陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

380.黒島亀人海軍少将(20)そんなことは、長官はよく分かっておられる。よけいなことを言うな

2013年07月04日 | 黒島亀人海軍少将
 黒島大佐は仰天した。海軍の至宝が、そのような前線を視察するのは非常に危険だ。黒島大佐は言った。「おやめください、長官。あまりに危険です。長官に万一のことがあれば、海軍は崩壊します」。

 渡辺参謀も、黒島大佐に同調して叫んだ。「おやめください」。その席に出席している、主要幹部の多くの者が、山本長官の前線視察に反対して、説得にかかった。

 「しかし、日露戦争の児玉大将の例もあるからな。第一線の将兵にはかなりの刺戟になると思う」と山本長官は厳しい表情で言った。

 「お言葉ですが、長官、児玉大将は総参謀長で総司令官ではありませんでした。総司令官の大山大将は、煙台から離れたりしなかったはずです」と黒島大佐は言った。

 「そんなことは、長官はよく分かっておられる。よけいなことを言うな」。第三艦隊司令長官・小沢治三郎中将(宮崎・海兵三七・海大一九・巡洋戦艦「榛名」艦長・少将・海大教官・水雷学校長・第一戦隊司令官・中将・海大校長・第三艦隊司令長官・軍令部次長・連合艦隊司令長官)がピシャリと黒島大佐に言った。

 確かに、僭越な発言だった。黒島大佐は恥じて、山本長官に目をやった。二人の視線が合ったが、山本長官はすぐに目をそらした。黒島大佐に対して、これまでになかったよそよそしい、山本長官の表情だった。

 この時、黒島大佐は知らなかったが、山本長官はすでに黒島大佐の更迭を決心していた。山本長官は、第十一航空艦隊司令長官・草鹿任一中将(石川・海兵三七・海大一九・戦艦「扶桑」艦長・少将・砲術学校長・教育局長・中将・海兵校長・第一一航空艦隊司令長官・草鹿龍之介少将と従兄弟)と小沢治三郎中将に黒島大佐更迭の意向を打ち明け、他の適任者を推薦するよう頼んでいた。

 山本長官は、戦局の変化に応じて、先任参謀を変えることにより、打開を図ることを考えていた。だが、黒島大佐を見限ったのではなかった。黒島大佐の異能を最大限に発揮できるよう、中央のポストにつかせるのが、緊迫をます戦局において全海軍のためであるとも思っていた。

 「い」号作戦は、成功し、終了した。そして四月十八日、山本長官、宇垣参謀長らは第七〇五航空隊の二機の一式陸攻に分乗し、前線視察に向けて飛び立った。

 当時、黒島大佐は原因不明の激しい下痢に苦しんでいた。山本長官は、前日、「ガンジー(黒島大佐のニックネーム)、明日は行かなくていいぞ。静養していろ」と言った。黒島大佐は、それを受け入れてラバウルに残った。

 二機と護衛戦闘機がブーゲンビル島上空にきたとき、アメリカ陸軍航空隊のP-38ライトニング戦闘機十六機に突然襲撃され、山本長官の一番機と宇垣参謀長の二番機ともに撃墜され、山本長官は戦死した。宇垣参謀長は生還した。山本長官の前線視察は暗号解読によりアメリカ軍に事前に漏れていた。

 昭和十八年七月十九日黒島亀人大佐は軍令部第二部長に補任された。四十九歳だった。十一月に海軍少将に昇進し、終戦まで第二部長として特攻兵器の研究・開発に従事した。

 戦後は、東京で「白梅商事」(顕微鏡販売)を設立し、山本五十六の未亡人である山本礼子を入社させ、副社長に就任させた。社長は木村愛子で、黒島は常務だった。

 軍神の妻である山本礼子も、戦後は、トタン屋根の下で、窮乏生活を送っていた。人づてに、それを聞いた黒島が、援助の手を差しのべたのだった。

 黒島亀人は、その後家族と別居し、東京世田谷の木村愛子の邸宅に同居。哲学・宗教の研究に没頭して晩年まで過ごした。

 昭和四十年十月二十日、黒島亀人は肺ガンで死去した。享年七十二歳だった。黒島亀人は、昏睡のなかで、「南の空に飛行機が飛んでいく」と、うわ言のように言い、息を引き取ったという。

 「南の空に飛行機が飛んでいく」という言葉にあった飛行機は、自分が見送った、最前線視察に飛び立った山本五十六長官の搭乗機だったのか……。ようやく山本五十六のそばにいけるという思いが、最後の言葉になったのだろうか……。

 (「黒島亀人海軍少将」は今回で終わりです。次回からは「真崎甚三郎陸軍大将」が始まります)

379.黒島亀人海軍少将(19)彼は日露戦争に於ける秋山真之に匹敵する海軍の至宝である

2013年06月27日 | 黒島亀人海軍少将
 連合艦隊は事態が容易ならざることをさとり、第二艦隊、第三艦隊のラバウル進出を命じるとともに、八月十七日、旗艦「大和」は瀬戸内海の柱島を出港し、トラック島に本拠を移した。

 ガダルカナル島をめぐる争奪戦は、凄惨なものになってきた。陸軍は八月十八日に一木支隊を、九月七日に川口支隊をガダルカナル島に投入したが、ともに攻撃は失敗し部隊は壊滅した。

 大本営はついに、第二師団をガダルカナル島に上陸させることに決した。制空権、制海権ともアメリカ軍の優勢の中、第二師団を輸送するには海軍の協力が必要だった。だが、海軍側の協力は、駆逐艦で夜中に輸送する「鼠輸送」位だった。ぜひとも船団輸送が必要だった。

 参謀本部作戦班長・辻政信中佐は、この状況では、第二師団輸送は失敗すると判断した。そこで、連合艦隊司令長官・山本五十六大将に海軍の協力を直訴するため、辻中佐は、林参謀を伴い、昭和十七年九月二十四日、トラック島の、戦艦「大和」を訪ねた。

 その時のことが、「ガダルカナル」(辻政信・養徳社・昭和二十五年九月初版)に次のように記されており(要旨)、黒島大佐についても述べられている。

 「海軍機に便乗してトラックに向かった。大和が、化物のような巨体を浮かべ、それを取り囲むかのように数十隻の大小艦艇がならんでいる。恐ろしい数だ。だが、空母らしいものが僅かに二隻、これが帝国海軍の偉容であった」

 「ボートに乗って大和を訪れた。よくも人力でこのような軍艦が造れたものだ。これが航空母艦であったならと、ふと思った」

 「艦内に入ると、大ホテルに入ったようである。人呼んで大和ホテルというのも宜(うべ)なるかな。迷子になったら容易に出られそうもない。今更のようにその設備の尨大(ぼうだい)に驚いた」

 「早速、作戦室に通された。黒島高級参謀がその長身を机に凭(もた)せて、一心に作戦を練っている。彼は日露戦争に於ける秋山真之に匹敵する海軍の至宝であるとの噂だった」

 「戦前数年間、連合艦隊の作戦主任として、薄暗い一室に籠り、禅坊主のように、寝食も忘れ、家庭も忘れて、神謀を練り、奇策を編み出す眞個の幕僚であった。その下におる参謀も粒選りだ。どうやら軍令本部よりも一枚上手らしい」

 「ガ島奪回作戦失敗の眞因を説明した。第二師団を投入する作戦は、前轍を踏んではならぬ。万難を排して、船団輸送により、必要にして十分な糧食と弾薬とを揚陸しない限り、見込みはないことを強調した」

 「併しながら海軍にもまた、言い分がある。ミッドウェーの大敗で空母の主力をやられ、艦上機の多数を、練達の将校を共に失い、而も不利な条件で、ガ島での消耗をこれ以上繰り返すことは容易に忍び難いところであろう」

 「黒島参謀は、議論はしなかった。十分知り抜いているからである。併し、断は下し得ない。宇垣参謀長が入って来た。何処かしら、陸軍の宇垣さんに似た風采がある。親戚ではなかろうか。とすれば、よくもこのような偉材を同一家系から排出したものだ。一見しただけで貫禄と識見とが判るようである。山本長官を助けるにふさわしい幕僚陣容だ」。

 辻中佐は、そのあと、山本長官に会い、「よろしい、山本が引き受けました。必要とあらば、この大和をガ島に横づけにしても必ず船団輸送を、陸軍の希望通り援護しましょう」との長官の言葉をもらった。

 言い終わった時、山本長官は、両眼からハラハラと涙をこぼしたという。辻中佐も、思わず貰い泣きをした。「海軍参謀になって、この元帥の下で死にたいとさえ考えた」と辻は記している。

 だが、その後のガダルカナル島への兵力投入にもかかわらず、攻撃は失敗に終わり、昭和十八年二月一日~七日、ガダルカナル島の日本軍は駆逐艦により撤退した。

 昭和十八年四月三日、山本長官以下連合艦隊司令部は、旗艦、戦艦「武蔵」(二月十一日より旗艦)を出て、ラバウルへ進出することになった。

 山本長官が発案し、黒島大佐らが立案した大規模な「い」号作戦(ガダルカナル島と周辺敵艦船への大規模爆撃)を、第一線基地に進出して、指導、激励するためだった。

 ラバウル到着後、晩餐会が開かれ、連合艦隊参謀、隷下艦隊の各長官、参謀、陸軍の第八方面軍司令官・今村均中将らが出席した。

 その席で、宇垣参謀長が「ソロモン、ニューギニア方面の第一線部隊の志気を大いに鼓舞するため、同方面の最前線基地を巡回したい」と言い出した。

 山本長官も「私も行く。確かに我々は陣頭指揮の気概に欠けるところがあった……」と言い出した。

378.黒島亀人海軍少将(18)黒島大佐は山本長官に喰ってかかりながら、泣いていた

2013年06月20日 | 黒島亀人海軍少将
 山本長官は黒島大佐や参謀に尋ねた。「どうだ、南雲司令長官にすぐ攻撃せよと命令せんでよいか」。

 黒島大佐は「大丈夫でしょう」と答えた。「こちらから命令しなくても、南雲司令部としても、ただちに攻撃するでしょう」とも。航空参謀・佐々木中佐も「同感であります。ご心配は無用かと思います」と言った。

 山本長官は、「そうか、わざわざ命令せんでよいか」と言った。山本長官は、最終的に黒島大佐らの意見に同意して、「空母発見」の情報は機動部隊に伝達されなかった。

 昭和十七年六月五日から七日にかけて行われたミッドウェー海戦は、惨敗だった。機動部隊の大型航空母艦、「赤城」「加賀」「蒼龍」「飛龍」の四隻とその艦載機、熟練したパイロットを一挙に失った。

 山本長官は、決断を下した。四隻の空母が全滅した以上、ミッドウェー作戦は中止せざるを得ない。残った南雲機動部隊に退却命令を出さねばならぬ。

 山本長官のこの意向を聞いて、黒島大佐など参謀たちは一種のパニック現象に陥ったといわれる。連合艦隊にとって、このような壊滅的な敗北は初めてだった。しかも参謀の誰もが負けるはずはないと思っていたのだ。

 黒島大佐は泣きながら、山本長官の決断に反対した。「長官、『赤城』はまだ浮いています。『赤城』をこのまま見殺しにするのですか」。

 もし、空母『赤城』がアメリカに捕獲されて見世物になったらどうするか。かといって、こちらが魚雷で『赤城』を沈めるわけにはいかない。したがって、第二主力部隊が現場に急行するしかないと、黒島大佐は山本長官に喰ってかかりながら、泣いていた。

 黒島大佐とともに作戦立案にかかわった戦務参謀・渡辺中佐も強硬に山本長官の決断に反対し、作戦の続行を主張した。

 二人は色をなして山本長官に喰ってかかったと言われている。だが、山本長官は、二人の意見を退けた。

 山本長官は、いまだに沈まずに炎上し続けている『赤城』と『飛龍』を、駆逐艦「野分」に魚雷を発射させて沈めた。そして「ミッドウェー攻略ヲ中止ス」の退却命令を出した。

 山本長官は参謀たちに、「今度の失敗はすべて僕の責任だ。南雲部隊を責めてはいかん」と言い残して、長官私室に引きこもり、数日間、姿を見せなかった。

 アメリカの太平洋艦隊に対し、圧倒的に優勢だった連合艦隊が、一瞬のうちに壊滅してしまった。それは、黒島大佐が真珠湾奇襲作戦以来、築きあげてきた自信と誇りの崩壊を意味した。

 黒島大佐をはじめ参謀たちは茫然自失していた。そういった姿を尻目に、宇垣参謀長は、水際立った指揮をし、全軍総退却の指導を行った。

 以来、宇垣参謀長は、黒島大佐に遠慮せずに、ほかの参謀たちにも命令するようになった。今まで、山本長官と黒島大佐のラインに棚上げされていた宇垣参謀長は息を吹き返したようだったという。

 ミッドウェー作戦は日本海軍、連合艦隊の大敗に終わった。南雲機動部隊の草鹿参謀長たちは乗り移っていた軽巡「長良」から、旗艦の戦艦「大和」に帰ってきた。

 「大和」の艦上で、黒島大佐は、南雲機動部隊の首脳を血走った目で迎えた。怒気をはらんだその目は吊り上って、三人をにらみつけたという。

 黒島大佐は、草鹿参謀長に「しかし、なぜ、敵発見から二時間近くも攻撃隊は発進しなかったのですか」と迫った。

 すると、草鹿参謀長は「私は、連合艦隊にあれほど念を押していったはずです。『赤城』はじめ空母の通信施設は不十分だ。貧弱です。だから、重要情報は連合艦隊から転電してくれと念を押していったではないか」と、逆襲した。

 黒島大佐は、言い逃れだ、苦し紛れの弁解だ、論理のすり替えだと思い、憤然としたが、沈黙を守った。山本長官の前で、これ以上判断ミスを責めるわけにはいかなかった。

 肝心の山本長官は、もっぱら草鹿参謀長たちのなぐさめ役にまわっていた。だが、黒島大佐は南雲司令部の作戦指導に対する疑問が底深くわだかまっていた。

 昭和十七年八月七日、機動部隊の援護を受けた、アメリカの海兵師団が突如、ツラギ島とガダルカナル島に上陸してきた。アメリカ軍の本格的な巻き返しの第一歩だった。

377.黒島亀人海軍少将(17)連合艦隊の幕僚たちは一種の神がかり的な状態になっていた

2013年06月14日 | 黒島亀人海軍少将
 その結果、福留少将は「せっかくの連合艦隊の作戦案だから、なるべく検討してみようではないか」と言ったのである。福留少将は山本長官のもとで「長門」艦長や参謀長として使えたことがあり、厳しい態度がとれなかった。

 結論は、三日後の四月五日に持ち込まれることになった。この経過は、真珠湾奇襲攻撃作戦をめぐる、軍令部と黒島大佐の対立と同様なものになった。

 四月五日、軍令部作戦室で会議は行われた。渡辺安次中佐の前には、軍令部次長・伊藤整一中将、第一部長・福留繁少将、第一課長・富岡定俊大佐、航空主務部員・三代辰吉中佐が席を占めていた。

 ミッドウェー、アリューシャン両作戦案が再度検討されたが、富岡大佐と三代中佐は、一貫して反対の態度を変えなかった。特に三代中佐は航空作戦、航空軍備の面から強硬に反対の論陣を張った。

 渡辺中佐は、中座した。呉経由で、戦艦「大和」に電話連絡して、山本長官に海軍中央部の主張を伝え、山本長官の意志を確認した。「連合艦隊の案がいれられなければ、司令長官の職を投げ出す」。

 席に戻った渡辺中佐は、山本長官の意志が変わらないことを伝えた。とうとう福留少将は「山本長官が、それほどまでに仰有るのなら……」と伊藤中将に言った。伊藤中将は黙ってうなずいた。

 なお、山本長官の、「司令長官の職を投げ出す」の言葉について、千早正隆(台湾・海兵五八・海大三九・第四南遣艦隊参謀・連合艦隊作戦乙参謀・海軍総隊参謀・海軍中佐・戦後東京ニュース通信社常務取締役・戦史作家)は、「別冊歴史読本」八六夏季特別号で、次のように述べている(要旨)。

 「諸般の事情から見て、それは山本長官自身の言葉ではなく、軍令部に対する最後の切り札として、黒島大佐が独断でデッチ上げた可能性がある」。

 山本長官の真意か、黒島大佐のデッチ上げかは、ともかく、このような心情的なやりとりが主流となった経過をたどり、山本長官の主張した、ミッドウェー、アリューシャン両作戦案は、軍令部を通ったのである。その瞬間、三代中佐は涙を流し、顔を伏せた。痛恨の涙だった。

 山本長官は、アメリカの空母群を壊滅させねば日本の勝利はないと考えていた。真珠湾を奇襲したのも、本来はその目的であり、ミッドウェー島を占領し、アメリカ機動部隊を誘い出す作戦も、その考えに基づいたものだった。

 連合艦隊はミッドウェー作戦に向かって動き出した。だが、真珠湾奇襲作戦の成功によって、連合艦隊の幕僚たちは一種の神がかり的な状態になっていた。驕慢と自惚れが連合艦隊の参謀たちを支配していた。

 さらに、参謀たちには奇妙な亀裂があった。宇垣参謀長は、山本長官を補佐すると同時に、黒島先任参謀以下、作戦、政務、航空、通信、航海、戦務、水雷、機関担当参謀を監督、統括する責任があった。

 だが、山本長官は黒島先任参謀を偏愛し、山本長官と黒島先任参謀のパイプは直結していた。宇垣参謀長は、山本=黒島のパイプラインから除外されていた。

 山本長官は勝負事には事実本当に強く、よく、将棋やカードをしていた。それだけに並みの相手では勝負にならなかった。

 その点、渡辺中佐と作戦参謀・三和義勇大佐(海兵四八・海大三一次席・空母「赤城」飛行隊長・軍令部第一部部員・連合艦隊参謀・空母「加賀」飛行長・霞ヶ浦空副長・大佐・連合艦隊参謀・第一一航空艦隊参謀・第一航空艦隊参謀長・戦死・少将)は将棋の腕は確かだった。

 この将棋を通じて、この二人は山本長官の信頼を得て、黒島大佐に次ぐ側近になったのである。

 三和大佐は、黒島大佐より兵学校四期後輩であったが、航空作戦の専門家だった。それにもかかわらず、黒島大佐と意見の食い違いが多く、三和大佐の構想はあまり反映されなかったと言われている。

 渡辺中佐は特に作戦の構想力があり、黒島大佐は真珠湾奇襲作戦を立てるとき、ほかの参謀とは別に渡辺中佐に独自の研究を命じていた。その意味では、山本長官、黒島大佐、渡辺中佐の三人は一枚岩の結びつきの固さをもっていた。

 黒島大佐は、山本長官の陰にあって、自己過信の悪循環に陥っていった。過信はやがて慎重さを欠き、相手に対する過小評価につながっていった。

 ミッドウェー海戦までの時期は、黒島大佐だけでなく、参謀たちも、絶頂期であると同時に、そういう危うい状況だったといえる。

 遂に、ミッドウェー作戦は開始された。南雲機動部隊は、当初、敵空母はいないと判断していた。だが、索敵の結果、「敵空母発見」の電報が、戦艦「大和」の司令部にも入った。

376.黒島亀人海軍少将(16)作戦課が反対したからといって、おめおめと引き下がれない

2013年06月07日 | 黒島亀人海軍少将
 だが、この交代案は、山本五十六長官により一蹴された。その理由は、黒島大佐の作戦頭脳は一種独特なもので、余人をもって替え難いというものだった。

 確かに黒島大佐よりはるかに優秀な参謀は多数いるが、優秀な正統派は、すべて型にはまった発想しかできない。

 山本長官は、海軍中央の正統的な戦略理念では、豊かな資源とエネルギーに恵まれたアメリカには勝てない。奇策を生み出す必要があった。黒島大佐によってのみ、その奇策が生み出し得ると確信していた。

 黒島大佐の交代劇の経緯は、その三ヶ月前にさかのぼる。昭和十七年一月中旬、真珠湾奇襲攻撃が一段落し、山本五十六長官は、宇垣参謀長と黒島主任参謀に新たな作戦の策定を命じた。

 黒島大佐は一室に四日間閉じこもり、作戦構想を練った。黒島大佐が部屋を出てきたときに手にしていたのは、米空母を潰滅へと誘い込むことを企図して、ミッドウェーかハワイに一大襲撃を喰わす計画だったのだ。

 それは、ミッドウェーとアリューシャン列島に攻撃を仕掛けるために十六個機動部隊を使用するという大攻撃作戦案だった。

 この作戦案は、山本長官も出席した連合艦隊の参謀会議にかけられ、実行可能な作戦案に修正されていったが、基本プランは黒島大佐の頭から捻出されたものだった。

 そのプランは、精緻極まりないものであった。列車のダイヤグラムのように精密に計算され、徹底的に練り上げられた作戦計画で、一種の芸術作品のシナリオともいうべきものだった。

 参加兵力は戦艦十一、空母八、巡洋艦二十一など、大小艦艇が二百隻を越えるもので、それらが、十~十二のグループに分かれ、ミッドウェーとアリューシャン列島に向かって、異なる時と場所から整然と出撃し、目的地に収れんしていくように工夫されていた。

 だが、それは、世界戦史上空前ともいえる戦域拡大を余儀なくするものだった。

 それにもかかわらず、山本長官は、この作戦計画をよしとした。こうして、MI(ミッドウェー)、AL(アリューシャン)両作戦構想はできあがっていった。

 昭和十七年四月二日、連合艦隊戦務参謀・渡辺安次中佐は、この作戦構想を携えて、連合艦隊司令部である、戦艦「大和」を離れて上京し、海軍軍令部を訪れた。連合艦隊の旗艦が、戦艦「長門」から「大和」に移ったのは、二月十二日だった。

 渡辺中佐が携えてきたこの作戦案に、軍令部は真っ向から反対した。反対の中心になったのは、軍令部第一部第一課長(作戦課長)・富岡定俊大佐と、航空主務部員・三代辰吉中佐だった。

 ちなみに、三代中佐と渡辺中佐は海軍兵学校(五一期)、海軍大学校(三三期)ともに同期だった。

 連合艦隊の作戦概略は、ミッドウェー占領後、できればハワイ攻撃を視野に、アリューシャン列島の要地を占領し、日本の空と海を、東に二〇〇〇カイリ拡大する。同時にアメリカ太平洋艦隊を誘い出し撃滅するというものだった。

 一方、軍令部は、アメリカは、オーストラリアを拠点にして反攻に出てくると想定していた。日本としてはアメリカが反攻してくる前に、ソロモン群島からニューカレドニア、サモア島などを攻略して、オーストラリア孤立させる。

 これは、いわゆる米豪遮断作戦だが、第二段作戦として、この作戦を軍令部作戦課は、もっとも熱心に研究、推進していた。富岡大佐や三代中佐もこの立場であり、ミッドウェー、アリューシャン両作戦構想に反対した。

 富岡大佐と三代中佐は、たとえ、ミッドウェー島を攻略占領しても、補給難の問題がある。補給を続けるために、護衛の航空兵力を得るために広大な制空権を維持しなければならないことを勘案すれば、この孤島の占領価値は少ないと主張した。占領継続のための艦隊行動にも難があると。

 この問題に対して、渡辺中佐の反論はタジタジとなった。最後に渡辺中佐は次のように主張した。

 「作戦案は、いやしくも山本長官が決裁したものである。作戦課が反対したからといって、おめおめと引き下がれない。軍令部上層部の意見を聞きたい」。

 渡辺中佐の主張を受けて、富岡大佐と三代中佐は、第一部長・福留繁少将のところに同案を持ち込んで、議論を続けた。

375.黒島亀人海軍少将(15)「何を言うか生意気な。先任参謀、貴様口が過ぎるぞ」

2013年05月31日 | 黒島亀人海軍少将
 南雲長官は、ハワイに向かう途中も、「機動部隊の司令長官の役を断るべきだったかもしれない」と弱気な言葉を吐いた。そんな南雲長官を、山本長官は、「心配するな、万一の場合、責任は自分が取る」と励ましていた。

 そのような南雲長官が真珠湾奇襲攻撃の指揮をとり、一応の戦果をおさめた。そして今、泥棒が盗んだものを持って無事に逃げることしか考えていないのと同じ心境にいるだろうと、山本長官は皮肉ったのだった。

 十二月二十三日午後六時半、南雲機動部隊は広島湾に凱旋してきた。年の暮れである。空母「赤城」が到着したときは、すでに日が暮れ、灯火管制で海上も島も闇に塗り込められていた。

 宇垣参謀長以下十二名の連合艦隊司令部参謀は、そろって内火艇で「赤城」の南雲長官と草鹿参謀長を表敬訪問した。

 長官公室で一同は顔をあわせた。宇垣参謀長が連合艦隊司令部を代表して凱旋を祝し、機動部隊の奮戦に感謝の意をあらわした。

 南雲長官も草鹿参謀長も得意の絶頂にあった。肩を怒らせ、椅子にそっくり返って大声で語った。まるで自分たちが戦艦四隻を撃沈、四隻を大中破したような話し振りだった。

 黒島大佐は、南雲長官、草鹿参謀長の消極的な指揮ぶりが不満だったので、「一陣、二陣による第一回攻撃のあと、なぜ第二回の攻撃をやらなかったのか」と詰問する口調で質問した。

 ところが、南雲長官も草鹿参謀長も、赤くなって声を荒げた。

 「現場におらぬ者に何が分かる。空襲部隊の搭乗員は生命がけで大仕事をやり、疲れきって帰還したんだぞ。それを再び死地に追いやることはできぬ」。

 「その通りだ。第一回の一次、二次攻撃で真珠湾は火焔に覆われていた。新たに空襲しても、攻撃目標をろくに発見できなかったはずだ。しかも、敵は反撃態勢をととのえていた。そこへ空襲をかけたら、我が方も百機ぐらいは犠牲がでていたところだぞ」。

 「軍令部の命令は、空襲後ただちに避退せよだった。その通りにやったまでだ」というのが南雲長官の主張だった。

 軍令部は南方の資源地帯の確保を開戦の第一目標においていた。ハワイ作戦は南方攻略をすみやかに達成するための支作戦に過ぎない。

 その作戦で、貴重な飛行機や艦船を失うのはまっぴらである。空襲がすんだらさっさと退避せよ。これが軍令部の意向だった。南雲長官らにしてみれば、その通りにやったまでで、非難されるいわれはない。

 そんな二人を、黒島大佐は冷ややかに眺めていた。だが、ムキになって反論する態度そのものに、内心の後ろめたさが露呈していた。山本長官が言った通り、「泥棒も帰りが怖かった」のである。

 黒島大佐は「敵の最重要地点をつづけさまに痛撃して戦意を奪う、という山本長官の方針は、もっと尊重されるべきだったと思います」と遠慮なく切り込んだ。

 「何を言うか生意気な。先任参謀、貴様口が過ぎるぞ」草鹿参謀長が逆上して叫んだ。「獅子翻擲はわしの信念だ。全力で敵を倒したあと、さらにぐずぐずと戦利品を漁りにゆくような汚いまねは絶対にできぬ」。一刀流に草鹿参謀長はこだわっていた。

 黒島大佐は引き下がらなかった。「お言葉ですが草鹿少将、我々は近代戦を戦っているのです。剣道の稽古をしているのではありません。戦争はそんないさぎよいものではない。第一、ハワイ作戦自体が卑怯といえば卑怯な奇襲だったのです」。

 「なんだとォ。では訊くが、山本長官が我々に方針を詳しく説明したことがあったか。ハワイ近海に踏みとどまって何度でも叩けと言われたことなど一度もないぞ。文句を言わずに協力しろと言われただけだ」。草鹿参謀長は、この点を強く主張した。

 だが、黒島大佐は「現場で情勢を見て判断なさるべきです。最初から翻擲を決め込むのは、おかしい」と引き下がらなかった。

 真珠湾攻撃から約五ヶ月を経過した昭和十七年四月中旬、海軍中央は黒島亀人大佐の連合艦隊主任参謀の交代を画策した。

 連合艦隊の先任参謀がずっと同じでは、作戦のクセを敵に読まれるという名目だったが、実情は、黒島大佐が奇人・変人とのうわさがあり、アブノーマルな頭脳の持ち主ではなく、海軍中央部の意向に忠実な正統派の作戦家を送り込もうとしたのだ。

374.黒島亀人海軍少将(14)山本長官は笑みを含んで「泥棒も帰りがこわい」と黒島大佐に言った

2013年05月24日 | 黒島亀人海軍少将
 真珠湾奇襲攻撃は本決まりになった。黒島大佐は山本長官の期待に応えて、海軍中央に風穴をあけることに成功した。周囲から奇人・変人とも言われながらも、動じない強固の意志力が真珠湾奇襲作戦を動かした。

 「太平洋戦争と富岡定俊」(史料調査会編・軍事研究社)の中で、富岡定俊元海軍少将(男爵)は、軍令部第一課長当時、黒島大佐とハワイ奇襲作戦で大激論をかわしたことについて、戦後、次のように述べている(要旨)。

 「私が、連合艦隊の先任参謀だった黒島参謀とハワイ攻撃のことで大激論をかわしたと一般に伝えられ、これがまた軍令部がハワイ作戦に最後まで反対し、連合艦隊側と激突したようにも書かれているが、それは真相ではない」

 「軍令部はハワイ作戦そのもののプリンシプルに反対したのではなく、ハワイ作戦に投入する兵力量の問題で違憲を異にしたのである」

 「軍令部は全海軍作戦を大局的にみて、まず南方要域の確保に重点を置いていたから、いきおい投機的なハワイ作戦に、トラの子の空母六隻を全力投入することに反対していたので、空母三隻くらいならすぐOKを出したのである」

 「連合艦隊は最後には空母四隻でもいいからと言ってきたことがある位だ。黒島参謀は、私との折衝のテクニックのためか、『連合艦隊案が通らなければ山本長官は辞職される』とまで言っていたが、私は山本司令長官の進退と、戦略、戦術とは別事であると思っていたし、また山本さんが辞職されるなどということも考えてはいなかった」

 「こういうことがあってから、陸軍参謀本部の作戦課長が、快く満州から陸軍航空兵力を南部仏印に回してくれたので、これで後顧の憂いを断ち、ハワイへ空母を全力投入することに決まったのであって、問題はあくまで兵力量であり、それも乏しい中でのヤリクリの結果であった」。

 以上のように当時を振り返って、富岡元少将は、ハワイ奇襲作戦に反対した軍令部の立場を述べている。

 昭和十六年十二月八日、真珠湾攻撃飛行機総指揮官・淵田美津雄(ふちだ・みつお)中佐(奈良・海兵五二・海大三六・真珠湾攻撃飛行機総指揮官・横須賀航空隊教官・海大教官・連合艦隊参謀・大佐・戦後キリスト教伝道・大阪水交会会長)は、第一次攻撃隊、第一集団の九七艦攻水平爆撃機五十機の一番機に乗っていた。

 「ト・ト・ト」(全軍突撃セヨ)のあと、淵田美津雄中佐は、午前三時二十三分(日本時間)、空母機動部隊、第一航空艦隊(司令官・南雲忠一中将)の旗艦、空母「赤城」に対して「トラ・トラ・トラ」(ワレ奇襲ニ成功セリ)を打電した。連合艦隊の真珠湾奇襲攻撃は開始された。

 真珠湾奇襲攻撃の戦果は、撃沈が、「アリゾナ」など戦艦五隻、巡洋艦二隻、給油艦一隻。大破が、戦艦三隻、軽巡二隻、駆逐艦二隻。中破が、戦艦一隻、巡洋艦四隻。飛行機は164機を撃墜または破戒、159機に損傷を与えた。

 一方、日本側の損害は軽微だった。未帰還の航空機は、雷撃機五機、戦闘機九機、急降下爆撃機十五機の計二十九機、損傷は七四機だった。それに特殊潜航艇(甲標的)五隻だった。

 真珠湾奇襲攻撃の戦果は予想外に大きいものだった。伝統的な海軍戦略の信奉者であった機動部隊司令長官・南雲忠一中将は、武力を温存するために、できるだけ早く日本の海域に戻りたいと判断していた。参謀長・草鹿龍之介少将も同様な考え方だった。

 これに対し、航空甲参謀・源田実中佐は、強硬に再攻撃を主張した。その理由は、四五〇万バレルにのぼる石油タンク群、大規模な工廠、それに敵空母群が無傷だった。

 第二航空戦隊司令官・山口多聞少将も源田中佐と同様な考え方で、南雲長官に対し、真珠湾再攻撃を主張し、必要なら第二撃、第三撃を加えるべきと、意見具申を行った。

 だが、南雲長官と草鹿参謀長はこれらの意見を拒み、「攻撃準備取り止め」の号令を発した。

 連合艦隊の旗艦、戦艦「長門」にいた先任参謀・黒島亀人大佐も、強硬な再攻撃論者だった。黒島大佐は連合艦隊の全参謀を集めて、真珠湾に第二撃を加えるかどうか討議した。

 十二月九日午前十時、「長門」では、幕僚会議が開かれた。黒島大佐は、討議の内容を山本長官と宇垣参謀長に説明して「長官に再攻撃の命令を出していただきたいと考えております」と述べた。

 山本長官は、その理由を黒島大佐にもう一度説明するように言った。黒島大佐は、敵機動部隊が生き残っていると中途半端な戦果になると主張した。

 さらに、黒島大佐は「第二撃の命令を出していただけませんか」と山本長官に激しく喰い下がり、次のように述べた。

 「もともと、真珠湾を徹底的に破壊し、敵空母を撃沈するのが作戦の狙いでした。是が非でも再攻撃の命令を」。

 この黒島大佐の主張を、山本長官は微笑で受けとめたと言われている。山本長官は南雲長官の心情を知っていた。南雲長官は、第二撃は決して加えないだろうと。

 山本長官は笑みを含んで「泥棒も帰りがこわい」と黒島大佐に言った。その一言だったが、それは鉛のように重い言葉だった。

373.黒島亀人海軍少将(13)「大艦巨砲主義ですか、馬鹿のひとつ覚えですな」と吐き出すように言った

2013年05月16日 | 黒島亀人海軍少将
 長官公室では、山本五十六長官と黒島大佐、航空参謀・佐々木中佐が応対し次のようなやりとりが行われた。

 大西瀧治郎少将「十一航艦のみではフィリピン撃滅は無理です。一航艦のハワイ奇襲を中止し、十一航艦とともにフィリピン攻撃を実施させてください」。

 佐々木彰中佐「軍令部情報では、フィリピン方面の敵は弱体であると分析しています」。

 草鹿龍之介少将「ハワイ奇襲作戦は投機性が強すぎます。中止していただきたい」。

 これを聞いていた山本長官は、大西少将と草鹿少将の二人に穏やかに言い聞かせる口調で次のように述べた。

 「南方作戦中に東方から米機動部隊に本土を空襲されたらどうする。石油さえ手に入れれば東京、大阪が焦土になってもかまわんのか。まずハワイを叩いておかなくては、安心して南方作戦を展開できんではないか」。

 「とにかく自分が連合艦隊司令長官でいる限り、ハワイ奇襲作戦は断行する。一航艦、十一航とも幾多の無理や困難はあろうが、ハワイ奇襲はぜひやるんだという気構えで準備を進めてくれ」

 「おれがいくら博奕(ばくえき)好きでも、そう投機的だ投機的だ、と言うなよ。君たちの考えにも一理あるが、俺の話もよく研究してくれよ」。

 この山本長官の言葉を聞いたあと、しばらく話し合ううちに、大西少将が折れ、逆に草鹿少将の説得にかかるようになった。それで、遂に草鹿少将も約束せざるを得なくなった。

 二人の少将が退艦する際、山本長官は舷門まで二人を送って行った。これは極めて異例なことだった。黒島大佐、佐々木中佐もついていった。

 別れ際に、山本長官は草鹿少将の肩をたたいて、次のように話しかけた。

 「君の言うことはよく分かる。だが、真珠湾攻撃は自分の固い信念なのだ。これからは反対論を言わず協力してくれ。ハワイ作戦実施のためなら、君の要望は何でも必ず実現するよう努力するから」。

 「分かりました。もう何も申しません。ハワイ作戦のため全力を尽くします」。草鹿少将は感動して答え、敬礼をした。

 昭和十六年十月十八日、山本長官の指示で黒島大佐は海軍省に出向いた。黒島大佐を迎えたのは、軍令部作戦課長・富岡大佐と航空主務部員・三代辰吉(後に改名・一就)中佐(茨城・海兵五一・海大三三・第二艦隊参謀・軍令部作戦課・大佐・横須賀海軍航空隊副長)だった。

 黒島大佐は「真珠湾はどうしても攻撃しなけりゃならない」と激しくまくしたてた。

 富岡大佐は「いや、軍令部は必ずしもそうは考えていない」と応酬した。

 黒島大佐は「大艦巨砲主義ですか、馬鹿のひとつ覚えですな」と吐き出すように言った。

 すると、富岡大佐は「我々はそうは考えません」と応じた。

 黒島大佐は「軍令部の石頭と評するしかありません」と言い、けんかの様相で、両者の激しい応酬は続いた。

 ついに黒島大佐は、「この作戦が採用されない場合には、わが国の防衛に責任が持てない。山本長官と全幕僚は辞任するしかない」という爆弾発言をし、切り札を切った。

 開戦を目前にして、山本長官以下幕僚に辞任されたら、海軍中央はどうにもならない。この発言に驚いた富岡大佐は、黒島大佐を作戦部長・福留少将のもとへ連れて行った。

 福留少将に対しても、黒島大佐は同様な発言をした。困惑した福留少将は、黒島大佐と富岡大佐を、軍令部次長・伊藤整一中将に会わせた。

 伊藤中将は、二ヶ月前の九月一日まで、山本長官の参謀長だったので、黒島大佐をよく知っていて、好意的だった。

 伊藤中将は、黒島大佐を自分の部屋に待たせ、福留少将と富岡大佐をともなって、軍令部総長・永野修身大将のところに行った。

 伊藤中将と福留少将が、事情を説明し、永野大将の決断を迫った。二人の説明を黙って聞いていた永野大将は、「山本がそこまで言うなら……」と言って、折れた。だが、その作戦遂行に二つの注文をつけた。

 第一は、真珠湾奇襲攻撃が南方作戦に支障を与えてはならないこと。第二は、この作戦が南方作戦における海軍航空兵力をいささかでも弱めるようなことがあってはならないこと。

 このようにして、真珠湾奇襲攻撃は、海軍中央の承認を受け、以後、軍令部と連合艦隊は一心同体となって作戦遂行に全力をあげることになった。

372.黒島亀人海軍少将(12)バカモン。戦は自分がやる。そんな会議などやってもらわんでよろしい

2013年05月09日 | 黒島亀人海軍少将
 昭和十六年九月二十四日、軍令部の作戦室でハワイ作戦に関する首脳会議が開かれた。軍令部からの出席者は、第一部長・福留繁少将、第一課長・富岡定俊大佐以下、神重徳中佐ら第一課の全員だった。

 連合艦隊からは参謀長・宇垣少将、先任参謀・黒島亀人大佐、航空参謀・佐々木彰中佐(広島・海兵五一・海大三四・海大教官・大佐・第三航空艦隊参謀)、第一航空艦隊参謀長・草鹿少将、先任参謀・大石保中佐(高知・海兵四八・海大三〇・砲艦「嵯峨」艦長・興亜院調査官・第一航空艦隊先任参謀・海大教官・特設巡洋艦「愛国丸」艦長・大佐・兵備局第三課長・横須賀突撃隊司令・少将)、航空甲参謀・源田実中佐が出席した。

 軍令部は南方の資源獲得のため、陸軍の上陸作戦を援護するため、フィリピンをはじめ南方方面の空襲する方針で、そのための空母の必要性を主張した。

 そのため、ハワイ空襲に空母を動員すると、南方の資源獲得の目途が立たなくなる。ハワイ作戦などをやる余裕はない。

 これに対して連合艦隊はハワイ空襲を第一の目的としている。軍令部と連合艦隊の毎度おなじみの議論による渡り合いだった。会議は当然紛糾した。

 福留繁少将「奇襲なんてありえないですよ。かならず敵に発見されて強襲になる。ハワイは捨ててあくまで南方資源地帯の確保を優先すべきである。開戦日は十一月二十日ごろ」。

 神重徳中佐「奇襲以上に補給が問題。荒れた北洋で各艦へすんなり給油ができるとは思えない。失敗すれば惨敗必至です。それに雷撃が困難だからといって爆撃だけで戦果があがるとは思えない」。

 源田実中佐「敵艦隊がマウイ島にある場合、雷撃で戦艦八隻は撃沈できます。戦時低下率を見込んでも四ないし六隻は沈められる。敵が真珠湾にいる場合は、艦爆八十機で飛行場を制圧します。空母は艦爆五十四機で攻撃、空母三隻は大丈夫、撃沈できます。飛行場をすてて艦船攻撃に集中する場合は、戦艦二、三隻、空母三は固いところです」。

 佐々木彰中佐「奇襲の成否を論じても、所詮は水掛け論です。断行すべきです。我が航空部隊の練度は驚異的に向上している。たとえ強襲になったとしても、必ず戦果はあがります」。

 黒島大佐も熱弁をふるった。ハワイ奇襲最優先の持論を展開した。いつもはあまり発言しない宇垣纏少将も積極的だった。大艦巨砲主義の宇垣少将も連合艦隊へ着任してからはハワイ奇襲作戦支持に変わっていた。

 宇垣纏少将「準備不足なら開戦日を十二月まで遅らせてでもハワイ作戦を決行するべきである。そのほうが作戦全般を円滑に進行させうる。南方作戦が円滑に運ぶとすれば、ハワイ作戦の前提あってのことだと私は思う」。

 腹立たしいのは肝腎の実行部隊である第一航空艦隊の参謀長・草鹿龍之介少将と先任参謀・大石保中佐がハワイ作戦に消極的であることだった。

 草鹿龍之介少将「戦術的に見てハワイ作戦は有望だが、戦略的、攻略的効果は疑問である。成功してもその場の勝利で終わるのではないか。やはり南方作戦のほうが重要である。それでなくとも兵力が不足なのだから、南方に兵力を集中し、一気に資源地隊を占領すべきだ」。

 大石保中佐「敵機の哨戒機が三百浬までなら航路選定は楽だが、四百浬であれば奇襲は不可能。また洋上の燃料補給は風速十一メートル以上では極めて困難です。二つの点から空母をハワイに接近させる見込みが立ちません」。

 ハワイ奇襲作戦賛成論者は連合艦隊の三名と一航艦一名の四名に過ぎなかった。反対の軍令部からは二十名ぐらいが出席している。反対論者が大勢で団結し、黒島大佐ら賛成派を口々に吊るし上げる状況になってしまった。

 この会議は、山本長官や永野軍令部総長、伊藤次長らがいると、本音を出しにくいから、宇垣参謀長、福留第一部長以下が話し合おうと、山本長官には内緒で開いたものだった。

 だが、この会議の結果を、山本長官の耳に入れないのもまずい。宇垣少将、黒島大佐らは、横須賀の旗艦、戦艦「長門」にひとます戻り、会議のいきさつを山本長官に報告した。

 「バカモン。戦は自分がやる。そんな会議などやってもらわんでよろしい」。山本長官は大いに怒った。山本長官の怒りのおもな標的になったのは参謀長・宇垣少将だった。

 十月三日、第一航空艦隊の参謀長草鹿龍之介少将と、第十一航空艦隊の大西瀧治郎少将が、戦艦「陸奥」にやって来た。連合艦隊司令長官・山本五十六大将にハワイ奇襲作戦の中止を進言しに来たのだ。当時、戦艦「長門」は修理・点検のため、連合艦隊の旗艦は「陸奥」になっていた。

371.黒島亀人海軍少将(11)宇垣少将は「もう一度判定をやりなおせ」と怒鳴った

2013年05月02日 | 黒島亀人海軍少将
 宇垣少将は苦虫を噛み潰したような顔で沈黙した。だが、宇垣少将は次のようにあびせかけた。

 「GF司令部は雰囲気が女々しいなあ。君達の言うことを聞いていると、山本長官は私のものよ、手を出さないで、と言われているような気がするぞ」。

 それを聞いて、黒島大佐は苦笑した。宇垣少将はなかなかしたたかであった。

 昭和十六年九月十一日から十日間、目黒の海軍大学校において図上演習がおこなわれ、そのうち、十六日と十七日、特別室で、富岡課長の約束どおり、ハワイ作戦特別図上演習が実施された。

 出席者は山本長官をはじめ連合艦隊幕僚、第一航空艦隊の各司令長官、参謀長、先任参謀、航空参謀。軍令部からは、第一部長・福留繁少将、第一課長・富岡定俊大佐をはじめ、第一部(作戦課)の部員数名が出席した。

 青軍(日本)と赤軍(アメリカ)の模擬戦闘は三時間に及んだ。結果は、アメリカの戦艦四隻撃沈、一隻大破、空母二隻撃沈、一隻大破、巡洋艦六隻撃沈破、飛行機撃墜・破壊一八〇機だった。

 だが日本海軍の損害も、空母二隻が撃沈され、二隻が小破、飛行機一二七機喪失と出た。

 「山本五十六」(半藤一利・平凡社)によると、この日本の空母小破二隻は、翌日、赤軍の長距離爆撃機の追撃を受け、一隻が沈められ、もう一隻も大破・自沈した。

この惨たる結果に、演習の統監である参謀長・宇垣少将は驚愕した。沈鬱な雰囲気に満ちた部屋の空気を破るように、宇垣少将は「もう一度判定をやりなおせ」と怒鳴ったという。

 再判定、つまりサイコロの振り直しが行われた。当然、サイコロの目は変わったが、結果はさして好転しなかった。青軍の空母四隻全滅が、半減したが、大損害であることは変わらなかった。

 この結果、軍令部側は反対論に力を得た。だが、黒島大佐ら連合艦隊司令部は結果について、次のように主張した。

 「空母は差し引きゼロとしても、戦艦四隻撃沈は大収穫ですよ。敵の受ける心理的ダメージは途方もなく大きい」。

 これに対し軍令部は次のように意見を述べた。

 「いや、奇襲に成功してこの程度の戦果では成功とは言えないよ。実戦では我が航空隊は敵に反撃され、かなりの損失が出る。戦果もすっと小さくなるはずだ」

 「敵の工業生産力を考えると、戦艦四隻を屠ったからといって満足はできんな。四隻くらい敵はすぐ補充がきくだろう。工廠や石油タンクを徹底的に破壊しなくてはならぬ。だが、それには我が飛行機が不足だ」。

 これに対し、連合艦隊司令部は次のように応酬した。

 「いや、第一、第二航空戦隊は攻撃に十分自信がある。空母三隻は撃沈できる。艦攻すべてに水平爆撃をやらせれば、戦艦五、空母三はやれるはずだ。搭乗員の技量はそれだけ向上している。信用してもらいたい」。

 結局、図上演習は、ハワイ作戦を実行すべきか断念すべきか、どちらともいえぬあいまいな結果を残しただけだった。山本長官は無表情に部屋を出て行った。軍令部は依然としてハワイ作戦には消極的だった。

 実施部隊である第一航空艦隊の司令長官・南雲忠一中将と参謀長・草鹿龍之介少将は、怒ったような顔でなにか話し合っていた。二人ともハワイ作戦には乗り気でない様子だった。草鹿少将は次のように反対論を唱えた。

 「成功するには、絶対に奇襲であることが必要だが、その確算はない。開戦となれば、一刻も早く南方地域を制圧すべきだ。真珠湾攻撃は、いわば、敵の懐にあえて飛び込んでいくようなもので、国家の興廃をかける戦争の第一戦に、このような投機的な危険をおかす作戦をとるべきでない」。

 黒島大佐は憮然とした面持ちで、第一航空艦隊航空甲参謀・源田実中佐に、「軍議は戦わずですよ」と言った。さらに黒島大佐は次のように言った。

 「軍令部は仕方ないとしても、機動部隊の親分があんなに消極的では困ったものだな。南雲さんという人は、あれでけっこう肝っ玉が小さいのではないか」。

 源田中佐は「さあ、どうですかね。私はまだ仕えて日が浅いのでよくわからんのです」と答えたという。