陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

288.鈴木貫太郎海軍大将(8)今日は君のために祝盃を挙げる。今度は君にカブトを脱ぐ

2011年09月30日 | 鈴木貫太郎海軍大将
 「鈴木貫太郎傳」(鈴木貫太郎傳記編纂委員会)によると、明治三十八年六月、日本海海戦直後、鈴木貫太郎中佐の指揮する第四駆逐隊が対馬の尾崎湾に入港した。

 第三戦隊旗艦の防護巡洋艦千歳(乗員四三四名・四七六〇トン)も入港していた。第三戦隊司令官・出羽重遠(でわ・しげとお)中将(海兵五・大将)に挨拶するため、鈴木中佐は千歳を訪問した。出羽中将は鈴木中佐の結婚の媒酌人であった。

 千歳には第四戦隊司令官・瓜生外吉(うりゅう・そときち)中将(海軍兵学寮・アナポリス海軍兵学校卒・男爵・大将)も来ていた。明治三十三年、鈴木少佐が軍務局勤務の時、魚雷攻撃法で対立した軍令部に、当時の当瓜生大佐がいた。

 瓜生中将は、鈴木中佐の顔を見るや、起き上がってグラスを鈴木中佐にさし、「いいところに来てくれた。今日は君のために祝盃を挙げる。今度は君にカブトを脱ぐ。君の先見の明に叩頭(こうとう)するよ」と言いながらシャンペンを注ぎ、出羽中将と三人で乾杯した。

 そして瓜生中将は「君が軍務局にいたとき、我輩は軍令部にいた。水雷のことはよく分からんが、部下がマカロフ戦術に共鳴して意見を出したところ、君は極力これに反対した。そのときは随分頑固なひどい奴だと思った。ところが、今度の戦争では全く君の言った通りだ。特に君のために祝盃を挙げるんだ」と言った。

 出羽中将も傍らでわが意を得たというふうに、ニヤニヤ笑いながら盃を重ねた。鈴木中佐も司令官に誉められて、大いに面目をほどこしたが、過ちを覚れば後輩にでもあっさりカブトを脱いだのが当時の軍人だった。

 明治四十一年九月一日、鈴木貫太郎大佐は第二艦隊旗艦の防護巡洋艦明石(乗員三一〇名・二七五八トン)艦長に就任した。

 その一年後の明治四十二年十月一日、練習艦隊の巡洋艦宗谷(乗員五七〇名・六五〇〇トン)艦長になった。

 練習艦隊の僚艦は一等巡洋艦阿蘇(乗員五七〇名・七七二六トン)で、艦長は鈴木大佐の兵学校同期生の佐藤鉄太郎大佐(海兵一四・中将・舞鶴鎮守府司令長官・貴族院議員)だった。

 「聖断」(半藤一利・文藝春秋)によると、明治四十三年二月、練習艦隊は阿蘇を旗艦とし、宗谷とともに横須賀を出航した。

 海軍兵学校(三十七期)を卒業した候補生を乗せて、オーストラリア方面への遠洋航海だった。航程一万四千六百浬、百五十三日間の航海だった。

 宗谷艦長・鈴木大佐の教育方針は、座学は兵学校で十分に教わっているだろうから、実施を主とせねばならない、というものだった。

 航海は士官としての素質に磨きをかけ、軍人としての魂を練成する道場であるとして、鈴木艦長みずから身をもって垂範した。

 候補生指導官たちも、この方針に従い、さあ、俺について来いという積極さを示し、艦が一つになって乗組員の魂と魂が結ばれていくような活気のある航海が続いた。

 指導官には高野五十六(たかの・いそろく)大尉(後の山本五十六・海兵三二・海大一四・連合艦隊司令長官・元帥)、指導官付には古賀峯一(こが・みねいち)中尉(海兵三四・海大一五・連合艦隊司令長官・元帥)がいた。

 そして宗谷には、井上成美(いのうえ・しげよし・海兵三七・海大二二恩賜・海軍次官・大将)、草鹿任一(くさか・じんいち・海兵三七・海大一九・中将)、小沢治三郎(おざわ・じさぶろう・海兵三七・海大一九・中将・連合艦隊司令長官)、大川内伝七(おおかわち・でんしち・海兵三七・海大二〇・中将)らの候補生が乗組んでいた。山本、古賀、井上、小沢らの初の出会いと結びつきは、このときに発していた。

 鈴木艦長は航海中に、候補生たちに「奉公十則」を示した。それは、海軍に身を投じてよりこの日までの、その間に二度の戦いに生命を捨ててかかった体験をも織り込んだ、鈴木艦長自身の生き方でもあった。

 航海中のある日、船酔いしたある候補生が、後艦橋の端に走っていって、胃の中の物を一気に吐くという不始末をおかした。

 吐いた場所が風上で、艦が反対側へ傾くときであったからたまらない、吐しゃ物は飛散して高く舞い上がり、後甲板で散歩中の鈴木艦長の頭に降りかかった。候補生は青くなった。

 このとき、鈴木艦長は、「風に向かって吐くものではないよ」と、近くにいた仲間の候補生に、何事もなかったように言い、静かに艦内に降りていった。

287.鈴木貫太郎海軍大将(7)シソイベリキーは俺のところでやったんだとの文句が出た

2011年09月23日 | 鈴木貫太郎海軍大将
 日露戦争は、明治三十七年二月八日、旅順港のロシア旅順艦隊に対する日本帝国海軍の駆逐艦隊の攻撃から始まった。

 鈴木貫太郎中佐の初陣は八月十日の黄海海戦だった。日本軍の旅順砲撃を受けて、ロシアの旅順艦隊は旅順港を出撃した。

 その旅順艦隊と司令長官・東郷平八郎大将(英国商船学校卒・軍令部長・元帥・大勲位・功一級・侯爵)率いる日本帝国海軍連合艦隊との間で黄海海戦が行われた。鈴木中佐は装甲巡洋艦春日(乗員五六二名・七七〇〇トン)の副長として参戦した。

 春日は第一会戦で敵巡洋艦アスコリートを砲撃、撃破し戦列を離れさせた。第二会戦でロシア旅順艦隊は大損害を受け支離滅裂に遁走した。

 黄海海戦後、九月一日、鈴木中佐は第二艦隊所属の第五駆逐隊司令に転補した。第五駆逐隊は旗艦不知火(三二六トン)以下四隻で編成されていた。四隻とも三〇〇余トンの三等駆逐艦だった。

 鈴木中佐は裏長山泊地で連合艦隊司令長官・東郷平八郎大将に転補の申告をし、参謀長・島村早雄(しまむら・はやお)少将(海兵七・軍令部長・元帥・勲一等・功二級・男爵)に挨拶した。

 鈴木中佐が、「何か訓令を受けることはありませんか」と伺うと、島村少将は鈴木中佐の手を握り、「別に何もないが全予て君の説通り十分やって貰いたい」と言った。

 そのあと参謀室に行った鈴木中佐は、有馬良橘(ありま・りょうきつ)大佐(海兵一二・大将・教育本部長・枢密顧問官・明治神宮宮司)、秋山真之(あきやま・さねゆき)中佐(海兵一七首席・中将)、松村菊勇(まつむら・きくお)大尉(海兵二三・海大五・中将・石川島造船社長)らに会って、島村少将の話をすると、「それにはこんな理由がある」と説明してくれた。

 彼らの説明によると、駆逐艦も水雷艇も甚だ成績が悪い。それは先年、軍令部が水雷の射程を延ばして速力を落としてしまったので、既に海軍所持の水雷の半分以上も使い果たしたのに、一向成績が上がらない。

 そこで軍事課にいたときの鈴木説が漸く人々の記憶から甦り、鈴木を起用して再び日清戦争のときの「鬼貫太郎」の面目を発揮させねばならぬということになったのだという。

 つまり、小さな駆逐艦や水雷艇で巨艦を屠(ほふ)ろうというのだから、一種の肉弾戦法である。遠距離から身の安全を期して発射する魚雷がうまく命中するはずはない。

 これを聞いて鈴木中佐は、一本の魚雷が寒気のため発射できなかったのに責任を感じ自刃する程、真剣な気持ちで日清戦争時代には戦ったのだ。よし、もう一度水雷に生命を吹き込んでやろうと、深く期することがあって司令艦に戻った。

 明治三十八年一月十四日、鈴木中佐は第四駆逐隊司令に転補され、五月二十七日~二十八日の日本海海戦に参加した。

 鈴木中佐は駆逐艦四隻を率いて、敵艦に水雷攻撃を行いロシアのバルチック艦隊旗艦、戦艦スワロフに魚雷を命中させ。そのほか一隻を魚雷攻撃で撃沈、もう一隻に魚雷を命中させた。

 日本海海戦は、日本帝国海軍の連合艦隊がロシアのバルチック艦隊を壊滅させ、日本の大勝利に終わった。ロシアの海上勢力はほとんど全滅した。

 鈴木中佐は駆逐隊を率いて五月三十日、佐世保に入港、東郷連合艦隊司令長官に戦争の経過を報告した。

 東郷司令長官は鈴木中佐の報告を聞くと「いや、あなたの攻撃されている状況はよく見ていました」と言った。それから東郷司令長官は三十分位、諄諄(じゅんじゅん)と戦争の経過を語った。

 鈴木中佐は、東郷司令長官は、いつも黙っている人なのだが、実際は雄弁な人だなと思った。東郷司令長官は海軍大学校長をしていたことがある。鈴木中佐はその頃学生だったから、親しみを一層感じられたのかもしれないと思った。

 とにかく、先にも後にも、こんなに喜んで雄弁に語った東郷司令長官を見たことはなかった。鈴木中佐には忘れられない感激だった。

 東郷司令長官に報告後、秋山参謀に会うと、鈴木中佐に次の様に言った。

 「君の報告でシソイベリキー、ナバリンの二隻をやったことは明瞭だ。然し、会議の席上、シソイベリキーは俺のところでやったんだとの文句が出た」

 「皆で攻撃したのだから嘘ではあるまい。君のところだけで二隻は多すぎる。一隻は他へ裾分けしたから承知してくれ」

 これを聞いて、鈴木中佐は、秋山参謀らしい言い分だったので、「宜しい」と言った。

286.鈴木貫太郎海軍大将(6)こんな馬鹿な扱いをする海軍には、もういる気はなくなった

2011年09月16日 | 鈴木貫太郎海軍大将
 次に鈴木少佐はコロンスタットに行った。軍港の視察を願い出ると、鎮守府長官・マカロフ提督は喜んで許可し、「今新造の軍艦があるから是非見ていってくれ」と言った。

 その軍艦は「スワロフ」だった。艦内に大きな部屋があるので、鈴木少佐が「これは何のために作ったのか?」と訊くと、「ダンスをするため」と答えた。

 鈴木少佐は、「これならロシア艦隊も恐れるには当たらぬ」と直感した。ダンスなどやりながら戦技訓練ができるものではない。

 また、こんな豪華な部屋を取っている以上、どこか攻撃、防禦に手薄な所があるに違いない。この「スワロフ」は後に旅順港外で海底の藻屑になった。

 明治三十六年九月二十六日付で鈴木貫太郎は中佐に進級した。進級の報を受けたのは、露都からベルリンに帰ってきて間もなくだった。

 そこで発表された中佐に進級した顔ぶれを見ると、財部彪(たからべ・たけし・海兵一五・海大丙号・大将・海軍大臣)、竹下勇(たけした・いさむ・海兵一五恩賜・海大一・大将・大日本相撲協会会長)、小栗孝三郎(おぐり・こうざぶろう・海兵一五・海大二・大将)の次に鈴木貫太郎(海兵一四・海大一・大将・軍令部長・侍従長・首相・男爵)となっていた。

 財部は山本権兵衛の女婿であり、それ相当の力量もあるから、これは致し方ないとしても、竹下、小栗は、鈴木よりも一期あとである。

 特に小栗は海軍大学校で師弟の関係にあった。それが自分より右翼の序列で進級しているのには、温厚な鈴木も腹の虫が納まらなかった。

 日清戦争では金鵄勲章も貰っていない後輩から追い抜かれたとあっては、憤懣やる方がない。滝川大佐の本省への報告が悪かったにせよ、こんな人事をするような海軍には、一日もいられない。

 伊藤乙次郎中佐(海兵一三・海大将校科一恩賜・中将・神戸製鋼所社長)に話すと「自分も嘗てそんな目にあったことがある。君の場合についても何ともいうことはできない」と沈痛な面持ちをした。その当時のことを自伝で鈴木は次の様に述べている。

 「こんな馬鹿な扱いをする海軍には、もういる気はなくなった。国家にご奉公するのは、何も海軍に限ったことではない。盲目の下で働くよりも、明るい空気の中で働きたいおれは海軍を御免蒙る。病気と称して帰国しようと思うと、伊藤君に言って別れた」

 「そして下宿に戻ってみると、父から手紙が来ている。無心であるから中佐になった喜びの手紙で、日露の国交が切迫したから、この時こそ大いに国家の為に尽くさねばならぬというのである」

 「この手紙を見た刹那、鉄棒ででも殴られたような気がした。進級が遅いなどと小さなこというのは間違っている。自分が海軍に入ったのは、こういう場合国家のために尽くすためではなかったか」

 「父の手紙を見ていかにも自分の至らないのに気がついて、自分の不心得は一ぺんに飛んでしまった。あのとき一時の怒りに駆られて帰って来ていたなら、今日の鈴木貫太郎はいなかったことになったであろう。無心に書かれた父の手紙によって、私は救われた」

 鈴木の人生行路のうちで、これも危険な時期だった。だが、中央部にも盲目ばかりがいたのではない。大佐に進級するときは。鈴木は正当な序列に戻っていた。

 日清戦争によって、日本が清国から割譲を受けた遼東半島は、その後ロシアによって横奪された。ロシアは東清鉄道のハルピンから、旅順、大連への支線を敷設し、旅順には堅固な要塞を築城し、東洋艦隊の根拠地としてしまった。

 これでロシアは浦塩(うらじお)と呼応して日本海、勃海(ぼっかい)湾の制海権を確立した。さらにロシアは明治三十三年の義和団事件に出兵した兵力を事件が解決した後も満州に駐留させ、南北満州は事実上ロシアの傘下に入れてしまった。

 その上、ロシアは爪牙(そうが・ツメとキバ)を北朝鮮に伸ばして、朝鮮をも併合しようとする野心が露骨に見えてきた。

 これでは、日本はまるで煮え湯を呑まされた格好である。フランスも、ドイツも、そしてイギリスまで中国の要地を租借名義で占領したのだから、日本人の憤激はその極に達した。

 その中で、イギリスは、ロシアの野望を早く破砕しておかねばならぬと、明治三十五年、日本と日英同盟条約を締結した。このようにして、日露の衝突は必至の情勢となった。

 東洋制覇を目指すロシアの南下で、日本は一刻の猶予をも許さないギリギリのところに追い詰められていた。

 ロシアは日本に鎧袖一触(がいしゅういっしょく・一撃で簡単に敵を負かす)、遮二無二挑戦してきた。回避しようとすれば日本は完全にロシア帝国の一部にされる危険にさらされていた。

 それでも、明治天皇以下政府も軍部も一体となって対露政策に慎重を期し、かりそめにも軽率の謗りを受けないように準備してきた。

 大事をとって戦争に突入したが、ロシアは世界最強の陸軍国、海軍も日本帝国海軍を凌駕する大勢力を持っていた。

285.鈴木貫太郎海軍大将(5)スパイをやれという命令は受けていない

2011年09月09日 | 鈴木貫太郎海軍大将
 その後、幾度かの実験をした結果、鈴木説が正しいということが軍令部のほうにも分かってきた。だが、急に転向するわけにもゆかず、日露戦争まで血のにじむような研究が続けられた。だが、結局鈴木説の当否は、戦場において審判されるようになった。

 ともかく、軍務局長以下の不同意の重要書類が、大臣、次官によって決済されたということは、前代未聞であった。

 明治三十四年七月二十九日付けで、鈴木貫太郎少佐はドイツ国駐在を命ぜられた。任務は「ドイツ海軍の教育を取り調べよ」というものだった。

 九月七日、郵船会社の「丹波丸」で、ドイツに向け出発、十月三十日ベルリンに到着した。滞在中は、支給される年額手当ては三千五百円だった。当時文部省の留学生などは千八百円だった。

 当時は二百円あれば十分生活できる時代だったので、三千五百円あれば遊ぼうと思えば、派手に遊ぶことができた。

 だが鈴木少佐は、遊びには興味を持たず、ドイツ国内はもちろん、イギリスを初め、欧州各国を根気よく視察旅行し、人情、風俗から国民性の相違まで、自分の眼で見て回った。

 明治三十五年五月、公使館付武官として滝川具和大佐(海兵六・海大一・少将)が、ベルリンに赴任してきた。

 しばらくして、滝川大佐は鈴木少佐に「キール軍港に行って語学の勉強をしながら海軍の状況を偵察せよ」と申し渡した。

 鈴木少佐は「それは最初の任務とは違う。ドイツ海軍の教育の調査に来ている、スパイをやれという命令は受けていない」と拒絶した。

 当時ドイツは新興国として、英国に追いつき追い抜けと、非常な勢いで海軍の拡張を行っていた。どのように海軍拡張を進めているか、滝川大佐は知りたかった。

 だが、鈴木少佐に正面から拒絶されて、滝川大佐は鼻白らむ思いだった。それから鈴木少佐に対する態度が冷たくなった。

 鈴木少佐は滝川大佐の思惑など気にせず、相変わらず視察旅行を続けていたが、ベルリンに帰ってみると、伊藤乙次郎(いとう・おとじろう)中佐(海兵一三・海大選科・中将・呉工廠長・神戸製鋼所社長)、田所広海(たどころ・ひろみ)少佐(海兵一七・海大三・中将・鎮海警備府司令長官)、筑土次郎(つくど・じろう)大尉(海兵二四・海大六・少将)が着任していた。

 日本海軍の中央部でもドイツに並々ならぬ関心を寄せていることが分かった。鈴木少佐は、キールと並んで最大の軍港であるウイルヘルムに行った。

 そして表玄関から堂々と軍港の視察を願い出た。ところがドイツ海軍は喜んで親切に案内してくれた。規模は広大で軍紀も厳正だった。

 次にキール軍港に行った。鈴木少佐は鎮守府長官・チスター元帥やモルトケ参謀長に会って、「軍港の施設を見学させてもらいたい」と申し込んだ。

 すると「軍港内を見学したいなら、いちいち案内人はつけないから、自由に見学して宜しい。一日、二日では本当のことは分かるものではない。ゆっくり見学して行け」と大歓迎してくれた。

 この軍港には造船所、兵学校、海兵団、弾薬庫、火薬庫、魚雷製造工場、民間の造船所等、広大な施設があった。海軍の魚雷工場以外は見学させてくれて、行く先々で鈴木少佐にビールのご馳走をしてくれた。

 キールでもウイルヘルムでも、鈴木少佐は本省にも公使館付武官にも、報告書は一切書かなかった。手紙は全部ハガキで済ませた。

 ドイツの海軍は盲目ではない。外国の海軍武官が毎日どんなことをしているかは、恐らく百も承知していた。それだけの目は光っていると思わなければならない。

 だから、鈴木少佐はスパイなどの嫌疑をかけられぬよう用心に用心をしていた。同地に二ヶ月ばかり滞在していたが、不愉快な思いをしたことは一度もなかった。

 ドイツ海軍としては、日本の海軍をたいしたことはないと思っていたかも知れないし、一方では、ドイツ海軍の威容を誇示したいと、鈴木少佐に充分の視察を許したものと思われた。

 当時、三国干渉で恨み骨髄に徹している日本は、いつかロシアを叩かねばならぬと、軍備の拡張を行っていた。

 そこで、鈴木少佐もロシア海軍についても視察したいと思い、デンマーク、ノルウェー、フィンランドなどを回って、ロシアの首都、ペテルスブルグ(サンクト・ペテルブルグ)に行った。

 ここには駐在武官の川原袈裟太郎(かわはら・けさたろう)少佐(海兵一七・中将・旅順警備府司令長官)がいて、鈴木少佐に親切にいろんな情報をくれた。

284.鈴木貫太郎海軍大将(4)貴様、因業なことを言わずに、印を押して早く通せ

2011年09月02日 | 鈴木貫太郎海軍大将
 明治三十二年二月、鈴木貫太郎少佐は軍令部を免じられて、軍務局軍事課専補となった。同時に陸軍大学校兵学教官にもなった。

 その後鈴木少佐は、五月末に海軍大学校教官に兼補され、七月には学習院の教授兼務を嘱託された。

 この時の軍務局軍事課長は加藤友三郎大佐(海兵七・海大甲号一・大将・海軍大臣・総理大臣・子爵)だった。

 鈴木少佐は、軍務局勤務をしながら、三つの学校で教えるとは、随分ひどいことをするなと思った。だが自分の修養にもなるし、やるだけやってみろと、続けた。

 だが、時間の経済から、家から出るにも人力車を雇って出なければならなかった。経済上有難くないことだし、骨が折れることも一層だったが、黙ってやっていた。

 明治三十二年の暮れ、加藤友三郎課長が「君は家から出る時に自分の車に乗って来るそうだ、そりゃ困るだろう」と鈴木少佐に言った。

 鈴木少佐は「困ります」と正直に答えた。その年から陸海軍の交換教官には賞与を与えることになった。これが車代となって残った。加藤課長の発案だった。

 明治三十三年初頭、軍令部の発案で、甲種魚雷と称し、千メートル進行の魚雷の調整弁に修正を加え、速力を著しく減じて、その代わり到達距離を三千メートルに延長し、遠距離より敵艦を攻撃する計画を立て、軍令部長から海軍大臣に提出された。

 これはロシアの戦術家、マカロフ海軍大将(戦術の権威・日露戦争で戦死)の戦術書から由来されたものだった。

 この問題の解決は、軍務局員である鈴木少佐の主務に属するものだった。鈴木少佐は、直ちにこの計画に反対した。その理由は次の様なものだった。

 「このような十二、三ノットばかりの速力の遅い魚雷は、昼間敵艦進行中に襲撃しても、直ぐ回避される恐れがある。また、当たっても今の爆発装置では発火しない。発火するためには敵艦の速力よりも五ノット以上の速力を保たなければならない」

 「また、夜間碇泊艦を襲撃するにしても、二千メートルや三千メートルの遠距離よりからは敵艦を認識することはできない。少なくとも、五、六百メートル以内に接近しなければ確実な成功は期せられない」

 「いずれにしても、このような計画は有害無益で、いたずらに我が勇敢な軍人を卑怯者にするばかりである。マカロフ将軍は尊敬すべき戦術家であるが、この問題についてはおそらく机上の考案に過ぎず、我々は、日清役実戦の経験より、とうていこれに賛成できぬのである」。

 以上のように鈴木少佐が反対すると、軍令部から鈴木少佐の友人で海兵同期の高島万太郎少佐(海兵一四・大佐)が来て「貴様、因業なことを言わずに、印を押して早く通せ」と言った。

 鈴木少佐は「そうはいかぬ。これは将来我が海軍に必ず累を及ばすから、軍令部でこの書類を引っ込めたらどうか」と言ってどうしても承知しなかった。

 そこで軍令部から瓜生外吉(うりゅう・そときち)大佐(海軍兵学寮・アナポリス海軍兵学校卒・男爵・大将)や外波内蔵吉(となみ・くらきち)中佐(海兵一一・海大二・少将)が軍事課長・加藤友三郎大佐に交渉すると、加藤課長は「鈴木の言うことが正しい」と言って承知しなかった。

 それに軍務局長・諸岡頼之(もろおか・よりゆき)少将(海兵二・常備艦隊司令官・中将)も同様なので、軍令部は大いに困却した。

 ついに軍令部次長・伊集院五郎少将(海兵五・英国海軍大学校・軍令部長・元帥・男爵)が「一少佐の分際で生意気な」と怒って、海軍大臣・山本権兵衛中将(海兵二・大将・総理大臣・伯爵)に談じ込んだ。

 軍令部長・伊東祐亨(いとう・すけゆき)大将(神戸海軍操練所・元帥・伯爵)は山本海軍大臣より先輩であり、伊集院軍令部次長も山本海軍大臣と同じ鹿児島出身である。

 山本海軍大臣も困って、次官・斉藤実(さいとう・まこと)大佐(海兵六・大将・総理大臣・子爵)に一切の処置を命じた。軍務局長、軍事課長、主任官が真っ向から反対しているので、斉藤次官も弱った。

 斉藤次官は鈴木少佐を呼んで「君の主張はよく分かった。しかし大臣がこれを決裁されることになれば、君はどうするか」と訊いた。

 鈴木少佐は「私は海軍将来のために自説を固執しているのですから、大臣の方でそれはいかんと言って軍令部案には同意せられるのなら、何も文句はありません」と答えた。

 それなら書類をすぐ官房のほうに回せと命じ、官房から次官、大臣の決裁を経て、軍令部案を一応承認することになった。