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陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

462.東郷平八郎元帥海軍大将(2)無いものを、食べられるはずがないではありませんか

2015年01月30日 | 東郷平八郎元帥
 「東郷平八郎」(中村晃・勉誠社)によると、東郷仲五郎(平八郎)は八歳の頃から、近くの西郷吉二郎(さいごう・きちじろう・薩摩藩士・西郷隆盛の弟・御勘定所書役・戊辰戦争で番兵二番隊監軍・越後国で戦死・享年三十五歳)の屋敷で習字を習っていた。

 仲五郎は、砲術は荻野流、剣法は示現流を学んだ。また、薩摩藩士の子弟として、「稚児組」(六、七歳~十二、三歳)に属し、「二才組」(元服した十四、五歳~二十三、四歳)から、文武の指導を受けていた。

 安政三年(一八五六年)、仲五郎が十歳の夏、盂蘭盆の季節がやってきた。全ての日課が休みとなったので仲五郎はただ一人で近くの小川に行った。

 水中には沢山の小鮒が上流へ向かってのぼろうとして見え隠れしていた。仲五郎は短袴のまま入ると、小刀に手をかけ、さっと身構えた。

 その刀身がきらりと光ると、小鮒は胴体を切られて動きを止めた。それを拾い上げて仲五郎は叢に置き、再び水中を見た。続いて頭部を切られた鮒が腹を上にした。魚は面白いように簡単に切れた。

 そしてこのことが小半刻あまりも、この少年、仲五郎を熱中させた。叢にはみるみる大小取り混ぜて三十数尾の魚が重なった。

 仲五郎がその鮒を家に持って帰ると、長兄の東郷四朗兵衛(とうごう・しろべえ・薩摩藩士・東郷平八郎の長兄・薩英戦争に参戦・西南戦争で薩軍として参戦し負傷・鹿児島県霧島に移住)から叱られた。

 四郎兵衛は「盂蘭盆なのに、どうして殺生をする」と叱った。だが、その魚の切り口を見て、四郎兵衛は、「全部お前が切ったのか」とあきれたように言った。

 仲五郎は子供の頃から、甘いものが好きだった。平八郎は自分の家の戸棚の中に氷砂糖があることを知っていた。

 ある日、仲五郎は母の益子に、その氷砂糖をねだった。だが、益子は「もう残りは無いよ」と言って、許さなかった。平八郎はそれが嘘であると知っていたが、黙っていた。

 「必ず食べてやる」。その翌日、仲五郎は、益子の留守に戸棚を開けた。はたせるかな氷砂糖はそこにあった。しかし残り少なくて二粒しかなかった。一粒口に入れた。それでも、気持ちが治まらなかった。つい手が出て、もう一粒も食べた。そしてこの事を母には黙っていた。

 益子はその事に気づき、これを食べたのは仲五郎だろうと図星を指した。早速仲五郎を呼びつけて、彼女は仲五郎を詰問した。「食べたのは、お前だろう」。

 しかし、仲五郎は素知らぬ顔で答えた。「無いものを、食べられるはずがないではありませんか」。これには益子も困った。彼女も自分の心を偽ることができず、自分の息子に詫びた。仲五郎は一休禅師の故事を知っており、それをまねたのだ。

 仲五郎は我慢強く、意地っ張りなところがあった。父の吉左衛門は栗毛の馬に乗り、供を連れて登城した。仲五郎はこのような父が誇りであった。だが、自分もこうして登城したい。こうした気持ちから仲五郎は馬に対する関心も強かった。

 その日も、仲五郎は厩で父の馬に手を触れて戯れていた。首からたてがみをなでていたとき、馬は、何が気に障ったか、一声高くいななくと、両足を上げて仲五郎を蹴り、仲五郎の左首に噛みついた。

 仲五郎もこれには驚き、ひるんだが、それでも手にしていた棒で馬をめった打ちにして次の攻撃をかわした。

 仲五郎は、このことを誰言わず、黙っていたが、髪を結うとき、母の益子に馬の歯形を見つけられてしまった。東郷家では子供たちの髪を結うのが益子の仕事だったのである。

 益子は、その歯形を見て、馬のものと判断した。益子から問い詰められて、仲五郎は隠し通せなかった。仲五郎はひどく叱られ、それ以後、馬に近づくことを禁止された。

 仲五郎は、それが気に食わなかったので、厩に駆け込むと、馬の左頬をしたたかに殴りつけた。

 吉左衛門が登城のとき、馬に近づくと、馬はおびえたように首を振り、前後の足で、一、二歩たたらを踏んだ。吉左衛門は不思議そうに首をかしげるだけだった。

 ある日の事、仲五郎は、吉左衛門の供をして、兄の四郎兵衛と一緒に旅に出た、旅館に着くと四郎兵衛はすぐに風呂に入った。

 しばらくして、四郎兵衛は仲五郎を呼んだ。仲五郎が行ってみると、四郎兵衛は「飲み水を持ってこい」と言った。仲五郎はムッとしたが、兄の事なので口答えできなかった。

 悔し紛れに水を取りに行っていると、旅館の畑に唐辛子が朱色も鮮やかに実っていた。仲五郎は、それをとり、粉にして、旅館から借りた茶碗に入れ、水を入れて混ぜて兄の所へ持って行った。















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461.東郷平八郎元帥海軍大将(1)東郷平八郎が生まれたのは、薩摩藩、鹿児島城下の鍛冶屋町だった

2015年01月23日 | 東郷平八郎元帥
 「元帥 東郷平八郎」(伊東仁太郎・郁文社)によると、東郷平八郎の父、東郷吉左衛門(きちざえもん)は薩摩藩の郡奉行から御納戸奉行に抜擢されて、評判の良い人だった。武芸に無通じていたが、文事にも修養を積み、その精勤と吏才を認められて、出世の早い方だった。

 御納戸奉行、いわゆる勘定奉行は、藩の財政を司り、出納の実務に当たっているので重要な職務だった。家老に比べれば、はるかに下役だったが、職務上藩の秘密にも携わるので、中枢の地位にいた。

 平八郎の母、益子(ますこ)は、薩摩藩の堀與三左衛門の三女で、すごい美人だったと言われている。

 東郷吉左衛門夫妻の間には、多くの子供が生まれた。長女と次男は早く死んだが、長男は四郎兵衛、三男が壮九郎、五男が四郎左衛門だった。東郷平八郎は、四男で、幼名は仲五郎だった。

 東郷平八郎が生まれたのは、薩摩藩、鹿児島城下の鍛冶屋町だった。東郷家は、鍛冶屋町の中でも、上士の位で、屋敷も地所が三百坪以上あって、家屋も相當な大きさだった。

 東郷平八郎が生まれた鍛冶屋町は、明治の大物を多数輩出している。東郷平八郎以外の鍛冶屋町出身の明治の大物は次の通り。

 西郷隆盛(さいごう・たかもり・薩摩藩士・郡方書役助・戊辰戦争を主導し勝海舟と交渉し江戸無血開城に成功・明治政府参議・陸軍元帥兼参議・陸軍大将兼参議・近衛都督・征韓論で対立し辞職・鹿児島に帰郷・西南戦争で自刃・享年五十一歳)。

 大久保利通(おおくぼ・としみち・薩摩藩士・藩校造士館・記録書役助・徒目付・御小納戸役・御小納戸頭取・御側役・王政復古・参与・太政官・参議・政変で西郷隆盛を失脚させる・初代内務卿・宮内卿・暗殺される・享年四十九歳・従一位・勲一等)。

 黒木為禎(くろき・ためとも・薩摩藩士・戊辰戦争で四番隊半隊長・鳥羽伏見の戦い・一番隊小隊長・陸軍大尉・少佐・近衛歩兵第一大隊長・中佐・広島鎮台歩兵第一二連隊長・西南戦争・大佐・近衛歩兵第二連隊長・参謀本部管東局長・少将・歩兵第五旅団長・近衛歩兵第二旅団長・中将・第六師団長・日清戦争・男爵・近衛師団長・西部都督・大将・第一軍司令官・日露戦争・伯爵・枢密顧問官・従一位・功一級)。

 西郷従道(さいごう・じゅうどう/つぐみち・薩摩藩士・西郷隆盛の弟・精忠組・明治維新・太政官・陸軍少将・陸軍中将・西南戦争・陸軍卿代行・近衛都督・参議・陸軍卿・農商務卿兼開拓使長官・伯爵・海軍大臣・内務大臣・枢密顧問官・海軍大将・侯爵・元帥・享年五十九歳・従一位・大勲位・功二級)。

 大山巌(おおやま・いわお・薩摩藩士・西郷隆盛・従道と従兄弟・砲術を学ぶ・戊辰戦争で倒幕運動・会津戦争では砲兵隊長・明治維新・欧州留学・西南戦争で政府軍の攻城砲隊司令官・陸軍卿・陸軍大将・日清戦争で第二軍司令官・元帥・日露戦争で満州軍総司令官・陸軍大臣・内大臣・享年七十五歳・従一位・大勲位・功一級)。

<東郷平八郎(とうごう・へいはちろう)元帥海軍大将プロフィル>
弘化四年十二月二十二日(一八四八年一月二十七日)生まれ。鹿児島県出身。薩摩国鹿児島城下の鍛冶屋町に薩摩藩士・東郷実友(吉左衛門)の四男として生まれる。母は益子。幼名は仲五郎。
安政元年(一八五四年)(六歳)この頃より習字、漢学、示現流の剣法を学ぶ。
万延元年(一八六〇年)(十二歳)元服して平八郎と改め、薩摩藩出仕、書役となる。
文久三年(一八六三年)(十五歳)七月薩英戦争。父、二兄とともに薩摩藩士として初陣。
慶応二年(一八六六年)(十八歳)兄、弟とともに、薩摩藩の海軍に入る。
明治元年(一八六八年)(二十歳)戊辰戦争では、薩摩藩の軍艦「春日」に乗組み、阿波沖海戦に参戦。
明治二年(二十一歳)三月宮古湾海戦に参戦。五月函館戦争に参戦。
明治三年(二十二歳)十二月コルベット「龍驤」見習士官。
明治四年(二十三歳)二月兵部省より東郷見習士官は英国留学を命ぜられる。同僚十一名とともに、ポーツマスに官費留学。ダートマスの王立海軍兵学校入学は許されず、商船学校のウースター協会で学ぶ(海軍学術、技術、航海術、国際法)。
明治十年(二十九歳)西南戦争で東郷の一族は西郷隆盛軍につき、兄・小倉壮九郎自決。
明治十一年(三十歳)三月帰朝のため同僚と共に、装甲艦「比叡」に乗組み英国を出発。五月横浜着。七月海軍中尉に昇進。十月三日奈良県令・海江田信義の長女・海江田鉄子(十七歳)と結婚。十二月大尉。
明治十二年(三十一歳)十二月少佐。
明治十四年(三十三歳)十二月砲艦「天城」副長。
明治十六年(三十五歳)三月砲艦「第二丁卯」艦長。
明治十七年(歳)五月砲艦「天城」艦長。
明治十八年(三十七歳)六月中佐。
明治十九年(三十八歳)五月コルベット「大和」艦長、七月大佐、十一月コルベット「浅間」艦長。
明治二十年(三十九歳)七月装甲艦「比叡」艦長。
明治二十三年(四十二歳)五月呉鎮守府参謀長。
明治二十四年(四十三歳)十二月防護巡洋艦「浪速」艦長。
明治二十七年(四十六歳)四月呉鎮守府海兵団長、六月防護巡洋艦「浪速」艦長、七月日清戦争、豊島沖海戦(七月二十五日「高陞号」事件)、黄海海戦、威海衛海戦に参戦。
明治二十八年(四十七歳)二月少将、常備艦隊司令官。
明治二十九年(四十八歳)三月海軍大学校校長。
明治三十一年(五十歳)五月中将。
明治三十二年(五十一歳)一月佐世保鎮守府司令長官。
明治三十三年(五十二歳)五月常備艦隊司令長官。
明治三十四年(五十三歳)十月舞鶴鎮守府司令長官。
明治三十六年(五十五歳)十月常備艦隊司令長官、十二月第一艦隊司令長官兼連合艦隊司令長官。
明治三十七年(五十六歳)二月日露戦争、艦隊を率いて出撃、六月大将、八月黄海海戦。
明治三十八年(五十七歳)一月旅順開戦、五月二十七日、二十八日日本海海戦で大勝利、十二月軍令部長。
明治三十九年(五十八歳)十二月大勲位菊花大綬章、功一級金鵄勲章、年金千五百円。
明治四十年(五十九歳)九月伯爵。
明治四十四年(六十三歳)英国皇帝戴冠式に参列する東伏見宮夫妻に、乃木希典陸軍大将とともに随行し訪英。
大正二年(六十五歳)四月元帥。
大正三年(六十六歳)四月東宮御学問所総裁。
大正十年(七十三歳)三月東宮御学問所総裁辞職。
大正十五年(七十八歳)十一月大勲位菊花章頸飾。
昭和五年(八十二歳)四月ロンドン軍縮条約に反対。統帥権干犯問題が起きる。
昭和八年(八十五歳)十二月喉頭ガンの疑いでラジウム治療開始。
昭和九年三月病状悪化、五月二十九日侯爵、従一位、五月三十日膀胱ガンのため死去、六月五日国葬(葬儀委員長・有馬良橘海軍大将)、多磨墓地に葬られる。享年八十六歳。
昭和十五年東郷神社建立(東京都渋谷区と福岡県福津市)。



















460.乃木希典陸軍大将(40)乃木大将の死後に、山縣公爵は、識者の非難を受けた

2015年01月16日 | 乃木希典陸軍大将
 山縣公爵は軍将でこそあったが、和学の造詣が深く、歌の道にかけては、なかなかに長じていたから、一見して、これは辞世の歌であるという事が、分った。

 山縣公爵が、「ヤッ、これは」と声を出すと、乃木大将は、「イヤ、素人の作ったものだから、天爾遠波(てにをは)も合うまい。よく直しておいてもらいたいのじゃ、ハッハハハハハ」と笑いに紛らわして、去ってしまった。山縣公爵は、けげんな顔をして乃木大将の後姿を、見送っていたと言われている。

 この事が世間にもれて、乃木大将の死後に、山縣公爵は、識者の非難を受けた。いやしくも、山縣公爵のような、歌の上手な人が、この歌を読んでみて、すぐに乃木大将が死ぬという事の感じが起きなかった、というのは、はなはだ不思議な訳で、もし、これを知っておいて、そのままに棄てておいた、とすれば、山縣公爵は、はなはだ情誼の薄い人である、というような非難だった。

 翌十二日には、乃木大将は軍務局長の田中義一(たなか・ぎいち)少将(山口県萩市・陸士旧八・陸大八・日清戦争・ロシア留学・日露戦争で児玉源太郎の参謀・少将・軍務局長・中将・参謀次長・陸軍大臣・大将・政界へ転身・政友会総裁・勅選貴族院議員・首相・男爵・功三級・勲一等旭日桐花大綬章)を訪ねた。

 田中少将は当時、軍制上の事については、意見を持っていて、陸軍のうちでも、屈指の人物だった。乃木大将は、田中少将を訪ねて、軍制上の話をしていたが、突然次のように言った。

 「時に、田中、わしは、お前に、今日は頼みがあって、来たのじゃ……」。田中少将が「ははア、どういう事ですか」と答えると、乃木大将は次のように言った。

 「他の事はでもないが、わが陸軍は、日清、日露と、二つの大戦役を経て、にわかに世界に名を成したのであるが、今や、わが陸軍は日本の陸軍でなくして、世界の陸軍である、というような重要な関係に、なって来たのであるから、今後は余程の考えを以って、経営して行かぬと、一大事になろう、と思う」

 「わしは我が軍制上について、容易ならぬ危機が含まれている、という憂いを持っているのじゃ。その意見は、かねてしばしば話もしてあるが、今後ともに、君のような少壮の軍将によって、大いに改革をして、もらわなければ困るのじゃ。それについて意見をしたためて来たから、見ておいてくれ」。

 田中少将が「ハッ、かねて閣下の御意見はしばしば伺うておりまするし、この御書面は確かに拝見いたしまする」と答えると、乃木大将は「しかし、田中、他人に見せてはいかぬぞ。君が、他人に見せる時は、すでにその議論を実行している時でなければならぬぞ。どうか秘密に伏しておいてもらいたい」と言った。

 田中少将が「委細承知いたしました」と答えると、乃木大将は、ズッと立ち上がって「それじゃここで別れる」と言って田中少将の手をぐっと握って「しっかり、頼むぞ」と言って帰りかけた。

 玄関を出ると、再び乃木大将は引き返して来て、田中少将の手をグッと握って「よいか、頼むぞ」と繰り返して去って行った。

 九月十三日、明治天皇の御大喪が終わったその夜、午後八時頃に、乃木希典大将と静子夫人は、殉死を遂げた。

 乃木大将の、気風というものは、厳格なものであったために、陸軍部内には、乃木大将を喜ばない人が多かった。昔からの諺にも「水清ければ魚棲まず」ということもある通り、あまり清廉硬直の人は、却って、その時代には容れられないで、後世になってから光を放つものである。

 乃木大将は年金廃止論者だった。軍人が俸給を貰って国家から養われているのは、要するに、戦争が始まった時に死んでくれ、という意味であるから、戦争になって働いたからといって、それが為に、特別の年金を貰うのは、余計なことである。

 また、武士というものは、貧乏していてこそ、値打ちがあるので、生活が豊かで、贅沢を覚えるようになっては、武士の本領、というものは無くなってしまう。軍人は、軍人らしい一生を送れば、よいのであるから、余分の金を貰うには及ばない。こう言って乃木大将はしきりに主張した。

 けれども、乃木大将一人の主張では、年金を廃するわけにもいかず、また、乃木大将だけには、それを与えない、という事も出来ないから、その主張は乃木大将の思うようにはならなかった。

 また、乃木大将のこの議論にはいつも賛成者が少なかった。といって、表面で反対論を唱える者もなく、うやむやのうちに、葬られてしまって、陰になると、乃木大将の悪口を言う者がある、というような訳で、結局、問題にならなかった。

 それならば、乃木大将は口ばかりで、潔白な事を唱えて、実際においては、金を欲しがったか、というと、決してそんなことはなかった。

 その証拠には、殉死の後を、整理した時、一文の余財もなかった。もし、年金の廃止論は唱えたが、調べてみたら、銀行の預貯金が二冊も三冊もあった、というようなことでは、平生の潔白な議論は、世を欺く手段であったとも言える。

 だが、乃木大将の死後においては生前に、沢山貰った金が、一文も無かったのだから、その纐纈は察するに余りあると言える。

 しかもその金は、平生、多くの人のために費やしていた、という事実から考えて見れば、乃木大将の精神はどこまでも高名であった。

 (「乃木希典陸軍大将」は今回で終わりです。次回からは「東郷平八郎元帥海軍大将」が始まります)

459.乃木希典陸軍大将(39)だが、この兄弟は、容易な事では口を開かなかった

2015年01月09日 | 乃木希典陸軍大将
 明治四十四年四月、乃木希典陸軍大将は、東伏見宮依仁(ひがしふしみのみや・よりひと)親王・海軍少将(伏見宮邦家親王王子・皇族・海軍兵学校入校・英国留学・仏国ブレスト海軍兵学校卒・海軍少尉・大勲位菊花大綬章・少佐・海軍大学校選科学生・大佐・高千穂艦長・功三級金鵄勲章・春日艦長・少将・横須賀鎮守府艦隊司令官・中将・横須賀鎮守府司令長官・第二艦隊司令長官・大将・軍事参議官・英国差遣・薨去・元帥大勲位菊花章頸飾)に随行して、英国皇帝戴冠式に参列することになった。

 東伏見宮依仁親王一行は、四月十二日、「賀茂丸」で英国に向けて横浜港を出港した。

 海軍からは東郷平八郎(とうごう・へいはちろう)海軍大将(鹿児島・英国商船学校卒・浪速艦長・日清戦争・海軍少将・常備艦隊司令官・連合艦隊第一遊撃隊司令官・佐世保鎮守府司令長官・舞鶴鎮守府司令長官・連合艦隊司令長官・日露戦争・日本海海戦で勝利・海軍軍令部長・大勲位菊花大綬章・功一級金鵄勲章・元帥・大勲位菊花章頸飾・英国メリット勲章・ロイヤルビクトリア勲章ナイト・グランドクロス・仏国レジオンドヌール勲章グランドフィシェ・イタリア聖マウリツィオラゾラ勲章・ポーランド復興勲章一等・ロシア神聖アンナ第一等勲章・スペイン海軍有功白色第四級勲章・従一位・侯爵)が随行した。

 当時、海の東郷、陸の乃木と、世界中にその名が轟いている二人が一緒に渡英するというので、その人気は、他の船客のみならず、あらゆる寄港地や訪問地でも沸騰した。

 旅行中、乃木大将は何事にも二歳年上の東郷大将を兄として立てたといわれる。だが、この兄弟は、容易な事では口を開かなかった。それぞれ読書をするか、二人で、無言で碁を囲んでいることが多かった。

 ある船客のごときは、デッキ・ゴルフで、乃木大将が球を突きそこね、かすかに「あッ!」というのを聞いたのが、乃木大将の声の聞き始めで、聞き終わりであったと、後に語っていた。

 二人は英国でも最高の国賓として優遇された。やがて戴冠式も終わり、二人とも英国皇帝から懇篤な御言葉を賜り、表向きの役目を終えた。

 二人は、東伏見宮依仁親王に御暇乞いをし、東郷大将はアメリカを訪問して帰国した。乃木大将はドイツ、フランス、オーストリア、バルカン半島諸国を巡り、各地で大歓迎を受けた。

 乃木大将は諸国巡りのときは、平生の質素にも似合わず、ベルリンでもパリでも、いつも一流のホテルに泊まり、外出には自動車を用い、宴会のたびごとに白皮の手袋をとりかえ、煙草も上等の品ばかりを吸って、まるで別人のようだった。

 それというのは、日本の陸軍大将、伯爵という体面があるからで、乃木大将は、それを汚してはすまないと、心ならずも贅沢な真似をしたと、言われている。

 帰国後は、再び質素な乃木大将にもどり、相変わらず、「朝日」をふかしながら、学習院長として、華冑(高貴な生まれの)子弟の薫陶に専念した。

 明治四十五年七月三十日午前零時四十三分、明治天皇は崩御された。当時、六千万人の国民の誰とてして、悲嘆にくれぬ者はなかった。

 乃木大将の憔悴は、傍の見る目も痛々しい位だった。乃木大将は、毎日かかさず殯宮に伺候し、昼は数時間木像のように拝伏黙祷し、夜は必ず御通夜に伺候した。

 九月六日、乃木大将は、学習院の生徒を講堂に集めて、御大喪についての心構えを語り聞かせた後、「諸行無常といって、はかりがたきは、人の命である。自分としても、いつ亡き数に入るか、予め知ることができない。しかしながら、前途春秋に富む諸子は、よく勤勉して身を立て、名をあげ、これまで繰り返し申し聞かせたように、真に皇室の藩屏たるの覚悟を忘れないでもらいたい」と、よそながら、永の暇を告げた。

 九月十一日、珍しくも、乃木大将は、山縣有朋(陸軍元帥)公爵を訪ねた。山縣は、意外の来訪に驚いたが、快く迎えた。「やア、しばらくじゃったね」。

 乃木大将は、姿勢を正しく、山縣公爵に向かって、「このたびは、何とも申し上げようのない事が起こって、お互いに、これ以上の悲しみは無い」と言った。その言っているうちに、もう、乃木大将はさん然として涙を流した。

 山縣公爵も、共に涙を抑えて、「イヤ、その事を思うと、悲しみに堪えない。まあ、椅子へかかったら、よかろう」。それから、しばらく椅子によって、いろいろな話をした。

 別れに臨んで、乃木大将が、「こういうものができたが、ちょっと、見ておいてくれ」と言って、差し出したものを、山縣公爵が受けて見ると、「うつし世を 神さりましし 大君の みあとはるかに おろかみまつる」と歌が記してあった。





















458.乃木希典陸軍大将(38)これでいいんだ。院長閣下がおっしゃったんだから、これでいいんだ

2015年01月02日 | 乃木希典陸軍大将
 乃木大将の学習院長としての日常は、午前七時三十分には登院し、午後三時の授業の終わるまで退出せず、その間、院務の暇をみては教室を巡視した。

 全寮制を敷いてからは、日常寄宿舎に泊まりきりで、月に二、三度日曜日だけ赤坂の自邸に帰るのみで、それも生徒の門限になっている午後六時には学校に帰るのだった。

 稀に自邸に泊まるのは、翌朝の参内の時間の都合の止むを得ない時に限られ、ほとんど学習院を家とし、好きな煙草・酒もこの時に絶った。

 朝は、毎朝四時から五時の間に起床し、小使いに世話をかけないように静かに自分で寝具の整頓をし、軍服を着け、洗面を終わると、校内を見回りながら、雑草や枯れ枝の刈り取りをしながら一巡し、生徒の起床後は、時々幼年寮に立ち寄り、掃除の仕方、箒の使い方、窓の開け方などを教えた。

 朝夕の食事は青年・中学・幼年の各寮を回って生徒と一緒にし、夜は自習時間の見回りと読書をして、消灯時間の十時には生徒と共に就寝する毎日だった。

 乃木大将は万事実践躬行をもって生徒に臨み、勤勉・質素等、生徒に教えようとすることは、すべて自ら実行し、身をもって範を垂れた。

 片瀬の遊泳、演習見学の際の露営においても生徒と共に起臥し、生徒と剣道の稽古をし、自らも鍛錬した。そして生徒を我が子と思い、熱愛を傾倒したので、生徒は“おじいさま”と呼んで敬慕した。

 明治四十一年四月、皇孫廸迪宮裕仁親王(昭和天皇)の学習院初等科に御降学があった。乃木大将は、裕仁親王の御降学に際し、次の六項目の覚書を初等科主任に命じて作成し、これを全職員に徹底した。

 (一)御健康第一と心得べきこと。(二)御宜しからの御行状と排し奉る時は、之を御矯正申上ぐるに御遠慮あるまじきこと。(三)御成績については、御斟酌然るべかざること。(四)御幼少より御勤勉の御習慣をつけ奉るべきこと。(五)成るべく御質素に御育て申上ぐべきこと。(六)将来、陸海の軍務につかせられるべきにつき、その後指導に注意すること。

 昭和四十六年四月二十日、ご旅行先の松江での記者会見で、昭和天皇は乃木大将について、次のように述べておられる。

 「乃木大将については、私が学習院から帰る途中、乃木大将に会って、その時、乃木大将から“どういう方法で通学していますか”と聞かれたのです」

 「私は漫然と“晴天の日は歩き、雨の日は馬車を使います”と答えた。すると大将は“雨の日も外とうを着て歩いて通うように”と言われ、私はその時、贅沢はいけない、質実剛健というか、質素にしなければいけないと教えられました」。

 裕仁親王(昭和天皇)は、乃木大将を院長閣下と呼んで、尊敬し慕われた。乃木大将が御所にご機嫌伺いに参上した時、側近の者が「乃木大将が拝謁でございます」と申し上げると、裕仁親王は「いや違う。それは乃木大将ではいけない。院長閣下と申し上げなくてはいけない」とたしなめるように言われた。

 乃木大将の教えを忠実に、そしてすぐに、裕仁親王は実行された。乃木大将が初等科生徒に対して訓話をした十四ヶ条の中の一つに「破れた着物をそのまま着ているのは恥だが、そこをつぎして繕って着るのは決して恥ではない。いや恥どころではない」とある。

 御所に帰られると、裕仁親王は「院長閣下が、着物の穴の開いているのを着てはいけないが、つぎの当たったのを着るのはちっとも恥ではない、とおっしゃるから、穴の開いている服につぎを当ててくれ」と、女官に洋服や靴下につぎを当てさせた。

 そして、それをお召しになって、「これでいいんだ。院長閣下がおっしゃったんだから、これでいいんだ」と満足そうにされたという。

 ある日、熱海に避寒をされていた裕仁親王に、乃木大将が早朝に拝謁した時、裕仁親王は火鉢に当たっておられた。

 それを見た乃木大将が、「殿下、お寒いんでございますか。お寒い時は火鉢に当たるより、御運動場に行って駆け出していらっしゃったらいかがですか。御運動場を二、三回お周りになったら暖かくなります」と申し上げた。裕仁親王は、早速火鉢に当たるのをやめられた。

 また、熱海での山遊びの際に、乃木大将が「山へお登りになる時には、駆けてお登りになりますか。それとも山を下る時に、駆けてお下りになりますか」と聞いた。

 裕仁親王が「登る時には駆けて登れないけれども、下りる時には駆けて下ります」と答えられると、乃木大将は「お登りになる時には、いくら駆けて登っても、お怪我はりませんが、下りる時に駆けられると、お怪我をいたします。下りる時はゆっくり下りられた方がよろしい」と教えた。

 また、ある日、裕仁親王が、一日の学業を終えられて退出される際、玄関に立っていた乃木大将の数歩程前に進まれて敬礼をされた。

 乃木大将が「先生に対しては、何時何処ででも、心から御敬礼の誠を尽くされますように」と申し上げると、裕仁親王は、再び敬礼をされた。乃木大将は感激のあまり、目に涙を浮かべたという。