陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

331.岡田啓介海軍大将(11)加藤軍令部長は「予も処決を覚悟し居る」との意味を洩らした

2012年07月27日 | 岡田啓介海軍大将
 次に岡田大将が「海軍大臣の意思が明らかとなった以上、これを尊重せられたい、然らざるにおいては事甚だ重大となる」と申し述べた。

 すると濱口総理は次のように言った。

 「回訓も長引き早くも二週間を超えた。もはや何とかせざるを得ない。海軍の事情も聞いたのだから、この上は自分において何とか決定するであろう」。

 加藤軍令部長は、濱口総理に向かって「閣議の席に軍令部長を出席さしめられたい」と言ったが、濱口総理は「それは先例がない、お断りする、但し、君は閣僚と皆親密なれば各自に君の意見を申されるのは勝手である」と答え、加藤軍令部長の要求を斥けた。

 緊迫した空気が政府部内と官軍省部を支配してきた。濱口総理の方向性も知れた。これに対して海軍としては如何に進退すべきか。岡田大将は国を誤らしめざるようもっと知恵を絞らねばならぬ場合に到着した。

 三月二十八日午前九時半、岡田大将は山梨次官の来邸を求め、話し合った結果、岡田大将の肝は次のように決して、山梨次官の善処を求めた。

 「請訓丸呑みの外道なし。但し米国案の兵力量にては配備にも不足を感ずるにつき政府にこれが補充を約束せしむべし。閣議覚書としてこれを承認せしめざるべからず。また元帥参議官は、もしこれを聞き、政府反対のこととなれば重大事となる、聞くべからず」。

 同日午後四時、岡田邸に加藤軍令部長が来て、元帥参議官会議を開くべきことを力説した。だが、岡田大将は反対した。

 更に加藤軍令部長は「この場合、軍令部長として上奏せざるべからず」と、しきりに力説したが、岡田大将は、「これも今は時機ではない」と諭した。

 当時、加藤軍令部長の背後に末次次長がいて、加藤軍令部長を操っていると言われていた。加藤軍令部長は末次次長の綴る台本を声高く読み上げるだけという説もあった。

 加藤軍令部長と岡田大将は同郷で共に福井出身で、日頃仲は良かった。軍令部長・加藤大将は、いつも「俺は八割は感情でゆく男だ」と揚言していたという。

 加藤大将は、陽性の人間で、軍政よりは編隊の長としての軍令のことを好む提督だった。だが、ロンドン条約については、自分の進退については、承知の上で、敢て強硬態度で始終した。

 「岡田啓介回顧録」(岡田啓介・毎日新聞社)に、「強硬な加藤寛治」という次のような一項目がある。

 「そのころの新聞では、わたしの評判もごく悪かった。海軍部門の血気にはやる連中などで、わたしに反感を持っているものも多かった」

 「横須賀の『小松』という海軍のひいきにしていた料理店では、私の書いた文字を額にして掲げてあったが、そこに若い士官たちが寄り合いをやった際、『なんだこんなもの』と引きずりおろし、池の中にほおりこんで、快哉を叫んだということだった…」

 「…ロンドン会議のまとめ役にして、奔走するのに、私はできるだけ激しい衝突を避けながらふんわりまとめてやろうと考えた…」

 「…加藤寛治などすこぶる熱心に反対したが、正直いちずなところがあるから、こっちもやりやすかった。むしろ可愛いところのある男だったよ」

 「だが、加藤にくらべると、その下で、いろいろ画策している末次信正はずるいんだから、こっちもそのつもりで相手にするほかなかった」。

 三月二十九日、岡田大将は伏見宮と会談した。伏見宮は「海軍の主張は回訓がでるまで強硬に押すべきだ。しかし、政府が米国案に定めることに決すればこれに従うのほかはない。元帥参議官会議は開かないほうがよい」と延べ、岡田大将と考えが一致した。

 岡田大将は、加藤軍令部長を訪ね、「帥参議官会議は開かないほうがよい」という趣旨のことを述べた。

 すると、加藤軍令部長は、かかる上は、上奏を、と上奏案を岡田大将に示した。岡田大将は「上奏については、よく研究すべきであり、回訓の前はよくない」と言った。

 加藤軍令部長は「予も処決を覚悟し居る」との意味を洩らした。次第によっては腹を切るぞ、というのだから相当深刻な話だった。

330.岡田啓介海軍大将(10)東郷元帥がロンドン協定案には、明白な反対意見を表明した

2012年07月20日 | 岡田啓介海軍大将
 三人の元帥は、加藤全権を囲んで、その労をねぎらいつつ、親しげに、加藤全権の土産話に聞き入った。この明るく楽しげな光景の中には、軍縮協定の内容について、非違をあげつらう声は一言もきかれなかった。

 ところがその東郷元帥がロンドン協定案には、明白な反対意見を表明した。あらゆる機会に反対の意見を述べ、財部海相の進退にまで批判の言葉をかけている。

 これについては、元帥側近その他身辺の人々が提示した情報等が元帥の考えを左右したことも想像されるが、元帥のロンドン会議問題に対する強硬態度は、問題の紛糾を大ならしめたことは確かである。

 伏見宮の態度は、それほど始終一貫ハッキリしたものではなかったが、いずれかというと強硬派に属していた。この伏見宮と東郷元帥の協定案に対する批判的態度はいろいろと強硬派によって利用される嫌いがあった。

 一方、海軍省および岡田ら、妥協案を取りまとめてロンドン会議を成立せしめようと考える人々を支持するものは、元老・西園寺公望、牧野伸顕内大臣、斎藤実朝鮮総督、鈴木貫太郎侍従長がいた。

 鈴木侍従長が陛下の側近にあっての挙措は、加藤寛治軍令部長を怒らしめ、その神経を刺激し逆効果的な結果を齎(もたら)す場合がしばしばあったようである。

 三月二十四日軍事参議官会合が行われ、伏見宮、東郷元帥、岡田大将、加藤軍令部長、山梨海軍次官、末次軍令部次長、堀悌吉(ほり・ていきち)軍務局長(大分・海兵三二首席・海大一六恩賜・戦艦陸奥艦長・レジオンドヌール勲章・第一戦隊司令官・中将・勲二等旭日重光章・日本飛行機社長・浦賀ドック社長)が出席した。

 この会合では経過報告、回訓案の説明があり、各参議官の同意を得て、決裂には至らず、比較的簡単に会を終わった。

 三月二十五日、海相官邸に、岡田大将、加藤軍令部長、山梨次官、末次次長、小林艦政本部長、堀軍務局長が参集した。

 この会議でロンドンの随員・左近司政三中将が、全権・財部海相の意思を次のように通達してきているのを議題として話し合った。

 「米国案には不満足である。しかし全権として署名した。新事態の起こるを望む、目下苦慮中である」。

 これに対し、岡田大将は中間案を議したが、纏まることなく散会した。

 三月二十六日、岡田大将は海相官邸で山梨次官と話し合った。この際中間案を出すべきや否や、これを出すには非常な決意を要する。山梨次官は次のように述べた。

 「今や海軍は重大なる時機に際会している。この際、海軍の高官が濱口総理に対して意見を申し出ないのは、いかがなものでしょうか、ひとつ総理に会って下さい」。

 そこで、岡田大将は加藤軍令部長と同行して濱口総理に会うことにした。折から財部海相から濱口総理、幣原外相あてに「回訓案は中間案にて決意を附されたし」との電報が来ていた。

 岡田大将は加藤軍令部長に「協議の結果、大臣の意思が明瞭となった上は、軍令部から中間案を出すよう尽力されたい」と忠告した。

 だが、この日、濱口総理の意思が明らかになった。「この内閣は、ロンドン会議は決裂せしむべからず、中間案も決意を附するものならば、政府として考慮しがたい」というのである。

 三月二十六日午後三時、岡田大将は海軍最高官として、濱口総理を官邸に訪ねた。

 少し遅れて、加藤軍令部長がやって来た。加藤軍令部長は鈴木富士弥(すずき・ふじや)書記官長(大分県・東京帝国大学法科大学・弁護士・衆議院議員・民政党政務調査会長・党総務・鎌倉市長)に「総理が来いというので、やって来ました」と言った。

 すると鈴木書記官長は「いや、そうではありません。貴方のほうで来るということだから、総理は待っていられるのです」と言った。

 総理大臣私室で、岡田大将、加藤軍令部長、濱口総理の三者会談が始まった。まず加藤軍令部長が海軍の三大原則について詳説した。

329.岡田啓介海軍大将(9)元帥は今回の請訓に付ては大に不満足なる意を洩らされたり

2012年07月13日 | 岡田啓介海軍大将
 岡田大将は、すでに昭和五年一月二十八日、牧野伸顕(まきの・のぶあき)内大臣(鹿児島・大久保利通の次男・東京帝国大学中退・外務省・福井県知事・茨城県知事・文部次官・イタリア大使・文部大臣・農商務大臣・外務大臣・宮内大臣・勲一等旭日桐花大綬章・内大臣・伯爵)、翌二十九日、西園寺公と会見していた。

 これら元老重臣の腹中を知り、全権の請訓到来後、斎藤総督と会って、その考え方を問うたのだから、その考え方は自ずと知れていた。

 「西園寺公と政局」(原田熊雄・岩波書店・第一巻)によると、その岡田大将の立場は次のようなものだった。

 「政府も『ロンドンから訓令を仰いで来ているのに、海軍部内が纏まらないようでは困る』というので、密かに幣原外務大臣と浜口総理大臣との間に話が出来て、岡田大将を外務大臣の所に呼んだ」

 「外務大臣から『一体、七割が少しでも欠けたら決裂した方がいいと思うのか、或は七割を欠いても纏めた方がいいと思うのか』と岡田大将自身の意見をただした」

 「すると、岡田大将は言下に『それは六割でも五割五分でも結局纏めなければならぬのだ』と答えたので、外務大臣も『それならぜひ一肌脱いで海軍部内を纏めてもらいたい』と話をされた」。

 昭和五年三月二十二日午前七時半、岡田大将は山梨次官の来訪を受けた。「岡田啓介回顧録」(岡田啓介・毎日新聞社)によると、このとき山梨次官は次のように述べた。

 「軍事参議官会合はなるべく避けたい方針だったが、加藤寛治軍令部長の求めによってやむなく集合することにした。だが、当日は決議といったことは避け、単に経過の報告程度にとどめたい。この点軍令部長にも話しておいたが、貴官からも加藤大将に話しておいていただきたい」。

 そこで、軍事参議官会議が開かれる三月二十四日前日の、二十三日午前八時半、岡田大将は加藤軍令部長を私宅に訪ねた。そのときの様子が「岡田啓介回顧録」に次のように記されている。

 「加藤軍服帯勲にて応接間に在り何れに赴くやと問いたるに是より内大臣および侍従長に我配備を説明し米案の不可なるを説明に赴かんとする但し書類の点あれば末次の来るのを待つなり依て予は余程心して余裕を後日に残す様説明せよと忠言し尚二十四日の参議官会合に単に経過報告に止むべきを忠言せるに加藤は之を諾し山梨の希望もあり経過の報告に止むべし」。

 この日の加藤邸における岡田、加藤会見の模様、気負いこんだ加藤軍令部長の貌を、まのあたりに見るようである。岡田大将の筆は簡潔、短文のうちに、よく劇的の光景を活写している。

 同日午後一時、岡田大将は伏見宮に謁し、続いて東郷元帥に会っている。「岡田啓介回顧録」に次のように記されている。

 「午後一時伏見宮邸に参上明日軍事参議官の会合あれども私は此際大臣の意志明白ならずして意見を述べ難きにより只経過を聞くに止め度と申し上ぐ、殿下よりは財部の意思は明瞭なり彼出発前予に向い二度迄も今度の会議に於て我三大原則は一歩も退かさる旨名言せり大臣の意思を問合す必要なしとて幣原外交の軟弱なるを嘆ぜらる」

 「若し此際一歩を退かんか国家の前途判るべからず愈(いよいよ)とならば予は拝謁を願い主上に申上んと決心し居ると依て其重大事なるを申上事前に山梨に御知らせあらんことを御願し尚政府と海軍と戦う如きは避くべき理由を申上げたるに殿下は夫は何れも重大なる事だから秤にかけて定めなければならぬが扨(さて)何れが重きか中々六ヶ敷事なりと御笑あり一時五十分退出」

 「午後二時東郷元帥邸に元帥を訪問指導主旨の事を申たるに元帥は今回の請訓に付ては大に不満足なる意を洩らされたり」。

 ワシントン会議が終わって全権加藤友三郎が帰朝したとき、水交社で、次の三人の元帥が出席した。

 井上良馨(いのうえ・よしか)元帥(鹿児島・春日艦長・雲揚艦長・扶桑艦長・海軍省軍事部次長・男爵・軍務局長・参謀本部海軍部長・横須賀鎮守府司令長官・常備艦隊司令長官・呉鎮守府司令長官・大将・子爵・元帥・大勲位菊花大綬章)。

 東郷平八郎元帥(鹿児島・英国商船学校・浪速艦長・常備艦隊司令官・佐世保鎮守府司令長官・舞鶴鎮守府司令長官・連合艦隊司令長官・海軍軍令部長・大勲位菊花大綬章・功一級金鵄勲章・伯爵・元帥・大勲位菊花章頸飾・侯爵)。

 島村速雄(しまむら・はやお)元帥(高知・海兵七・イタリア駐在武官・戦艦初瀬艦長・第二艦隊司令官・海軍兵学校長・中将・第二艦隊司令長官・佐世保鎮守府司令長官・海軍教育本部長・軍令部長・大将・勲一等旭日大綬章・男爵・元帥)。

328.岡田啓介海軍大将(8)海軍の連中から説明なんか聞いていたら、とっても纏まりやせん

2012年07月06日 | 岡田啓介海軍大将
 岡田大将はこれに応諾した。その日の午後、岡田大将は海相官邸に出向き、幣原外相の来るのを待った。午後一時半、幣原外相が現れ、請訓書を見せ、次のように述べた。

 「若槻、財部、松平、永井(松三)の四全権の署名のものである。同時に若槻全権からは『この上の尽力は出来難い』と言って来ているので、これ以上は政府としても押すことは困難である」。

 これに対し岡田大将は次のように述べた。

 「最後にはあるいはやむを得ないかも知れない。但し八吋巡洋艦は対米七割を絶対必要とする、また潜水艦の五万二千トンでは配備困難である。これは何とか緩和する方法を講じ、なお飛行機その他制限外艦艇をもって国防の不足を補うことにすれば、最後にはあるいはやむを得ないだろう、決裂は良くないと思う」

 「但し、現在の軍令部の案とこの案とは非常な開きがある。殆ど断崖から飛び下りるようなものだが、断崖から降下し得る途を研究してもらいたい。また、海軍大臣から省部に対し請訓について何等意思表示がない。山梨から海軍大臣の意向を問い合わすことを認められたい」。

 三月二十一日、山梨次官と原田熊雄(東京・学習院高等科・男爵・京都帝国大学・日本銀行・加藤高明首相秘書官・元老西園寺公望私設秘書・貴族院議員)から岡田大将に電話があった。

 二人とも、「斎藤実(さいとう・まこと)朝鮮総督(岩手・海兵六・海軍次官・海軍大臣・勲一等旭日大綬章・海軍大将・朝鮮総督・勲一等旭日桐花大綬章・子爵・首相・内大臣・大勲位菊花大綬章)に、今しばらく、在京されたいと頼んでくれ」という依頼だった。

 そこで岡田大将は斎藤邸に電話して都合を聞き、同日午後三時、四谷の斎藤邸を訪問した。岡田大将は斎藤総督に次のように言った。

 「私は別に何とかして下さいとは申さぬが、何となく今度は只ではおさまらないで、見苦しい場面を生ずる予感がする。どうか今しばらく滞在せられたい(朝鮮に帰るのを延ばしてほしい)」。

 さらに岡田大将は、軍縮に関する自己の意見を吐露した。これに対し斎藤総督は次のように述べた。

 「その外に途はない、その方針で進まれるがいい。しかし、自分は今夕、出発のことにすべての準備ができている、これを今更変更するのは却って宜しくない」。

 岡田大将は「今後も何分助力を願う」旨を述べて、斎藤邸を辞した。

 一九三〇年(昭和五年)から一九四〇年(昭和十五年)までの間における西園寺公望をめぐる政局の裏面を記した原田熊雄の日記、「原田日記」は、昭和二十五年に「西園寺公と政局」(原田熊雄・岩波書店・全八巻・別巻一)として出版された。

 今回の岡田大将の動きについては、「西園寺公と政局」には、次のように記してある(要旨)。

 「浜口首相と幣原外相との話し合いの結果、幣原外相が岡田大将と会見して、岡田大将の斡旋を依頼したところ、岡田大将は『どうも自分一人では軍令部長を抑えるわけには行かないから、斎藤朝鮮総督と一緒に努力しましょう』と言って、斎藤総督に会ってなお数日帰任を延ばしてくれるよう頼んだ」

 「けれども、総督も『あまり長く東京にいすぎたので今更延ばすわけにもいかぬ』という話であったので、岡田大将は斎藤総督に海軍の内部の纏め方について説明してただ同意を求めたところ、『至極尤もだ、ぜひその方法でやれ』ということで別れた」。

 以上の記述から、岡田大将の手記と「原田日記」は大体において筋は合っていた。

 「外交五十年」(幣原喜重郎・中央公論新社)によると、幣原外務大臣のロンドン会議全権の請訓に対する考え方は、何とかして海軍軍縮に関する協定を妥結しようとするものであり、次のように記されている。

 「米英を相手に会議がほとんど行き詰ったが、どうしようかという最後の請訓が来た。これは思い切って纏めるより仕方がない。海軍の連中から説明なんか聞いていたら、とっても纏まりやせん。軍令部長の加藤(寛治)などの説には重きをおかないで、これだけの兵力量ということを、ピシャリと決めてしまった」。

 幣原は以上のようにアッサリとしたことを言っているが、この本は戦後に語ったことを出版したものだから、これだけハッキリ言えるが、当時はこれほど気楽にものが言える状況ではなかった筈である。だが、これは幣原の本音であったことは確かだ。朝鮮総督・斎藤実海軍大将についても、次のように述べている。

 「その頃海軍の先輩である斎藤実子爵が朝鮮総督をしていたから、財部君も京城で意見を交換したであろう。これは私は当時誰にも洩らさなかったが、その頃私は斎藤総督から私信を貰った。その手紙には、海軍部内とハッキリ書いてはいなかったが、わけのわからん説にあまり耳を貸しすぎて、この重大な問題を打ち壊すことのないように、そういう暴論は全然無視して、邁進しれくれというようなことが書いてあった」。