陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

45.石川信吾海軍少将(5) 壮観というより、馬鹿馬鹿しいという方が近かった

2007年01月26日 | 石川信吾海軍少将
 石川中佐はその年(昭和11年)の暮れ、海軍大佐に進級し、特務艦「知床」の艦長として、主に沿岸輸送に従事する事になった。

 石川大佐は何人の作為かは知らず、ただ運命のいたずらに苦笑しながら視察旅行の成果と、これにともなう抱負とをむなしく抱いて東京を去っていった。

 1937年、石川大佐は「知床」特務艦長として沿岸の軍需輸送に従事していたが、7月の某日、山口県徳山に入港し燃料搭載中、至急出港の無電命令を受けた。

 北支の事変勃発に伴い、佐世保に回航し、爆弾、航空燃料を満載して、上海に直行、支那方面艦隊に補給せよというものであった。

 石川大佐は艦橋に上がったが、しばらくもやいをとくのを待たせ、ありあわせの紙に鉛筆の走り書きで、豊田副武軍務局長宛ての手紙を書いた。

 その要旨は「私の海外視察報告を想起していただきたい。海軍としては、たとえ陸軍と争ってでも、この事変を早急に沈静させるべきだ」という意味合いのものであった。これを竹竿の先につけて、桟橋にいる守衛に投函を頼んで出港した。

 上海の埠頭に艦を横付けし、爆弾、燃料の陸揚げ作業をほぼ終えた頃、支那空軍のノースロップ機約50機が大挙来襲して、在泊の日本艦船を爆撃した。

 当時日本の艦船に搭載されている高射砲の有効射程距離は、新式なものでせいぜい7000メートル、旧式のものは3000メートルぐらいがせいいっぱいだった。

 それにもかかわらず、敵機が有効射程外、かなり遠い距離にあるのに、全力をあげて乱射乱撃をやっている有様は、壮観というより、馬鹿馬鹿しいという方が近かった。

 石川大佐は注意を促す意味で、さかんに乱射している某隊の旗艦あてに「その隊の弾着著しく近弾」と手旗信号を送った。

 これは「海戦要務令」という海軍の戦闘法の要綱を定めた本の中に、射撃中の隊の弾着を観測できる位置にある隊は、弾着の状況をその隊に通報するように決められた条項があるので、石川大佐はそれに従った訳である。決してよけいなお節介ではないのである。

 そのうち、石川大佐の艦の近くにいた特務艦「野島」からは「われ全弾撃ち終わり」の手旗信号が送られてくる始末だった。

 このような乱射乱撃は日清・日露戦争をへて築きあげられた、帝国海軍の伝統には明らかに反するものであった。

 この悪習は満州事変に引き続き、上海、揚子江一帯に起こった事変に対する論功行賞が行われた際、某隊(艦)の戦功を検討する時、その隊の射撃弾数の多少を1つの要素としてとりあげたことが、知らず知らずの間に射撃軍紀を弛緩させる原因になったと石川大佐は思った。  

 それが「われ全弾撃ち終わり」などという信号となって現れたのである。

 石川大佐は少なからず憤りを覚えて、無線電信で「中央当局は今事変を本気でやる気なのか。この事変は太平洋までつながってゆくものと覚悟すべきである。それを承知でするなら、まず射撃軍紀から引き締めてかからなければならない」といった、いささか癇癪混じりの暗号電報を打った。

 しかしこの電報について、後日石川大佐は先輩から忠告された。

 それによると「東京では一特務艦長の分際で中央を誹謗するなど、しかも無電で打電するとはけしからんという非難があり、そのためお前の東京払いは、いっそう延長された」ということだった。

 その年の暮れ、石川大佐は軍艦「厳島」の艦長に転任の命を受けた。

 「厳島」は第四艦隊に所属しており、艦隊司令長官は軍務局長から栄転した豊田副武中将だった。

 石川大佐は早速豊田長官のもとに行き、石川大佐の二度にわたる中央への警告について尋ねた。

 すると長官は「手紙は覚えはないが、電報は見た。それで今度の事変では、よけいに弾丸を撃った奴は論功のとき減点しろといいつけておいた」と言った。

 石川大佐は北支事変そのものについての警告だったのに、相手は単なる射撃軍紀の問題としか受け取らず、石川大佐はがっかりした。

 昭和13年1月陸海軍は共同して青島を攻略する事になり、石川は第四艦隊司令長官から「青島を占領して港湾施設を管理すべし」という命令を受けた。

 石川大佐の「厳島」は命令どうり行動し、格別の抵抗も受けずに青島港内に進入し、桟橋、倉庫、その他港湾関係諸施設及び建築物を占領して、管理するため必要な処置をした。



44.石川信吾海軍少将(4) 貴様をくびにするかどうかだいぶ議論があった

2007年01月19日 | 石川信吾海軍少将
石川中佐は駅の近くの食堂で食事をしたが、そこにいあわせたドイツ人たちはいずれも元気一杯の表情をしていて、その雰囲気からドイツはいよいよ再起のスタートを切ったという感じを受けた。

 ベルリンの海軍武官室で石川中佐は重要なヒントを得た。それは「1940年ごろには、ドイツは実力を持って立ち上がるだろう」という観測だった。

 これは当時武官室補佐官であった神重徳中佐の考えだったと石川中佐は記憶していた。

 このころ、ベルリンの街で売っていたシガレットケースには、第一次大戦前のドイツの領土と、大戦で失った土地とを一目で分かるように描いた地図が刻まれているものが多かった。

 石川中佐はもっと具体的な資料をつかみたいと思い、ダンチヒに向かった。

 ダンチヒはベルサイユ条約で自由都市として、ドイツもその港湾を利用する事は出来たが、国際連盟の管理下にあって、連盟の高級委員が常駐していた。関税区域としてはポーランドに属していた。

 ダンチヒに着いてみると、ナチの腕章をつけたドイツ青年達が三々五々腕を組んで闊歩していた。

 彼らの面貌には戦勝国の不当な決定に対する反抗心と、ポーランドなにするものぞという敵愾心と、ダンチヒ奪回の断固たる決意がみなぎっていた。

 石川中佐は一軒のビヤホールに入ってみた。そこにもナチ青年が沢山入っていた。石川中佐が日本人である事に気づくと、二三人が来て乾杯してくれた。

 石川中佐が「ドイツはダンチヒを奪回する決意だろうと思うが、どうだ」ときくと、「もちろん、そうだ」と答えた。

 さらに「ダンチヒの住民の大多数はドイツ人で、五十万を越えている。ダンチヒは現実にわれわれのものだ」と叫んだ。

 8月上旬、石川中佐は帰国し、視察旅行の経過と所信を、永野大臣以下海軍省首脳部に報告した。

 報告の最後に石川中佐は簡単な要図を掲げ、その余白に「ドイツは1940年ごろには、たつ」と書いて説明した。

 これに対して聴衆者ははなはだ冷ややかな態度で、誰一人として質問する者もなかった。

 ただ永野大臣から「君は1940年ごろにドイツはたつと言ったが、軍事的にはそうした見方もあるだろうが、経済的に、果たしてその力ができるか」との質問を受けた。

 石川中佐は「私に経済的な面からこれを立証しろと言われてもできませんが、ヨーロッパ滞在中は各地の大公使館で話を聞き、また主な日本商社の支店長を訪ね、その研究や意見も確かめ、ドイツでは永井商務官の話を聞き、二三の工場も視察しました結果、ドイツが経済面でも1940年ごろには充実してくるだろうということを私は納得しています」と答えた。

 それだけで永野大臣は、その常習である居眠りに入ってしまったという。

 報告を終わって大臣室を出ると、調査課長のO大佐が石川中佐をつついて「視察旅行の報告もずいぶん聞いたが、貴様のような大風呂敷ははじめてだ」と、冷評とも、真面目ともつかないことを言った。

 石川中佐は「大風呂敷だろうと何だろうと、私は私の所信を述べただけですよ」と言って、多くを語らなかった。

 海外視察旅行に出る時は、帰国後、内閣参事官に転任の予定で、そのための視察旅行だということを、直属上司である米内中将から言い渡されていた。

 だが、石川中佐が豊田軍務局長のもとに帰国の挨拶に行くと、豊田局長はろくに挨拶も聞かずに「貴様をくびにするかどうかだいぶ議論があったが、結局O大佐が預かる事になったから、O大佐のところで、おとなしくしておれ」とのご宣託だった。

 石川中佐は何の事か分からず「いったいどういうことなのですか」と反問した。すると豊田軍務局長は「2.26事件だ」とだけ、ぶっきらぼうに答えた。

 「2.26事件の件が、私とどういう関係があるのですか」と石川中佐が言うと、「黙ってOのところで、おとなしくしておれ」とのことだった。

 これではなんのことか見当がつかず、石川中佐は唖然とせざるを得なかった。だが、2.26事件で当局はよほどあわてているらしかった。とんだとばっちりがきたもんだと思いながら石川中佐はO大佐を訪ねた。

 O大佐に「あなたが私を預かる事になったそうですが、よろしく」と挨拶すると、「局長が何か言ったか」「ええ、さっぱり腑に落ちないことですがね」「まあ当分ここで静かにしておれ」といったぐあいだった。

 O大佐は石川中佐の中学の先輩であり、海軍に入ってからはなにかとお世話になっていたので、石川中佐もO大佐に対しては少なからず遠慮がちだったので、それ以上は何も言わなかった。(O大佐は岡敬純大佐)



43.石川信吾海軍少将(3) 勝負は一度で決まるのだから、何を好んでスパイなんかやる必要がある

2007年01月12日 | 石川信吾海軍少将
 石川中佐はこれで引き下がったら犬死になると思った。

 石川中佐「しかしその後、民政党内閣で緊縮財政を強行し、天引き予算でうむを言わせない予算削減を繰り返したことは、あなたも承知のはずだ」と言って、さらに

 石川中佐「それだけ海軍の軍備にも穴があいてきている。このままでは誰だって対米関係は引き受けたなどと言えるはずはない」

 そして、ここで石川中佐は早急の問題として弾丸の充実が先決であると説明した。すると

 森「よしわかった。いくらいるか」

 石川中佐「六十一議会で三千万円、その後は情勢に応じて考えなくてはならない」

 森「引き受けた」

 話は20分ぐらいで、あっさり片付いてしまった。

 石川中佐「あなたは私をだましてか帰すんじゃないでしょうね」

 森「おれは森だよ」(ドンと胸をたたいて笑った)

 石川中佐は高橋三吉軍令部次長に報告し、海軍大臣とも協議し予算要求の提出となった。

 六十一議会では、この海軍の予算要求は、そのまま通過し、海軍は直ちに弾丸の更新、充実にとりかかった。

 昭和10年、石川中佐は第二艦隊司令長官・米内光政中将のもとで参謀として勤務していた。

 同年の終わり頃石川中佐は米内長官から、当時内閣参議官であったA大佐の後任として予定されているから、その含みで世界情勢を視察してこいと命じられた。

 石川中佐は世界情勢を探求してくる事は最も望むところであった。

 石川中佐は昭和11年1月初め日本を出発し、フィリピン、蘭領インド(インドネシア)、方面、欧州、米国を視察した。

 蘭領インド(インドネシア)当局は当時からおかしいほど日本に対して警戒的であった。石川中佐がジョクジャカルタからバンドン行きの汽車に乗った時、たまたまオランダ海軍士官と差し向かいになった。

 彼は石川中佐に「君は支那人か」と聞くので、石川中佐はパスポートを示し「日本の海軍士官で単なる視察旅行である」と言うと

彼はぶしつけに「そうではあるまい。スパイにきたのだろう」と言った。

 石川中佐はおかしくもあるし、腹も立って「君は日本海軍の勢力を知っているか」と反問すると、「そんなことは知らないよ」といった調子だった。

 石川中佐は押し返して「海軍士官として東洋に来ていて、日本海軍の勢力を知らないとは何事だ。日本の海軍はオランダの海軍など問題にはしていないが、私は蘭印の海軍勢力は大体知っている」と話した。続けて

 「巡洋艦二隻、駆逐艦四隻、潜水艦少数だろう。万一日本が蘭印で武力行使に出なければならない状態になれば、勝負は一度で決まるのだから、何を好んでスパイなんかやる必要がある。スパイの対象になるようなものは皆無だ」と断定し

 「第一、日本と蘭印との間に武力衝突を予想しなければならないような問題が私には見当たらないが、それとも君の方でなにかあるのか」と言った。

 それで相手がようやく石川中佐がスパイでないと分かってくれた。

 ところが、シンガポール出航当日になって石川中佐はイギリス高等法務院へ出頭せよという司令を受けた。問答の末、開放されたが、法務院ではイギリス士官とオランダ士官が同席していた。

 このことから、石川中佐はイギリスとオランダの間に、日本に対する秘密協定がすでに結ばれているに違いない事を知った。

 シンガポールのイギリス軍大根拠地を要として、南東から東に伸びる蘭印・フィリピンの線と、北東に向かう仏印・タイ・南支の線とによって、日本の南方をとりまく対日包囲網が結成されつつある事を感じた。

 この包囲網はアメリカが強く推し進めている極東政策と気脈を通ずるものにほかなかった。

 この南方包囲網は政治的軍事的ばかりでなく、経済的にも日本の発展を圧迫するものであった。やがてこの包囲網がABCDラインとして強固に結成されていったのである。

 石川中佐は3月初頭マルセイユに上陸し、いよいよ欧州視察の第一歩を踏み出した。

 石川中佐がマルセイユからベルリンに向かう途中、3月7日、ドイツ国防軍はマインツ、コブレンツ、ケルン、フランクフルトなど、ライン非武装地帯の主要都市に進駐した。

 石川中佐は途中でそれを知ってケルンで途中下車し、市中を回った。市内は意外と静かだったがツェッペリン飛行船が数隻、駅前の寺院の上をかすめて飛んで域ドイツ国民の意気を反映するようで印象的であった。




42.石川信吾海軍少将(2) 東郷元帥がえらいけんまくで谷口大将を叱り、ふるえあがるほどだった

2007年01月05日 | 石川信吾海軍少将
 「真珠湾までの経緯~開戦の真相」(時事通信社)によると、石川中佐は、これら弾丸を充実するように、その問題の審議が軍令部長から海軍大臣宛てに提出されるように、事務を進めた。

 だが、谷口軍令部長はあまり関心を示さず、そのまま事務手続きが停滞した。

 このようなあいまいな状況は明らかに満州事変、上海事変に対する海軍の大方針が明確に決められていないために生ずる混乱であった。

 石川中佐は上司に向かって大方針の明示を要望するとともに、当時、軍事参議官であった、加藤寛治大将を訪ね、海軍として明確な方針決定が急務と意見を述べた。

 当時上海の事態は一層険悪になり、海軍は陸軍に派兵の要請をおこなった。陸軍は出動部隊に動員を命令した。

 その直後、海軍が陸軍の派兵取り消しを申し入れるという混乱が起きたので、陸軍参謀次長が海軍へ怒鳴り込むという一幕があった。

 その原因も谷口軍令部長のはっきりしない態度にあるとされていた。

 このような情勢に刺激されて海軍でも少壮血気な青年将校は、海軍首脳部に対して焦燥の気分が漂い始めた。

 昭和7年1月1月末か2月初めころ、霞ヶ浦航空隊の小園安名大尉以下約十名の若い将校が石川中佐を訪ねてきた。

 彼らは海軍首脳部の煮え切らない態度に憤慨し、谷口軍令部長に対して越軌の行動に出ようとする勢いだった。

 石川中佐は「君らの気持ちは分かるが、その問題は私に預けて、一日も早く立派な飛行将校になるよう、まず、当面の問題に全力を尽くせ」と伝えた。

 さらに「どうしても我慢ができないなら、今日から2週間は黙って静かにしているように」とさとして、帰隊させた。

 その夜、石川中佐は加藤大将を訪ねて、航空隊の若い将校たちの動揺を伝えた。

 ところが、加藤大将によると、軍事参議官会議で谷口大将はやめることに決まり、伏見宮が後任になられるとのことだった。

 そして加藤大将は「今日は東郷元帥がえらいけんまくで谷口大将を叱り、そばにいた私がふるえあがるほどだった。元帥があんなに怒られたのは、私もはじめてみたよ」と石川中佐に告げた。

 その後間もなく、昭和7年2月上旬、軍令部長と次長が更迭になり、伏見宮殿下が着任した。

 石川中佐は即日「弾丸更新ならびに充実」に関する海軍大臣宛商議案を提出し、新軍令部長の決裁を得て海軍省に送付した。

 だが海軍省首脳部は軍令部長の商議による経費3000万円を政府に要求する事は無理であるとの見解で、手続きに踏み切らなかった。今この予算を要求すれば、内閣の命運にまで影響するおそれがあるとのことだった。

 石川中佐は、もしそうであるならば、満州事変、上海事変をすみやかに終局させ、対米関係に紛争を生じないよう処理する事が必須の条件である。ところが事実はその反対の方向に向かっている。海軍は弾丸なしでどうして責任を負えるのかと主張した。

 満州・上海事変に関する臨時軍事費の審議される第61臨時議会は目前に迫っていた。石川中佐は軍備を担当する責任参謀として、このまま放置する事は出来なかった。

 残された手は現政府の中核の森格内閣書記官長と直接談判して善処してもらうより他はないと思った。

 石川中佐は議会開会の前日、官舎に森書記官長を訪ねた。石川中佐と森との一問一答が始った。

 石川中佐「先日、満州事変完遂の決意について政府は声明を発表したが、あれは外務省情報部の考えか、それとも真に政府の考えか」

 森「政府の真剣な決意だ」

 石川中佐「今朝の新聞ではアメリカ政府は満州事変を九カ国条約違反であると主張し、実力行使で変更された一切の事態は容認しないと断言したが、どう考えるか」

 森「政府は九カ国条約に爆弾をたたきつける決意で、あの声明を発表した」

 石川中佐「政府所信は分かったが、日米すでに攻略的には戦端をひらいたことになると思うが、どうか」

 森「そのとおりだ」

 石川中佐「後の始末は誰がする」

 森「そのための海軍じゃないか」(何を言っているかという調子)

 石川中佐「海軍首脳部でだれか後の始末を引き受けるといった人がいるのか」

 森「東方会議を開いて対満蒙政策を決定した時、ときの海軍大臣、岡田啓介が対米関係は引き受けると言った」

 森はどうだ、一本まいったかという顔つきで石川中佐をみつめた。