昭和十二年十月、軍務局長には、町尻量基(まちじり・かずもと)少将(東京・伯爵壬生基修の四男・妻は賀陽宮邦憲王の第一王女由紀子女王・陸士二一・陸大二九恩賜・侍従武官・砲兵大佐・近衛野砲連隊長・軍務局軍事課長・少将・侍従武官・軍務局長・北支那方面軍参謀副長・第二軍参謀長・軍務局長・第二軍参謀長の時作戦文書紛失のため停職・軍務局長・中将・第六師団長・化兵監・印度支那駐屯軍司令官・予備役・終戦・昭和二十年十二月死去・享年五十八歳・勲一等・功三級)が就任した。
稲田正純元中将は、当時の陸軍次官・梅津美治郎中将と軍務局長・町尻量基少将について、つぎのように述べている。
「梅津次官の千慮の一失とも言えるのは、有能な君子人、町尻軍務局長と政務に関し、次官と局長の権限の問題につき論争をして、町尻軍務局長を異動させたことであったと言えよう。彼の本領は政治ではなく官僚の典型であった筈である」。
昭和十三年四月、陸軍次官・梅津美治郎中将は、軍務局長の後任に中村明人(なかむら・あけと)少将(愛知・陸士二二・陸大三四恩賜・陸軍大学校教官・歩兵大佐・陸軍省人事局恩賞課長・歩兵第二四連隊長・少将・関東軍兵事部長・関東軍臨時兵站監・陸軍省軍務局長・陸軍省兵務局長・中将・第五師団長・留守第三師団長・憲兵司令官・泰国駐屯軍司令官・第三九軍司令官・第一八方面軍司令官兼第三九軍司令官・終戦・A級戦犯で巣鴨プリズン拘留・不起訴釈放・日南産業社長・昭和四十一年九月死去・享年七十七歳・著書に「ほとけの司令官-駐タイ回想録」がある)を就任させた。
だが、これ以降、陸軍次官・梅津美治郎中将と陸士同期で、石原系の参謀次長・多田駿中将に、陸軍次官・梅津美治郎中将は手こずることになった。
支那事変は参謀本部においては、第一部長・石原莞爾少将、陸軍省においては、次官・梅津美治郎中将を中心として、血のにじむような論争と不拡大の努力を続けたが、中国側の積年の怨恨に基く抵抗は意外に堅く事態は悪化の一途をたどった。
日本側のあのような拡大の遠因を見る時、軍内の良識ある両巨頭、参謀本部第一部長・石原莞爾少将と陸軍次官・梅津美治郎中将がどうして固く手を結んで善処できなかったのか。
あの難局で、両巨頭が歩調を合わせて中国との平和を図ることができなかったのは、日本国家にとって、不幸な現象だった。
昭和十二年九月、参謀本部第一部長・石原莞爾少将は、作戦部長の職を去り、関東軍参謀副長に孤影悄然と赴任したが、この人事に、陸軍次官・梅津美治郎中将が全然無関係であったとは考えにくい。
陸軍次官・梅津美治郎中将は参謀本部作戦課長・石原莞爾大佐着任当初のうちは、参謀本部作戦課長・石原莞爾大佐の政策を支持していた。
だが、参謀本部作戦課長・石原莞爾大佐が次第にその自我と鬼才を発揮し、特に満州派による陸軍部内専断の態勢への足固めと見られる数々の人事や政策が強行されるに及んで、陸軍次官・梅津美治郎中将は、参謀本部作戦課長・石原莞爾大佐の批判派へと転じた。
宇垣一成大将の内閣は、参謀本部作戦課長・石原莞爾大佐の方針により、共に協力、阻止した二人であったが、林銑十郎大将の内閣組閣に当たっては正に反対の立場に立つようになった。
内政問題の場合はまだよかったが、遂に対支政策においても、対立的な面を持つに至った。基本的に、二人は共に不拡大方針であったことは間違いない。
だが、参謀本部第一部長・石原莞爾少将の口癖である「支那の戦争は止めよう」という悲願にもかかわらず、結局、四回に渉る動員決定と中止を繰り返した上、対北支派兵に踏み切り、戦果が上海にも及ぶに至った。
参謀本部第一部長・石原莞爾少将のこの作戦方針に、陸軍次官・梅津美治郎中将は批判的であったと言われている。
昭和十六年三月、第一六師団長・石原莞爾中将は陸軍大臣・東條英機中将により罷免され待命、八月に予備役に編入された。
稲田正純元中将は、当時の陸軍次官・梅津美治郎中将と軍務局長・町尻量基少将について、つぎのように述べている。
「梅津次官の千慮の一失とも言えるのは、有能な君子人、町尻軍務局長と政務に関し、次官と局長の権限の問題につき論争をして、町尻軍務局長を異動させたことであったと言えよう。彼の本領は政治ではなく官僚の典型であった筈である」。
昭和十三年四月、陸軍次官・梅津美治郎中将は、軍務局長の後任に中村明人(なかむら・あけと)少将(愛知・陸士二二・陸大三四恩賜・陸軍大学校教官・歩兵大佐・陸軍省人事局恩賞課長・歩兵第二四連隊長・少将・関東軍兵事部長・関東軍臨時兵站監・陸軍省軍務局長・陸軍省兵務局長・中将・第五師団長・留守第三師団長・憲兵司令官・泰国駐屯軍司令官・第三九軍司令官・第一八方面軍司令官兼第三九軍司令官・終戦・A級戦犯で巣鴨プリズン拘留・不起訴釈放・日南産業社長・昭和四十一年九月死去・享年七十七歳・著書に「ほとけの司令官-駐タイ回想録」がある)を就任させた。
だが、これ以降、陸軍次官・梅津美治郎中将と陸士同期で、石原系の参謀次長・多田駿中将に、陸軍次官・梅津美治郎中将は手こずることになった。
支那事変は参謀本部においては、第一部長・石原莞爾少将、陸軍省においては、次官・梅津美治郎中将を中心として、血のにじむような論争と不拡大の努力を続けたが、中国側の積年の怨恨に基く抵抗は意外に堅く事態は悪化の一途をたどった。
日本側のあのような拡大の遠因を見る時、軍内の良識ある両巨頭、参謀本部第一部長・石原莞爾少将と陸軍次官・梅津美治郎中将がどうして固く手を結んで善処できなかったのか。
あの難局で、両巨頭が歩調を合わせて中国との平和を図ることができなかったのは、日本国家にとって、不幸な現象だった。
昭和十二年九月、参謀本部第一部長・石原莞爾少将は、作戦部長の職を去り、関東軍参謀副長に孤影悄然と赴任したが、この人事に、陸軍次官・梅津美治郎中将が全然無関係であったとは考えにくい。
陸軍次官・梅津美治郎中将は参謀本部作戦課長・石原莞爾大佐着任当初のうちは、参謀本部作戦課長・石原莞爾大佐の政策を支持していた。
だが、参謀本部作戦課長・石原莞爾大佐が次第にその自我と鬼才を発揮し、特に満州派による陸軍部内専断の態勢への足固めと見られる数々の人事や政策が強行されるに及んで、陸軍次官・梅津美治郎中将は、参謀本部作戦課長・石原莞爾大佐の批判派へと転じた。
宇垣一成大将の内閣は、参謀本部作戦課長・石原莞爾大佐の方針により、共に協力、阻止した二人であったが、林銑十郎大将の内閣組閣に当たっては正に反対の立場に立つようになった。
内政問題の場合はまだよかったが、遂に対支政策においても、対立的な面を持つに至った。基本的に、二人は共に不拡大方針であったことは間違いない。
だが、参謀本部第一部長・石原莞爾少将の口癖である「支那の戦争は止めよう」という悲願にもかかわらず、結局、四回に渉る動員決定と中止を繰り返した上、対北支派兵に踏み切り、戦果が上海にも及ぶに至った。
参謀本部第一部長・石原莞爾少将のこの作戦方針に、陸軍次官・梅津美治郎中将は批判的であったと言われている。
昭和十六年三月、第一六師団長・石原莞爾中将は陸軍大臣・東條英機中将により罷免され待命、八月に予備役に編入された。