だが、主としては彼の生まれつきによるのである。これが世渡り最大の武器になった。特にこれぞといって、常人に傑出した才能があるのでもなく、元老内閣の後を受け、元老以上の政治勢力を持つまでにノシ上がったのは、ニコポンの効験によるのだった。
【川原次吉郎(かわはら・じきちろう)】明治二十九年五月十九日生まれ。石川県金沢市出身。東京帝国大学政治学科卒業。中央大学講師、フランス・ドイツ・イギリス・アメリカに留学。中央大学教授、経済部長。一橋大学講師。日本学術会議会員。憲法調査会専門委員。日本政治学会理事。政治学者。昭和三十四年十二月八日死去。享年六十三歳。
著書は、「政治学序説」(松本書房・昭和2年)、「エスペラントの話」(日本評論出版部・大正12年)、「桂太郎(日本宰相列伝4)」(時事通信社・昭和34年)などがある。
「桂太郎(日本宰相列伝4)」(川原次吉郎・時事通信社・昭和34年)の<まえがき>で、著者の川原次吉郎は次のように述べている(一部抜粋)。
桂太郎は、軍政家として公的生活の出発をした。けれども後には、政治家になりきっていたようである。長い外国生活は、桂に外交的識見を与えたことはいうまでもない。
そのうえ桂には、財政家としての立派な見識もあった。しかし、さすがの桂も、議会においては、在野政党の反対や攻撃には、だいぶまいったらしい。
持ち前のまけぬ気を、微笑で包みながら、粘り強い政党対策をやって相当の成功はおさめたとはいえ、ついにはみずから新政党を創立する気になったのも、政党の力によらなければ、議会政治の運営は不可能と考えたからであろう。
【古川薫(ふるかわ・かおる)】大正十四年六月五日生まれ。山口県下関市出身。宇部工業高校機械科卒業、航空機会社入社。召集されるも終戦。戦後山口大学教育学部卒業、教員を経て山口新聞入社。山口新聞記者、編集局長。作家活動。「漂泊者マリア」で直木賞。山口県芸術文化振興奨励特別賞。郷土作家。小説家。
著書は、「走狗」(柏書房・昭和42年)、「高杉晋作 戦闘者の愛と死」(新人物往来社・昭和48年)、「十三人の修羅」(講談社・昭和52年)、「松下村塾 吉田松陰と門弟たち」(偕成社・昭和54年)、「幻のザビーネ」(文藝春秋・平成元年)、「漂泊者のマリア」(文藝春秋・平成2年)、「軍神」(角川書店・平成8年)、「毛利一族」(文藝春秋・平成9年)、「山河ありき」(文藝春秋・平成11年)、「斜陽に立つ」(毎日新聞社・平成20年)など多数。
「山河ありき」(古川薫・文藝春秋・平成11年)の「拾遺―あとがきにかえて」によると、著者の古川薫氏は、執筆に先立って、桂太郎の孫にあたる桂廣太郎氏に会って取材している。
桂廣太郎氏は、東京帝国大学医学部薬学科卒で、古川氏が会った当時は、戦後自分で設立した桂化学株式会社の会長だった。
「拓殖大学七十年外史」(拓殖大学・386頁・昭和45年)に、祖父桂太郎の思い出として、桂廣太郎氏の談話が所収されている。それによると「ニコポン」について、桂廣太郎氏は次のように述べている。
日露開戦直前、頭山満さんと神鞭知常さんらから対露強硬態度を迫られた時、祖父の国家の安危のためには、あなた達と同じく首をかけていると、来るべき開戦の決意をほのめかしたということは、これも後日色々な方から承りました。
よく世間では桂はニコポンといってニコニコ笑ってポンと肩をたたく、八方美人の懐柔策みたいに噂する人がありましたが、かつて貴族院議員だった中山太一氏(中山太陽堂の社長だった人)が予算委員会で時の東條首相に、日露戦争の時、時の首相桂太郎は戦争の切り上げの時機というものを計算して結びをつけたが、あなたはこの戦争(大東亜戦)の潮時をどう考えて居られるかと迫ったことは、御記憶の方も居られるかと思います。
この引用を見ても祖父は決してニコポンだけではなかったと思いますね。伊藤博文、井上馨といった人々とはふだん仲が良かったが、これが一旦国事に関したことになると、一歩もゆずらず直ぐ喧嘩腰になったそうです。
以上が、桂廣太郎氏の記述の一部だが、著者の古川薫は、桂廣太郎氏の記述について、次の様に述べている(一部抜粋)。
ここで廣太郎氏も祖父のあだ名について触れている。この「ニコポン」は、桂太郎の人物像をよく言い当てているのだが、いくらかの揶揄をこめて使われることもあるので、廣太郎氏は「祖父は決してニコポンだけではなかったと思いますね」と言っている。同感である。
「広辞苑」には「にこぽん にこにこして相手の肩をぽんと叩き、親しそうにうちとけて人を懐柔する態度。明治後期の首相桂太郎の政党懐柔策に対する評価に始まる」とある。
桂太郎の闊達な親和力を底でささえているのは、ひとつの目的を見据える宰相としての強靭な信念であったといえよう。
【川原次吉郎(かわはら・じきちろう)】明治二十九年五月十九日生まれ。石川県金沢市出身。東京帝国大学政治学科卒業。中央大学講師、フランス・ドイツ・イギリス・アメリカに留学。中央大学教授、経済部長。一橋大学講師。日本学術会議会員。憲法調査会専門委員。日本政治学会理事。政治学者。昭和三十四年十二月八日死去。享年六十三歳。
著書は、「政治学序説」(松本書房・昭和2年)、「エスペラントの話」(日本評論出版部・大正12年)、「桂太郎(日本宰相列伝4)」(時事通信社・昭和34年)などがある。
「桂太郎(日本宰相列伝4)」(川原次吉郎・時事通信社・昭和34年)の<まえがき>で、著者の川原次吉郎は次のように述べている(一部抜粋)。
桂太郎は、軍政家として公的生活の出発をした。けれども後には、政治家になりきっていたようである。長い外国生活は、桂に外交的識見を与えたことはいうまでもない。
そのうえ桂には、財政家としての立派な見識もあった。しかし、さすがの桂も、議会においては、在野政党の反対や攻撃には、だいぶまいったらしい。
持ち前のまけぬ気を、微笑で包みながら、粘り強い政党対策をやって相当の成功はおさめたとはいえ、ついにはみずから新政党を創立する気になったのも、政党の力によらなければ、議会政治の運営は不可能と考えたからであろう。
【古川薫(ふるかわ・かおる)】大正十四年六月五日生まれ。山口県下関市出身。宇部工業高校機械科卒業、航空機会社入社。召集されるも終戦。戦後山口大学教育学部卒業、教員を経て山口新聞入社。山口新聞記者、編集局長。作家活動。「漂泊者マリア」で直木賞。山口県芸術文化振興奨励特別賞。郷土作家。小説家。
著書は、「走狗」(柏書房・昭和42年)、「高杉晋作 戦闘者の愛と死」(新人物往来社・昭和48年)、「十三人の修羅」(講談社・昭和52年)、「松下村塾 吉田松陰と門弟たち」(偕成社・昭和54年)、「幻のザビーネ」(文藝春秋・平成元年)、「漂泊者のマリア」(文藝春秋・平成2年)、「軍神」(角川書店・平成8年)、「毛利一族」(文藝春秋・平成9年)、「山河ありき」(文藝春秋・平成11年)、「斜陽に立つ」(毎日新聞社・平成20年)など多数。
「山河ありき」(古川薫・文藝春秋・平成11年)の「拾遺―あとがきにかえて」によると、著者の古川薫氏は、執筆に先立って、桂太郎の孫にあたる桂廣太郎氏に会って取材している。
桂廣太郎氏は、東京帝国大学医学部薬学科卒で、古川氏が会った当時は、戦後自分で設立した桂化学株式会社の会長だった。
「拓殖大学七十年外史」(拓殖大学・386頁・昭和45年)に、祖父桂太郎の思い出として、桂廣太郎氏の談話が所収されている。それによると「ニコポン」について、桂廣太郎氏は次のように述べている。
日露開戦直前、頭山満さんと神鞭知常さんらから対露強硬態度を迫られた時、祖父の国家の安危のためには、あなた達と同じく首をかけていると、来るべき開戦の決意をほのめかしたということは、これも後日色々な方から承りました。
よく世間では桂はニコポンといってニコニコ笑ってポンと肩をたたく、八方美人の懐柔策みたいに噂する人がありましたが、かつて貴族院議員だった中山太一氏(中山太陽堂の社長だった人)が予算委員会で時の東條首相に、日露戦争の時、時の首相桂太郎は戦争の切り上げの時機というものを計算して結びをつけたが、あなたはこの戦争(大東亜戦)の潮時をどう考えて居られるかと迫ったことは、御記憶の方も居られるかと思います。
この引用を見ても祖父は決してニコポンだけではなかったと思いますね。伊藤博文、井上馨といった人々とはふだん仲が良かったが、これが一旦国事に関したことになると、一歩もゆずらず直ぐ喧嘩腰になったそうです。
以上が、桂廣太郎氏の記述の一部だが、著者の古川薫は、桂廣太郎氏の記述について、次の様に述べている(一部抜粋)。
ここで廣太郎氏も祖父のあだ名について触れている。この「ニコポン」は、桂太郎の人物像をよく言い当てているのだが、いくらかの揶揄をこめて使われることもあるので、廣太郎氏は「祖父は決してニコポンだけではなかったと思いますね」と言っている。同感である。
「広辞苑」には「にこぽん にこにこして相手の肩をぽんと叩き、親しそうにうちとけて人を懐柔する態度。明治後期の首相桂太郎の政党懐柔策に対する評価に始まる」とある。
桂太郎の闊達な親和力を底でささえているのは、ひとつの目的を見据える宰相としての強靭な信念であったといえよう。