「鈴木貫太郎傳」(鈴木貫太郎傳記編纂委員会)によると、明治三十八年六月、日本海海戦直後、鈴木貫太郎中佐の指揮する第四駆逐隊が対馬の尾崎湾に入港した。
第三戦隊旗艦の防護巡洋艦千歳(乗員四三四名・四七六〇トン)も入港していた。第三戦隊司令官・出羽重遠(でわ・しげとお)中将(海兵五・大将)に挨拶するため、鈴木中佐は千歳を訪問した。出羽中将は鈴木中佐の結婚の媒酌人であった。
千歳には第四戦隊司令官・瓜生外吉(うりゅう・そときち)中将(海軍兵学寮・アナポリス海軍兵学校卒・男爵・大将)も来ていた。明治三十三年、鈴木少佐が軍務局勤務の時、魚雷攻撃法で対立した軍令部に、当時の当瓜生大佐がいた。
瓜生中将は、鈴木中佐の顔を見るや、起き上がってグラスを鈴木中佐にさし、「いいところに来てくれた。今日は君のために祝盃を挙げる。今度は君にカブトを脱ぐ。君の先見の明に叩頭(こうとう)するよ」と言いながらシャンペンを注ぎ、出羽中将と三人で乾杯した。
そして瓜生中将は「君が軍務局にいたとき、我輩は軍令部にいた。水雷のことはよく分からんが、部下がマカロフ戦術に共鳴して意見を出したところ、君は極力これに反対した。そのときは随分頑固なひどい奴だと思った。ところが、今度の戦争では全く君の言った通りだ。特に君のために祝盃を挙げるんだ」と言った。
出羽中将も傍らでわが意を得たというふうに、ニヤニヤ笑いながら盃を重ねた。鈴木中佐も司令官に誉められて、大いに面目をほどこしたが、過ちを覚れば後輩にでもあっさりカブトを脱いだのが当時の軍人だった。
明治四十一年九月一日、鈴木貫太郎大佐は第二艦隊旗艦の防護巡洋艦明石(乗員三一〇名・二七五八トン)艦長に就任した。
その一年後の明治四十二年十月一日、練習艦隊の巡洋艦宗谷(乗員五七〇名・六五〇〇トン)艦長になった。
練習艦隊の僚艦は一等巡洋艦阿蘇(乗員五七〇名・七七二六トン)で、艦長は鈴木大佐の兵学校同期生の佐藤鉄太郎大佐(海兵一四・中将・舞鶴鎮守府司令長官・貴族院議員)だった。
「聖断」(半藤一利・文藝春秋)によると、明治四十三年二月、練習艦隊は阿蘇を旗艦とし、宗谷とともに横須賀を出航した。
海軍兵学校(三十七期)を卒業した候補生を乗せて、オーストラリア方面への遠洋航海だった。航程一万四千六百浬、百五十三日間の航海だった。
宗谷艦長・鈴木大佐の教育方針は、座学は兵学校で十分に教わっているだろうから、実施を主とせねばならない、というものだった。
航海は士官としての素質に磨きをかけ、軍人としての魂を練成する道場であるとして、鈴木艦長みずから身をもって垂範した。
候補生指導官たちも、この方針に従い、さあ、俺について来いという積極さを示し、艦が一つになって乗組員の魂と魂が結ばれていくような活気のある航海が続いた。
指導官には高野五十六(たかの・いそろく)大尉(後の山本五十六・海兵三二・海大一四・連合艦隊司令長官・元帥)、指導官付には古賀峯一(こが・みねいち)中尉(海兵三四・海大一五・連合艦隊司令長官・元帥)がいた。
そして宗谷には、井上成美(いのうえ・しげよし・海兵三七・海大二二恩賜・海軍次官・大将)、草鹿任一(くさか・じんいち・海兵三七・海大一九・中将)、小沢治三郎(おざわ・じさぶろう・海兵三七・海大一九・中将・連合艦隊司令長官)、大川内伝七(おおかわち・でんしち・海兵三七・海大二〇・中将)らの候補生が乗組んでいた。山本、古賀、井上、小沢らの初の出会いと結びつきは、このときに発していた。
鈴木艦長は航海中に、候補生たちに「奉公十則」を示した。それは、海軍に身を投じてよりこの日までの、その間に二度の戦いに生命を捨ててかかった体験をも織り込んだ、鈴木艦長自身の生き方でもあった。
航海中のある日、船酔いしたある候補生が、後艦橋の端に走っていって、胃の中の物を一気に吐くという不始末をおかした。
吐いた場所が風上で、艦が反対側へ傾くときであったからたまらない、吐しゃ物は飛散して高く舞い上がり、後甲板で散歩中の鈴木艦長の頭に降りかかった。候補生は青くなった。
このとき、鈴木艦長は、「風に向かって吐くものではないよ」と、近くにいた仲間の候補生に、何事もなかったように言い、静かに艦内に降りていった。
第三戦隊旗艦の防護巡洋艦千歳(乗員四三四名・四七六〇トン)も入港していた。第三戦隊司令官・出羽重遠(でわ・しげとお)中将(海兵五・大将)に挨拶するため、鈴木中佐は千歳を訪問した。出羽中将は鈴木中佐の結婚の媒酌人であった。
千歳には第四戦隊司令官・瓜生外吉(うりゅう・そときち)中将(海軍兵学寮・アナポリス海軍兵学校卒・男爵・大将)も来ていた。明治三十三年、鈴木少佐が軍務局勤務の時、魚雷攻撃法で対立した軍令部に、当時の当瓜生大佐がいた。
瓜生中将は、鈴木中佐の顔を見るや、起き上がってグラスを鈴木中佐にさし、「いいところに来てくれた。今日は君のために祝盃を挙げる。今度は君にカブトを脱ぐ。君の先見の明に叩頭(こうとう)するよ」と言いながらシャンペンを注ぎ、出羽中将と三人で乾杯した。
そして瓜生中将は「君が軍務局にいたとき、我輩は軍令部にいた。水雷のことはよく分からんが、部下がマカロフ戦術に共鳴して意見を出したところ、君は極力これに反対した。そのときは随分頑固なひどい奴だと思った。ところが、今度の戦争では全く君の言った通りだ。特に君のために祝盃を挙げるんだ」と言った。
出羽中将も傍らでわが意を得たというふうに、ニヤニヤ笑いながら盃を重ねた。鈴木中佐も司令官に誉められて、大いに面目をほどこしたが、過ちを覚れば後輩にでもあっさりカブトを脱いだのが当時の軍人だった。
明治四十一年九月一日、鈴木貫太郎大佐は第二艦隊旗艦の防護巡洋艦明石(乗員三一〇名・二七五八トン)艦長に就任した。
その一年後の明治四十二年十月一日、練習艦隊の巡洋艦宗谷(乗員五七〇名・六五〇〇トン)艦長になった。
練習艦隊の僚艦は一等巡洋艦阿蘇(乗員五七〇名・七七二六トン)で、艦長は鈴木大佐の兵学校同期生の佐藤鉄太郎大佐(海兵一四・中将・舞鶴鎮守府司令長官・貴族院議員)だった。
「聖断」(半藤一利・文藝春秋)によると、明治四十三年二月、練習艦隊は阿蘇を旗艦とし、宗谷とともに横須賀を出航した。
海軍兵学校(三十七期)を卒業した候補生を乗せて、オーストラリア方面への遠洋航海だった。航程一万四千六百浬、百五十三日間の航海だった。
宗谷艦長・鈴木大佐の教育方針は、座学は兵学校で十分に教わっているだろうから、実施を主とせねばならない、というものだった。
航海は士官としての素質に磨きをかけ、軍人としての魂を練成する道場であるとして、鈴木艦長みずから身をもって垂範した。
候補生指導官たちも、この方針に従い、さあ、俺について来いという積極さを示し、艦が一つになって乗組員の魂と魂が結ばれていくような活気のある航海が続いた。
指導官には高野五十六(たかの・いそろく)大尉(後の山本五十六・海兵三二・海大一四・連合艦隊司令長官・元帥)、指導官付には古賀峯一(こが・みねいち)中尉(海兵三四・海大一五・連合艦隊司令長官・元帥)がいた。
そして宗谷には、井上成美(いのうえ・しげよし・海兵三七・海大二二恩賜・海軍次官・大将)、草鹿任一(くさか・じんいち・海兵三七・海大一九・中将)、小沢治三郎(おざわ・じさぶろう・海兵三七・海大一九・中将・連合艦隊司令長官)、大川内伝七(おおかわち・でんしち・海兵三七・海大二〇・中将)らの候補生が乗組んでいた。山本、古賀、井上、小沢らの初の出会いと結びつきは、このときに発していた。
鈴木艦長は航海中に、候補生たちに「奉公十則」を示した。それは、海軍に身を投じてよりこの日までの、その間に二度の戦いに生命を捨ててかかった体験をも織り込んだ、鈴木艦長自身の生き方でもあった。
航海中のある日、船酔いしたある候補生が、後艦橋の端に走っていって、胃の中の物を一気に吐くという不始末をおかした。
吐いた場所が風上で、艦が反対側へ傾くときであったからたまらない、吐しゃ物は飛散して高く舞い上がり、後甲板で散歩中の鈴木艦長の頭に降りかかった。候補生は青くなった。
このとき、鈴木艦長は、「風に向かって吐くものではないよ」と、近くにいた仲間の候補生に、何事もなかったように言い、静かに艦内に降りていった。