石川中佐はその年(昭和11年)の暮れ、海軍大佐に進級し、特務艦「知床」の艦長として、主に沿岸輸送に従事する事になった。
石川大佐は何人の作為かは知らず、ただ運命のいたずらに苦笑しながら視察旅行の成果と、これにともなう抱負とをむなしく抱いて東京を去っていった。
1937年、石川大佐は「知床」特務艦長として沿岸の軍需輸送に従事していたが、7月の某日、山口県徳山に入港し燃料搭載中、至急出港の無電命令を受けた。
北支の事変勃発に伴い、佐世保に回航し、爆弾、航空燃料を満載して、上海に直行、支那方面艦隊に補給せよというものであった。
石川大佐は艦橋に上がったが、しばらくもやいをとくのを待たせ、ありあわせの紙に鉛筆の走り書きで、豊田副武軍務局長宛ての手紙を書いた。
その要旨は「私の海外視察報告を想起していただきたい。海軍としては、たとえ陸軍と争ってでも、この事変を早急に沈静させるべきだ」という意味合いのものであった。これを竹竿の先につけて、桟橋にいる守衛に投函を頼んで出港した。
上海の埠頭に艦を横付けし、爆弾、燃料の陸揚げ作業をほぼ終えた頃、支那空軍のノースロップ機約50機が大挙来襲して、在泊の日本艦船を爆撃した。
当時日本の艦船に搭載されている高射砲の有効射程距離は、新式なものでせいぜい7000メートル、旧式のものは3000メートルぐらいがせいいっぱいだった。
それにもかかわらず、敵機が有効射程外、かなり遠い距離にあるのに、全力をあげて乱射乱撃をやっている有様は、壮観というより、馬鹿馬鹿しいという方が近かった。
石川大佐は注意を促す意味で、さかんに乱射している某隊の旗艦あてに「その隊の弾着著しく近弾」と手旗信号を送った。
これは「海戦要務令」という海軍の戦闘法の要綱を定めた本の中に、射撃中の隊の弾着を観測できる位置にある隊は、弾着の状況をその隊に通報するように決められた条項があるので、石川大佐はそれに従った訳である。決してよけいなお節介ではないのである。
そのうち、石川大佐の艦の近くにいた特務艦「野島」からは「われ全弾撃ち終わり」の手旗信号が送られてくる始末だった。
このような乱射乱撃は日清・日露戦争をへて築きあげられた、帝国海軍の伝統には明らかに反するものであった。
この悪習は満州事変に引き続き、上海、揚子江一帯に起こった事変に対する論功行賞が行われた際、某隊(艦)の戦功を検討する時、その隊の射撃弾数の多少を1つの要素としてとりあげたことが、知らず知らずの間に射撃軍紀を弛緩させる原因になったと石川大佐は思った。
それが「われ全弾撃ち終わり」などという信号となって現れたのである。
石川大佐は少なからず憤りを覚えて、無線電信で「中央当局は今事変を本気でやる気なのか。この事変は太平洋までつながってゆくものと覚悟すべきである。それを承知でするなら、まず射撃軍紀から引き締めてかからなければならない」といった、いささか癇癪混じりの暗号電報を打った。
しかしこの電報について、後日石川大佐は先輩から忠告された。
それによると「東京では一特務艦長の分際で中央を誹謗するなど、しかも無電で打電するとはけしからんという非難があり、そのためお前の東京払いは、いっそう延長された」ということだった。
その年の暮れ、石川大佐は軍艦「厳島」の艦長に転任の命を受けた。
「厳島」は第四艦隊に所属しており、艦隊司令長官は軍務局長から栄転した豊田副武中将だった。
石川大佐は早速豊田長官のもとに行き、石川大佐の二度にわたる中央への警告について尋ねた。
すると長官は「手紙は覚えはないが、電報は見た。それで今度の事変では、よけいに弾丸を撃った奴は論功のとき減点しろといいつけておいた」と言った。
石川大佐は北支事変そのものについての警告だったのに、相手は単なる射撃軍紀の問題としか受け取らず、石川大佐はがっかりした。
昭和13年1月陸海軍は共同して青島を攻略する事になり、石川は第四艦隊司令長官から「青島を占領して港湾施設を管理すべし」という命令を受けた。
石川大佐の「厳島」は命令どうり行動し、格別の抵抗も受けずに青島港内に進入し、桟橋、倉庫、その他港湾関係諸施設及び建築物を占領して、管理するため必要な処置をした。
石川大佐は何人の作為かは知らず、ただ運命のいたずらに苦笑しながら視察旅行の成果と、これにともなう抱負とをむなしく抱いて東京を去っていった。
1937年、石川大佐は「知床」特務艦長として沿岸の軍需輸送に従事していたが、7月の某日、山口県徳山に入港し燃料搭載中、至急出港の無電命令を受けた。
北支の事変勃発に伴い、佐世保に回航し、爆弾、航空燃料を満載して、上海に直行、支那方面艦隊に補給せよというものであった。
石川大佐は艦橋に上がったが、しばらくもやいをとくのを待たせ、ありあわせの紙に鉛筆の走り書きで、豊田副武軍務局長宛ての手紙を書いた。
その要旨は「私の海外視察報告を想起していただきたい。海軍としては、たとえ陸軍と争ってでも、この事変を早急に沈静させるべきだ」という意味合いのものであった。これを竹竿の先につけて、桟橋にいる守衛に投函を頼んで出港した。
上海の埠頭に艦を横付けし、爆弾、燃料の陸揚げ作業をほぼ終えた頃、支那空軍のノースロップ機約50機が大挙来襲して、在泊の日本艦船を爆撃した。
当時日本の艦船に搭載されている高射砲の有効射程距離は、新式なものでせいぜい7000メートル、旧式のものは3000メートルぐらいがせいいっぱいだった。
それにもかかわらず、敵機が有効射程外、かなり遠い距離にあるのに、全力をあげて乱射乱撃をやっている有様は、壮観というより、馬鹿馬鹿しいという方が近かった。
石川大佐は注意を促す意味で、さかんに乱射している某隊の旗艦あてに「その隊の弾着著しく近弾」と手旗信号を送った。
これは「海戦要務令」という海軍の戦闘法の要綱を定めた本の中に、射撃中の隊の弾着を観測できる位置にある隊は、弾着の状況をその隊に通報するように決められた条項があるので、石川大佐はそれに従った訳である。決してよけいなお節介ではないのである。
そのうち、石川大佐の艦の近くにいた特務艦「野島」からは「われ全弾撃ち終わり」の手旗信号が送られてくる始末だった。
このような乱射乱撃は日清・日露戦争をへて築きあげられた、帝国海軍の伝統には明らかに反するものであった。
この悪習は満州事変に引き続き、上海、揚子江一帯に起こった事変に対する論功行賞が行われた際、某隊(艦)の戦功を検討する時、その隊の射撃弾数の多少を1つの要素としてとりあげたことが、知らず知らずの間に射撃軍紀を弛緩させる原因になったと石川大佐は思った。
それが「われ全弾撃ち終わり」などという信号となって現れたのである。
石川大佐は少なからず憤りを覚えて、無線電信で「中央当局は今事変を本気でやる気なのか。この事変は太平洋までつながってゆくものと覚悟すべきである。それを承知でするなら、まず射撃軍紀から引き締めてかからなければならない」といった、いささか癇癪混じりの暗号電報を打った。
しかしこの電報について、後日石川大佐は先輩から忠告された。
それによると「東京では一特務艦長の分際で中央を誹謗するなど、しかも無電で打電するとはけしからんという非難があり、そのためお前の東京払いは、いっそう延長された」ということだった。
その年の暮れ、石川大佐は軍艦「厳島」の艦長に転任の命を受けた。
「厳島」は第四艦隊に所属しており、艦隊司令長官は軍務局長から栄転した豊田副武中将だった。
石川大佐は早速豊田長官のもとに行き、石川大佐の二度にわたる中央への警告について尋ねた。
すると長官は「手紙は覚えはないが、電報は見た。それで今度の事変では、よけいに弾丸を撃った奴は論功のとき減点しろといいつけておいた」と言った。
石川大佐は北支事変そのものについての警告だったのに、相手は単なる射撃軍紀の問題としか受け取らず、石川大佐はがっかりした。
昭和13年1月陸海軍は共同して青島を攻略する事になり、石川は第四艦隊司令長官から「青島を占領して港湾施設を管理すべし」という命令を受けた。
石川大佐の「厳島」は命令どうり行動し、格別の抵抗も受けずに青島港内に進入し、桟橋、倉庫、その他港湾関係諸施設及び建築物を占領して、管理するため必要な処置をした。