「東郷平八郎」(中村晃・勉誠社)によると、東郷仲五郎(平八郎)は八歳の頃から、近くの西郷吉二郎(さいごう・きちじろう・薩摩藩士・西郷隆盛の弟・御勘定所書役・戊辰戦争で番兵二番隊監軍・越後国で戦死・享年三十五歳)の屋敷で習字を習っていた。
仲五郎は、砲術は荻野流、剣法は示現流を学んだ。また、薩摩藩士の子弟として、「稚児組」(六、七歳~十二、三歳)に属し、「二才組」(元服した十四、五歳~二十三、四歳)から、文武の指導を受けていた。
安政三年(一八五六年)、仲五郎が十歳の夏、盂蘭盆の季節がやってきた。全ての日課が休みとなったので仲五郎はただ一人で近くの小川に行った。
水中には沢山の小鮒が上流へ向かってのぼろうとして見え隠れしていた。仲五郎は短袴のまま入ると、小刀に手をかけ、さっと身構えた。
その刀身がきらりと光ると、小鮒は胴体を切られて動きを止めた。それを拾い上げて仲五郎は叢に置き、再び水中を見た。続いて頭部を切られた鮒が腹を上にした。魚は面白いように簡単に切れた。
そしてこのことが小半刻あまりも、この少年、仲五郎を熱中させた。叢にはみるみる大小取り混ぜて三十数尾の魚が重なった。
仲五郎がその鮒を家に持って帰ると、長兄の東郷四朗兵衛(とうごう・しろべえ・薩摩藩士・東郷平八郎の長兄・薩英戦争に参戦・西南戦争で薩軍として参戦し負傷・鹿児島県霧島に移住)から叱られた。
四郎兵衛は「盂蘭盆なのに、どうして殺生をする」と叱った。だが、その魚の切り口を見て、四郎兵衛は、「全部お前が切ったのか」とあきれたように言った。
仲五郎は子供の頃から、甘いものが好きだった。平八郎は自分の家の戸棚の中に氷砂糖があることを知っていた。
ある日、仲五郎は母の益子に、その氷砂糖をねだった。だが、益子は「もう残りは無いよ」と言って、許さなかった。平八郎はそれが嘘であると知っていたが、黙っていた。
「必ず食べてやる」。その翌日、仲五郎は、益子の留守に戸棚を開けた。はたせるかな氷砂糖はそこにあった。しかし残り少なくて二粒しかなかった。一粒口に入れた。それでも、気持ちが治まらなかった。つい手が出て、もう一粒も食べた。そしてこの事を母には黙っていた。
益子はその事に気づき、これを食べたのは仲五郎だろうと図星を指した。早速仲五郎を呼びつけて、彼女は仲五郎を詰問した。「食べたのは、お前だろう」。
しかし、仲五郎は素知らぬ顔で答えた。「無いものを、食べられるはずがないではありませんか」。これには益子も困った。彼女も自分の心を偽ることができず、自分の息子に詫びた。仲五郎は一休禅師の故事を知っており、それをまねたのだ。
仲五郎は我慢強く、意地っ張りなところがあった。父の吉左衛門は栗毛の馬に乗り、供を連れて登城した。仲五郎はこのような父が誇りであった。だが、自分もこうして登城したい。こうした気持ちから仲五郎は馬に対する関心も強かった。
その日も、仲五郎は厩で父の馬に手を触れて戯れていた。首からたてがみをなでていたとき、馬は、何が気に障ったか、一声高くいななくと、両足を上げて仲五郎を蹴り、仲五郎の左首に噛みついた。
仲五郎もこれには驚き、ひるんだが、それでも手にしていた棒で馬をめった打ちにして次の攻撃をかわした。
仲五郎は、このことを誰言わず、黙っていたが、髪を結うとき、母の益子に馬の歯形を見つけられてしまった。東郷家では子供たちの髪を結うのが益子の仕事だったのである。
益子は、その歯形を見て、馬のものと判断した。益子から問い詰められて、仲五郎は隠し通せなかった。仲五郎はひどく叱られ、それ以後、馬に近づくことを禁止された。
仲五郎は、それが気に食わなかったので、厩に駆け込むと、馬の左頬をしたたかに殴りつけた。
吉左衛門が登城のとき、馬に近づくと、馬はおびえたように首を振り、前後の足で、一、二歩たたらを踏んだ。吉左衛門は不思議そうに首をかしげるだけだった。
ある日の事、仲五郎は、吉左衛門の供をして、兄の四郎兵衛と一緒に旅に出た、旅館に着くと四郎兵衛はすぐに風呂に入った。
しばらくして、四郎兵衛は仲五郎を呼んだ。仲五郎が行ってみると、四郎兵衛は「飲み水を持ってこい」と言った。仲五郎はムッとしたが、兄の事なので口答えできなかった。
悔し紛れに水を取りに行っていると、旅館の畑に唐辛子が朱色も鮮やかに実っていた。仲五郎は、それをとり、粉にして、旅館から借りた茶碗に入れ、水を入れて混ぜて兄の所へ持って行った。






a8mat=2HHU35+25EDF6+2S46+5ZEMP" target="_blank">



仲五郎は、砲術は荻野流、剣法は示現流を学んだ。また、薩摩藩士の子弟として、「稚児組」(六、七歳~十二、三歳)に属し、「二才組」(元服した十四、五歳~二十三、四歳)から、文武の指導を受けていた。
安政三年(一八五六年)、仲五郎が十歳の夏、盂蘭盆の季節がやってきた。全ての日課が休みとなったので仲五郎はただ一人で近くの小川に行った。
水中には沢山の小鮒が上流へ向かってのぼろうとして見え隠れしていた。仲五郎は短袴のまま入ると、小刀に手をかけ、さっと身構えた。
その刀身がきらりと光ると、小鮒は胴体を切られて動きを止めた。それを拾い上げて仲五郎は叢に置き、再び水中を見た。続いて頭部を切られた鮒が腹を上にした。魚は面白いように簡単に切れた。
そしてこのことが小半刻あまりも、この少年、仲五郎を熱中させた。叢にはみるみる大小取り混ぜて三十数尾の魚が重なった。
仲五郎がその鮒を家に持って帰ると、長兄の東郷四朗兵衛(とうごう・しろべえ・薩摩藩士・東郷平八郎の長兄・薩英戦争に参戦・西南戦争で薩軍として参戦し負傷・鹿児島県霧島に移住)から叱られた。
四郎兵衛は「盂蘭盆なのに、どうして殺生をする」と叱った。だが、その魚の切り口を見て、四郎兵衛は、「全部お前が切ったのか」とあきれたように言った。
仲五郎は子供の頃から、甘いものが好きだった。平八郎は自分の家の戸棚の中に氷砂糖があることを知っていた。
ある日、仲五郎は母の益子に、その氷砂糖をねだった。だが、益子は「もう残りは無いよ」と言って、許さなかった。平八郎はそれが嘘であると知っていたが、黙っていた。
「必ず食べてやる」。その翌日、仲五郎は、益子の留守に戸棚を開けた。はたせるかな氷砂糖はそこにあった。しかし残り少なくて二粒しかなかった。一粒口に入れた。それでも、気持ちが治まらなかった。つい手が出て、もう一粒も食べた。そしてこの事を母には黙っていた。
益子はその事に気づき、これを食べたのは仲五郎だろうと図星を指した。早速仲五郎を呼びつけて、彼女は仲五郎を詰問した。「食べたのは、お前だろう」。
しかし、仲五郎は素知らぬ顔で答えた。「無いものを、食べられるはずがないではありませんか」。これには益子も困った。彼女も自分の心を偽ることができず、自分の息子に詫びた。仲五郎は一休禅師の故事を知っており、それをまねたのだ。
仲五郎は我慢強く、意地っ張りなところがあった。父の吉左衛門は栗毛の馬に乗り、供を連れて登城した。仲五郎はこのような父が誇りであった。だが、自分もこうして登城したい。こうした気持ちから仲五郎は馬に対する関心も強かった。
その日も、仲五郎は厩で父の馬に手を触れて戯れていた。首からたてがみをなでていたとき、馬は、何が気に障ったか、一声高くいななくと、両足を上げて仲五郎を蹴り、仲五郎の左首に噛みついた。
仲五郎もこれには驚き、ひるんだが、それでも手にしていた棒で馬をめった打ちにして次の攻撃をかわした。
仲五郎は、このことを誰言わず、黙っていたが、髪を結うとき、母の益子に馬の歯形を見つけられてしまった。東郷家では子供たちの髪を結うのが益子の仕事だったのである。
益子は、その歯形を見て、馬のものと判断した。益子から問い詰められて、仲五郎は隠し通せなかった。仲五郎はひどく叱られ、それ以後、馬に近づくことを禁止された。
仲五郎は、それが気に食わなかったので、厩に駆け込むと、馬の左頬をしたたかに殴りつけた。
吉左衛門が登城のとき、馬に近づくと、馬はおびえたように首を振り、前後の足で、一、二歩たたらを踏んだ。吉左衛門は不思議そうに首をかしげるだけだった。
ある日の事、仲五郎は、吉左衛門の供をして、兄の四郎兵衛と一緒に旅に出た、旅館に着くと四郎兵衛はすぐに風呂に入った。
しばらくして、四郎兵衛は仲五郎を呼んだ。仲五郎が行ってみると、四郎兵衛は「飲み水を持ってこい」と言った。仲五郎はムッとしたが、兄の事なので口答えできなかった。
悔し紛れに水を取りに行っていると、旅館の畑に唐辛子が朱色も鮮やかに実っていた。仲五郎は、それをとり、粉にして、旅館から借りた茶碗に入れ、水を入れて混ぜて兄の所へ持って行った。



a8mat=2HHU35+25EDF6+2S46+5ZEMP" target="_blank">

