この淵田中佐のトラ連送「トラトラトラ」は、空母「赤城」だけでなく、広島湾にいた連合艦隊旗艦・戦艦「長門」でも、東京の大本営でも直接受信した。
七時五十三分、「赤城」は、淵田中佐に「隊長、先の発信、赤城了解」と返信した。奇襲に成功したことを知った、草鹿龍太郎参謀長は南雲忠一司令長官の手を固く握り、落涙した。源田中佐は「やはり真珠湾攻撃をやってよかった」と思った。
損害は日本海軍が、未帰還機二九機、損傷七四機、戦死五五名。特殊潜航艇未帰還五隻、戦死九名、捕虜一名だった。
アメリカ海軍の損害は、沈没…戦艦四隻、標的艦一隻、その他一隻。大破…軽巡洋艦二隻、駆逐艦二隻、中破…戦艦一隻、駆逐艦一隻。小破…戦艦三隻、軽巡洋艦一隻。航空機一八八機破壊、一五五機破損。戦死軍人二三四五名、民間人五七名。
米国の歴史学者で、戦後GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)で、情報部の戦史室長であった、ゴードン・W・ブランゲ博士の著書、「トラ トラ トラ」(並木書房・四四二頁)には、真珠湾攻撃終了後の様子を次のように記している(要旨抜粋)。
第一波の最後に帰艦した淵田中佐は、その日の午後ふたたび敵に対して攻撃を加える事しか考えていなかった。次の目標として、燃料タンク、修理施設、および午前中の攻撃でうちもらした一、二隻の艦を思い描いていた。
淵田中佐は空母「赤城」の艦橋に行き、報告を終えると、南雲司令長官が言った。「アメリカ艦隊が今から六カ月以内に真珠湾から出てくる可能性があると思うか」。
淵田中佐は「主力が六カ月以内にでてくることはできないだろうと思います」と答えた。すると、草鹿参謀長が「次の目標は何にすべきだと思うかね」とたずねた。
その言い回しには積極性がうかがわれたので、淵田中佐は、ほっとして「工廠、燃料タンク、機会があれば重ねて艦船に攻撃を加えるべきと思います」と答えた。
草鹿参謀長はアメリカの反撃の可能性について質問した。源田中佐と淵田中佐は、「オアフ島とその近海の制空権はすでに日本の手中にあると思う」と答えた。
南雲司令長官は「敵の航空母艦はどこにいると思うか」と質問したので、淵田中佐が「日本の機動部隊を探しているでしょう」と述べると、南雲司令長官は、明らかに動揺したように見えた。
敵が傷つき、ひざを屈した今こそ、徹底的に敵をたたきふせるチャンスであると、不屈で剛毅な源田中佐は考えた。
源田中佐は、「数日この付近にとどまって、敵の航空母艦をやっつけましょう」と力強く提案した。
源田実は、一九六六年当時も、「攻撃後すぐアメリカの航空母艦を全力で捜索すべきだった。敵が見つかったら、たとえ夜間攻撃になっても、すぐ攻撃をかけるべきだった。……淵田中佐と私は、必要とあらば、オアフ島の附近に二、三日とどまる覚悟をしていた」と、残念がっていた。
草鹿参謀長は「私はちゅうちょすることなく長官に引き揚げることを進言した」と述べている。南雲司令長官は、すぐにそれに同意した。
ブランゲは、淵田、源田両氏に対して、インタビューをそれぞれ五十回以上行っている。ブランゲは、「トラ トラ トラ」に、両氏が言った通りのことを書いた。
「航空作戦参謀・源田実」(徳間文庫・生出寿)によると、山口多聞第二航空戦隊司令官は、機動部隊の旗艦「赤城」に「第二撃準備完了!」の信号を送った。
第二航空戦隊の旗艦「蒼竜」では、江草隆繁艦爆隊飛行隊長をはじめとする搭乗員や、鈴木栄二郎航空参謀がじりじりして、山口司令官に再攻撃の意見具申をするよう要望した。
だが、山口司令官は「赤城」を凝視したまま、「南雲さんはやらないよ」と言っただけであった。
山口県岩国沖の柱島泊地に在泊する「長門」の連合艦隊司令部でも、「再度攻撃を命令すべき」という議論が起こり、山本五十六司令長官に進言した。
山本司令長官は、「南雲はやらないだろう」と言った。山本司令長官は、以前、南雲司令長官と草鹿参謀長に「ハワイ奇襲作戦は一任する」と約束していた。山本長官は「泥棒だって、帰りはこわいのだから」と付け足して言った。
七時五十三分、「赤城」は、淵田中佐に「隊長、先の発信、赤城了解」と返信した。奇襲に成功したことを知った、草鹿龍太郎参謀長は南雲忠一司令長官の手を固く握り、落涙した。源田中佐は「やはり真珠湾攻撃をやってよかった」と思った。
損害は日本海軍が、未帰還機二九機、損傷七四機、戦死五五名。特殊潜航艇未帰還五隻、戦死九名、捕虜一名だった。
アメリカ海軍の損害は、沈没…戦艦四隻、標的艦一隻、その他一隻。大破…軽巡洋艦二隻、駆逐艦二隻、中破…戦艦一隻、駆逐艦一隻。小破…戦艦三隻、軽巡洋艦一隻。航空機一八八機破壊、一五五機破損。戦死軍人二三四五名、民間人五七名。
米国の歴史学者で、戦後GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)で、情報部の戦史室長であった、ゴードン・W・ブランゲ博士の著書、「トラ トラ トラ」(並木書房・四四二頁)には、真珠湾攻撃終了後の様子を次のように記している(要旨抜粋)。
第一波の最後に帰艦した淵田中佐は、その日の午後ふたたび敵に対して攻撃を加える事しか考えていなかった。次の目標として、燃料タンク、修理施設、および午前中の攻撃でうちもらした一、二隻の艦を思い描いていた。
淵田中佐は空母「赤城」の艦橋に行き、報告を終えると、南雲司令長官が言った。「アメリカ艦隊が今から六カ月以内に真珠湾から出てくる可能性があると思うか」。
淵田中佐は「主力が六カ月以内にでてくることはできないだろうと思います」と答えた。すると、草鹿参謀長が「次の目標は何にすべきだと思うかね」とたずねた。
その言い回しには積極性がうかがわれたので、淵田中佐は、ほっとして「工廠、燃料タンク、機会があれば重ねて艦船に攻撃を加えるべきと思います」と答えた。
草鹿参謀長はアメリカの反撃の可能性について質問した。源田中佐と淵田中佐は、「オアフ島とその近海の制空権はすでに日本の手中にあると思う」と答えた。
南雲司令長官は「敵の航空母艦はどこにいると思うか」と質問したので、淵田中佐が「日本の機動部隊を探しているでしょう」と述べると、南雲司令長官は、明らかに動揺したように見えた。
敵が傷つき、ひざを屈した今こそ、徹底的に敵をたたきふせるチャンスであると、不屈で剛毅な源田中佐は考えた。
源田中佐は、「数日この付近にとどまって、敵の航空母艦をやっつけましょう」と力強く提案した。
源田実は、一九六六年当時も、「攻撃後すぐアメリカの航空母艦を全力で捜索すべきだった。敵が見つかったら、たとえ夜間攻撃になっても、すぐ攻撃をかけるべきだった。……淵田中佐と私は、必要とあらば、オアフ島の附近に二、三日とどまる覚悟をしていた」と、残念がっていた。
草鹿参謀長は「私はちゅうちょすることなく長官に引き揚げることを進言した」と述べている。南雲司令長官は、すぐにそれに同意した。
ブランゲは、淵田、源田両氏に対して、インタビューをそれぞれ五十回以上行っている。ブランゲは、「トラ トラ トラ」に、両氏が言った通りのことを書いた。
「航空作戦参謀・源田実」(徳間文庫・生出寿)によると、山口多聞第二航空戦隊司令官は、機動部隊の旗艦「赤城」に「第二撃準備完了!」の信号を送った。
第二航空戦隊の旗艦「蒼竜」では、江草隆繁艦爆隊飛行隊長をはじめとする搭乗員や、鈴木栄二郎航空参謀がじりじりして、山口司令官に再攻撃の意見具申をするよう要望した。
だが、山口司令官は「赤城」を凝視したまま、「南雲さんはやらないよ」と言っただけであった。
山口県岩国沖の柱島泊地に在泊する「長門」の連合艦隊司令部でも、「再度攻撃を命令すべき」という議論が起こり、山本五十六司令長官に進言した。
山本司令長官は、「南雲はやらないだろう」と言った。山本司令長官は、以前、南雲司令長官と草鹿参謀長に「ハワイ奇襲作戦は一任する」と約束していた。山本長官は「泥棒だって、帰りはこわいのだから」と付け足して言った。