陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

401.板倉光馬海軍少佐(1)板倉は父の反対を押し切ってでも画家で身を立てようと思っていた

2013年11月29日 | 板倉光馬海軍少佐
 「どん亀艦長青春記」(板倉光馬・光人社)によると、板倉光馬の出身校小倉中学は、北九州でも屈指の名門校で、一高や三高に進むものが少なくなかった。

 また、かつて第十二師団司令部の所在地だったこともあって、陸軍士官学校の受験者は多かったが、どういうわけか、海軍兵学校の受験者は少なかった。

 板倉光馬は当時軍人になろうとは考えてもいなかった。小倉中学の成績もかんばしくなく、たえず中の下あたりをうろついていた。

 ただし、図画だけは得意で、板倉の水彩画は、教員室の廊下や校長室に飾られていた。そんなことから、板倉は父の反対を押し切ってでも画家で身を立てようと思っていた。

 建築業の父は気性が激しく、家族にも厳しかった。三人兄弟のうち、一人だけは中学校にやって跡目を継がせようとした。兄は学問が嫌いで、器用な手先を生かすことを望んだ。いきおい、次男の光馬にお鉢が回ってきた訳だった。

 こうして小倉中学に入学したが、父は家での勉強を一切許さなかった。その理由は「塙保己一は、一度聴いたことは生涯忘れなかったという。学校から帰ってまで勉強しなければならぬようでは、末が思いやられる」というものだった。

 塙保己一(はなわ・ほきいち)は埼玉県出身の江戸時代の国学者で、「群書類従」(史書、文学作品1273種所収)、「続群書類従」の編纂者。七歳で失明したが、盲官の最高位・総検校(そうけんぎょう)まで昇進した。正四位。

 塙保己一は書を見ることができないので、人が音読したものを暗記して学問を進め、偉大な学者になった。「群書類従」は、英国のケンブリッジ大学、ドイツの博物館、ベルギーの図書館、アメリカの大学等にも所蔵されえている。

 板倉光馬は、そのような理由で、家で勉強する事はおろか、参考書のたぐいは一切買ってもらえなかった。

 昭和四年八月、父が門司の北端にある和布刈神社の修築を請け負ったため、光馬は夏休み中、毎日のように手伝わされた。

 昼過ぎに社務所のわきで休んでいた時、どよめきが起きた。光馬が振り向いてみると、眼下の関門海峡を連合艦隊が通航していた。

 戦艦部隊を先頭に、航空母艦、巡洋艦部隊が続き、駆逐艦、潜水艦の一群が、長蛇のごとく海峡を圧していた。壮観で堂々たる威風は、そのままが海国日本のシンボルだった。

 その躍動する黒鉄の美しさは、とうてい絵筆で表せるものではなかった。光馬は、全身を貫く稲妻のような感動に震えながら、艦影が千珠、満珠の彼方に消え去った時、初めて我に帰った。

 その瞬間、「よーし、海軍にゆこう」と光馬は思った。躍動する連合艦隊に魅せられて、板倉光馬の夢は、急転直下、飛躍した。

<板倉光馬(いたくら・みつま)海軍少佐プロフィル>
大正元年十一月十八日、福岡県小倉市(現・北九州市)生まれ。板倉九十馬(建築業)の次男。
昭和五年(十九歳)三月旧制福岡県立小倉中学校卒。四月一日海軍兵学校入校。
昭和八年(二十二歳)十一月十八日海軍兵学校(六十一期)卒。卒業席次は百十六名中七位。
昭和九年(二十三歳)二月十五日少尉候補生として練習艦「磐手」で地中海方面へ遠洋航海。七月三十日重巡洋艦「足柄」砲術士。
昭和十年(二十四歳)四月一日海軍少尉。戦艦「扶桑」乗組み。七月重巡洋艦「最上」乗組み、重巡洋艦「青葉」乗組み。
昭和十一年(二十五歳)十二月一日海軍中尉、「イ68潜」通信長。
昭和十二年(二十六歳)十二月一日空母「加賀」乗組み。
昭和十三年(二十七歳)三月十五日駆逐艦「如月」航海長。七月一日練習艦「八雲」主任指導官付。十一月海軍大尉。
昭和十四年(二十八歳)一月第八潜水隊付「イ5潜」乗組み。二月物産会社経営者・池田勲旭の一人娘、池田恭子と結婚。十月「イ54潜」航海長。十一月水雷学校高等科学生。
昭和十五年(二十九歳)五月水雷学校高等科学生(首席)卒業、「ロ34潜」航海長。九月潜水学校乙種学生。十二月「イ169潜」水雷長。
昭和十六年(三十歳)十二月八日真珠湾攻撃に参加。
昭和十七年(三十一歳)十一月潜水学校甲種学生。
昭和十八年(三十二歳)三月「イ176潜」艦長。四月「イ2潜」艦長。六月海軍少佐。十二月「イ41潜」艦長。
昭和十九年(三十三歳)四月竜巻作戦命令に反対する。八月特攻戦隊参謀兼指揮官(回天隊)。
昭和二十年(三十四歳)三月大津島突撃隊司令。八月終戦。復員局で戦後処理。
昭和二十一年(三十五歳)東亜産業株式会社入社。
昭和三十一年(四十五歳)食料品店経営。
昭和三十二年(四十六歳)海上自衛隊幕僚統監部非常勤嘱託。
昭和三十五年(四十九歳)三菱重工業株式会社神戸造船所勤務。
昭和五十年(六十四歳)同社退職。以後、著述、ボランティア活動などに従事。
平成十七年十月二十四日死去。享年九十四歳。

 主要著書に「どん亀艦長青春記」(光人社)、「不滅のネイビーブルー」(光人社NF文庫)、「伊号潜水艦」(光人社名作戦記)、「あゝ伊号潜水艦」(光人社NF文庫)、「続・あゝ伊号潜水艦」(光人社NF文庫)などがある。





















400.真崎甚三郎陸軍大将(20)「真崎は絶対にいかん、真崎大将を死刑にするんだ」

2013年11月22日 | 真崎甚三郎陸軍大将
 尋問における大谷憲兵大尉と真崎大将の問答は続く。

 大谷憲兵大尉「では聞きましょう。貴方は加藤寛治海軍大将と何か打ち合わせをしましたか」。

 真崎大将「加藤大将とはこの朝、宮中で会ったのが初めてだ」。

 大谷憲兵大尉「貴方は当日午前八時半頃、陸相官邸に入った。そして、しばらくそこにいたが、間もなく官邸を出て、宮城に参入する前に、伏見宮邸に参殿している。これも否認しますか」。

 真崎大将「もちろんだ、行かないものを言ったといえるはずはない」。

 大谷憲兵大尉「貴方は加藤大将に迎えられて同大将の侍立で、宮様に事態収拾についての意見を申し上げている。どんな意見を申し上げたか、ここで述べてもらいます」。

 そう言って、大谷憲兵大尉は加藤大将の調書を次のように読み上げた。

 「私は真崎大将を案内して殿下に伺候させました。私はそこで侍立していましたので、真崎大将が宮様に申し上げた内容については、ほぼ、記憶していますが、同大将は今朝来の事件の概要を申し上げた後、“事ここに至りましては、最早、彼らの志をいかして昭和維新の御断行を仰ぐより外に道はありませぬ。速やかに強力なる内閣を組織し事態の収拾をはかると共に、庶政を一新しなければなりませぬ”と、はっきり申しました」。

 真崎大将は一瞬棒を呑んだように、グッとつまり、今までの激しい反発の力を失い、じっと瞑目していたが、何も言わなかった。そのあと、真崎大将は低い声で力弱く、次のように言った。

 「加藤大将は私の最も信頼する畏友だ。この人が、かように証言している以上、私としてもこれを認めざるを得ない」。

 真崎大将は昭和十一年五月に検挙され、六月十一日、軍法会議は真崎大将を起訴と決定した。

 七月五日、真崎大将は代々木の陸軍衛戍刑務所に収監され、翌年九月二十五日の無罪判決の日まで囹圄(れいぎょ・獄舎)の人となった。

 真崎大将が無罪になったのは、軍の内外において真崎裁判は不当であったのであり、これを無罪にせよという論理が優勢になってきたからだ。

 真崎裁判は政治裁判としての本質が浮き彫りにされていたのだ。政界上層の真崎無罪論、真崎救出運動もあった。

 さらに天皇に対する上奏として、軍中央、軍司法の次のような弁明が行われた。

 「大御心を体し、叛乱者の頃幕として、真崎をこのように慎重に慎重を重ねて審理してまいりましたが、これ以上の追求は無理であり、かえって国軍の基礎をあやうくするものありと認めまするが故に、このあたりで終止符を打ちたいと存じます」。

 二・二六事件後の広田内閣の陸軍大臣になった寺内寿一大将(てらうち・ひさいち・山口・陸士一一・陸大二一・伯爵・朝鮮軍参謀長・中将・第五師団長・台湾軍司令官・大将・陸軍大臣・教育総監・北支那方面軍司令官・勲一等旭日大綬章・南方軍総司令官・元帥・マレーシアで拘留中に病死)は「真崎は絶対にいかん、真崎大将を死刑にするんだ」と言っていた。

 寺内大将は二・二六事件のとき参内して、天皇陛下に、「この事件の黒幕は真崎大将です」と上奏していたので、何としても真崎大将を有罪にするか、官位を拝辞させねばならぬ羽目に陥ったのだった。

 陸軍大臣・寺内大将は真崎裁判の裁判長に磯村年大将(いそむら・とし・滋賀・陸士四・陸大一四・野戦砲兵射撃学校長・浦塩派遣軍参謀長・中将・第一二師団長・東京警備府司令官・大将・予備役・東京陸軍軍法会議判事長)を任命した。

 磯村大将に寺内大将が「何でもかまわぬから、真崎を有罪にしろ」と言ったが、寺内大将より先輩の磯村大将は「そんな、調べもせんで有罪にしろというような裁判長なら引き受けられん」といって、公正な裁判を行った。後に「真崎には一点の疑うべき余地もなかった」と語っていた。このような状況によって真崎大将は無罪判決となった。

 真崎大将は戦後A級戦犯として巣鴨モプリズンに入所させられたが、不起訴処分となり軍人では一番先に釈放された。

 巣鴨モプリズンに収監中の昭和二十年十二月二十三日の真崎大将の日記には次のように記されていたという。

 「今日は皇太子殿下の誕生日である。将来の天長節である。万歳を祈ると共に、殿下が大王学を修められ、父君陛下の如く奸臣に欺かれ、国家を亡ぼすことなく力強き新日本を建設されんことを祈る」。

 真崎大将は昭和三十一年八月三十一日死去。葬儀委員長は荒木貞夫元大将が務めた。昭和天皇からは祭祀料が届けられた。

 (「真崎甚三郎陸軍大将」は今回で終わりです。次回からは「板倉光馬海軍少佐」が始まります)

399.真崎甚三郎陸軍大将(19)『真崎は青年将校の説得はうまいのう』と茶化すように言った

2013年11月15日 | 真崎甚三郎陸軍大将
 「阿部は立ち会わせておかないと、後でどんなことを言い触らすか知れんと思ったからであり、西は正直な男であるが、宣伝にのせられて、真崎は関係ありとの疑問を抱いているように見えたから、証人を二人選んだわけである」

 「私もうっかりしたことを言うと、彼らは武器をもっているから、どんなことになるかも知れんと思うから、懸命であった。全く決死の覚悟であった」

 「私は泣かんばかりに、誠心誠意、真情を吐露して彼等の間違いを説いて聞かせ、原隊復帰をすすめた。そして『直ぐ即答も出来まいから、皆で相談して返事を聞かせてくれ』と言って、十五分ばかり待つと、代表で野中大尉がやってきて、『よく分かりました。早速夫々原隊へ復帰致します』と言って来たので、私も真心が彼等に通じたのかと思って、非常に嬉しかった」

 「然るに阿部は帰りの自動車の中で『真崎は青年将校の説得はうまいのう』と茶化すように言ったので、『こん畜生、この男は命がけで俺がやっているのに、こんな位にしきゃ考えていないのか』と思うと、ぐっと癪に障ったが、さすがに正直者の西が、言下に『そうじゃありませんよ、真崎閣下は一生懸命でしたよ、だから聞いたのです。うまいも、まずいもありません』と心から感激していた。それ以来、西はどんな私のデマがとんでも、私を信じていたようだ」。

 だが、皮肉にも、この会見、この説得が、真崎大将の態度豹変、変心、逃げとあらゆる非難を受けることになった。

 この真崎大将ほど、憲兵や法務官らの取調官から酷評されている人物は珍しい。また徹頭徹尾否認し続けている人間もまた珍しい。

 「兵に告ぐ―流血の二・二六事件真相史」(福本亀治・大和書房)によると、まず、最初に真崎大将を取り調べた著者の当時東京憲兵隊特高課長・福本亀治少佐(後少将)は真崎大将に次のように言った(要旨)。

 「本日は陸軍の一憲兵少佐が陸軍大将に対して申し上げるのではなく、今次の未曾有裕の不祥事件をはっきりさせ、閣下に対する国民の疑惑を一掃するため、軍司法警察官という国家の職任からお尋ねもし、申し上げもしたいと存じますので、非礼の点はお許しを願います。それがため本日は陸軍の階級を示さない私服で応接いたしております…(略)…」

 「また、閣下が事件の背後関係者であると噂するものもありまして、今度の事件との関係に就いては、常に軍部ばかりではなく、全国民からも疑惑の眼を以って注目しております。その疑惑を払拭する上からも誤りのない真相を聞かせていただきたいと存じます」。

 真崎大将はキッ!と口を結んでしばらく黙していたが、やがて次第に昂奮の現し顔を紅潮させ遂に怒気を含んで次のように口をきった。

 「答える必要はない。自分は此の度の事件とは全然関係はない。青年将校たちが勝手に思い違いをして蹶起したのだ」。

 福本少佐はこの答えにただ唖然として真崎大将の顔を見守った。これが且つては三軍の将として、また青年将校の信望を一身に集めた将軍の態度なのだろうかと思った。

 また、青年将校たちは「一度蹶起せば事件の善後指導は将軍がしてくれる」と全幅の信頼を寄せて蹶起したのではないか。

 よしんば彼等の考え方が独断的な錯覚であったとしても、青年将校等をしてこの様な重大錯覚を起こさせる結果をもたらしたことに対して自責の念は起こらないのか。……考えるだけで福本少佐は口悔しかった。

 そのうち、真崎大将の発熱が高いということで一時、取調べを中止しなければならなくなった。その後も臨床調査を聴取したが、真崎大将は自己に不利な点となると殆ど否定し続けた。

 もう一人の担当取調憲兵・大谷敬二郎大尉(滋賀・陸士三一・東京帝国大学法学部・東京憲兵隊特高課長・憲兵大佐・東京憲兵隊長・東部憲兵隊司令官・戦後BC級戦犯重労働十年・「昭和憲兵史」「軍閥」「二・二六事件」など著書多数)も辛辣に真崎大将を批判している。

 「二・二六事件の謎」(大谷敬二郎・図書出版社)によると、当時憲兵大尉だった大谷敬二郎が真崎邸を訪れ、尋問を行った。問答は次の通り。

 大谷憲兵大尉「貴方は、その朝遅くも四時半頃には亀川哲也の報告によって、青年将校たちが兵を率いて重臣を暗殺し昭和維新に蹶起することを知った。ところが、貴方が陸軍大臣の電話による招致を受けて、その官邸正門に入ったのが午前八時半頃、これは間違いのない事実である。貴方は軍の長老として、また青年将校たちから尊敬されていた皇道派の大先輩として、この軍のかつてない一大事に、約四時間という長い時間を空費している。一体貴方はここで何をしていたのですか」。

 真崎大将「前夜から腹がしぶっていたので自動車の手配に手間取ってしまって遅くなった」。

 大谷憲兵大尉「陸軍大臣秘書官・小松光彦少佐(高知・陸士二九・陸大三八・兵務局兵備課長・ドイツ武官補佐官・少将・ドイツ駐在武官・中将)の証言によると、大臣から真崎大将をここに呼ぶように命ぜられ真崎邸に電話したところ、夫人と思われる方から、“只今、来客中ですが、すぐ参るよう申し伝えます”との返事があったと言っている。また、川島前陸相も右と同様の報告を秘書官から受けたと証言しているが、この来客とは誰ですか、また、この間誰と何を協議したのですか」。

 真崎大将「そんなことは断じてない。デマだ、けしからん話だ」。

398.真崎甚三郎陸軍大将(18)宮から直接そのようなお言葉をきくことは、心外である

2013年11月08日 | 真崎甚三郎陸軍大将
 「ころあいを見計らって、私は、加藤寛治海軍大将に電話して、二人で海軍軍令部長・伏見宮殿下を訪ねた」

 「伏見宮殿下に加藤大将は『真崎大将が現状を詳細に視察してよくわかっていますので、大将の意見を聞いていただきます』と言った」

 「私は、決行部隊の現況をつぶさに説明したのち、この混乱を速やかに収拾しなければ、どういうことになるか保証の限りではない、と意見を申し上げた」

 「私と加藤大将は『殿下、これから急ぎ参内されて、天皇陛下に言上の上、よろしくご善処下さるようお願い申し上げます』と述べ、いち早く天皇のご決意を維新へと導き奉らんとした」

 「伏見宮殿下はご納得の上、至急参内し、天皇陛下にご進言申し上げた。すると、『宮中には宮中のしきたりがある。宮から直接そのようなお言葉をきくことは、心外である』という天皇陛下のご叱責を受けて、宮殿下は恐縮して引き下がらざるを得なかった」。

 以上が真崎元大将の話だが、この時点で、天皇陛下の激怒によって、二・二六の青年将校たちはすでに惨敗していたということになる。

 事件当日、真崎大将は、午前十一時半か十二時ごろ、宮中の東溜りの間に伺候した。その頃軍事参議官が逐次集まってきた。

 大蔵氏が「軍事参議官会議の模様は……?」と質問すると、真崎元大将はその状況を詳細に話してくれたという。

 北一輝は西田税から決起将校たちが事前に軍上層部、少なくとも荒木貞夫大将、小畑敏四郎少将、石原莞爾大佐、鈴木貞一大佐(すずき・ていいち・千葉・陸士二二・陸大二九・陸軍省新聞班長・大佐・陸大教官・歩兵第一四連隊長・少将・興亜院政務部長・中将・予備役・企画院総裁・貴族院議員・第日本産業報国会会長・A級戦犯・戦後保守派のご意見番)、満井佐吉中佐らに諒解や連絡をしていなかったということを聞いて“しまった”と思った。

 北一輝は中国革命(辛亥革命)の経験から、革命というものは上下の全体的な統一的な計画のもとに行わなければ成功しないということを、知っていた。

 やがて、北一輝に「国家人なし。勇将真崎あり。国家正義軍のために号令し、正義軍速やかに一任せよ」と霊示が告げられた。

 北一輝は決起将校の栗原安秀中尉、村中孝次元大尉に、「軍事参議官全員で真崎大将を首班に推すようにし、大権私議にならぬよう、真崎大将に一任しなさい」と伝えた。

 磯部浅一元一等主計、村中孝次元大尉、香田清貞大尉は北の霊告を受けて事態を真崎大将に依頼しようと相談し、陸相官邸に各参議官の集合を求めた。陸相官邸には、十七、八名の決起将校が集まった。

 当日午後二時頃、陸相官邸に来たのは真崎大将、阿部信行大将、西義一大将(にし・よしかず・福島・陸士一〇・陸大二一・東宮武官・侍従武官・少将・野戦重砲兵第三旅団長・中将・陸軍技術本部総務部長・第八師団長・東京警備司令官・大将・東部防衛司令官・軍事参議官・教育総監)の参議官でほかの参議官は来なかった。

 この会見には山口一太郎大尉、鈴木貞一大佐、山下奉文少将、小藤恵大佐(こふじ・めぐむ・高知・陸士二〇・陸大三一・陸大教官・大佐・陸軍省補任課長・歩兵第一連隊長・待命・予備役・第一八師団参謀長・参謀本部戦史部長・少将・昭和十八年死去)らが立ち会った。

 このときの様子は、磯部浅一の手記「行動記」に拠ると、まず野中四郎大尉が、「事態の収拾を真崎将軍にお願い申します。この事は全軍事参議官と全青年将校との一致せる意見として御上奏お願い申したい」と申し入れた。

 これに対して真崎大将は「君達が左様に言ってくれる事は誠に嬉しいが、今は君達が連隊長の言う事をきかねば、何の処置もできない」と答えた。

 これについて「行動記」に磯部は、「どうもお互いのピントが合わぬので、もどかしい思いのままに無意義に近い会見を終わる。安部、西両大将が真崎を助けて善処すると言う事丈は、ハッキリした返事をきいた」と記している。

 真崎大将はこの会見について、後に次のように記している。真崎大将の決起将校たちに対する心情が率直に記されていて、貴重な証言である。

 「斯くて、偕行社に皆集まって色々協議するが、どうにも方策も名案も立たんのである。併しどうしても兵隊を原隊に引き揚げさせる外はないのであるが、迂闊には寄り付けんのである」

 「結局皆で私に説得してくれというのである。併し私は断った。うまくいって元々、悪くゆくと、どんなことを言い触らすかわからんのである」

 「それでなくとも悪党共は背後に真崎ありと宣伝していた際であるから、私は強く断った。併し陛下が大変御心配になっているから、毀誉褒貶(きよほうへん)を度外視して一肌脱いでくれと、再三の懇請に、それでは立会人を立ててくれと言って、阿部信行と西義一を指名した」