軍隊の発差(派遣)にしても、起案は軍令部でできるが、海軍大臣に事前に商議し、陛下の上裁を経て、予算を動かす海軍大臣に移すというものだった。

 これに対する軍令部の不満は、大正10年のワシントン軍縮会議、昭和5年のロンドン軍縮会議を経て、ますます高まった。

 軍令部長の権限で戦力や兵力量を決定できるようにしなければ、国を危うくするという論が軍令部内に沸騰し始めていた。

 昭和7年当時の軍令部長は伏見宮博恭王であった。この宮の威光を利用して、一気に事を運ぼうとする動きが活発になっていた。

 その中心人物が軍令部次長の高橋三吉中将であり、軍令部第二課長・南雲忠一大佐であった。