陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

360.辻政信陸軍大佐(20)辻政信の参議院選挙の第一声は、岸信介の郷里の山口県田布施町であげた

2013年02月15日 | 辻政信陸軍大佐
 「オレは四十数年の政治生活で君のような奴を見たことがない。よくやったなあ!」

 「ご好意を無にし、無礼な言を吐いて申し訳ありません。あの寒い雪国でご病気にでもしてはと思いまして」

 「言うな、皆判っとる」

 また手を握って、涙をこぼされた。私が爺さんの涙を見たのはこれが初めてであった。人を喰った古狸にどこからこのような涙がでるのだろう。

 若輩の思い上がった無礼な言葉を怒らないで、その腹を見抜いてくれた三木老に私は今でも合唱したい気持ちがする。

 昭和三十三年七月八日の衆議院法務委員会で辻は、岸信介首相と、自民党副総裁・大野伴睦(おおの・ばんぼく・明治二十七年岐阜県出身・明治大学政治経済学部中退・東京市会議員・衆議院議員・自由党幹事長・衆議院議長・北海道開発庁長官・初代自由民主党副総裁)に次の様な嫌がらせの発言を行った。

 「先の選挙における岸首相、大野副総裁の選挙違反は目に余るものがある。彼らの選挙区山口県ならびに、岐阜県の警察本部長は、これを見逃した功績で、いずれは栄転することになるだろう」。

 さらに同年十二月十日の自民党両議院総会で辻は、「昨年の総裁公選において、各派は多額の金で党員を買収しているが、なかんずく岸総裁が最も多くバラまいている」と追い討ちをかけたので、会場は大混乱に陥った。

 この日の議員総会で、自民党常規委員会では、辻を除名処分とすることにしたが、一部反対があり、処分強行はなされなかった。

 だが、辻は、むしろ除名を望んでいた。自民党で己の位置に見切りをつけた彼は、大ボス岸信介に反旗をひるがえして除名になったほうが、何よりの効果がある、とふんだのだ。

 だから、辻はありとあらゆる機会に岸攻撃をやった。そして「もう黙ってはいられない」という文書を配布した。

 その中で辻は岸の罪業を細大洩らさずあばき、個人的中傷―罵詈雑言を浴びせかけた。むざむざ辻の術中にはまることはない――としていた自民党も、遂に昭和三十四年四月三十日辻を正式除名した。

 思い通りの除名処分になると、辻はただちに衆議院議員を辞職して、参議院全国区に立候補した。辻政信の参議院選挙の第一声は、岸信介の郷里の山口県田布施町であげた。

 「私は山口県からは、一票ももらおうとは思いません。ただ思い切り岸首相の悪口を言わせてもらいたい……」。

 辻はまずそう前置きして、岸信介がいかに過去に悪いことをしたか、そして現在も悪を重ねているかを、洗いざらいぶちまけた。

 ある時は、岸の演説の済んだ直後を狙い打ちにして、まだ解散していない聴衆へ向けて岸攻撃をやった。辻はこのために、ビエンチャンで岸信介の指令によって消されたという説もある。

 とにかく辻は徹底的に反岸演説で全国遊説を続け、昭和三十四年六月、全国で第三位(六十万三千票)で当選を果たした。

 昭和三十六年四月、参議院議員・辻政信は、「東南アジア視察」と称して、日本を出発した。

 出発に当たって、辻は、参議院に、ベトナム、カンボジア、タイ、ラオス、ビルマ、香港視察の名目で、四十日間の請暇を届け出ている。以後、辻政信は再び日本に戻ることなく失踪した。

 なぜ、辻政信がわざわざ僧形姿で、危険いっぱいのラオス方面に潜行しなければ、ならなかったか。

 当時の池田勇人首相が、米国大統領・ジョン・F・ケネディとの会談を控えて、なまなましい「東南アジア情報」を持っていくため、その収集を辻政信に非公式に依頼したことは、当時の状況から明らかだった。

 だが、それだけの目的ならば、議員バッジをつけての「国会議員・辻政信」のほうが情報収集をするにしてはやりやすいだろうし、危険度も少ないし、効果も大である。

 辻がわざわざ僧形姿に変身し、隠密行動をとらなければならなかった切実な必然性があった。戦時中日本陸軍が現地徴発し、辻自身がハノイのある場所に埋めた金のノベ棒二十三本を掘り出しに行くことだった。

 さて、ラオス出発を前にして、辻政信は、非常に怯えていたという。その半年ほど前、辻は四人の学生を引率して、世界旅行に出た。

 辻が出発した翌朝、千歳夫人が雨戸を開けると、飼犬のシェパードの二匹が、庭いっぱいに血や汚物をまき散らして悶死していた。

 その死に様からみて毒殺に間違いなく、騒ぎを聞きつけて集まった近所の人々も同様に思った。

 辻家の飼犬が悶死したのは、そのときが最初ではなかった。一年前の四月にも、やはり飼犬のシェパードが、血へどを吐きちらして、虚空をかきむしるようにして無残な死に方をしていた。

 辻政信が戦後、次々に体験的戦記を出版し、人気作家になり、全国に、辻旋風を巻き起こし、元参謀から国会議員に変身していく過程で、脅迫や、脅しが少なくなかった。脅迫電話は日常茶飯事だった。

 学生を引率してのアフリカ旅行から帰って、飼犬二匹の悶死を知った辻は、顔色を失い、以後、一人で考えこむことが多くなり、外出も避けがちだったという。

 このような身に忍び寄る危険から逃れるために、辻はラオスに出発したとも言われている。いずれにしても、辻政信はその後消息不明となり、二度と日本の土を踏むことは無かった。

 (「辻政信陸軍大佐」は今回で終わりです。次回からは「黒島亀人海軍少将」が始まります)

359.辻政信陸軍大佐(19)あなたのように薄汚いジイさんがくると、票が減るからです

2013年02月07日 | 辻政信陸軍大佐
 終戦とともに、辻政信は戦犯の追及を逃れるため、潜伏した。戦後、潜伏から現れた辻政信は、国会議員として、政治家の道を歩んだ。

 だが、その政治の道で、大物の実力者、岸信介(きし・のぶすけ・明治二十九年山口県生まれ・東京帝国大学法学部卒・農商務省・商工省・商工省工務局長・満州国国務院実業部総務司長・総務庁次長・満州国国務院総務長官・商工次官・商工大臣・衆議院議員・戦後公職追放・自由民主党初代幹事長・外務大臣・内閣総理大臣)が、辻の前に立ちはだかった。

 辻政信と岸信介のつながりは古い。「謀略の秘図・辻政信」(牛島秀彦・毎日新聞社)によると、辻が満州で若手参謀として活躍していたころ、岸は商工省工務局長から、満州国産業部長に赴任してきた。

 その当時は二人の仲は良かったが、岸信介がA級戦犯を解かれて政界に返り咲き、瞬く間に政界復帰どころか、民主党幹事長となったころから、辻は次第に反岸になっていった。

 昭和三十年三月、辻政信は衆議院議員選挙で第三回目の当選を果たした。五十三歳だった。このときのいきさつが、「これでよいのか」(辻政信・有紀書房)に次のように記してある。

 私(辻政信)は四回の選挙で、二回は無所属であった。第三回目は民主党結成の直後であり、初めて政党の公認として鳩山総裁の下に選挙戦に臨んだが、当時の公認料は百万円を最高とし、七十万と五十万に格付けされたらしい。

 貧乏代議士は百万円だとウワサが立った。選挙に出発する前の日に、党本部に党の公認証書をもらいにいった。

 二階の室で岸幹事長に挨拶したとき、十数人の候補がつめかけていた。「明日から選挙区に帰ります」と挨拶すると、岸幹事長は証書とともに新聞紙に包まれた四角いものを無造作に渡した。

 「これが君の公認料だ」と。ひねくれ者の私には、その態度が気に入らなかった。女中にチップでも渡すような素振りである。

 持前のカンシャク玉が破裂しかかった。「おことわりします」。岸幹事長は驚いた顔で席を起った。「どうしてか。金がなくて選挙ができるか」。

 「刀を売ったり、友人の援助で六、七十万できました。それだけでやってきます」。

 「そういうなよ君、満州時代からの友人だ。公認料がいやなら、僕のポケットマネーとして受け取ってくれよ」。

 「あなたに、そんなポケットマネーがあるとは思いません。ほかの足りない同志の人にやってください。法定費用でやって来ますから」と、幹事長の好意をことわって帰った。

 議事堂内の食堂で最後の食事をしていたとき、総務会長の三木老(三木武吉)が和服姿でノッソリやってきて私の前に座られた。

 「辻君、君は公認料を辞退したそうだなあ。金がなくては選挙はできん。それをとらないなら、僕の身体をやる。君の応援に一週間行くよ」。

 真剣な表情だ。だが、二月の石川県は吹雪の最中だ。この寒さに、この老人を病気にしてはと考えて、

 「折角ですが、御免こうむります」

 「なぜか」

 「あなたのように薄汚いジイさんがくると、票が減るからです」

 「何! 票が減る!」

 さすがに古狸の眼が異様に光った。大先輩の好意を踏みにじる若輩の無礼な態度にさすがの狸爺さんも激怒したらしい。

 その時の選挙は無我夢中であった。公認料を蹴っ飛ばし、先輩の応援をはねつけて、初めから終わりまで。街頭演説も個人、立会演説もただ一人でやり抜いた。

 捨て身の戦いは予期以上の成果で報いられ、二十四、五万票の中、約八万五千票で空前の得票率を示した。

 終わって上京し、まず本部に挨拶したとき、幹事長の表情には冷たいものがあった。総務会長室で三木老に挨拶したとき、老は何もいわずに手を固く握って涙をこぼされた。

358.辻政信陸軍大佐(18)また電報が届いた。『貴官ヲ以後軍神ト称セシム』

2013年02月01日 | 辻政信陸軍大佐
 丸山氏は当時軍医中尉で、水上少将の側近だった。昆作命甲第○号のあと、戦死近しと見て、南方総軍司令官からか、あるいはもう一段上部から、暗号電報がきた。「貴官ヲ二階級特進セシム」。

 このことについて、「月白の道」(丸山豊・創言社)には次のように記してある。

 「水上大将という栄光のうしろにある、さむざむとしたものを閣下は見抜いておられた。閣下の心の底で、ある決断のオノがふり下ろされた。『妙な香典がとどきましたね』と、にっこりされた」

 「二日後に、また電報が届いた。『貴官ヲ以後軍神ト称セシム』。軍神の成立の手のうちが見えるというものである」

 「閣下はこんども微苦笑された。『へんな弔辞がとどきましたね』。名誉ですとか武人の本懐ですとかいう、しらじらしい言葉はなかった。私たちが信じてきたとおりの閣下であった」。

 以上が、丸山豊氏の回想に出てくる、水上少将の心境の描写である。ところが、「二階級特進」や「軍神ト称セシム」などの電報は、戦後の調査でも、公式記録、発信人とも不明だという。

 だが、電報の発信地がラインデンであることから、作戦参謀・辻政信大佐が勝手に打ったと見られる推論もある。ノモンハン事件で、軍司令官の名をかたり電報を打った前科があるからだ。

 昭和十九年八月四日、水上少将の状況が、「月白の道」に次のように記してある。

 「閣下がまっすぐにのびた一本の樹木を背にして、地面にケイタイ天幕をひろげ、その上にどっかと腰をおろされると、横には当番兵二名がつきそった」

 「突然銃声を聞いた。とっさには『まただれか自決したな』と気にもとめなかったが、つぎの瞬間、いまの銃声が閣下の場所だと気づいて、バネのようにカケだしていった」

 「閣下は東北方を向いてすわったまま虫の息である。起案用紙がぬれていなかったところをみると、そのときはもう雨がやんでいたのかもしれない」

 「用紙には鉛筆がきで命令がしたためられ、書判をおしておられた。『ミートキーナ守備隊ノ残存シアル将兵ハ南方ヘ転進ヲ命ズ』。

 「水上少将ハ」の電報命令を逆手にとった、水上少将の積極的な意思表示だった。日本軍には玉砕があるばかりで、最善を尽くした後、部隊が投降するというモラルは許されていなかった。

 玉砕するばかりが武人の徳ではあるまい、所詮、負けるときまった戦いなら、一死をもって、多数の将兵の生命を救う道があってもよいと考えた。かねて「雲南の乃木さん」と将兵から敬慕されていた水上少将の最後の輝きだった。

 戦後、昭和二十八年八月七日、山梨県の塩山から甲府へ向かう車中に、かつての作戦参謀である辻政信衆議院議員が乗っていた。

 同乗者の有賀茂氏(旧日川中学二十五回卒業生)の回想によると、日川高校前で、辻は「閣下は私が殺したようなものです、実に申し訳ない、私の『十五対一』で私の心を知って下さい」と言った。

 また、水上中将の生まれた塩田のを指すと、「閣下申し訳ない」と深く頭を垂れていつまでも合掌していたという。

 ところで、水上少将の次級副官・堀江屋保中尉も悲惨な運命が待ち構えていた。水上少将の遺骨とともに、軍刀、肩章、ピストルなどを八名の部下が手分けして持ち帰った。

 堀江屋中尉もその一人だった。水上少将の自決後一ヶ月、ジャングルを潜り抜け、やっと第三三軍司令部に堀江屋中尉はたどりついた。

 だが、待ち構えていた辻政信参謀は「貴様は現役将校のくせに、なぜ水上閣下のあとを追って自決しなかったのだ」と叱責され、暴力までふるわれた。

 思い余った堀江屋中尉は、その時、腹を切ろうとしたが、他の将校にさまたげられて、果たせなかった。

 辻参謀は、ミートキーナ、フーコンから脱出した兵隊を集めて、堀江屋中尉をその隊の隊長に任命し、行けば必ず死ぬと分かっている雲南の戦場へ派遣した。堀江屋中尉は昭和十九年十一月七日戦死した。

357.辻政信陸軍大佐(17)いくら階級が上だからといって、五期も先輩に対して、あれほどまでに

2013年01月25日 | 辻政信陸軍大佐
 守備隊は動揺しているようだったが、ここを過早に捨てられては、軍の任務達成は不可能になる。七月十二日、本多軍司令官は次の要旨の命令を暗号電報で下達した。

 昆作命甲第○号(昆は第三三軍の秘匿名)
「一、軍は主力をもって龍陵正面に攻撃を企図しあり。二、パーモ、ナンカン地区の防備未完なり。三、水上少将はミートキーナを死守すべし。」。

 命令は水上部隊ではなく、水上少将個人に対して死守を命じており、異例の型破りの命令であった。死守とは、死ぬまで守れということで、わずかに二文字にすぎないが、その意味するところは深刻であった。

 この命令は、作戦主任参謀・辻政信大佐が起案した。辻大佐は眼に涙をためながら電文の起案を終わると、各参謀に合議を求めた。

 みな一瞬、シューンとして厳粛な気分になり、悲壮の感に打たれた。安倍参謀が「水上少将は……」を、「水上部隊は……」と訂正しようとしたところ、辻大佐は恐い顔をして「直すな」といって、強く修正を拒んだ。

 野口省己少佐も腑に落ちなかったので、あとで辻大佐に命令の真意を質したところ、次のような説明をしてくれた。

 「ノモンハン事件の経験からも、無断で退却したり、陣地を放棄したり、落ちこぼれの将兵が出るかも知れない。ノモンハンでは、敵前逃亡の罪で断罪したが、その処置に困ったにがい経験があった」

 「精鋭をうたわれた日本軍でも、このようなのが戦場の実相だ。守備隊が最悪の事態に陥って、万一こぼれる者が出ても、命令違反となって不幸な目にあわないために、命令の形式としては異例なものであることは充分知っているが、あえてこのような型破りの命令を起案したのだ」

 「最悪の場合は、気の毒だが水上少将個人に責任をとってもらうことを覚悟している。謹厳な水上少将のことだから、軍司令官の意図を了察して、あれで十分目的を達せられるのだ」。

 守備隊が全力を尽くして敢闘し、最後の段階に達したとき、水上少将を死に追いやることになるかもしれないが、万一脱落した将兵があっても、その責任を問わない。困難な任務を達成しなければならないという苦肉の策だった。

 この命令を作戦主任参謀・辻大佐が起案中に、高級副官・上田孝中佐(陸士三一)が、辻大佐のもっとも嫌いな慰安所の配分計画を持って、合議を求めにきた。

 辻大佐はこれを一瞥すると、時が時だけによほど癪にさわたようで、「こんなものは参謀の見るものではない。少なくとも作戦参謀の見るものではない!」と怒鳴りつけて、書類を床にたたきつけた。

 上田中佐は、辻大佐のあまりの剣幕にびっくり仰天して、平身低頭して悄然として引き退っていった。野口少佐はこれを見て「あれほどまでにやらないでも……」と、辻大佐のやり方に不快の念を持ち、上田中佐が気の毒でならなかった。

 上田中佐は、階級は中佐であったが、辻大佐よりは五期も先輩である。いくら階級が上だからといって、五期も先輩に対して、あれほどまでにやらないでも……と思った。

 この型破りの命令を知って、剛直な第五六師団長・松山祐三中将(青森県出身・陸士二二)は憤慨した。松山中将は、参謀長・川道富士雄大佐(陸士三六・陸大四七)を介して、第三三軍司令部に次のように抗議してきた。

 「ミートキーナ守備隊長としての水上少将はあるが、水上少将個人はないはずだ。軍は何を血迷ってこんな任務を与えたのか」。

 水上少将は第五六師団の歩兵団長なので、松山師団長は直属の部下に対する情宜上からも、異常な軍命令には承服できなかったのである。

 しかし、水上少将は、現在は軍直属の守備隊長なので、松山師団長の抗議は筋違いとして、軍はこれを拒否した。

 水上少将からは、この命令を謹承して、ただちに次のような返電があったので、軍では命令の主旨は正しく了解されたものと信じて、ひとまず安心した。

 (1)昆作命甲第○号謹んで受領す。(2)守備隊は死力を尽くして、ミートキーナを確保す。

 当時の水上少将の心境が、「月白の道」(丸山豊・創言社)に記してある。著者の丸山豊氏は、福岡県出身。九州医学専門学校卒。久留米陸軍病院勤務を経て、南方へ軍医として出征した。戦後は、久留米市で医院を開業、詩人としても、日本現代詩の代表的な存在として知られる。第三三回西日本文化賞、先達詩人顕彰受賞。

356.辻政信陸軍大佐(16)オイ、辻、お手柔らかに頼むぞ。何しろ兵隊は気が荒んでいるからなあ…

2013年01月18日 | 辻政信陸軍大佐
 こうした人事のいたずらで、全軍でも珍しい大作戦主任参謀が出現した。辻作戦主任参謀は、指揮下の師団参謀長よりも、方面軍の課長参謀よりも先任であった。
 
 第三三軍の従来の作戦主任参謀・安倍光男少佐(陸士四四・陸大五五・中佐)は、作戦補助参謀に格下げになった。

 この変則状態は、白崎大佐が第一八師団参謀長に転出して、辻大佐がその跡を襲うまで続いた(白崎大佐の転出は昭和十九年九月一日)。

 本多軍司令官は、辻大佐の着任について戦後、次のように回想している。

 「辻大佐は昭和十五年、私が支那総軍参謀副長のとき、南京ではじめて職務上の関係がつながったわけで、その性格、技能については、約一ヵ年の交渉でほぼ承知していた」

 「その作戦技能と大胆、何物をも怖れない点においては、まさに天下の逸物と称するも過言でなく、同大佐の補職を知って、百万の増援を得た感じを持ち、充分にその敏腕を発揮させる。ただその性格上、参謀長との間を巧みにとりもつことが肝要だと思った」

 「率直に言って、同大佐が不在間は不安を隠せなかった。その後、作戦間、上級司令部の方面軍参謀も辻大佐には歯が立たず、たいがいのことは、軍の言い分が好意的に採用された」。

 辻大佐の補任について、軍司令官以上に頭を悩ましたのは、参謀長・山本清衛少将(やまもと・きよえ・高知県・陸士二八・陸大四〇・大佐・参謀本部鉄道課長・第三師団参謀長・少将・第五特設鉄道司令官・第三三軍参謀長・中将・第一五師団長)であった。

 山本参謀長は、豪放磊落、竹を割ったような男らしい性格であった。山本参謀長は殺伐な戦場の将兵の心をいやし、少しでも家庭的雰囲気を味わわせるために、戦場にも女性が必要だと考えていた。

 そのため、軍でも「黎明荘」という料亭を開設したばかりであったが、辻大佐によってこわされてはたまらないと思った。

 それというのも、辻大佐の潔癖で女嫌いは有名で、いかなる場合でも脂粉の席に出たことはなく、南京では料理屋征伐のため、焼き打ち事件まで起こしたとの噂が、ビルマの果てまで伝わっていたからである。

 山本参謀長は「辻の女嫌いは有名だが、困ったものだ。しかし、彼にも女房もいれば子供もいる。まんざら女を知らないというわけでもあるまい。俺も教育するが、諸君も彼の無粋のところを矯正してやってくれ」と、呵々大笑いしていた。

 また、辻大佐に向かって「オイ、辻、お手柔らかに頼むぞ。何しろ兵隊は気が荒んでいるからなあ……」と釘を刺していた。

 辻大佐は内剛外剛で、自己にも厳しかったが、他にも厳しかった。またまれに見る悍馬(かんば)で、自己の主張を通すためには、体をはっても敢然として上官に立ち向かった。

 辻大佐が、心底から敬服し、名将だと口にし、合格点を付けられた先輩上司は数えるぐらいしかなかった。

 「マレーの虎」とうたわれた勇将・山下奉文大将についても、辻大佐は「風体だけは大物らしく見えるが、内心は小心翼々で神経が細かった」と評して厳しい点数をつけていた。

 昭和十九年七月、北ビルマの要衝、ミートキーナ守備隊は、二ヶ月近く優勢な米国・中国の連合軍の攻撃にさらされて、孤軍奮闘中であった。

 「回想ビルマ作戦」(野口省己・光人社)によると、本多軍司令官は、ミートキーナ守備隊長、水上源蔵少将(みなかみ・げんぞう・山梨県出身・陸士二三・陸軍戸山学校・歩兵第六六連隊長・歩兵第一一〇連隊長・少将・留守第五四師団兵務部長・第五六歩兵団長・自決・中将)に対して、持久可能の見込みについて意見を求めた。

 水上少将から「二ヶ月以上の持久は可能ならん」との電報があって、大いに意を強くした。だが、その後、数日もたたないのに、「敵は真面目の攻撃を開始せり。陣地設備薄弱、弾薬、糧食も僅少にして持久困難なり」との入電があった。

 軍ではその態度の急変に驚いた。直ちに幕僚間で検討を行ったが、前電は水上少将独自の意見であり、後電は、他の幕僚の意見が加えられて変更されたものであろうと推定された。

355.辻政信陸軍大佐(15)川口元少将、辻元大佐は聴衆の前で公開討論を引き起こした

2013年01月10日 | 辻政信陸軍大佐
 ここで、初めて前述の話が辻中佐から丸山中将に伝わっていないことを川口少将は知った。

 「では、先発隊の第三大隊で夜戦をかけます」と川口少将が言うと、丸山中将は「命令は文書の通り実行せよ」と怒鳴った。

 やがて丸山中将は川口少将を改めて電話に呼び出し、「川口少将、貴官はただちに師団司令部に出頭せよ」と命令した。

 川口少将が指揮を東海林大佐に引継ぎ、丸山中将のところへ着くと、なんと解任させられていた。

 辻中佐は、この件を知ると、電話で小沼大佐を呼び出し、「川口少将が攻撃前進を拒否し、師団長は彼を解任しました」と伝えたという。

 戦後、辻大佐が日本に帰国し潜行から現れると、石川県で、川口元少将、辻元大佐は聴衆の前で公開討論を引き起こした。

 この公開討論会では、辻元大佐が「川口少将は初めから成功の見込みなしと考えてやる気がなかった、いやしくも戦場で天子様に一命を捧げる忠誠心のない者は、解任されるのが当然である」と主張した。

 川口元少将も、事実に基づいて反論したが、聴衆には辻元大佐の支持者が多く、野次と怒号が飛び交い、公開討論会は、辻元大佐の優勢に終わった。

 昭和十九年七月三日、「陸軍大佐辻政信を第三十三軍参謀に補す」との電報が、第三三軍司令部に舞い込んできた。

 「回想ビルマ作戦」(野口省己・光人社)によると、この電報は一瞬、なにかの間違いではないかと、真意のほどを疑うくらい第三三軍司令部内を驚かせた。

 定期異動の時期でもないのに、季節外れの電報だった。何事が起こったのだろうかと思った。恐らく、高級参謀白崎嘉明大佐(陸士三四・陸大四三・第一八師団参謀長)との交代であろうと想像した。

 ところが、いつまでたっても白崎大佐の転任の発令はなかったので、中間軍の小さな世帯に大物の大佐参謀が二人も揃うという変則が生まれた。

 考えたのは、軍は近く断作戦(印支ルート遮断作戦の秘匿名)の重責を担うことになったので、幕僚陣の戦力を強化するための起用であろうと考えた。

 当時は辻参謀といえば「作戦の神様」として、陸軍部内きっての戦上手の参謀として、その名を轟かせていた。

 辻政信大佐は、このようにいろいろと噂の渦巻く中を、七月十日、メイミョーの第三三軍司令部に着任した。

 後で聞いた話では、真相は辻大佐が中国の占領政策について、東條英機総理大臣と衝突し、その逆鱗にふれての懲罰人事として、戦局苛烈なビルマに飛ばされたとのことで、とんだハプニングだった。

 二人の大物の大佐参謀を抱えて、軍司令官・本多政材中将(ほんだ・まさき・長野県・陸士二二・陸大二九・フランス駐在・中将・支那派遣軍総参謀副長・第八師団長・機甲本部長・第二〇軍司令官・第三三軍司令官)はその処遇に迷った。

 辻政信大佐(陸士三六首席・陸大四三恩賜)は、さきのマレー作戦で第二十五軍作戦主任参謀、大本営作戦班長、支那総軍課長参謀を歴任している。

 白崎嘉明大佐(陸士三四・陸大四三)は、辻大佐より二期先輩で先任でもあり、立派に高級参謀の職を果たしつつあった。小世帯の軍司令部では、高級参謀を二人おくこともできなかった。

 本多軍司令官はやむなく、「辻君は、中佐参謀になったつもりで、作戦主任参謀として働いてもらいたい」と、辻大佐に申し渡した。

 これでは、二段階以上の格下げとなった。いうなれば、大会社の本社の課長から、新設の田舎の支店の係長か、平社員に飛ばされたようなものだった。

 だが、辻大佐は、東條人事の厳しさが骨身にこたえたようで、「よろこんでお受けいたします。死力を尽くして頑張ります」と神妙な顔で答えていた。

354.辻政信陸軍大佐(14)『戦争は全くおもしろくなって来ましたね』と言って高笑いした

2013年01月03日 | 辻政信陸軍大佐
 以上「ガダルカナル」の文中に「K少将」とあるのは、川口少将のことだ。一方、川口少将の手記「真書ガダルカナル」にはこの事件について、次のように記してある。まず、田村大隊の件について。

 「辻手記はこの際支隊長たる私が自ら陣頭に立って田村大隊の戦果を拡大すべきだったとしているが、遺憾ながら田村大隊のこの情況は大隊が帰ってから後、初めて聞いたことである。仮に適時に聞いていたとしても前記の様に、私は一兵の予備隊も持っていなかったのである」。

 以上川口少将の記事が、ごまかしや言い訳でないことは、当時の状況が明らかになっている今日、はっきりしている。次に「単身、ラポールに戦況報告に帰還した」ことについては、川口少将は次のように述べている。

 「軍司令官からは、私が舟艇機動に付屢々(しばしば)意見具申したこと、マタニコウ川左岸に移って以来作戦上に関する意見の相違等に付き、大層御不興を蒙った。然し之は国家の為を思えばこそ、自己の所信を開陳したのだから致し方ない」

 「私は次の作戦には十分糧食、弾薬を用意すること、之が為には前の様に急がれずに、やって貰いたい。十一月三日明治節を目途にして攻撃開始されたい。又地図がなくて困ったから、航空写真をとり戦場付近のものを相当数下付せられたいと御願いした」

 「又々辻手記で恐れ入るが、彼の手記によると私のラバウル行きを、何か勝手に来て、弱音を吐いた様に書いてあるが、それは前記の通り、軍命令に依って招致されたことを付記しておく」。

 次に、ヘンダーソン米軍飛行場の奪回作戦のことについて、「辻政信・その人間像と行方」(堀江芳孝・恒文社)によると、戦後、川口元少将は、中村明人元中将と著者、堀江芳孝元少佐の二人に次のように語った。

 「丸山中将隷下での兵力は、右翼隊が川口少将の指揮する部隊、左翼隊は那須少将の指揮する部隊で、その下に若松の歩兵第二九連隊があり、古宮大佐が連隊長だった」

 「部隊が前進を始めて間もなく、川口は偶然辻に会った。『ああ辻君に会えてよかった。小沼の計画はうまくいかないぞ、オレの右翼隊は九月にオレがやった場所と殆ど同じ場所で攻撃することになる。山がけわしくて正面攻撃に向かないよ。海軍が撮った航空写真を君は見たかね。米軍の最近の防備強化はすごいぞ。正面攻撃は無理だ。オレは東側面から敵の背後に迂回したい。その付近の地形は自分が見てよく知っている。山がなだらかで、行動が容易だ。那須部隊が計画通り攻撃すれば、ちょうど米軍をハサミ撃ちすることができる』と言った」

 「すると辻は『写真を見る必要はありません。私も地形をよく知っており、閣下の提案に全面的に同意します』と答えた」

 「川口が『私が師団長のところに具申に行きたい』と言うと、辻は『その必要はありません。私から直接丸山閣下に説明しましょう。武運を祈ります』と言い辻は手を差し出した」

 「そして『戦争は全くおもしろくなって来ましたね』と言って高笑いした。あとで分かったことだが、辻はこの件を丸山中将に一言半句も伝えていなかった」

 以上の話は、筆者の堀江芳孝元少佐が、新橋の森ビルにある中村明人元中将(なかむら・あけと・愛知県出身・陸士二二・陸大三四恩賜・大佐・人事局恩賞課長・少将・第三軍参謀長・軍務局長・兵務局長・中将・第五師団長・憲兵司令官・タイ駐屯軍司令官・第一八方面軍司令官・戦後日南産業社長)が社長をしている日南産業での昼食で川口清健元少将から直接聞いたものだった。

 川口元少将は昼食をそっちのけで、当時の回顧談を溢れる涙を払いながら語った。「私は辻にやられました」と言った。

 中村元中将も「辻というのはそんな男だ」と言って、もらい泣きしていた。川口元少将によると、解任のときの状況は次のようなものだった。

 豪雨に見舞われ、丸山中将の指揮する部隊は前進が遅れた。そこで総攻撃が一日延期された。十月二十三日朝、態勢が整わないので三度攻撃の延期を決定し、翌日の夜半に攻撃を開始することに決した。

 川口少将は二十三日昼過ぎにこの命令を受け取った。しかし、攻撃発起点まで一日半以上もの距離が残っていた。

 川口少将は丸山中将に緊急電話で「攻撃に間に合いません」と報告した。丸山中将は「これ以上遅らせるわけにはいかぬ」と答えた。

353.辻政信陸軍大佐(13)遂に温容慈顔の丸山師団長も堪忍袋の緒を切った

2012年12月27日 | 辻政信陸軍大佐
 「翌朝、山下軍司令官に、辻を第二五軍から追放すべき旨申告したところ握りつぶしてしまった。永田さんが相沢中佐に殺害されたとき、相沢君よくやったと肩をたたいた山下も山下だ」

 「その後二日間、辻は司令官や幕僚と食を共にすることをこばんだのである。中央の言うことを聞かず満州で勝手なことをやった石原、その子分の辻、ああ陸軍は亡びるほかないよ」。

 謹厳温厚な秀才、鈴木中将が、青二才の筆者(堀江少佐)に訴えるやに見えた。「大体軍人は政治に干与すべきではないのだ。これに干与すること自体、当然職を辞めなければならないはずだ」とも言った。

 昭和十九年六月、海軍省・海上護衛隊参謀であった堀江少佐は第三一軍参謀に転勤命課を受け、鈴木中将は第三五軍司令官に親補され、二人は参謀本部の一室で別れの瞬間を迎えた。

 そのとき、鈴木中将は、堀江少佐に次のように言って、大きな涙をその温顔からポロリと落とした。

 「戦況がここまで来た以上、お互いに生死は不明であり、国家の存亡も不明である。君が万一生き残ったら、今村(均)大将(陸士一九・陸大二七首席)と阿南(惟幾)大将(陸士一八・陸大三〇)、それに陸軍省の軍事課長・西浦(進)大佐(陸士三四恩賜・陸大四二首席)にこの鈴木がよろしくという言葉を残して行ったと伝えてくれ」。 

 終戦後、堀江少佐は鈴木中将の伝言を、今村大将と西浦大佐に伝えたところ、「ああ立派な人だった。軍内があのような本当の軍人を亀鑑として互いに身を持すれば軍紀の紊乱はなかったであろう」と聖将の在りし日を語った。阿南大将は終戦時自決したため、伝言を伝えることができなかった。

 昭和十七年三月、辻政信中佐は参謀本部作戦班長に就任した。その後、七月、辻中佐は南方戦線に出張、ガダルカナル島争奪戦に参戦し、作戦指導を行った。

 昭和十七年十月二十二日夜、丸山政男中将(長野県出身・陸士23・陸大31・参謀本部欧米課長・少将・歩兵第六旅団長・中将・第二師団長・予備役)がひきいる第二師団と川口支隊は、ガダルカナルのヘンダーソン米軍飛行場攻撃のため、オーステン山の南側から総攻撃をかけることになった。

 この作戦は、師団参謀長・小沼治夫大佐(陸士三二・陸大四三・少将・東部軍参謀副長)が主導して立案した作戦だった。

 右翼隊が川口清健少将(かわぐち・きよたけ・高知県・陸士二六・陸大三四・陸軍省副官・大佐・中部軍参謀・少将・歩兵第三五旅団長・予備役・招集・対馬要塞司令官)率いる川口支隊だった。ヘンダーソン米軍飛行場の奪回をめざし、第二師団と川口支隊は南方ジャングルを進撃した。

 「参謀辻政信・伝奇」(田々宮英太郎・芙蓉書房)によると、このときの状況を、辻政信は「ガダルカナル」(辻政信・養徳社)に、次のように記している。

 「いよいよ、二十二日夜半を期して、夜襲する命令が伝えられた。分解して、肩に担いで来た連隊砲も漸く第一線に据え付け、夜襲に協力させる準備が整えられる」

 「午後三時頃になって突然、K少将から電話がかかった。曰く、『第一線の攻撃準備不十分で今夜は到底夜襲出来ません、明日に延ばして下さい』と、二十一日の予定を延期したのもK少将の意見であった」

 「既に全師団に下し終わった今夜の夜襲を、その直前にまたもや出来ないと、半ば脅迫的な電話である。温良な師団参謀長・玉置温和大佐の声が、さすがに怒りを帯び、電話機を握る右手がブルブル慄えている」

 「側で聞いていた丸山師団長は、白髪を逆立てるかのように、自ら参謀長に代わった。『K少将は、今直ちに師団司令部に出頭せよ。自今右翼隊の指揮は東海林大佐に譲れ』。遂に温容慈顔の丸山師団長も堪忍袋の緒を切ったのである」

 「田村大隊が第一回総攻撃のとき、深く敵陣地に斬り込み、正に飛行場全部を占領しようとしたとき、支隊主力を以って、之を支援しないでジャングル内に時機を失い、部下をガ島に置き去りにして、単身、ラポールに戦況報告に帰還した等々、師団長も軍司令官も誰一人この少将に対し信頼感を持つ者はなかった」

 「本来ならば当然、軍職を去らせられたであろうが、せめて、この機会にもう一度、雪辱の戦いをさせよう、との軍司令官の暖かい心から、態々丸山師団長の指揮に入らせたのであった」

 「腐木は遂に腐木である。指揮権を、敵前で剥奪された少将は、その後師団司令部でも誰一人相手にするものもなく、ジャングル内で孤独を楽しんでいた」

352.辻政信陸軍大佐(12)作戦参謀が死線から帰って報告するのにパジャマ姿とは何ですか

2012年12月21日 | 辻政信陸軍大佐
 辻中佐の意見をとりあげた第五師団長・松井太久郎中将(陸士二二・陸大二九・満州国軍最高軍事顧問・中将・第五師団長・南京政府最高軍事顧問・支那派遣軍総参謀長・第一三軍司令官)は、師団参謀に、約百キロ後方のタイピンにいる第二五軍司令部に電話をかけさした。

 だが、第二五軍高級参謀・池谷半二郎大佐(陸士三三恩賜・陸大四一恩賜・第二五軍作戦課長・整備局交通課長・第一方面軍高級参謀・第三軍参謀長・少将)は「第五師団は、万難を拝して海上機動を続行し、渡辺支隊を、敵後方のクワラセランゴール方面に進出せしめよ」という趣旨の軍命令を伝えた。

 「百キロも後方で屠蘇を飲んでいて、第一線の状況がわかっておらん」とカチンときた辻中佐は、自分で第二五軍参謀長・鈴木宗作中将(陸士二四恩賜・陸大三一首席・参謀本部第三部長・中将・第二五軍参謀長・運輸本部長兼船舶司令官・第三五軍司令官・戦死・大将)に電話をかけ、渡辺支隊の陸上転用をつよく要求した。

 だが、鈴木中将は応じなかった。これでは松井師団長や幕僚に対して辻中佐の面目丸つぶれである。業を煮やした辻中佐は「作戦主任としてご信用にならないなら、今すぐ辞めさせて下さい」と、反抗した。

 温厚な鈴木中将は、穏やかにたしなめたが、辻中佐は承知しなかった。結局「軍命令は変更しない」という鈴木中将の結論で電話は切られた。

 辻中佐は怒り心頭に達し、タイピンへ自動車を飛ばした。一月二日午前二時過ぎ、第二五軍司令部に着いた。

 ただちに全幕僚が参謀長室に集まり、辻中佐の意見を聞くことになった。だが、並み居る幕僚のうち、一人として辻中佐の意見に賛成する者はいなかった。

 辻中佐は、たまりかねて「作戦主任を辞めさせてもらいたい」と申し出た。それでも主張は通らなかった。

 不貞腐れた辻中佐はそれから三日間仕事をしなかった。だが、辻中佐が、気に病んだカンパルの英軍も翌一月二日に陥落した。

 鈴木中将や池谷大佐から話を聞いた、山下奉文軍司令官は、一月三日の日記に次のように記している。

 「辻中佐(政信・参謀)第一線より帰り私見を述べ、色々の言ありしという。此男、矢張り我意強く、小才に長じ、所謂こすき男にして国家の大をなすに足らざる小人なり。使用上注意すべき男也。小才者多く、がっちりしたる人物乏しきに至りたるはまた教育の罪なり。特に陸軍の教育には、表面上端正なる者を用いて小才を愛するゆえに、年とともにこの種の男増加するには困りたるものなり」。

 「辻政信・その人間像と行方」(堀江芳孝・恒文社)によると、このマレー作戦における辻政信中佐の「作戦主任を辞めさせてもらいたい」事件について、鈴木宗作元中将の回想が記されている。

 著者の堀江芳孝氏(陸士四八・陸大五六)は、昭和十七年陸大を卒業し、昭和十八年元旦から広島市宇品の船舶司令部勤務となり、陸軍船二三〇万トンの運航主任参謀の職に就いた。

 昭和十八年三月船舶司令部に新司令官として鈴木宗作中将が着任した。鈴木中将は堀江少佐と同期生が娘婿だった。

 その由で、鈴木中将は毎晩堀江少佐を極めて親しみを以って指導し、夜は共に夕食をして、夜遅くまで陸軍部内の話をした。

 その陸軍部内の話で、鈴木中将は、「陸軍の軍紀の頽廃と紊乱(びんらん)の元兇は下克上の本山石原莞爾と辻政信だ」と断じた。

 「彼らをのさばらして置く限り、陸軍は滅亡する他に道はない」とも言った。

 例えばマレーで、辻は第一線に出て行って、自ら小部隊を指揮したり、これこれの軍命令を出して欲しいと要求してくる。その時のことを鈴木中将は次のように堀江少佐に語った。

 「ある時、参謀長として辻が希望してきた命令案を否認したところ、真夜中に僕を叩き起こした。パジャマ姿で出たところ、作戦参謀が死線から帰って報告するのにパジャマ姿とは何ですか。軍服に着換えて報告を受けるのが上官たる軍人の当然の姿ではありませんかと喰ってかかる」

 「同僚じゃないか、服装などどうでもいいじゃないかと言ったところ、この辻を辞めさせて下さいと意気まく」

351.辻政信陸軍大佐(11)君と辻君が一緒になったら、またノモンハンみたいなことをやる。だめだ

2012年12月13日 | 辻政信陸軍大佐
 引き続き土居明夫中将が、死の直前に書き残したメモは次の通り。

 「一度は余を慰留したが、余は自ら自宅に引きこもり出動せず。余が出た後、服部はすぐ辻を補充して南方作戦一色となった」

 「支那総軍付から台湾軍まで南方作戦を研究中であった。これで日本の方向は決した」。

 以上が、土居明夫元中将の回想だが、服部作戦班長がなぜ土居作戦課長に嫌がらせをしたのか。さらに突っ込んだ土居明夫元中将の回想が、子息に語ったテープに次のように吹き込まれていた。

 「俺が作戦課長のときに服部が来て、辻を作戦課に呼びたいといってきたんだ。俺は絶対にいかんといったんだ。『君と辻君が一緒になったら、またノモンハンみたいなことをやる。だめだ』とね」

 「ところが服部らは俺を追い出す運動をやったんだ。服部や辻は気脈を通じていて、ノモンハンの責任も取らずに、逆にその責任を云々する俺を追い出しにかかった」

 「俺は自ら第一線転属を願い出て、牡丹江に出たが、そしたら服部はすぐに辻を呼んで二人のコンビで南方作戦をやったんだ」

 「我々みたいに外国に居った者とちがって、彼らは参謀本部、陸軍省、支那派遣軍、関東軍などに根をはっていて、同志で気脈を通じ、全体の空気を作っていくんだ。俺としてはこの壁をやぶれなかった」。

 つまり、土居課長の追い出しは、辻引き入れのための服部工作だったということになる。作戦部長の田中少将は、服部と同じ仙台地方幼年学校の先輩であり、武断派であることも共通しており、使いやすさにおいても、田中部長が服部を選んだといえる。

 昭和十六年十二月、辻政信中佐は、第二十五軍作戦主任参謀としてマレー、シンガポール攻略戦に参加した。

 「悪魔的作戦参謀・辻政信」(生出寿・光人社NF文庫)によると、昭和十七年一月一日、河村部隊の歩兵第四十一連隊第二大隊第七中隊は、カンパルへゆく山の西麓ちかくで、信岡大尉を中心にして、後方の予備隊の手で届けられた正月の餅を、一人一個ずつ、食べていた。

 だが、その餅を食い終わった瞬間、敵の砲弾が炸裂して、信岡中隊長以下、数人が戦死してしまった。

 隊員たちは深い悲嘆に沈んだが、第二小隊長・上部少尉が指揮して、全員が一人用のタコツボを掘って入り、射撃を再開した。

 そのとき、戦闘帽をかぶり、無精ヒゲを生やし、丸い黒枠のメガネをかけた作戦主任参謀・辻政信中佐がたけだけしい狼のように平然と歩いて来て、怒鳴った。

 「なにをぼやぼやしとる、そんなことで、中隊長の弔い合戦ができるか」

 みんなタコツボの中に入り込んで首をすくめているのに、辻中佐は敵弾が飛んでくる方に背を向けて立ち、「勇敢な兵隊にはチョコレートをやる。取りに来い」と言った。

 何人かがタコツボを出て、辻中佐のところへゆき、チョコレートをもらった。その一人の樽田篤麿上等兵は辻中佐からするどく聞かれた。「小隊長はどこにいるか」。

 樽田上等兵が「あそこにおられます」と、五、六メートル先のタコツボを指すと、辻中佐は「ああ、この小隊長はだめだ。おまえが、小隊長をやれ」と、聞こえよがしの大声を出した。

 たまげた小隊長は、軍刀を抜いて立ち上がり、「突撃」と号令をかけて飛び出し、全員それに続いた。

 辻中佐は、中隊長が戦死して闘志を失った隊員たちに気合をかけ、立ち直らせようとしたのだろう。だが、これは越権的行為だった。

 一月一日、日本軍はカンバルの英軍を攻撃するために、カンバル東側の山地に踏み入った。だが、戦車は小川の橋が爆破されて進めなくなり、歩兵部隊の将兵は、疲労と英軍火砲の猛射で動けず、そのまま夜となった。

 後方のゴム林内の第五師団司令部に戻った作戦主任参謀・辻中佐は、海上機動部隊の渡辺支隊(歩兵第一一連隊主力ほか)が、今朝、英軍機に襲撃され、メリンタムに退避したことを知った。

 「このさい、渡辺支隊を陸上に戻してテロクアンソンに向かわせ、近衛師団の吉田支隊とともに、カンパルの英軍の退路を遮断させるべきだ」と辻中佐は判断した。