「どん亀艦長青春記」(板倉光馬・光人社)によると、板倉光馬の出身校小倉中学は、北九州でも屈指の名門校で、一高や三高に進むものが少なくなかった。
また、かつて第十二師団司令部の所在地だったこともあって、陸軍士官学校の受験者は多かったが、どういうわけか、海軍兵学校の受験者は少なかった。
板倉光馬は当時軍人になろうとは考えてもいなかった。小倉中学の成績もかんばしくなく、たえず中の下あたりをうろついていた。
ただし、図画だけは得意で、板倉の水彩画は、教員室の廊下や校長室に飾られていた。そんなことから、板倉は父の反対を押し切ってでも画家で身を立てようと思っていた。
建築業の父は気性が激しく、家族にも厳しかった。三人兄弟のうち、一人だけは中学校にやって跡目を継がせようとした。兄は学問が嫌いで、器用な手先を生かすことを望んだ。いきおい、次男の光馬にお鉢が回ってきた訳だった。
こうして小倉中学に入学したが、父は家での勉強を一切許さなかった。その理由は「塙保己一は、一度聴いたことは生涯忘れなかったという。学校から帰ってまで勉強しなければならぬようでは、末が思いやられる」というものだった。
塙保己一(はなわ・ほきいち)は埼玉県出身の江戸時代の国学者で、「群書類従」(史書、文学作品1273種所収)、「続群書類従」の編纂者。七歳で失明したが、盲官の最高位・総検校(そうけんぎょう)まで昇進した。正四位。
塙保己一は書を見ることができないので、人が音読したものを暗記して学問を進め、偉大な学者になった。「群書類従」は、英国のケンブリッジ大学、ドイツの博物館、ベルギーの図書館、アメリカの大学等にも所蔵されえている。
板倉光馬は、そのような理由で、家で勉強する事はおろか、参考書のたぐいは一切買ってもらえなかった。
昭和四年八月、父が門司の北端にある和布刈神社の修築を請け負ったため、光馬は夏休み中、毎日のように手伝わされた。
昼過ぎに社務所のわきで休んでいた時、どよめきが起きた。光馬が振り向いてみると、眼下の関門海峡を連合艦隊が通航していた。
戦艦部隊を先頭に、航空母艦、巡洋艦部隊が続き、駆逐艦、潜水艦の一群が、長蛇のごとく海峡を圧していた。壮観で堂々たる威風は、そのままが海国日本のシンボルだった。
その躍動する黒鉄の美しさは、とうてい絵筆で表せるものではなかった。光馬は、全身を貫く稲妻のような感動に震えながら、艦影が千珠、満珠の彼方に消え去った時、初めて我に帰った。
その瞬間、「よーし、海軍にゆこう」と光馬は思った。躍動する連合艦隊に魅せられて、板倉光馬の夢は、急転直下、飛躍した。
<板倉光馬(いたくら・みつま)海軍少佐プロフィル>
大正元年十一月十八日、福岡県小倉市(現・北九州市)生まれ。板倉九十馬(建築業)の次男。
昭和五年(十九歳)三月旧制福岡県立小倉中学校卒。四月一日海軍兵学校入校。
昭和八年(二十二歳)十一月十八日海軍兵学校(六十一期)卒。卒業席次は百十六名中七位。
昭和九年(二十三歳)二月十五日少尉候補生として練習艦「磐手」で地中海方面へ遠洋航海。七月三十日重巡洋艦「足柄」砲術士。
昭和十年(二十四歳)四月一日海軍少尉。戦艦「扶桑」乗組み。七月重巡洋艦「最上」乗組み、重巡洋艦「青葉」乗組み。
昭和十一年(二十五歳)十二月一日海軍中尉、「イ68潜」通信長。
昭和十二年(二十六歳)十二月一日空母「加賀」乗組み。
昭和十三年(二十七歳)三月十五日駆逐艦「如月」航海長。七月一日練習艦「八雲」主任指導官付。十一月海軍大尉。
昭和十四年(二十八歳)一月第八潜水隊付「イ5潜」乗組み。二月物産会社経営者・池田勲旭の一人娘、池田恭子と結婚。十月「イ54潜」航海長。十一月水雷学校高等科学生。
昭和十五年(二十九歳)五月水雷学校高等科学生(首席)卒業、「ロ34潜」航海長。九月潜水学校乙種学生。十二月「イ169潜」水雷長。
昭和十六年(三十歳)十二月八日真珠湾攻撃に参加。
昭和十七年(三十一歳)十一月潜水学校甲種学生。
昭和十八年(三十二歳)三月「イ176潜」艦長。四月「イ2潜」艦長。六月海軍少佐。十二月「イ41潜」艦長。
昭和十九年(三十三歳)四月竜巻作戦命令に反対する。八月特攻戦隊参謀兼指揮官(回天隊)。
昭和二十年(三十四歳)三月大津島突撃隊司令。八月終戦。復員局で戦後処理。
昭和二十一年(三十五歳)東亜産業株式会社入社。
昭和三十一年(四十五歳)食料品店経営。
昭和三十二年(四十六歳)海上自衛隊幕僚統監部非常勤嘱託。
昭和三十五年(四十九歳)三菱重工業株式会社神戸造船所勤務。
昭和五十年(六十四歳)同社退職。以後、著述、ボランティア活動などに従事。
平成十七年十月二十四日死去。享年九十四歳。
主要著書に「どん亀艦長青春記」(光人社)、「不滅のネイビーブルー」(光人社NF文庫)、「伊号潜水艦」(光人社名作戦記)、「あゝ伊号潜水艦」(光人社NF文庫)、「続・あゝ伊号潜水艦」(光人社NF文庫)などがある。
また、かつて第十二師団司令部の所在地だったこともあって、陸軍士官学校の受験者は多かったが、どういうわけか、海軍兵学校の受験者は少なかった。
板倉光馬は当時軍人になろうとは考えてもいなかった。小倉中学の成績もかんばしくなく、たえず中の下あたりをうろついていた。
ただし、図画だけは得意で、板倉の水彩画は、教員室の廊下や校長室に飾られていた。そんなことから、板倉は父の反対を押し切ってでも画家で身を立てようと思っていた。
建築業の父は気性が激しく、家族にも厳しかった。三人兄弟のうち、一人だけは中学校にやって跡目を継がせようとした。兄は学問が嫌いで、器用な手先を生かすことを望んだ。いきおい、次男の光馬にお鉢が回ってきた訳だった。
こうして小倉中学に入学したが、父は家での勉強を一切許さなかった。その理由は「塙保己一は、一度聴いたことは生涯忘れなかったという。学校から帰ってまで勉強しなければならぬようでは、末が思いやられる」というものだった。
塙保己一(はなわ・ほきいち)は埼玉県出身の江戸時代の国学者で、「群書類従」(史書、文学作品1273種所収)、「続群書類従」の編纂者。七歳で失明したが、盲官の最高位・総検校(そうけんぎょう)まで昇進した。正四位。
塙保己一は書を見ることができないので、人が音読したものを暗記して学問を進め、偉大な学者になった。「群書類従」は、英国のケンブリッジ大学、ドイツの博物館、ベルギーの図書館、アメリカの大学等にも所蔵されえている。
板倉光馬は、そのような理由で、家で勉強する事はおろか、参考書のたぐいは一切買ってもらえなかった。
昭和四年八月、父が門司の北端にある和布刈神社の修築を請け負ったため、光馬は夏休み中、毎日のように手伝わされた。
昼過ぎに社務所のわきで休んでいた時、どよめきが起きた。光馬が振り向いてみると、眼下の関門海峡を連合艦隊が通航していた。
戦艦部隊を先頭に、航空母艦、巡洋艦部隊が続き、駆逐艦、潜水艦の一群が、長蛇のごとく海峡を圧していた。壮観で堂々たる威風は、そのままが海国日本のシンボルだった。
その躍動する黒鉄の美しさは、とうてい絵筆で表せるものではなかった。光馬は、全身を貫く稲妻のような感動に震えながら、艦影が千珠、満珠の彼方に消え去った時、初めて我に帰った。
その瞬間、「よーし、海軍にゆこう」と光馬は思った。躍動する連合艦隊に魅せられて、板倉光馬の夢は、急転直下、飛躍した。
<板倉光馬(いたくら・みつま)海軍少佐プロフィル>
大正元年十一月十八日、福岡県小倉市(現・北九州市)生まれ。板倉九十馬(建築業)の次男。
昭和五年(十九歳)三月旧制福岡県立小倉中学校卒。四月一日海軍兵学校入校。
昭和八年(二十二歳)十一月十八日海軍兵学校(六十一期)卒。卒業席次は百十六名中七位。
昭和九年(二十三歳)二月十五日少尉候補生として練習艦「磐手」で地中海方面へ遠洋航海。七月三十日重巡洋艦「足柄」砲術士。
昭和十年(二十四歳)四月一日海軍少尉。戦艦「扶桑」乗組み。七月重巡洋艦「最上」乗組み、重巡洋艦「青葉」乗組み。
昭和十一年(二十五歳)十二月一日海軍中尉、「イ68潜」通信長。
昭和十二年(二十六歳)十二月一日空母「加賀」乗組み。
昭和十三年(二十七歳)三月十五日駆逐艦「如月」航海長。七月一日練習艦「八雲」主任指導官付。十一月海軍大尉。
昭和十四年(二十八歳)一月第八潜水隊付「イ5潜」乗組み。二月物産会社経営者・池田勲旭の一人娘、池田恭子と結婚。十月「イ54潜」航海長。十一月水雷学校高等科学生。
昭和十五年(二十九歳)五月水雷学校高等科学生(首席)卒業、「ロ34潜」航海長。九月潜水学校乙種学生。十二月「イ169潜」水雷長。
昭和十六年(三十歳)十二月八日真珠湾攻撃に参加。
昭和十七年(三十一歳)十一月潜水学校甲種学生。
昭和十八年(三十二歳)三月「イ176潜」艦長。四月「イ2潜」艦長。六月海軍少佐。十二月「イ41潜」艦長。
昭和十九年(三十三歳)四月竜巻作戦命令に反対する。八月特攻戦隊参謀兼指揮官(回天隊)。
昭和二十年(三十四歳)三月大津島突撃隊司令。八月終戦。復員局で戦後処理。
昭和二十一年(三十五歳)東亜産業株式会社入社。
昭和三十一年(四十五歳)食料品店経営。
昭和三十二年(四十六歳)海上自衛隊幕僚統監部非常勤嘱託。
昭和三十五年(四十九歳)三菱重工業株式会社神戸造船所勤務。
昭和五十年(六十四歳)同社退職。以後、著述、ボランティア活動などに従事。
平成十七年十月二十四日死去。享年九十四歳。
主要著書に「どん亀艦長青春記」(光人社)、「不滅のネイビーブルー」(光人社NF文庫)、「伊号潜水艦」(光人社名作戦記)、「あゝ伊号潜水艦」(光人社NF文庫)、「続・あゝ伊号潜水艦」(光人社NF文庫)などがある。