もっとも、南雲長官は第一航空艦隊司令長官になってから、専門違いのためか精彩を失ったという噂もあった。やはり草鹿艦隊、源田艦隊という噂が真相をうがった声であったのかも知れない。
昭和17年8月25日の第二次ソロモン海戦で、南雲支援部隊は米軍空母エンタープライズを大破させたが、空母龍驤と駆逐艦睦月を失った。
飛行機も損害を出したが、ガダルカナルを中心とするアメリカ、オーストラリア軍の容易ならぬ反攻態勢を窺知することができた。
10月26日の南太平洋海戦では、旗艦翔鶴が被弾損傷したが、米軍の大型空母ホーネットと駆逐艦ポーターを撃沈、空母エンタープライズも大破、その他戦艦1隻、巡洋艦1隻、駆逐艦1隻に損傷を与えて勝ち戦となった。
南雲長官は悲願であったミッドウェイ海戦の敵討ちを果たす事ができた。
南雲中将はその後、昭和17年11月11日佐世保鎮守府司令長官、昭和18年6月21日呉鎮守府司令長官、10月20日第1艦隊司令長官を歴任した。
昭和19年3月4日 南雲中将は中部太平洋方面艦隊司令長官兼第14航空艦隊司令長官に転補された。
中部太平洋方面艦隊は第四艦隊と第十四航空艦隊で編成されていたが、陸軍の小畑英良中将の率いる第三十一軍(四十三師団・二十九師団)が南雲司令長官の指揮下に編入された。
総理大臣の東條英機は東京に出た南雲司令長官を官邸に呼んで「何とかサイパンを死守してほしい。サイパンが陥ちると、私は総理を辞めなければいけなくなるのだ」と言ったという。
南雲は東條とは親しくなかった。同じ東北出身であるが、とくに付き合いはなかった。東條は南雲より三歳年長であるが、進級の早い陸軍では、二年以上前に大将に進級していた。
後に南雲は「いくら、東條さんに頼まれてもな。無理なものは無理じゃよ。何しろ武器も兵員もない所へ行くんではな」と洩らしている。
3月9日、南雲司令長官は幕僚を伴いサイパン島に進出した。サイパン島は皇国皇軍の不沈運命を背負う重大な戦局の基点となっていた。
南雲長官は島を視察した後、参謀長の矢野英雄少将に「こんな装備で戦争ができると思うとるのかね」と嘆かわしげに言った。矢野参謀長もサイパンのあまりの無防備に驚いていたところだった。
サイパンの日本軍の兵力は海軍15000名、陸軍29000名の合計44000名であった。
昭和19年6月15日、米軍は米海軍全艦隊支援のもとに大軍でサイパン島に上陸、総兵力16万人の圧倒的な兵力は、たちまち同島の飛行場を占領した。
海軍は小沢中将の率いる第一機動艦隊の全力を以って6月19日、20日にわたってサイパン島西方海域で戦ったが、大した戦果もなく、主力空母3隻を失って敗退した。大本営はついに6月24日、サイパン島奪回を断念した。
サイパン島の南雲中将率いる陸軍部隊、海軍部隊は孤立無援となり、孤軍奮闘したが、玉砕した。
南雲司令長官の最後について「悲劇の南雲中将」(徳間書店)では、次のように述べている。
7月6日早朝、第四十三師団長斉藤義次中将は、南雲長官に「長官、この時をのがさず自決しますか」と訊いた。南雲長官は「そうですね、すぐ私も後を追っかけます」と言った。
白布の上に端座した斉藤中将が、参謀長井桁少将の介錯で自刃したのに続いて、南雲長官も参謀長矢野少将の介錯で自刃した。そのあと第六艦隊司令長官、高木中将も自刃した、となっている。
「波まくらいくたびぞ」(講談社文庫)によると、南雲長官の最後は次のようになっている。
7月6日よる、地獄谷の陸軍洞穴で、斉藤中将と井桁少将が自決した。
南雲中将は海軍の残存将兵を集めると「では今から突撃する。全員俺に続け!」と海軍中将の襟章をもぎ取った軍装のまま拳銃を構えるとジャングルを抜けて、米軍の陣地に向かった。
「バンザーイ」「ワッショイ、ワッショイ」「ツッコメー」日本軍の万歳突撃が始った。突撃部隊は武器らしい武器ももたず、マタンシャからタナバダの方向に向かった。撃っても撃っても押し寄せてくるので、米軍も一時はタナバグの南まで後退した。
万歳突撃が終わったのは7月9日である。南雲中将はこのあたりのいずれかで最期を遂げたもので、時刻は7月7日未明とされる、となっている。
(「南雲忠一海軍中将」は今回で終わりです。次回からは「有末精三陸軍中将」が始まります)
昭和17年8月25日の第二次ソロモン海戦で、南雲支援部隊は米軍空母エンタープライズを大破させたが、空母龍驤と駆逐艦睦月を失った。
飛行機も損害を出したが、ガダルカナルを中心とするアメリカ、オーストラリア軍の容易ならぬ反攻態勢を窺知することができた。
10月26日の南太平洋海戦では、旗艦翔鶴が被弾損傷したが、米軍の大型空母ホーネットと駆逐艦ポーターを撃沈、空母エンタープライズも大破、その他戦艦1隻、巡洋艦1隻、駆逐艦1隻に損傷を与えて勝ち戦となった。
南雲長官は悲願であったミッドウェイ海戦の敵討ちを果たす事ができた。
南雲中将はその後、昭和17年11月11日佐世保鎮守府司令長官、昭和18年6月21日呉鎮守府司令長官、10月20日第1艦隊司令長官を歴任した。
昭和19年3月4日 南雲中将は中部太平洋方面艦隊司令長官兼第14航空艦隊司令長官に転補された。
中部太平洋方面艦隊は第四艦隊と第十四航空艦隊で編成されていたが、陸軍の小畑英良中将の率いる第三十一軍(四十三師団・二十九師団)が南雲司令長官の指揮下に編入された。
総理大臣の東條英機は東京に出た南雲司令長官を官邸に呼んで「何とかサイパンを死守してほしい。サイパンが陥ちると、私は総理を辞めなければいけなくなるのだ」と言ったという。
南雲は東條とは親しくなかった。同じ東北出身であるが、とくに付き合いはなかった。東條は南雲より三歳年長であるが、進級の早い陸軍では、二年以上前に大将に進級していた。
後に南雲は「いくら、東條さんに頼まれてもな。無理なものは無理じゃよ。何しろ武器も兵員もない所へ行くんではな」と洩らしている。
3月9日、南雲司令長官は幕僚を伴いサイパン島に進出した。サイパン島は皇国皇軍の不沈運命を背負う重大な戦局の基点となっていた。
南雲長官は島を視察した後、参謀長の矢野英雄少将に「こんな装備で戦争ができると思うとるのかね」と嘆かわしげに言った。矢野参謀長もサイパンのあまりの無防備に驚いていたところだった。
サイパンの日本軍の兵力は海軍15000名、陸軍29000名の合計44000名であった。
昭和19年6月15日、米軍は米海軍全艦隊支援のもとに大軍でサイパン島に上陸、総兵力16万人の圧倒的な兵力は、たちまち同島の飛行場を占領した。
海軍は小沢中将の率いる第一機動艦隊の全力を以って6月19日、20日にわたってサイパン島西方海域で戦ったが、大した戦果もなく、主力空母3隻を失って敗退した。大本営はついに6月24日、サイパン島奪回を断念した。
サイパン島の南雲中将率いる陸軍部隊、海軍部隊は孤立無援となり、孤軍奮闘したが、玉砕した。
南雲司令長官の最後について「悲劇の南雲中将」(徳間書店)では、次のように述べている。
7月6日早朝、第四十三師団長斉藤義次中将は、南雲長官に「長官、この時をのがさず自決しますか」と訊いた。南雲長官は「そうですね、すぐ私も後を追っかけます」と言った。
白布の上に端座した斉藤中将が、参謀長井桁少将の介錯で自刃したのに続いて、南雲長官も参謀長矢野少将の介錯で自刃した。そのあと第六艦隊司令長官、高木中将も自刃した、となっている。
「波まくらいくたびぞ」(講談社文庫)によると、南雲長官の最後は次のようになっている。
7月6日よる、地獄谷の陸軍洞穴で、斉藤中将と井桁少将が自決した。
南雲中将は海軍の残存将兵を集めると「では今から突撃する。全員俺に続け!」と海軍中将の襟章をもぎ取った軍装のまま拳銃を構えるとジャングルを抜けて、米軍の陣地に向かった。
「バンザーイ」「ワッショイ、ワッショイ」「ツッコメー」日本軍の万歳突撃が始った。突撃部隊は武器らしい武器ももたず、マタンシャからタナバダの方向に向かった。撃っても撃っても押し寄せてくるので、米軍も一時はタナバグの南まで後退した。
万歳突撃が終わったのは7月9日である。南雲中将はこのあたりのいずれかで最期を遂げたもので、時刻は7月7日未明とされる、となっている。
(「南雲忠一海軍中将」は今回で終わりです。次回からは「有末精三陸軍中将」が始まります)