板倉大尉は水雷学校高等科学生を首席で卒業したが、卒業前に、主任教官から再三に渡り、「君の将来を思って駆逐艦をすすめる。潜水艦では生涯うだつがあがらないぞ」と口説かれた。
だが、板倉大尉は「私は出世するために海軍に入ったのではありません。潜水艦志望は私の宿願であり、信念であります」と言って、きっぱり断った。
板倉大尉は、太平洋戦争開戦とともに、真珠湾攻撃に、イ六九潜水雷長として参加した。その後、潜水学校甲種学生を修了し、イ一七六潜艦長、イ二潜艦長(少佐)、イ四一潜艦長として、苦難の潜水艦戦を戦った。
「伝説の潜水艦長」(板倉恭子・片岡紀明・光人社)によると、昭和十九年四月、「イ四一潜」艦長・板倉光馬少佐は、「竜巻作戦」参加の命令を受け内地に戻った。
「竜巻作戦」は、水陸両用戦車、秘匿名「特四内火艇」を潜水艦で敵の泊地まで運んで行き、敵上陸地点の背後から逆上陸するという奇襲作戦だった。
この水陸両用戦車は大きな音をたてるので、敵に発見されやすく、奇襲作戦には不向きで、ほとんど成功の見込みのないものだった。
「これはいかん」と思った板倉少佐は。大本営命令になっていた「竜巻作戦」に真っ向から反対した。そのため、上層部は激怒した。
また、特四内火艇の「梓部隊」隊員も怒って抜刀して、板倉少佐を取り囲み「卑怯者っ!」とののしった。
板倉少佐は白刃のもとに座して、特四内火艇では突入する前にみんなやられてしまうと、その理由を話し、「それは犬死だ」と言った。
さらに板倉少佐は「国家存亡のとき、このようなことで犬死するな。俺が必ず貴様たちの死に場所をさがす」とも言った。そのうち、「梓部隊」隊員は一人、二人と刀を下げ、一応その場はおさまった。
「梓部隊」には、後に「回天隊」に来た、樋口孝大尉(人間魚雷回天で黒木博大尉と同乗訓練中に殉職)や、上別府宜紀大尉(人間魚雷回天「菊水隊で出撃」がいた。
翌日、「竜巻作戦」をぶち壊したことで、板倉少佐に、第六艦隊司令長官・高木武雄(たかぎ・たけお)中将(福島・海兵三九・海大二三・軽巡洋艦「長良」艦長・教育局第一課長・重巡洋艦「高雄」艦長・戦艦「陸奥」艦長・少将・第二艦隊参謀長・軍令部第二部長・第五戦隊司令官・中将・高雄警備府司令長官・第六艦隊司令長官・戦死・大将)から「銃殺に処す」という申し渡しがあった。
だが、軍令部より「不問に付せよ」と命令が出され、板倉少佐は銃殺を免れた。
昭和十九年八月、板倉少佐は特攻戦隊参謀兼指揮官(回天隊)を命じられた。昭和二十年三月、第二特攻戦隊が編成され、板倉少佐は、山口県徳山市(現・周南市)の大津島突撃隊司令を拝命し、回天隊の指導に当たった。だが、八月十五日終戦となった。
板倉光馬氏は「どん亀艦長青春記」(光人社)のあとがきに、次のように記している(一部抜粋)。
「人生の一生を、行雲流水にたとえた先人がいれば、うたかたのごとしと観じた古人もいる。古希をすぎたわが生涯をふりかえるとき、人生とは、まさしく、玄にして妙なりの感を深くする」
「赤貧洗うがごとき家庭に生まれながら、ひそかに画家を志していた私が、海軍に身を投じようとは……。それも、アドミラルを夢みたり、栄進を望んだわけではない。躍動するくろがねの美しさに魅せられたからである」
「だからこそ、軍隊というカテゴリーの鋳型にはめられながら、なおかつ、人間性を追及してやまなかった。そのため、始末書を書き続け、首が飛びそうになったことも、一度や二度ではなかった」
「時はすべてを美化するというが、人生は、大勢の人によって生かされ、人との出合い、触れ合いによって、須叟の生命は、永遠の生命につらなってゆくのである」。
須叟(しゅゆ)の生命とは、「ほんの一瞬のはかない命」のことである。
(「板倉光馬海軍少佐」は今回で終わりです。次回からは「乃木希典陸軍大将」が始まります)
だが、板倉大尉は「私は出世するために海軍に入ったのではありません。潜水艦志望は私の宿願であり、信念であります」と言って、きっぱり断った。
板倉大尉は、太平洋戦争開戦とともに、真珠湾攻撃に、イ六九潜水雷長として参加した。その後、潜水学校甲種学生を修了し、イ一七六潜艦長、イ二潜艦長(少佐)、イ四一潜艦長として、苦難の潜水艦戦を戦った。
「伝説の潜水艦長」(板倉恭子・片岡紀明・光人社)によると、昭和十九年四月、「イ四一潜」艦長・板倉光馬少佐は、「竜巻作戦」参加の命令を受け内地に戻った。
「竜巻作戦」は、水陸両用戦車、秘匿名「特四内火艇」を潜水艦で敵の泊地まで運んで行き、敵上陸地点の背後から逆上陸するという奇襲作戦だった。
この水陸両用戦車は大きな音をたてるので、敵に発見されやすく、奇襲作戦には不向きで、ほとんど成功の見込みのないものだった。
「これはいかん」と思った板倉少佐は。大本営命令になっていた「竜巻作戦」に真っ向から反対した。そのため、上層部は激怒した。
また、特四内火艇の「梓部隊」隊員も怒って抜刀して、板倉少佐を取り囲み「卑怯者っ!」とののしった。
板倉少佐は白刃のもとに座して、特四内火艇では突入する前にみんなやられてしまうと、その理由を話し、「それは犬死だ」と言った。
さらに板倉少佐は「国家存亡のとき、このようなことで犬死するな。俺が必ず貴様たちの死に場所をさがす」とも言った。そのうち、「梓部隊」隊員は一人、二人と刀を下げ、一応その場はおさまった。
「梓部隊」には、後に「回天隊」に来た、樋口孝大尉(人間魚雷回天で黒木博大尉と同乗訓練中に殉職)や、上別府宜紀大尉(人間魚雷回天「菊水隊で出撃」がいた。
翌日、「竜巻作戦」をぶち壊したことで、板倉少佐に、第六艦隊司令長官・高木武雄(たかぎ・たけお)中将(福島・海兵三九・海大二三・軽巡洋艦「長良」艦長・教育局第一課長・重巡洋艦「高雄」艦長・戦艦「陸奥」艦長・少将・第二艦隊参謀長・軍令部第二部長・第五戦隊司令官・中将・高雄警備府司令長官・第六艦隊司令長官・戦死・大将)から「銃殺に処す」という申し渡しがあった。
だが、軍令部より「不問に付せよ」と命令が出され、板倉少佐は銃殺を免れた。
昭和十九年八月、板倉少佐は特攻戦隊参謀兼指揮官(回天隊)を命じられた。昭和二十年三月、第二特攻戦隊が編成され、板倉少佐は、山口県徳山市(現・周南市)の大津島突撃隊司令を拝命し、回天隊の指導に当たった。だが、八月十五日終戦となった。
板倉光馬氏は「どん亀艦長青春記」(光人社)のあとがきに、次のように記している(一部抜粋)。
「人生の一生を、行雲流水にたとえた先人がいれば、うたかたのごとしと観じた古人もいる。古希をすぎたわが生涯をふりかえるとき、人生とは、まさしく、玄にして妙なりの感を深くする」
「赤貧洗うがごとき家庭に生まれながら、ひそかに画家を志していた私が、海軍に身を投じようとは……。それも、アドミラルを夢みたり、栄進を望んだわけではない。躍動するくろがねの美しさに魅せられたからである」
「だからこそ、軍隊というカテゴリーの鋳型にはめられながら、なおかつ、人間性を追及してやまなかった。そのため、始末書を書き続け、首が飛びそうになったことも、一度や二度ではなかった」
「時はすべてを美化するというが、人生は、大勢の人によって生かされ、人との出合い、触れ合いによって、須叟の生命は、永遠の生命につらなってゆくのである」。
須叟(しゅゆ)の生命とは、「ほんの一瞬のはかない命」のことである。
(「板倉光馬海軍少佐」は今回で終わりです。次回からは「乃木希典陸軍大将」が始まります)