陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

583.桂太郎陸軍大将(3)廣太郎氏は「祖父は決してニコポンだけではなかったと思いますね」と言っている

2017年05月26日 | 桂太郎陸軍大将
 だが、主としては彼の生まれつきによるのである。これが世渡り最大の武器になった。特にこれぞといって、常人に傑出した才能があるのでもなく、元老内閣の後を受け、元老以上の政治勢力を持つまでにノシ上がったのは、ニコポンの効験によるのだった。

 【川原次吉郎(かわはら・じきちろう)】明治二十九年五月十九日生まれ。石川県金沢市出身。東京帝国大学政治学科卒業。中央大学講師、フランス・ドイツ・イギリス・アメリカに留学。中央大学教授、経済部長。一橋大学講師。日本学術会議会員。憲法調査会専門委員。日本政治学会理事。政治学者。昭和三十四年十二月八日死去。享年六十三歳。

 著書は、「政治学序説」(松本書房・昭和2年)、「エスペラントの話」(日本評論出版部・大正12年)、「桂太郎(日本宰相列伝4)」(時事通信社・昭和34年)などがある。

 「桂太郎(日本宰相列伝4)」(川原次吉郎・時事通信社・昭和34年)の<まえがき>で、著者の川原次吉郎は次のように述べている(一部抜粋)。

 桂太郎は、軍政家として公的生活の出発をした。けれども後には、政治家になりきっていたようである。長い外国生活は、桂に外交的識見を与えたことはいうまでもない。

 そのうえ桂には、財政家としての立派な見識もあった。しかし、さすがの桂も、議会においては、在野政党の反対や攻撃には、だいぶまいったらしい。

 持ち前のまけぬ気を、微笑で包みながら、粘り強い政党対策をやって相当の成功はおさめたとはいえ、ついにはみずから新政党を創立する気になったのも、政党の力によらなければ、議会政治の運営は不可能と考えたからであろう。

 【古川薫(ふるかわ・かおる)】大正十四年六月五日生まれ。山口県下関市出身。宇部工業高校機械科卒業、航空機会社入社。召集されるも終戦。戦後山口大学教育学部卒業、教員を経て山口新聞入社。山口新聞記者、編集局長。作家活動。「漂泊者マリア」で直木賞。山口県芸術文化振興奨励特別賞。郷土作家。小説家。

 著書は、「走狗」(柏書房・昭和42年)、「高杉晋作 戦闘者の愛と死」(新人物往来社・昭和48年)、「十三人の修羅」(講談社・昭和52年)、「松下村塾 吉田松陰と門弟たち」(偕成社・昭和54年)、「幻のザビーネ」(文藝春秋・平成元年)、「漂泊者のマリア」(文藝春秋・平成2年)、「軍神」(角川書店・平成8年)、「毛利一族」(文藝春秋・平成9年)、「山河ありき」(文藝春秋・平成11年)、「斜陽に立つ」(毎日新聞社・平成20年)など多数。

 「山河ありき」(古川薫・文藝春秋・平成11年)の「拾遺―あとがきにかえて」によると、著者の古川薫氏は、執筆に先立って、桂太郎の孫にあたる桂廣太郎氏に会って取材している。

 桂廣太郎氏は、東京帝国大学医学部薬学科卒で、古川氏が会った当時は、戦後自分で設立した桂化学株式会社の会長だった。

 「拓殖大学七十年外史」(拓殖大学・386頁・昭和45年)に、祖父桂太郎の思い出として、桂廣太郎氏の談話が所収されている。それによると「ニコポン」について、桂廣太郎氏は次のように述べている。

 日露開戦直前、頭山満さんと神鞭知常さんらから対露強硬態度を迫られた時、祖父の国家の安危のためには、あなた達と同じく首をかけていると、来るべき開戦の決意をほのめかしたということは、これも後日色々な方から承りました。

 よく世間では桂はニコポンといってニコニコ笑ってポンと肩をたたく、八方美人の懐柔策みたいに噂する人がありましたが、かつて貴族院議員だった中山太一氏(中山太陽堂の社長だった人)が予算委員会で時の東條首相に、日露戦争の時、時の首相桂太郎は戦争の切り上げの時機というものを計算して結びをつけたが、あなたはこの戦争(大東亜戦)の潮時をどう考えて居られるかと迫ったことは、御記憶の方も居られるかと思います。

 この引用を見ても祖父は決してニコポンだけではなかったと思いますね。伊藤博文、井上馨といった人々とはふだん仲が良かったが、これが一旦国事に関したことになると、一歩もゆずらず直ぐ喧嘩腰になったそうです。

 以上が、桂廣太郎氏の記述の一部だが、著者の古川薫は、桂廣太郎氏の記述について、次の様に述べている(一部抜粋)。

 ここで廣太郎氏も祖父のあだ名について触れている。この「ニコポン」は、桂太郎の人物像をよく言い当てているのだが、いくらかの揶揄をこめて使われることもあるので、廣太郎氏は「祖父は決してニコポンだけではなかったと思いますね」と言っている。同感である。

 「広辞苑」には「にこぽん にこにこして相手の肩をぽんと叩き、親しそうにうちとけて人を懐柔する態度。明治後期の首相桂太郎の政党懐柔策に対する評価に始まる」とある。

 桂太郎の闊達な親和力を底でささえているのは、ひとつの目的を見据える宰相としての強靭な信念であったといえよう。







582.桂太郎陸軍大将(2)桂太郎は、当時、世間からは、「ニコポン宰相」と呼ばれていた

2017年05月19日 | 桂太郎陸軍大将
 「明治陸軍の三羽烏」とは、川上操六大将、桂太郎大将、児玉源太郎大将の三将軍である。

 川上操六(かわかみ・そうろく)大将は、嘉永元年十一月十一日(一八四八年十二月六日)生まれ。鹿児島県出身。鳥羽伏見の戦い、戊辰戦争に薩摩藩十番隊小頭として従軍。維新後陸軍歩兵中尉<二十三歳>。近衛歩兵第三大隊長、参謀局出仕。少佐<二十八歳>、歩兵第一三連隊長心得、中佐<三十歳>、歩兵第一三連隊長。明治十五年歩兵大佐<三十四歳>、近衛歩兵第一連隊長。明治十八年少将<三十七歳>、参謀本部次長。明治二十三年中将<四十二歳>、参謀本部次長。明治二十八年征清総督府参謀長。明治三十一年参謀総長、大将<五十歳>。明治三十二年死去。享年五十一歳。従二位、勲一等旭日桐花大綬章、功二級、子爵。

 桂太郎(かつら・たろう)大将は、弘化四年十一月二十八日(一八四八年一月四日)生まれ。山口県出身。四鏡戦争では中隊長、戊辰戦争では第二大隊司令として従軍。維新後ドイツ留学、陸軍歩兵大尉<二十七歳>、少佐<二十七歳>、ドイツ公使館附き武官、中佐<三十歳>。明治十五年歩兵大佐<三十四歳>、大山巌欧州派遣随行。明治十八年少将<三十七歳>、陸軍省総務局長兼参謀本部御用掛。陸軍次官。明治二十三年陸軍中将<四十三歳>、第三師団長。台湾総督。明治三十一年陸軍大臣、陸軍大将<五十歳>。明治三十四年内閣総理大臣。明治四十一年内閣総理大臣。大正二年内閣総理大臣、十月死去。享年六十五歳。従一位、大勲位菊花章頸飾、功三級、公爵。

 児玉源太郎(こだま・げんたろう)大将は、嘉永五年二月二十五日(一八五二年四月十四日)生まれ。山口県出身。函館戦争に下士官として従軍。維新後陸軍権曹長<十八歳>。明治四年四月陸軍歩兵准少尉<十九歳>、八月歩兵少尉<十九歳>、九月歩兵中尉<十九歳>。明治五年七月歩兵大尉<二十歳>。大阪鎮台、熊本鎮台、少佐<二十二歳>。熊本鎮台参謀副長、中佐<二十八歳>。明治十六年歩兵大佐<三十一歳>、参謀本部第一局長、陸軍大学校長。明治二十二年少将<三十七歳>、陸軍次官兼陸軍省軍務局長。明治二十九年中将<四十四歳>、第三師団長。台湾総督。明治三十三年陸軍大臣。内務大臣。文部大臣。参謀本部次長。明治三十七年大将<五十二歳>、満州軍総参謀長。台湾総督、陸軍参謀総長。明治三十九年南満州鉄道創立委員長。七月死去。享年五十四歳。正二位、勲一等旭日大綬章、功一級、子爵。

 「近代日本軍人伝」(松下義男・柏書房・昭和五十一年)によると、軍令の川上操六大将に併称される者は、軍政の桂太郎大将である。

 川上操六大将の陸軍軍令界における功績は卓越して大きく、桂太郎大将の陸軍軍政界における功績は川上操六大将に比肩する程度には至らないにしても、他に彼に優る者の無いほど大きい。

 川上操六大将は、終生軍人として国家に尽くしたが、桂太郎大将は、その半生を、政治家として国家に尽くした。

 その桂太郎は、当時、世間からは、「ニコポン宰相」と呼ばれていた。命名者は東京日日新聞の記者、小野賢一郎だった。

 小野賢一郎(おの・けんいちろう=俳人「小野蕪子」)は、一八八八年七月二日生まれ。福岡県出身。十六歳で小学校準教員検定試験合格。代用教員、毎日電報社記者、東京日日新聞社記者、同社社会部長。日本放送協会文芸部長、同協会業務局次長兼企画部長。高浜虚子らに師事、俳人。日本俳句作家協会常務理事一九四三年二月死去。

 桂太郎が、ニコニコ笑って、ポンと肩を叩き、政治家や財界人を手なずけるのに、巧みだったため、小野賢一郎記者が新聞にそう書いたのが始まりだと言われている。

 だが、桂太郎の、この「ニコポン宰相」については、少し掘り下げて、その人物像を論評している、次のような知識人、作家、文化人がいる。

 【阿部眞之助(あべ・しんのすけ)】明治十七年三月二十九日生まれ。埼玉県出身。少年時代は群馬県富岡市で過ごす。東京帝国大学文学部社会学科卒業。東京日日新聞入社。東京日日新聞主筆。ジャーナリスト、政治評論家、随筆家。NHK会長に就任。昭和三十九年七月九日NHK会長在職中に急死。享年八十歳。富岡市名誉市民。

 著書は、「戦後政治家論―吉田・石橋から岸・池田まで」(文春学藝ライブラリー・平成28年)、「近代政治家評伝―山縣有朋から東條英機まで」(文春学藝ライブラリー・平成27年)、「新世と新人」(三省堂・昭和15年)など。

 「近代政治家評伝―山縣有朋から東條英機まで」(阿部眞之助・文春学藝ライブラリー・平成27年)所収「桂太郎」の冒頭で、著者の阿部眞之助は次のように記している(一部抜粋)。

 この頃の青年の間には、ヒロポンの使用が広く行われているそうだが、これに似たニコポンという言葉を知っているものは、割合に少ないようである。

 明治から大正にかけて、盛んに用いられた流行語で、毎日の新聞や月々の雑誌などに、出ていないことがなかった。

 この言葉は桂太郎から始まった。彼の妥協的懐柔政策を称して、ニコポン主義といった。

 花柳界の女が、遊客を懐柔するに、「ねえ、あなた」とか何とかいいながら、ニコリと笑って、肩をポンと叩くと、客はたちまちグニャグニャになって、女の意のままに操縦されるようになる。

 桂は、この操縦術の名人だった。彼の一生はニコポン主義をもって終始した。時の勢いが妥協的態度を、余儀なくしたということもあろう。









581.桂太郎陸軍大将(1)公の晩年は政争の最も劇甚なりし時にして、然も公は其の中心的人物たりし

2017年05月12日 | 桂太郎陸軍大将
 「公爵桂太郎伝・乾巻」(徳富蘇峰・故桂公爵記念事業会・大正6年)の第一編、第一章、緒言の冒頭で、徳富猪一郎(蘇峰)は次のように述べている(一部の分かりにくい旧字体は、新字体に変換またはカッコ内で説明しています)。

 現時に於いて、公爵桂太郎の伝記を編述せんことは寧ろ大膽(大胆)の業なり。何となれば公の先輩たる伊藤公(伊藤博文)、山縣元帥(山縣有朋)、井上侯(井上馨)等の伝記、未だ世に出でず。

 すなわち維新回天の偉業に於ける防長出身者の巨擘(きょはく=巨頭)木戸孝允(きど・たかよし=桂小五郎)の伝記さえも纔(わずか)に著手(ちゃくしゅ=着手)せられたるを聞くも、其の詳なるを知る可からず。

 されば山廻り渓轉(けいてん=谷を巡る)し流れに棹(さおさ)して下るの便宜(良い機会)は到底即今(そっこん=只今)に期す可からず。

 且つ今日は余りに桂公の在世と接近し、精厳なる歴史的乾光(けんこう→威光)に照らして、其の人物、軍功を品隲(ひんしつ=品定め)するは、頗る困難の業たり。

 加うるに公の晩年は政争の最も劇甚なりし時にして、然も公は其の中心的人物たりし看あり。されば蓋棺(かいかん=棺に蓋をする➡人の死)の後と雖も、其の餘焔(よえん=残り火)は尚ほ公の遺骸を取り巻き、未だ容易に消散せず。

 此の最中に於いて彼の政友、政敵の両者をして、興(とも=共)に倶(とも=共)に首肯(しゅこう=うなずく)、甘心(かんしん=納得)せしむる公の伝記を編せんとは、若し絶対的不可能の事にあらずとせば、少なくとも之に隣すと云わざるを得ざるべし。

 <桂太郎(かつら・たろう)陸軍大将プロフィル>

弘化四年十一月二十八日(一八四八年一月四日)生まれ。山口県長門国阿武郡萩字平安胡(現・山口県萩市平安古)川島村出身。幼名は壽熊(ひさくま)で、後に太郎に改めた。長州藩士馬廻役・桂与一右衛門(一二五石)の長男。母は、長州藩士・中谷家(一八〇石)の娘、喜代子。叔父の中谷正亮は松下村塾の出資者。

安政四年(一八五七年)(九歳)岡田玄道について和漢学を修める。安政六年(一八五九年)(十一歳)十月吉田松陰が江戸伝馬町の老屋敷で斬首刑。当時桂太郎は十一歳だったので、松下村塾では学んでいない。

文久元年(一八六一年)(十三歳)西洋銃陣隊に入る。

文久三年(一八六三年)(十五歳)長州藩大組隊に属す。十二月馬関(下関)駐屯、警備の任に就く。文久四年(一八六四年)(十六歳)第二番小隊司令。毛利元徳上京に際し、選鋒隊に属し、随行。

慶応元年(一八六五年)(十七歳)三月干城隊に入り、山口の歩兵塾で学ぶ。五月御小姓を命ぜらる。慶応二年(一八六六年)(十八歳)六月四境戦争に装条銃第二大隊第二番中隊補助長官として出征。中隊長に昇進。山口に帰り、御小姓に復す。藩校・明倫館に入り、文武の学を学ぶ。

慶応三年(一八六七年)(十九歳)十二月藩命により上京。毛利敬親父子官位復旧入洛允許の勅諚をもたらして帰藩。三条実美ら五卿について出京、薩長諸藩の観兵式に参列。

入洛(じゅらく)は、都である京都に入ること。允許(いんきょ)は、許すこと、許可すること。勅諚(ちょくじょう)は、天皇の命令、勅命。

明治元年(一八六八年)(二十歳)一月戊辰戦争の鳥羽伏見の戦いで、敵情偵察の任務につく。大阪城襲撃の勅諚を奉じて帰藩。長州藩第五大隊を率いて、世子・毛利元徳について出京。三月小姓役を辞め、第四大隊二番隊司令。その後第二大隊司令として奥州各地を転戦、秋田戦争で戦功を上げる。

明治二年(二十一歳)三月父・桂與一右衛門死去。五月家督相続。六月軍功により賞典禄二五〇石を下賜せらる。八月藩命により仏式陸軍修業のため東京留学。七月第五大隊補助長官。十月横浜語学所入校。

明治三年(二十二歳)横浜語学所を大阪兵学寮に移すため移転。まもなく病と称して退校。七月萩に帰り、海外留学の許可を得る。八月ドイツに留学。明治四年ベルリンでパリース陸軍少将に師事し軍事学を研修。明治六年(二十五歳)十月帰朝。十一月山口県萩に帰省。

明治七年(二十六歳)一月帰京、陸軍歩兵大尉。六月陸軍歩兵少佐。八月母・喜代子死去。明治八年(二十七歳)三月ドイツ駐在公使館附武官。六月弟・二郎と共に横浜出港。ベルリンで軍政を研究。

明治十一年(三十歳)七月帰国、参謀局諜報提理。八月太政官少書記官兼法制局専務。十一月陸軍歩兵中佐。十二月参謀本部管西局長心得。明治十三年(三十二歳)兼太政官大書記官。

明治十五年(三十四歳)二月陸軍歩兵大佐、参謀本部管西局長。明治十七年(三十六歳)一月陸軍卿・大山巌中将欧州派遣に随行。明治十八年(三十七歳)一月帰国。五月陸軍少将、陸軍省総務局長兼参謀本部御用掛。明治十九年(三十八歳)三月陸軍次官。明治二十三年(四十二歳)六月陸軍中将。

明治二十四年(四十三歳)六月第三師団長。明治二十七年(四十六歳)八月日清戦争宣戦の詔勅。第三師団に動員令。九月名古屋出発。明治二十八年(四十七歳)六月第三師団名古屋凱旋。

明治二十九年(四十八歳)六月台湾総督。十月台湾総督の辞表提出、東京湾防禦総督。明治三十一年(五十歳)一月陸軍大臣。六月憲政党内閣に留任。九月陸軍大将。十一月山縣(有朋)内閣に留任。

明治三十三年(五十二歳)十二月陸軍大臣辞職。明治三十四年(五十三歳)五月元老会議で首相に推薦され、組閣の大命を拝す。六月内閣総理大臣に任じ、特に現役に列せしめらる。明治三十五年(五十四歳)二月伯爵。

明治三十六年(五十五歳)四月伊藤博文、山縣有朋、小村寿太郎と京都の無鄰菴で会合し、対ロシア方針を決議。七月参内辞表捧呈、留任の命下る。内閣改造。十月内務大臣兼任。

明治三十七年(五十六歳)二月日露戦争開戦。明治三十八年(五十七歳)七月臨時兼任外務大臣。九月日露戦争終戦。十月臨時兼任外務大臣を免ず。十一月臨時兼任外務大臣、文部大臣兼任。

明治三十九年(五十八歳)一月臨時兼任外務大臣を免ず、内閣総理大臣並びに文部大臣兼任を免ず。軍事参議官。四月大勲位菊花大綬章。明治四十年(五十九歳)九月侯爵。

明治四十一年(六十歳)七月内閣総理大臣兼大蔵大臣。特に現役に列す。明治四十四年(六十三歳)四月公爵。五月拓殖局総裁兼任。八月済生会会長、内閣総辞職。

明治四十五年(六十四歳)七月ヨーロッパ訪問。八月行程を中止し帰朝、内大臣兼侍従長。十一月後備役、日本赤十字社・平井政遒病院長の診断を受ける。十二月内閣総理大臣兼外務大臣。

大正二年(六十五歳)一月外務大臣兼任を免ず。二月立憲同志会宣言書発表、創立委員長就任、山本権兵衛来訪、辞職勧告。内閣総理大臣辞職、元勲の優遇を賜う。三月三浦博士の診察を受ける。六月葉山長雲閣で静養、長男・与一死去、鎌倉山下別荘に転地療養。九月帰京。

十月に入り脳血栓を起こし、十月十日午後四時死去。死因は腹部に広がっていたガンと、頭部動脈血栓。享年六十五歳。従一位、大勲位菊花章頸飾。十月十九日芝増上寺で葬儀、会葬者は数千人。墓所は、遺言により松陰神社(東京都世田谷)に隣接して建てられた。









580.源田実海軍大佐(40)自衛隊を国防軍に改編し、隊員を軍人として処遇するとともに、国民全部が国防の義務を負う

2017年05月05日 | 源田実海軍大佐
 源田実の著書、「源田実 語録」(善本社)は、昭和四十八年に発行された。六十九歳の時である。この当時の、源田実は参議院議員で、昭和四十三年に自民党政調会国防部会長に就任、昭和四十九年には勲二等瑞宝章を受章している。

 「源田実 語録」(源田実・善本社)所収「軍人にすれば士気はあがる」の中で、著者の源田実は、次の様に述べている。

 自衛隊員に誇りを持たせ、その士気向上をはかることは、多くの人々によって唱えられ、若干その施策も行われて来た。

 私は自衛隊員の全般的な士気が、旧軍人や外国軍隊のそれに比べて、遜色のあるものとは思わないし、総合的にはむしろ、勝っているとさえ思うのである。

 自衛官の処遇改善とか、国民的支持を受けるための諸施策は、いろいろと論議されるが、その根本にメスを入れた意見は、タブーなのか見当たらない。

 根源をつく施策とは何か―それはいうまでもなく、自衛隊の存在や地位に対する憲法上の疑義を完全に払拭することである。

 この事は、憲法論文の法律技術的解釈などの小手先の業によって、解決できるものではない。もちろん、自衛権は、それぞれの国家が本質的に保存しているものであって、この存在に疑義を差しはさむことは許されない。

 しからば、憲法の条文中に、自衛権の存在に対して疑義を抱かせるような表現が使われているならば、当然これを改定して、明々白々たるものにすべきである。

 憲法前文中の「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」、および第九条の「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と……うんぬん」、また同条第二項の戦力不保持、交戦権否認の表現は、疑義を持たせるに十分である。

 大体、一国の国民が祖国防衛の義務を負っていないなどということ自体が、はなはだおかしいのであって、われらは憲法にその義務がうたわれていなくとも、自衛権と同様に、本質的にこの義務を負っているものと考える。

 自衛権の存在や祖国防衛の義務などは、憲法の明文に記載するのが最も好ましい処置であり、次はなんらこれに触れることなく、自明の理として適用させることである。これに疑義を持たせるような表現を憲法に記載することは、下策中の下策である。

 すなわち、憲法を改正して、自衛隊を国防軍に改編し、隊員を軍人として処遇するとともに、国民全部が国防の義務を負うことを、はっきりと明文化すべきである。そうすれば自衛隊員の士気は、必然的に高揚するのである。

 国防や憲法に関する問題は、避けて通れるものではない。これに堂々と取り組むことこそ、国権の最高機関である国会の、そして政治家の当然の責務であると信ずる。

 以上が、旧日本帝国海軍二十四年、戦後の航空自衛隊八年、そして国会議員二十四年を勤めた源田実の、自衛官に対する思いを込めた主張である。

 だが、源田実は、自分自身を、戦闘機パイロットとしての生涯と位置付けている。源田実は五十代になって、自衛隊機のF86F(セイバー)、F104(スターファイター)、米軍機のF11(スーパータイガー)、F102、F106、F5などのジェット戦闘機を操縦している。

 晩年になっても、源田実は、「今でも自由に職業を選べるなら、また戦闘機パイロットを選ぶ」と語っている。「源田実 語録」(源田実・善本社)の中でも、次の様に述べている。

 「わたくしは元来、戦闘機のパイロットである。一九二八年、海軍のパイロットになって以来、ひたすら戦闘機の操縦においては、『技、神に入る』ことを念願して、努力してきました」

 「海軍と自衛隊を通じて、約三十年にわたる飛行生活において、一日たりともこの“希望”を捨てたことはありませんでした」。

 源田実は、国会議員を辞めて間もなく体調を崩し、二年後の平成元年八月十五日、療養先の松山市内の病院で脳血栓のため死去した。従三位、勲二等旭日重光章。享年八十四歳。

 ちょうど終戦の日、そして思い出深い、第三四三海軍航空隊「剣部隊」発足の地、四国の松山で、その波乱万丈な生涯を終えるとは、どこまでも劇的な源田実だった。

 源田実は明治三十七年八月十六日生まれだから、ちょうどぴったり、八十四年の生涯だった。死の二年前まで公職から離れられなかった源田実は、まさにその人生の全てを国に捧げた、稀有で純粋な武人だった。

 (今回で「源田実海軍大佐」は終わりです。次回からは「桂太郎陸軍大将」が始まります)