陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

114.花谷正陸軍中将(4) 中尉より大尉のほうが偉いと決めてかかるな

2008年05月30日 | 花谷正陸軍中将
 昭和15年8月、花谷正少将は第二十九旅団長になり、中国河南省の信陽県にいた。

 「愛の手紙は幾歳月」(朝日新聞社)の中で、著者の川島正巳氏は当時花谷旅団長の部下だった。川島氏は次のように述べている。

 花谷少将は旅団長に着任されたその日、司令部の全員を集めて訓示した。

 「諸君は階級を段々に考えるではない。中尉より大尉のほうが偉いと決めてかかるな。わが味方は大将から二等兵までおり、わが敵にもまた大将から二等兵まである。わが味方の上には、上ご一人(天皇陛下)をいただいているのだ」

 陸軍広しといえども、こんなことを言う人は他にはあるまい。さすがに横紙破りだと、噂された。

 三井信託社員で旅団司令部付の鈴木中尉が着任の申告に旅団長の部屋に入り、型通りの申告の儀式を終えると、「ご苦労、掛け給え」と花谷少将は言った。

 すると花谷旅団長は机の上にあった支那新聞を取り上げると、「これを読んでみ給え」と言った。新聞を読むくらい何とも無いので声を出して読んでみると、「よろしい」と言った。

 そのあと突然「満州事変は俺が起こした」とやりだした。鈴木中尉は何のことやら判らぬままに、唯「はあ、はあ」と答えて高級副官の部屋に戻った。

 ある日、鈴木中尉は呼ばれて、花谷旅団長の碁の相手をした。対局したが、二たて食わせて三局目には花谷旅団長が鈴木中尉の「しちょう」にはまった。

 「閣下、こりゃしちょうです。駄目です」と言うと、「いや、しちょうじゃない」と言って、花谷旅団長は強情に逃げ出した。

 鈴木中尉は待ってやるつもりだったが、余りに強情なので、しちょうを続けて追った。そして遂に死んでしまった。

 花谷旅団長は「うっ」と奇妙な声を出すと、いきなり碁盤に手を掛けひっくり返してしまった。

 「何をする」鈴木中尉は怒鳴った。そしてにらみ合いが続いた。「俺が悪かった。今夜は酔っていたんで」と花谷旅団長は謝った。

 鈴木中尉は静かに散らばった石を集め碁笥に容れ、盤を直すと黙って部屋を出た。

 その夜、鈴木中尉は癪に障って寝つかれなかったが、その内に急に可笑しさが込み上げて来て、大声で笑い出した。

 「しちょう知らずに碁を打つな」昔からいわれている言葉だが、花谷旅団長はその通りにやってしまった。

 花谷中将が師団長時代、かつてプロ野球の大洋ホェールズの名監督、三原氏は、第五十五師団の参謀部に勤務していた。

113.花谷正陸軍中将(3) 三河少尉、わしの頭が変になったんじゃないか。見てくれ

2008年05月23日 | 花谷正陸軍中将
 森島氏の妻が取次ぎに出ると酒気を帯びた花谷少佐のただならぬ剣幕だったので、官邸に取り付けてあった領事館警察の非常ベルを押したため、官邸は武装警官で取り囲まれた。

 森嶋氏が浴衣のままで応対すると、花谷少佐は威丈高に「政府が朝鮮軍の越境を差し止めたのは、総領事館から中国軍は無抵抗だとの電報を出したためだ」

 「こんな有害無益な電報を出すなら、いますぐ一小隊の兵を持って来て無電室を打ち壊す。閣議の席上で幣原外相から中国軍は抵抗をしていないから、我が軍も攻撃を中止すべきだとの意見が出たが、右は総領事館の誤った電報の結果だ」とのことだった。

 森島氏は反論し、念のため総領事にも引き合わした上、帰した。

 「戦死」(文春文庫)によると、昭和12年日華事変が始まると、徳島の歩兵第四十三連隊は華中のの上海に上陸、戦線に出動、南京を目指して進撃した。

 この時、花谷大佐が連隊長として着任した。連隊は混城湖を舟艇で渡って、対岸の敵陣に突入した。

 その夜は暴風雨であった。この時、堀井大隊長の舟艇が遅れた。強風に流されたためであった。

 あとで、花谷連隊長は多くの将兵の前で堀井大隊長を口汚く叱りつけた。その後の追撃戦で、後方にいた花谷連隊長の本部が、堀井大隊に追いついた。

 その時、「なにをぐずぐずしているか」と花谷連隊長は堀井大隊長にムチを振り上げて殴りつけた。

 その後、連隊が台湾の高雄に移動したとき、将校ばかりの宴会が催された。その最中に、花谷連隊長は突然、大声を上げた。「堀井、ちょっとこい」

 堀井少佐が前に行くと、花谷大佐は口をきわめて、ののしった。

 堀井少佐は花谷大佐とは陸軍士官学校二十六期の同期生であった。一方は大佐で一方は少佐のままだった。堀井少佐は頭の悪いことを自認していたから、進級が遅れても不満を持たなかった。

 花谷大佐は陸大卒であり、満州事変の首謀者の一人で、関東軍を動かして満州国をつくり、軍の実力者となっていた。

 突然、花谷大佐はビール瓶をふりあげて、堀井少佐の頭を殴りつけた。堀井少佐は前のめりに倒れこんだ。その座にいた他の将校たちは飛んで逃げてしまった。

 間もなく連隊は徳島にもどった。その頃から、堀井少佐は何かを悩んでいるようだった。

 堀井少佐が三河軍医の部屋に入って来た。目つきがおかしかった。「三河少尉、わしの頭が変になったんじゃないか。見てくれ」

 三河軍医は妙に思ったが、頭の外面には何も異変は見られないので、「なんともないですよ」と、帰した。

 それから三日目の朝であった。連隊の弾薬庫の裏の堤防にもたれて、堀井少佐が死んでいた。ピストルでのどから一発撃ちこんでいた。

 遺書はあったが花谷連隊長が没収した。診断書には「神経衰弱のため自決」と書かれていた。

112.花谷正陸軍中将(2) 軍刀を引き抜き、「統帥権に容喙する者は容赦しない」と威嚇的態度に出た

2008年05月16日 | 花谷正陸軍中将
 昭和6年9月16日、満州事変の起こる二日前のことである。関東軍の高級参謀、板垣征四郎大佐は同志を集めて、打ち合わせをした。  

 顔ぶれは、作戦主任参謀・石原莞爾中佐、奉天特務機関長・花谷正少佐、張学良顧問・今田新太郎大尉、それに鉄道独立守備隊の大、中隊長などであった。

 議題は鉄道爆破と北大営攻撃を決行するかどうかということだった。議論をし酒を飲んでいるうちに夜が明けた。

 板垣大佐はやむなく、「おれがハシを立てて、右に倒れたら中止、左に倒れたら決行だ」

 ハシは右に倒れた。中止である。みんなが諦めようとした時に、今田大尉が立ち上がって「命の惜しい者はやめろ。おれがひとりでやる」と軍刀を持って出ようとした。

 それを花谷少佐が押さえた。「ぬけがけはゆるさんぞ。俺も行く」といきり立った。

 この勢いに板垣大佐が負けて、「それでは、やることにするか」と採決した。こうして満州事変は起こった。

 昭和7年6月、花谷少佐は富山市の歩兵第三十五連隊の第一大隊長になった。満州事変の張本人として処罰のため左遷させられたのだ。

 そのころ富山市で発行されていた北陸タイムスが、昭和8年3月10日の陸軍記念日に、軍部に対して批判的な記事を掲載した。

 花谷少佐は大いに怒った。翌早朝、非常呼集を命じて大隊の兵を率いて営門を出た。花谷大隊は北陸タイムスの社屋を包囲して発砲した。

 「陰謀・暗殺・軍刀、一外交官の回想」(岩波新書)によると、著者の森島守人は当時奉天総領事代理であった。

 9月18日満州事変の発火点となった柳条溝事件の夜の十時四十分頃、特務機関から、柳条溝で中国軍が満鉄線を爆破した。至急来てくれと電話があった。

 特務機関では板垣大佐をはじめ参謀連中が荒々しく動いていた。板垣大佐は「満鉄線が爆破されたから、軍はすでに出動中である」と述べて総領事の協力を求めた。

 森島氏は「軍命令は誰が出したか」と尋ねたところ、「緊急突発事件でもあり、司令官が旅順にいるため、自分が代行した」との答えであった。

 森島氏は軍が怪しいとの感想を抱いたが繰り返し、外交交渉による平和的解決の必要を力説した。

 板垣大佐は語気も荒々しく「すでに統帥権の発動を見たのに、総領事館は統帥権に容喙、干渉せんとするのか」と反問した。

 同席していた花谷少佐の如きは、森島氏の面前で軍刀を引き抜き、「統帥権に容喙する者は容赦しない」と威嚇的態度にさえ出た。

 9月20日深夜、森島氏の自宅を「軍の使いだ、早くあけろ」とて軍刀をちゃらつかせながら、非常な力で戸を叩く者があった。

111.花谷正陸軍中将(1) それにつけて思うのは花谷を育て、彼の自信のとなった陸軍幼年学校の教育だ

2008年05月09日 | 花谷正陸軍中将
 高木俊郎が週刊朝日に「戦死」を連載したとき、多数の手紙が著者に寄せられた。

 その中に「花谷中将と幼年学校」と題した投書があった。要約すると次のようなものであった。

 「この花谷将軍を中心とした、日本陸軍の悲劇はどうにもやりきれない。花谷だけでなく陸軍の軍人の中にはこういった傾向の人が少なくなかった」

 「それにつけて思うのは花谷を育て、彼の自信となった陸軍幼年学校の教育だ。中学一、二年から入学し、三ヵ年徹底的な戦闘技術者としての訓練と、エリート軍人としての意識を叩き込まれる」

 「そして士官学校を出て任官。さらにすぐれた者は陸大にいき軍の指導者になるが、この陸軍幼年学校出身者が日本陸軍の主流として君臨するのである」

 「中学初級からせまい偏った教育を受けてきたら、その連中は一体どうなるのか。花谷中将の言動は、幼年学校出の単細胞でかたくなな自信家である。人間形成の最も大切な時代の教育は狭くかたくななものであってはならない」

 花谷正大佐が満州国治安部高級顧問時代。黒岩少将が慰問団を新京中央飯店に招待したときのこと。

 卓一つ隔てて蛮勇の噂の高い花谷大佐を、恐怖と尊敬をもって熱っぽく凝視していたのは、ほかならぬ黒岩少将であった。

 また、黒岩少将を司令部に訪ねてきた花谷大佐が「黒岩おるか、花谷が来たといえ」と少将閣下を見下していた。その尊大さも、兵隊の噂になっていたという。

 時代は少し遡って、松岡満鉄総裁主催の宴会が大連で開かれた時のこと。当時関東軍参謀であった花谷中佐も招かれていた。牧野海軍退役少将もいた。

 宴の半ば、花谷参謀は牧野少将のところに来て、いきなりわけもなく「このハゲ頭!」と言って、ピシャリと、したたかにたたいた。そしてそのまま立ち去って行った。

 牧野少将は、頭のつるつるハゲた、きわめて温厚な人であったが、さすがにこの時ばかりは、「何だ、けしからんことをする」と、憤激の色を見せた。周囲にいた人は多いに同情した。


<花谷正陸軍中将プロフィル>

明治27年1月5日生まれ。岡山県勝田郡広戸村出身。

大正3年5月陸軍士官学校卒(26期)。12月歩兵少尉第54連隊付。

大正7年7月歩兵中尉。

大正11年11月陸軍大学校卒(34期・六十八名中二十一位)。12月参謀本部付。

大正12年8月歩兵大尉。

大正14年5月参謀本部部員。12月参謀本部支那研究員。

昭和3年8月関東軍参謀。

昭和4年8月歩兵少佐。第37連隊大隊長。

昭和5年8月関東軍司令部付(奉天特務機関)。

昭和7年1月参謀本部付。6月第35連隊大隊長。

昭和8年8月歩兵中佐。参謀本部付(済南武官)。

昭和10年8月関東軍参謀。

昭和11年12月参謀本部付。

昭和12年3月第2師団司令部付。4月留守第2師団参謀長。8月歩兵大佐。11月第43連隊長。

昭和14年1月満州国顧問。

昭和15年3月陸軍少将。8月第29旅団長。

昭和16年12月第1軍参謀長。

昭和18年6月陸軍中将。10月第55師団長。

昭和20年7月9日第39軍参謀長。7月14日第18方面軍参謀長。

昭和21年7月復員、予備役。

戦後、憂国同志の集まりである「曙会」を主宰。

昭和32年8月28日、死去。肺ガンであった。享年63歳。





110.大西瀧治郎海軍中将(10) 「貴様ぁ、泣いたことはないのかぁ」と、大西中将は声を放って泣いた

2008年05月02日 | 大西瀧治郎海軍中将
 「特攻の思想 大西瀧治郎伝」(文藝春秋)によると、終戦の昭和20年8月15日の夜、大西中将は矢次一夫の家を訪れている。徹底抗戦を叫んで万策尽きたあとである。

 矢次は大西中将の顔を見ると「この男死ぬ気だな」と直感した。「君のような阿呆は、ここらで腹を切ろうなんて考えているのだろうが、そんなことをすれば慌てものだと笑われるだけだぜ」とピシャリと言った。

 すると大西中将はぎらりと目を光らせ、抑揚のない声で言った。「腹を切ったら阿呆か」

 しかし、次の瞬間、彼はどたんと立ち上がると、すごい力で矢次の身体にむしゃぶりついた。

 「貴様ぁ、泣いたことはないのかぁ」と叫ぶと、大西中将は声を放って泣いた。泣くというより吠える状態に近かった。背中も脚もぶるぶる震わせ、全身から涙を放つ有様だった。

 その夜大西中将は酒の一升瓶をもって矢次の家を訪れ、飲んだ。「前途有為な青年をおおぜい死なせた。俺は地獄に落ちるべきだが、地獄の方で入れてくれんだろう」と言った。

 矢次はなんとかして大西中将の自決を思いととどまらせようと考えた。そこで、金森徳次郎や矢部貞治らがつくった「敗戦後の日本」という文書を見せ「これからのアジアは政治的難問が山積だ」と言った。

 すると大西中将は「このとおりになってくれれば、負けてもまあまあだな」と薄い笑いを浮かべた。そのあと大西中将は酔っ払った。副官を迎えにこさせるほどだった。

 帰りに大西中将はくわえ煙草をしながら、歩いては笑い、笑ってはよろめきつつ、闇の中に消えていった。

 「特攻の思想 大西瀧治郎伝」(文藝春秋)によると、大西瀧治郎海軍中将が海軍軍令部次長の官舎で自刃したのは昭和20年8月16日午前2時45分である。

 生命力の強い男でなお数時間生きていた。急報によって多田武雄海軍次官が軍医を連れて駆けつけ、前田副官と児玉誉士夫も現場に急行した。

 腸が露出しもはや助かる見込みは無かった。大西は軍医に「生きるようにはしてくれるな」と言った。

 児玉誉士夫には「貴様がくれた刀が切れぬものだから、また貴様とあえた。おい、すべてはその遺書に書いてある。だが特別に貴様に頼みたいことがある。厚木の海軍を抑えてくれ。小園大佐に軽挙妄動をつつしめと、大西がそう言ったと伝えてくれ」

 その言葉に児玉は頭が熱くなって、部屋にあったもう一本の刀を抜くと、心臓にあてがった。

 そのとき「バカモン」と大西は強い声を出した。「貴様が死んでクソの役に立つか。若いモンは生きるんだよ。生きて日本をつくるんだよ」

 「閣下、奥さんがくるまで待ってください。私がお迎えに参ります」

 すると大西は「バカ。軍人が腹を切って、女房が来るまで死ぬのを待つなんて、そんなアホウなことができるか。それより、あの句はどうかね」

 色紙がかかっていた。「すがすがし暴風のあと月清し」

 「おやじの句としては、出来のいいほうかね」「そうかな」

 児玉は部屋を出て海軍省の車に飛び乗った。しかし、児玉が大西の生きている姿を見たのは、それが最後だった。

 遺書は二通あった。一つは妻の淑恵のものだった。夫婦には子どもはなかった。もう一通は、有名な「特攻隊の英霊に曰す」ではじまるものであった。

(「大西瀧治郎海軍中将」は今回で終わりです。次回からは「花谷正陸軍中将」が始まります)。