陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

240.山下奉文陸軍大将(20)「将軍はなぜハラキリをしないのか」

2010年10月29日 | 山下奉文陸軍大将
 昭和二十年八月十五日、終戦を迎え、九月二日、山下大将は山を降りて、キャンガンに向った。降伏調印式は、九月三日、バギオの高等弁務官別荘で行われた。

 九月三日午前九時三十分、山下大将は武藤参謀長、海軍側の南西方面艦隊司令官・大川内傳七中将(海兵三七・海大二〇)と参謀長・有馬馨少将(海兵四二・海大二五)とともに席に着いた。

 だが、入ってきた連合国軍側の一人を見て眼をみはった。シンガポール攻略戦で、降伏したパーシバル中将がいた。

 パーシバル中将は捕虜として日本にいるはずである。戦争終結により釈放されたのであろうが、フィリピン戦線の降伏調印式に出席するのは場違いである。山下大将は驚き、隣に座る武藤参謀長も肩をそびやかせた。

 パーシバル中将はジョナサン・ウェインライト中将(バターン半島コレヒドール要塞の米軍指揮官)とともに、マッカーサー元帥により、東京湾での降伏調印式に招かれ参列した。そのあと、やはりマッカーサー元帥の計らいでバギオの降伏調印式に招かれたのだ。

 そのときの感想を後にパーシバル中将は次のように書き残している。

 「山下が部屋に入ってきた時、私は、彼の一方の眉が上がり、そして驚きの表情がその顔をかすめたのを見た。しかし、それはほんの一瞬だった」

 「彼の顔はすぐ、全ての日本人に特有な、あのスフィンクスのような、謎の表情に再び戻った。そして彼はそれ以上、何らの関心も示さなかった」

 山下大将は降伏調印後マニラ南方三十マイル、リサール県モンテルパ町にあるニュー・ビリビッド刑務所に捕虜として収容された。

 そこには、すでに十人以上の将官が分住していた。二、三人ずつの同居形式だが、山下大将は個室をあてがわれた。待遇はよかった。廊下伝いに並ぶ他の将官室との往来も自由だった。

 だが、様子がおかしい。パーシバル中将の存在は山下大将に衝撃を与えた。パーシバル中将はマッカーサー元帥の特命で、終戦直後に捕虜収容所からフィリピンに送られたのだった。

 だが、フィリピン戦の降伏調印式出席には、パーシバル中将は何の関係もない。理由があるとすればただひとつ・・・・・・かつての敗将の前に頭を下げさせる、という露骨な報復意識意外には無い。

 屈辱の念が山下大将を襲った。それがいかに激しく、耐え難く感じられたか。「私はあのとき、自決をしようとさえ思った」と、山下大将は後に処刑の直前、森田教戒師に述懐している。

 ある日、アメリカの記者が山下大将に質問した。「将軍はなぜハラキリをしないのか」。後にアメリカ人弁護人の一人も東條英機大将の自決未遂に関連して、同様な疑問を表明した。

 山下大将は「陛下は自決せよとはご命令になっていない」と答え、東條大将については、「責任を回避しようとしたのであり、不忠と思う」と、語気鋭く、キッパリと述べた。

 昭和二十年九月二十五日、山下大将は戦犯として裁判にかけられる旨の通告を受けた。起訴状には次のように述べられていた。

 「日本帝国陸軍大将山下奉文は、一九四四年十月九日より一九四五年九月二日の間、マニラおよびフィリピン群島の他の場所において、米国およびその同盟国と戦う日本軍司令官として、米国民およびその同盟国民と属領市民とくにフィリピン市民にたいする部下の野蛮な残虐行為とその他の重大犯罪を許し、指揮官として部下の行動を統制する義務を不法に無視し、且つ実行を怠った。ゆえに彼、山下奉文は戦争法規に違反した」

 十月八日、マニラ市の高等弁務官邸ホールで、軍事裁判の第一回公判が開かれた。その後公判は進み、十二月八日午後二時、山下大将に「絞首刑」の判決言い渡しが行われた。わずか十五分だった。

 「絞首刑」の判決が言い渡されたとき、山下大将ははっきり聞き取れなかった様子で、左横の浜本通訳に首を傾けて、「なに」と聞いた。

 浜本通訳が小声で「首をくくるんですよ」と言うと、山下大将は「お、そうか」とうなずき、武藤参謀長、宇都宮参謀副長とともに法廷を去った。

 昭和二十一年二月二十二日午後十一時、山下大将は収容所テントから自動車でマニラ郊外ロス・パニョスの処刑場に送られた。処刑の宣告を受けたのは、ほかに太田清一憲兵大佐、東地通訳の二人だった。

 二月二十三日午前三時二分、山下大将の絞首刑は実行された。絶命は午前三時二十七分と記録されている。享年六十歳だった。山下久子夫人が山下大将の正式死亡通知を受け取ったのは、さらにその三ヵ月後だった。

 いわば、山下大将の歩みには、つねに得意と失意が絡み合い、得意においても失意においても、山下大将の胸中には不本意の想いがよどみ、忍苦の歯がみが消えなかった。

 だが、持ち前の細心さと豪気に支えられ、時に応じての諦観がなかったら、その経歴はもっと早く断絶していたかもしれない。

(「山下奉文陸軍大将」は今回で終わりです。次回からは「山口多聞海軍中将」が始まります)

239.山下奉文陸軍大将(19) 少将と知って、バカヤロウと叫ぶのは誰か

2010年10月22日 | 山下奉文陸軍大将
 山下大将が配備したクラークフィールド飛行場を守る塚田理喜智中将(陸士二八・陸大三六)が指揮する建武集団も、一月末には崩壊した。二月に入ると積極的攻撃はできなくて、もっぱら防戦に苦慮する状況になった。

 バギオもすでに三度の大空襲を受け、山下大将は山腹の防空壕に移った。山下大将はこの頃、本来の持久構想に戻り、作戦の指導は武藤参謀長にゆだねていた。

 山下大将は率先して対空警戒に注意を払った。防空壕の偽装でも、入口のまわりに松葉をちりばめている曹長達に、「おい、その枝はこっち・・・・・・いかん、いかん。その枝の置き方は不自然だ」などと、細かい指示をした。

 西村敏雄少将(陸士三二・陸大四一恩賜)の内地転任のあとをうけ、駐フィリピン大使館武官兼参謀副長に任命された宇都宮直賢少将(陸士三二・陸大四二)は「大将の仕事じゃない。せいぜい大尉参謀の仕事ですよ。閣下はもっと野放図な方と想像していただけに、細心ぶりは意外でした」と後に述べている。

 ある日、午前五時頃、宇都宮少将が宿舎から司令部に向おうとしたときである。敵機は早くても午前八時頃、朝食後に飛来するのが慣例だったので、宇都宮少将はまだうす暗い焼け跡を安心して歩いていた。

 ものの二百メートルも来たかと思うと、前方に怒声がとどろいた。「そこへ行くのは誰だ、バカヤロウッ」。夜明け前とはいえ、人影の見分けはつくし、軍人なら宇都宮少将を知らぬはずはない。では、少将と知って、バカヤロウと叫ぶのは誰か。

 山下大将だった。豪の入口に立って、「豪の近くをうろうろしては敵機に発見される。キミみたいな立場の者が模範を示さにゃいかんじゃないか」と言った。

 宇都宮少将は「こんなに朝早くは来ませんよ」と言おうと思ったが、山下大将がすごい剣幕だったので、「どうも失礼しました」と言って副官と一緒に道端の垣根の横を腰をかがめて通った。

 戦後に、宇都宮少将は東京に設立された米軍日本地区語学校の教官になったが、学生の一人、ウオーカー少佐が、「戦時中バギオの山下司令部の爆撃を命じられて、毎日上空を飛んだが、遂に発見できなかった」と述懐した。

 宇都宮少将は「なるほど、あれを大尉参謀ぐらいがやっていたら、やはり大尉だけにどこかに手抜かりがあったかもしれない。山下大将が、おやりになってこそだ」と述べた。

 昭和二十年四月十六日、山下大将は、バギオを撤退して、バンバンの戦闘司令所に司令部を移すことに決め、自動車でバギオを離れた。

 バンバンは標高四百メートルの高地で、ジャングルを分け入ったマンゴー林のニッパ・ハウスが点々と並んでいるのが、バンバン戦闘司令所だった。

 上陸したアメリカ軍は、ルソン島のジャングル地帯に対しての攻撃は困難を極めた。進攻進度も停滞していた。

 攻撃してきたアメリカ第三十二師団長のW・ギル少将は「水不足、暑さ、ほこりという三重苦のうえに、洞穴から洞穴、タコ壺からタコ壺に飛び移って攻撃するという日本軍という最大の苦難に直面し、わが軍の前進は文字通りインチ単位のものでしかなかった」と回想している。

 一方、日本軍のバンバン戦闘司令所の責任者は小沼治夫少将(陸士三二・陸大四三)だった。小沼少将は、カガヤン河谷に集まる部隊を新編成しては前線に送り、敵の攻撃に対処した。

 おかげで、直接には、山下大将も武藤参謀長も、なにもすることがなかった。報告を聞くだけだが、その報告は、降雨による相次ぐ橋の流失か、でなければ、次々の陣地の失陥だった。

 五月八日、山下大将は全軍に「一致団結して、凱歌を奉せん」という趣旨の訓示を布告した。だが、各部隊は分散しており、連絡もとぎれがちになっていた。

 山下大将は、雨のふきこみを防ぐためにニッパ屋根の端を長くたらした薄暗い室内に黙居し、ぐらつくテーブルにとまるハエをハエたたきでたたいては、無聊をまぎらした。

 山下大将は、ハエたたきは常に離さず、報告に訪れる参謀に止まっていれば、顔、手をかまわず、無言でピシリとたたいた。

 「老将の蝿叩きをり卓ひとつ」と武藤参謀長が一句を献ずると、山下大将は「発句か」と無愛想に論評した。

 「とんでもない、俳句ですよ」と、大将のハエたたきと同様、芭蕉句集を座右から離さない武藤参謀長は憤然と言い、俳学の薀蓄を傾けて発句にあらざる所以を解説した。

 だが山下大将は「だが、ここには老将はおらんよ」とぷすりと言った。武藤参謀長は「私はあきれた。まだ老将ではないらしい」と記しているが、当時、山下大将は五十九歳。武藤参謀長は五十二歳だった。

 山下大将は読書もほとんどせず、まれに読めば講談本くらいだったという。ただ軍務一点張りで、他に趣味も無ければ道楽もない山下大将は、フィリピンの山中にあって、とくにバギオが陥落してからは敗報を聞くだけで何もすることがなかった。そんなとき、空襲の合間に小川の流や、野花の美しさをぼんやり眺めて、少年時代を懐かしんだという。

 苦戦していたアメリカ軍は、それでもルソン島の日本軍の重要拠点はほとんど占領した。米軍第三十七師団がバレテ峠からまっしぐらにバンバンに迫ってきた。山下大将は司令部移転を決定し、先行してキャンガンに向った。

 昭和二十年六月五日、宇都宮参謀副長ら第十四方面軍司令部要員は、山下大将の後を追って、バンバンを脱出して、キャンガンに向った。

 軍司令部要員がキャンガンに到着したのは一ヵ月後の七月五日だった。だが、キャンガンもアメリカ軍の攻撃が迫り、山下大将は次の軍司令部用地に向けて出発していた。

 山下大将が、ハバンガンからアシン河の渓谷を上下し、標高千五百メートルの断崖中腹に設けられた新司令部に到着したのは七月十二日だった。

 アメリカ軍のマッカーサー元帥はすでに、六月二十八日、ルソン島主作戦終了の声明を発表していた。

238.山下奉文陸軍大将(18) 一体何人殺せば作戦課は気が済むのか

2010年10月15日 | 山下奉文陸軍大将
 山下大将は、相手の航空兵力が何の損害を受けていないのに、決戦場をレイテ島に移すのは危険であり、ただ兵力を増派して勝利が得られると考えるのは甘い。また、それによる兵力の分散は、その後の戦力の衰退に陥ると考えた。

 そこで、命令を確認するため、武藤章参謀長(陸士二五・陸大三二恩賜)の提案で、参謀副長・西村敏雄少将(陸士三二・陸大四一首席)が、樺沢副官と共に南方総軍司令部に向かった。

 総軍司令部では、西村少将が寺内軍司令官に面会した。樺沢副官が、部屋の外で待っていると、寺内閣下の気に障ったとみえ、次第に声が高くなって、「とにかく、やれといったら、やれ」と言う、寺内閣下の声が聞こえてきた。結局、寺内元帥は山下大将の主張を突っぱねた。

 仕方なく山下大将はレイテ決戦に挑んだが、十月二十四日、二十五日のレイテ沖海戦でも海軍の連合艦隊は大損害を受けた。レイテ島では陸軍の第三十五軍も多大な損害を出した。

 山下大将は十一月九日、武藤章参謀長を南方総軍に派遣して、レイテ作戦の中止を進言させた。

 ところが、南方総軍はなお決戦続行の支持で応え、十一月十七日、サイゴンに司令部を移転した。だが、十二月十五日、ルソン島南部に隣接するミンドロ島サンホセに米軍が上陸してきた。

 この時点で、山下大将は、第三十五軍司令官・鈴木宗作中将(陸士二四・陸大三一恩賜)に対し、レイテ作戦中止と、第三十五軍のレイテ島撤退を許可する命令を出した。

 昭和十九年十一月下旬、第十四方面軍司令部の移転先として、武藤参謀長がルソン島西部の避暑地、バギオを選定し、同地区の守備隊に内示して準備を命じた。

 昭和十九年十二月三十一日、イポの戦闘司令所に山下大将と幕僚は陣取っていた。「大本営参謀の情報戦記」(堀栄三・文春文庫)によると、戦闘司令所の一隅の机をはさんで、年取った大尉が同僚数人と大声で話し合っていた。

 山下大将の司令部で情報主任参謀の職務をしていた堀栄三少佐(陸士四六・陸大五六)の耳にも、彼らの話が聞こえてきた。それは退職してからの恩給やら、退職金の額のことで、算盤をはじいて話しに花を咲かせていた。

 その声が少々大きいのと、戦場にふさわしい話とは受け取れなかったので、堀少佐は堪らなくなって、「おい、ここは戦場だぞ!」と怒鳴った。

 話は止んだ。山下大将は司令部の片隅の机から見ていたようだった。山下大将はしばらくして堀少佐を呼んだ。そして次の様に言った。

 「堀よ、お前はまだ若いから、ああいう話は承知ならんようだが、あの人たちには大事なことなのだ。怒ってはいけない。いまにお前にも判る時期が来る。それにあの人たちの中には赤紙一枚でもう何年も召集されている者もいるのだ。赤紙一枚で戦略の失敗の犠牲になっていった人が何百万といる」。

 山下大将は周囲に聞こえないように、静かにやわらかく、大将の机の端に手をついて耳を寄せるように聞いていた堀少佐の手の上に、山下大将は大きな手を重ねて、「わかったな」という目をした。

 昭和二十年元旦、山下大将は戦闘司令所の部下と共に、ダムの水煙をこえて、はるかに皇居にむかって遥拝した。部下たちが頭を上げても、山下大将はまだ頭を下げていた。

 一月二日、山下大将の第十四方面軍司令部は、桜兵営に戻り、一泊の後、バギオに向った。大本営も南方総軍も去った。もう誰も助けてくれない。

 「方面軍、大本営に殉ず」。武藤章参謀長はこう述べた。武藤参謀長は山下大将とともに当初のルソン決戦を主張し、レイテ決戦には始終反対だった。誤った戦略への批判を、そう表現したのである。

 武藤参謀長は無謀極まる捷一号作戦とレイテ決戦を計画指導した連中を名指して、「一体何人殺せば作戦課は気が済むのか」とも非難して激怒していた。第二十六師団がレイテ上陸に失敗して多数の海没者を出したことである。

 一月九日、米軍は二千百隻の上陸用舟艇をつらねてリンガエン湾に来攻した。二十万三千人の大部隊だった。

 山下大将はリンガエン地区を守備している師団長・西山福太郎中将(陸士二四・陸大三七)が指揮する第二十三師団と旅団長・佐藤文蔵少将(陸士二四)が指揮する独立第五十八旅団に攻撃を命じた。

 だが、砲爆撃の傘の下を進む米軍に対して反撃は困難だった。師団長・岩仲義治中将(陸士二六・陸大三七)の指揮する戦車第二師団隷下の第三旅団長・重見伊三雄少将(陸士二七)が連隊長・前田孝夫中佐の指揮する戦車第七連隊の一部を派遣して、一月十六日と十七日に攻撃を行った。

 だが、その結果は、日本軍が戦車九輛、人員二百五十人を失ったのに比べ、アメリカ軍の損害は、死傷八十五人、トラック三台にとどまった。

 その後も山下大将は、さらなる反撃を命令した。だが重戦車と火砲を揃えている米軍の攻撃に、防御がやっとだった。保有戦車の大部分を地中に半没して砲台化した戦車旅団も、ゲリラの通報により正確な空爆を受けた。

 その結果、半没していた旅団のほとんどの戦車は吹き飛ばされた。旅団長・重美少将も、米軍のシャーマン戦車の七五ミリ砲を受けて車体もろとも四散した。

237.山下奉文陸軍大将(17) 時来れば 古巣にかへる つばめかな

2010年10月08日 | 山下奉文陸軍大将
 昭和十九年九月三十日、山下大将は、第十四方面軍参謀副長に任命された西村敏雄少将(陸士三二・陸大四一首席)と樺沢副官を伴って、宮中に伺候した。

 「ゴ苦労デアル・・・帝国ノ安危ハ一ニ比島軍ノ肩ニカカッテイル・・・」。頭をたれる山下大将の肩に、ややかん高い、ゆっくりした天皇の声が流れた。

 山下大将は、侍従に教えられた作法通りに、静かに後ずさるように退出したが、扉口の手前で、ふと眼を上げて、はるかに端座する天皇を仰ぎ、深々と拝礼した。

 こうして山下大将はフィリピンに赴任する前に、やっと東京に帰ってきて天皇に拝謁することができた。このことは、「小倉庫次侍従日記」(文藝春秋・2007年4月号)に、九月三十日のところに、「陸軍大将山下奉文出征ニ付拝謁」と記してある。

 ただし、そのときの謁見は九時三十分から四十五分までとなっており、わずか十五分間だった。それでも山下大将は感涙にむせんだ。天皇の軍隊の陸軍大将として戦争をやって、天皇に尽くしながら、天皇に会えない。それが、やっと会えたのだから。

 十月三日の夜、久子夫人が偕行社に山下大将に会いにきた。雨のため、出発は一日延期になった。四日、山下大将は参謀本部で打ち合わせをした後、夫人と食事をした。夫人はさぞ、なにか話があるものと思ったが、山下大将は「空襲の時は気をつけろ」と、言っただけだった。

 不満気な夫人は、思いついて、「よその人にあげるだけでなく、家にも色紙の一枚ぐらい書いておいてほしい」とねだった。

 山下大将は承知した。「時来れば 古巣にかへる つばめかな」。「ずいぶん、優しいんですね」と夫人は言った。珍しいことと夫人は思い、ウフッと鼻で笑う大将に別れて鎌倉の実家に帰った。

 実家に帰ると夫人は、ひとり自室に閉じこもった。夫人は色紙に山下大将の雅号印「巨杉」を押すと、震える手をいつまでも押さえ続けた。

 「丸エキストラ戦史と旅・将軍と提督」(潮書房)所収「山下奉文の人間性」(沖修二)によると、当時、スマトラのメタンの近衛第二師団長・武藤章中将(陸士二五・陸大三二恩賜)は後日、山下大将の指揮する比島方面軍(第十四方面軍)の参謀長に任命される。

 山下大将が比島方面軍司令官に任命されたことを知ると、武藤師団長は「この処置は半年遅れた。今頃、山下大将をもっていってもだめだ」とはっきり言った。

 そして後日、自分がその参謀長任命を受けると、「私に課せられた命令は死の宣告であった。私の最後のご奉公だ。十分に山下大将を補佐せねばならぬと誓った」と武藤中将は手記に記している。

 「悲劇の将軍」(今日出海・中公文庫)によると、山下大将がマニラのニルソン飛行場に着いたのは昭和十九年十月六日で、それから一週間後にアメリカ航空母艦群が台湾沖に現れて、大空中戦が行われた。これが台湾沖航空戦である。

 また、山下大将が着任して十五日目にレイテ島タクロバン沖にアメリカ艦隊は姿を現し、強行上陸を開始し、守備に当たっていた垣兵団と激戦を展開しているとの電報を見て、さすがの山下大将も「遅かった」と思った。

 昭和十九年十月十二日から十六日にかけて行われた台湾沖航空戦は、フィリピンのレイテ島攻略をめざすアメリカ海軍空母機動部隊(空母十七隻、その他艦艇約八十隻)に対して、日本海軍の航空機が攻撃を行った。

 その結果日本の大本営は十月十九日、撃沈は空母十一隻、戦艦二隻、巡洋艦三隻など、撃破は空母八隻、戦艦二隻、巡洋艦四隻、その他十四隻、我が方の損害は飛行機未帰還三百十二機、と大本営発表を行った。

 日本では戦勝を祝して提灯行列が行われ、天皇陛下から、南方方面陸軍最高指揮官、連合艦隊司令長官、台湾軍司令官に対して「朕深ク之ヲ嘉尚ス」とお褒めの言葉が下った。

 小磯国昭首相も気を良くして、「次はフィリピン決戦だから、ここで敵を追い落とす」と演説した。

 大本営はもともとフィリピンのルソン島で決戦を計画していたが、台湾沖航空戦の後、変更してレイテ島決戦を行うと言い出した。

 フィリピンの第十四方面軍司令官・山下大将は、堀栄三郎少佐から台湾沖航空戦の大本営発表は信用できないとの報告を受けて、現時の状況からも、アメリカ海軍の機動部隊は殆ど損害を受けていないと判断した。

 ところが十月二十二日、突然、上級部隊である南方軍の総司令官・寺内寿一元帥(陸士一一・陸大二一)は、第十四方面軍司令官・山下大将に、「ナルベク多数ノ兵力ヲモッテ、レイテ島ニ来攻セル敵ヲ撃滅スベシ」と命令した。

236.山下奉文陸軍大将(16) 山下大将は吐き出すように叫んだ。「俺は郵便物じゃないぞ」

2010年10月01日 | 山下奉文陸軍大将
 だが、西山総裁が、ただ統制派、皇道派という旧式の軍閥類型を信じ、統制派、東條のあとは皇道派の天下と見込んで、山下大将の出馬応援運動を試みようとするのであれば見当違いだった。

 山下大将の観察では、軍部内の派閥に依存していては目下の困難は打開できず、だいいち、現状のように大量の将校が任用され、しかも昇進と移動が激しい環境にあっては派閥は構成しようがないのだった。

 「自分は、満州のおもしが一番似合っていると思います」。山下大将は首をふり、西山総裁は数回繰り返して意向を確かめるようだったが、そのうちにあきらめた様子で帰って行った。

 昭和十九年九月二十三日、山下大将はフィリピンの第十四方面軍司令官転補内命の電報を参謀長・四手井綱正中将(陸士二七・陸大三四恩賜)から受け取った。

 「そうか、きたか」。山下大将は、そう答えたが、その声には意外さの驚きがこもっていた。

 山下大将としては、すでに次々に南方に転出する指揮下師団の壮途を見送りながら、必ずや予期されるソ連との一戦に備える覚悟を固め、さもなければ梅津大将の練る重慶工作に渾身の手腕を振るうことを期待していたのだった。

 内命電は九月二十八日までに東京に着くようにと指示していた。山下大将の久子夫人は、前年八月、鈴木貞夫大尉に代わって副官となった樺沢寅吉大尉の夫人と共に、「内地に帰るよりは、牡丹江で留守を守る」と山下大将に申し出た。

 途端、山下大将は、ぎろっと双眼をむいて、低い声で久子夫人に「いかん。どうせ死ぬなら、親兄弟の土地のほうがよかろう」と言った。

 「えっ」と、久子夫人は、はじめて知らされる予想外の戦勢にびっくりしたが、大将の指示に逆らうわけにもいかなかった。久子は樺沢夫人とともに内地に引き揚げることになった。

 山下大将は樺沢副官とともに、九月二十七日午後一時、汽車で牡丹江を出発した。翌二十八日午前六時、新京に到着した。

 新京では、あわただしく満州国皇帝、梅津大将の後任の関東軍司令官・山田乙三大将(陸士一四・陸大二四)に挨拶をすませ、午前十一時、新京飛行場発のMC輸送機で立川に向った。

 立川飛行場に到着した山下大将は、出迎えの参謀、一戸公哉中佐(陸士三九)と田中光佑少佐(陸士四六・陸大五二)の二人と自動車で九段の偕行社に向った。

 車は青梅街道を走った。沿道の森に太鼓の音が鳴り響いていた。かねて勇名を聞き、初めて接する巨大な山下大将の風貌に圧倒されて、コチコチになっていた田中少佐が「今年からお祭りもにぎやかにやれるようになりました」と山下大将に話しかけた。

 「うむ・・・・・・祭りもやれんようじゃ、戦には勝てんよ」と、もそりと答えた山下大将は、気にかかっていた質問を田中少佐に尋ねた。「ところで、俺は何日くらい東京におれるんか」。

 田中少佐は「ハッ、十月一日ご出発の予定であります」と答えた。「なにィ」。ぐいっと身をねじ起こす山下大将の巨体の動きに、横に座っていた二人の参謀は、ごりっと窓際に押し付けられた。

 「十月一日・・・・・・それじゃ、あと二日しかないじゃないか。バカをいえ。俺は今度の戦さが始まって、初めて東京の土を踏むんだ。今度は二度と帰れん覚悟もしとる。二日じゃあ、打ち合わせも挨拶もできんじゃないか」と言い、山下大将は吐き出すように叫んだ。「俺は郵便物じゃないぞ」。

 車の中で山下大将は次の様に思った。

 「シンガポール攻略のあとの軍状奏上の機会消失は、東條の差し金とあきらめもしよう。だが、今の参謀総長は敬愛する梅津大将ではないか」

 「その梅津大将の決定だとすれば、梅津総長もまた、所詮は派閥のしこりを残して、わが最後の壮途を無味にしようとするのか」。

 山下大将は「よし、俺が話す。直接総長に話す」と、たぎる憤怒を抑えて言った。田中少佐はあわてて「わかりました。閣下のお心に添うよう善処致します。お任せ願います」と言った。山下大将はそれ以上何も言わなかった。

 九段の偕行社に着くと、三階の応接室で山下大将は樺沢副官に「オイ、樺沢、ウイスキーをくれ」と言って飲み始めた。

 第二十五軍当時の部下であり、再び大本営派遣参謀として山下大将の指揮下に入ることになった朝枝繁春少佐(陸士四五・陸大五二)が訪ねてきた。また、参謀本部の部長、課長も次々に訪れた。

 ところが、むすっとしてウイスキーのグラスをなめる山下大将は不機嫌だったので、皆、早々に退散した。

 だが、その翌日、三長官への挨拶を済ませ、参謀本部で服部卓四郎作戦課長(陸士三四・陸大四二恩賜)の説明を聞いて帰ると、田中少佐が、十月四日に出発延期の朗報をもたらした。

 それを聞くと、山下大将の顔は血色をとりもどした。さらに田中少佐は翌日の九月三十日、親補式挙行の通知もたずさえてきた。