陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

566.源田実海軍大佐(26)数日この付近にとどまって、敵の航空母艦をやっつけましょう

2017年01月27日 | 源田実海軍大佐
 この淵田中佐のトラ連送「トラトラトラ」は、空母「赤城」だけでなく、広島湾にいた連合艦隊旗艦・戦艦「長門」でも、東京の大本営でも直接受信した。

 七時五十三分、「赤城」は、淵田中佐に「隊長、先の発信、赤城了解」と返信した。奇襲に成功したことを知った、草鹿龍太郎参謀長は南雲忠一司令長官の手を固く握り、落涙した。源田中佐は「やはり真珠湾攻撃をやってよかった」と思った。

 損害は日本海軍が、未帰還機二九機、損傷七四機、戦死五五名。特殊潜航艇未帰還五隻、戦死九名、捕虜一名だった。

 アメリカ海軍の損害は、沈没…戦艦四隻、標的艦一隻、その他一隻。大破…軽巡洋艦二隻、駆逐艦二隻、中破…戦艦一隻、駆逐艦一隻。小破…戦艦三隻、軽巡洋艦一隻。航空機一八八機破壊、一五五機破損。戦死軍人二三四五名、民間人五七名。

 米国の歴史学者で、戦後GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)で、情報部の戦史室長であった、ゴードン・W・ブランゲ博士の著書、「トラ トラ トラ」(並木書房・四四二頁)には、真珠湾攻撃終了後の様子を次のように記している(要旨抜粋)。

 第一波の最後に帰艦した淵田中佐は、その日の午後ふたたび敵に対して攻撃を加える事しか考えていなかった。次の目標として、燃料タンク、修理施設、および午前中の攻撃でうちもらした一、二隻の艦を思い描いていた。

 淵田中佐は空母「赤城」の艦橋に行き、報告を終えると、南雲司令長官が言った。「アメリカ艦隊が今から六カ月以内に真珠湾から出てくる可能性があると思うか」。

 淵田中佐は「主力が六カ月以内にでてくることはできないだろうと思います」と答えた。すると、草鹿参謀長が「次の目標は何にすべきだと思うかね」とたずねた。

 その言い回しには積極性がうかがわれたので、淵田中佐は、ほっとして「工廠、燃料タンク、機会があれば重ねて艦船に攻撃を加えるべきと思います」と答えた。

 草鹿参謀長はアメリカの反撃の可能性について質問した。源田中佐と淵田中佐は、「オアフ島とその近海の制空権はすでに日本の手中にあると思う」と答えた。

 南雲司令長官は「敵の航空母艦はどこにいると思うか」と質問したので、淵田中佐が「日本の機動部隊を探しているでしょう」と述べると、南雲司令長官は、明らかに動揺したように見えた。

 敵が傷つき、ひざを屈した今こそ、徹底的に敵をたたきふせるチャンスであると、不屈で剛毅な源田中佐は考えた。

 源田中佐は、「数日この付近にとどまって、敵の航空母艦をやっつけましょう」と力強く提案した。

 源田実は、一九六六年当時も、「攻撃後すぐアメリカの航空母艦を全力で捜索すべきだった。敵が見つかったら、たとえ夜間攻撃になっても、すぐ攻撃をかけるべきだった。……淵田中佐と私は、必要とあらば、オアフ島の附近に二、三日とどまる覚悟をしていた」と、残念がっていた。

 草鹿参謀長は「私はちゅうちょすることなく長官に引き揚げることを進言した」と述べている。南雲司令長官は、すぐにそれに同意した。

 ブランゲは、淵田、源田両氏に対して、インタビューをそれぞれ五十回以上行っている。ブランゲは、「トラ トラ トラ」に、両氏が言った通りのことを書いた。

 「航空作戦参謀・源田実」(徳間文庫・生出寿)によると、山口多聞第二航空戦隊司令官は、機動部隊の旗艦「赤城」に「第二撃準備完了!」の信号を送った。

 第二航空戦隊の旗艦「蒼竜」では、江草隆繁艦爆隊飛行隊長をはじめとする搭乗員や、鈴木栄二郎航空参謀がじりじりして、山口司令官に再攻撃の意見具申をするよう要望した。

 だが、山口司令官は「赤城」を凝視したまま、「南雲さんはやらないよ」と言っただけであった。

 山口県岩国沖の柱島泊地に在泊する「長門」の連合艦隊司令部でも、「再度攻撃を命令すべき」という議論が起こり、山本五十六司令長官に進言した。

 山本司令長官は、「南雲はやらないだろう」と言った。山本司令長官は、以前、南雲司令長官と草鹿参謀長に「ハワイ奇襲作戦は一任する」と約束していた。山本長官は「泥棒だって、帰りはこわいのだから」と付け足して言った。





565.源田実海軍大佐(25)どう考えてみても、この作戦は奇襲でなければ成功の算はない

2017年01月20日 | 源田実海軍大佐
 「風鳴り止まず」(源田実・サンケイ出版)によると、著者の源田実は、ハワイ作戦の北方航路進撃決定について、次の様に述べている(要旨抜粋)。

 昭和十六年九月中旬、ハワイ奇襲作戦の図上演習が行われたが、その後、この図演の研究会が行われた。

 第一航空艦隊司令長官・南雲忠一中将は、ハワイへの進出航路について、「図演では海はシケないが、実際はそうはいかんよ」と北方航路に反対した。

 これに対し、第一航空艦隊航空甲参謀・源田実中佐は次のように反論した。

 「長官にお考え願いたいのは、そのことです。どう考えてみても、この作戦は奇襲でなければ成功の算はない。事前に発見されれば、全滅しかねない」

 「絶対奇襲を考えるならば、兵術常識を外れなければ、成功の道はありません。米海軍将校は、日本海軍の艦艇の性能、平素の教育、演習実施の状況などから考えて、まさかハワイを航空母艦で攻撃するとは思っていないでしょう」

 「ことに北方航路は、彼ら自身が海がシケるために演習をやっていないくらいだから、船乗りが冬場この海面を使用することは考えていないだろうし、備えもしていないに違いありません」

 「鵯越が馬の通れるところなら、平家の軍勢は裏側からの攻撃にも応じる備えをしたでしょうが、馬は通れないと思っていたからこそ、備えをしていなかった」

 「その“虚”を義経の騎馬隊は衝いた。“鹿が降りられるところを馬が降りられないはずは無い”とさか落しに敵本陣になだれ込んだのです」

 「北方航路は確かに困難でしょう。しかも、そこは私らの努力によって切り開かなければならないと思います」。

 この源田中佐の意見が述べられた時、九州南方海面で大型艦艇に対する洋上補給の試験を繰り返していた空母「加賀」から電報が届いた。

 艦長・岡田次作(おかだ・じさく)大佐(石川・海兵四二・六十三番・空母「加賀」飛行長・中佐・館山空副長・航空本部教育部員・大佐・海軍大学校特修学生・第二三航空隊司令・水上機母艦「能登呂」艦長・空母「龍驤」艦長・艦政本部総務部第一課長・空母「加賀」艦長・戦死・少将)からのもので、「洋上補給成功」というものだった。

 さらに源田中佐の意見具申を聞いていた連合艦隊の佐々木航空参謀が、助言をした。「北方航路以外をとるようなら、この作戦はやめた方がよい」。

 源田中佐は、第二航空戦隊司令官・山口多聞(やまぐち・たもん)少将(島根・海兵四〇・次席・海大二四・次席・海軍大学校兵学教官・大佐・在米国大使館附武官・二等巡洋艦「五十鈴」艦長・戦艦「伊勢」艦長・少将・第五艦隊参謀長・第一連合航空隊司令官・第二航空戦隊司令官・戦死・中将・功一級)に対して、「どう思われますか?」と聞いた。

 すると、山口少将は「そりゃあもう、北方航路だよ」と賛成した。それで、南雲中将も、ついに、「航路は北方」の決意を固めた。

 以上が「風鳴り止まず」(源田実・サンケイ出版)で、源田実が述べている「北方航路」決定のいきさつである。

 ところが、「航空作戦参謀・源田実」(徳間文庫・生出寿)で、著者の生出寿は、次の様に述べている(要旨抜粋)。

 だが、この(源田実の)説明には事実と違っているところがあるようである。「加賀」の洋上補給が成功したのは十月十日で、この時は南雲中将も「加賀」に乗っていたはずである。

 『南雲中将も、ついに、「航路は北方」の決意を固めた』と言うが、この当時の南雲は、まだハワイ奇襲作戦そのものに反対で、十月二日(あるいは三日)、山本五十六が大西、草鹿の「ハワイ奇襲作戦中止」意見を却下してから、自分も反対をとり止めた。

 そして十月十日、「加賀」の燃料洋上補給が成功して、北方航路進撃の肝を固めたのであった。南雲は源田の分り切った意見より、省部の研究や、草鹿、大石の意見を尊重したはずである。
 
 以上が、生出寿氏の回想である。

 昭和十六年十二月八日未明、ハワイオアフ島の真珠湾に停泊していた、アメリカ海軍の太平洋艦隊に対して日本海軍は航空機及び特殊潜航艇による攻撃を行った。真珠湾攻撃である。

 真珠湾への奇襲攻撃は成功した。午前七時五十二分、水平爆撃隊九七式艦攻に乗っている、攻撃隊総指揮官・淵田美津雄中佐は第一航空艦隊旗艦・空母「赤城」に、トラ連送「トラトラトラ」(ワレ奇襲に成功セリ)を打電した。








564.源田実海軍大佐(24)日本海軍は米国のハドソン河で観艦式など絶対にできない

2017年01月13日 | 源田実海軍大佐
 当時、第一航空艦隊司令長官は、南雲忠一(なぐも・ちゅういち)中将(山形・海兵三六・五番・海大一八・次席・海軍大学校教官・大佐・軽巡洋艦「那珂」艦長・第一一駆逐隊司令・軍令部第二課長・支那事変軍事調査委員会委員・重巡洋艦「高雄」艦長・戦艦「山城」艦長・少将・第一水雷戦隊司令官・第八戦隊司令官・海軍水雷学校校長・第三戦隊司令官・中将・海軍大学校校長・第一航空艦隊司令長官・第三艦隊司令長官・佐世保鎮守府司令長官・第一艦隊司令長官・中部太平洋方面司令長官兼第一四航空艦隊司令長官・自決・功一級金鵄勲章・大将)だった。

 昭和十六年九月二十九日、南雲司令長官は、草鹿参謀長、大石首席参謀、源田航空甲参謀、吉岡忠一航空乙参謀(海兵五七・恩賜・海大三九首席・第二三航空戦隊参謀・第一航空艦隊航空乙参謀・横須賀航空隊飛行隊長・海軍大学校三九期学生・第二六航空戦隊首席参謀・兼第一航空艦隊参謀・中佐・横須賀鎮守府附・ルソン島で捕虜・戦後吉岡商会創業)を引きつれ、鹿屋基地に行った。

 南雲司令長官は、鹿屋基地で第一一航空艦隊の次の二人とハワイ作戦反対の打ち合わせを行った。

 司令長官・塚原二四三(つかはら・にしぞう)中将(山梨・海兵三六・二十番・海大一八・軽巡洋艦「大井」艦長・ジュネーヴ会議全権随員・空母「赤城」艦長・少将・第二航空戦隊司令官・第一連合航空隊司令官・中将・鎮海要港部司令官・第一一航空艦隊司令長官・航空本部長・兼軍令部次長・横須賀鎮守府司令長官・大将)。

 参謀長・大西瀧治郎(おおにし・たきじろう)少将(兵庫・海兵四〇・二十番・佐世保航空隊司令・大佐・横須賀航空隊副長・航空本部教育部長・第二連合航空隊司令官・少将・第一連合航空隊司令官・第一一航空艦隊参謀長・航空本部総務部長・中将・軍需省航空兵器総局総務局長・第一航空艦隊司令長官・軍令部次長・自決)。

 打ち合わせの結果、ハワイ奇襲作戦はとりやめ、第一航空艦隊を南方作戦に使うべきであるという意見に、全員が一致した。

 大西参謀長は最後に次のように発言した。

 「私は、ハワイ攻撃は絶対に反対だ。日本海軍は米国のハドソン河で観艦式など絶対にできない(日本が米本土を攻略・占領することは不可能)。したがって、長期戦争になるならば、ある程度で講話を結ばなければならない」

 「そのためにも、ハワイ攻撃のような米国民を強く刺激する作戦は避けるべきである。太平洋で戦って、真っ先に米空母をつぶすべきだ」。

 この大西少将の合理的な判断は、後に的中した。さすがに強気の源田航空甲参謀も、一同の理のある意見に反論できず、大西参謀長までも反対の状況では、従うほかなかった。

 十月二日朝、大西少将、草鹿少将、源田中佐、吉岡少佐の四人は、大分県の佐伯基地に行った。それから大西少将、草鹿少将の二人が停泊中の連合艦隊旗艦・戦艦「陸奥」に山本司令長官を訪ねた。

 大西少将と草鹿少将は、山本司令長官にハワイ作戦中止を訴えた。だが、山本司令長官は、二人の進言には応えず、「両艦隊とも幾多の困難はあろうが、ハワイ奇襲作戦はぜひやるんだという積極的な考えで準備を進めてもらいたい」などと、一方的にハワイ作戦決行を命令口調で力説した。

 山本司令長官の強い決意を知った、大西、草鹿両少将は、さすがに反対意見を取り下げずにはいられなかった。もしこれ以上反対したら、職を辞する以外になかったのである。

 大西少将、草鹿少将が「陸奥」を退艦する時、山本司令長官は二人を舷門まで見送り、後ろから、草鹿少将の肩をたたき、次の様に言った。

 「君の言うこともよく分った。しかし、真珠湾攻撃は僕の固い信念だ。これからは反対意見を言わず、僕の信念を実現することに全力を尽くしてくれ。その計画は君に一任する。南雲長官にもその旨伝えてくれ」。

 草鹿少将は、感動して「全力を尽くして長官のお考えの実現に努力します」と答えた。草鹿少将は、航空のエキスパートで、中堅士官時代から山本司令長官が目をかけており、秘蔵っ子ともいえる関係だった。

 大西少将は、真珠湾攻撃に承服したものの、やはり不本意ではあった。一年後の、昭和十七年九月末、ガダルカナル島攻防戦で日本軍が悪戦苦闘している時、海軍航空本部長であった大西少将は、兵庫県の柏原中学校の同級生、徳田富二に会った。

 その時、徳田が大西少将に「真珠湾は、あれでよかったのか?」と質問すると、大西少将は「いかんのだなあ」と答えて、続けて次の様に言った。

 「あれはまずかったんだよ。あんなことをしたために、アメリカ国民の意志を結集させてしまったんだ。それがこの頃の海戦にあらわれてきているよ」。







563.源田実海軍大佐(23)誰が会議をやってくれと頼んだか。戦は自分がやる

2017年01月06日 | 源田実海軍大佐
 九月十六日、十七日の二日間、海軍大学校で実施されたハワイ奇襲作戦の図上演習では、基地航空部隊がジャワ島の線に進出するまでに、ゼロ戦が六〇パーセント、陸上攻撃機が四〇パーセント消耗するという、厳しい結果となり、南方作戦においては航空兵力の不足が示された。

 九月二十四日、軍令部作戦室で行われた、ハワイ奇襲作戦の採択についての討議では、次の様な発言がなされた。

 第一航空艦隊参謀長・草鹿龍之介少将は次のように発言した。

 「成否のカギは敵の不意に乗じて奇襲できるかどうかにある。南方作戦兵力が足りない。むしろ南方に母艦兵力を集中して、すみやかに南方を片付けるのが大局的に有利である」。

 だが、第一航空艦隊甲航空参謀・源田実中佐は、ハワイ作戦に消極的な上司の草鹿少将と異なる意見を述べた。源田中佐は、ハワイ作戦には極めて積極的であり、次のように述べた。

 「敵艦隊が真珠湾に在泊する場合、飛行場制圧には艦爆八一機を振り向ける必要があり、空母に対しては、艦爆五四機を当てるが、それで三隻は大丈夫撃沈できる」

 「艦攻全機に水平爆撃をやらせれば、戦艦五隻、あるいは戦艦二、三隻と空母三隻はやれると思う(雷撃は不可能という前提)」

 「企画秘匿のため、内地に残る飛行機によって、わが母艦部隊が内地で訓練中であるかのようにカモフラージュをする必要がある。第一、第二航空戦隊は攻撃には自信を持っている」。

 航海将校である、第一航空艦隊首席参謀・大石保中佐は、ハワイに至る航海上の難点を、次の様に述べた。

 「敵機の哨戒が三〇〇海里(約五五六キロ)ならば航路選定は楽だが、四〇〇海里(約七四〇キロ)以上となると、苦しくなる(飛行機隊発進前に発見される)」

 「洋上燃料補給は風速一一メートル以上になると、駆逐艦に対しても困難となり、戦艦や空母への補給はいっそう困難である」。

 連合艦隊航空参謀・佐々木彰中佐は、強気そのもので、次の様に主張した。

 「南方航路をとるようなら本作戦はやめたほうがよい(機密保持が不可能)。奇襲を論じたらきりがない。むしろ断行すべきである」。

 軍令部第一部長・福留繁少将は、ハワイ作戦の成功を危ぶみ、次の様に発言した。

 「開戦日は十一月二十日ごろが望ましい(準備のため大幅な延期を希望する連合艦隊側に対して、その後の作戦を考慮して反対した)。巧妙な奇襲は望みがたい。南方地域はどうしても早く手に入れる必要が絶対にある」。

 連合艦隊参謀長・宇垣纒少将は、山本五十六司令長官の意を体して、次の様に反論した。

 「開戦日を一か月遅らせても、ハワイ作戦をやった方が全般の作戦を進捗させることにならないか」。

 結局、作戦採択の決定権を持つ軍令部側は、確信を持てず、ハワイ奇襲作戦採択の決定はなされなかった。

 源田実は、この時の討議を、戦後、振り返って次の様に回想している。

 「連合艦隊は積極的なのに、第一航空艦隊は消極的、むしろ反対の空気があり、また軍令部は極めて慎重で、意見は一致しなかった。会議後、黒島亀人参謀から『軍議は戦わずですよ』言われたことが、印象深く記憶に残っている」。

 だが、討議後、宇垣少将は、福留少将に「山本長官は職を賭してもハワイ作戦を決行する決意だ」と言ったことから、軍令部側は、山本長官の固い決意を知った。

 討議が終わり、宇垣少将、黒島大佐、佐々木中佐らが瀬戸内海、岩国沖の柱島泊地のブイに係留されている連合艦隊の旗艦、戦艦「長門」に帰り、山本五十六長官に報告すると、山本長官は、彼らにバクダンを落とした。

 「だいたいお前たちはハワイ攻撃をやらないで南方作戦ができると思っているのか。誰が会議をやってくれと頼んだか。戦は自分がやる。会議などやってもらわなくてよろしい」。