陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

150.小沢治三郎海軍中将(10) 事故で死ぬなんて。戦争で死なずに、生き恥をさらしおったくせに

2009年02月06日 | 小沢治三郎海軍中将
 小沢司令長官は厚木航空隊に対して断固たる処置に出た。「小薗部隊を叛乱軍として討伐することを命じる。命令を書け」と千早参謀に命じた。

 千早参謀は直ちに、横須賀鎮守府司令官・戸塚道太郎中将(海兵38・海大20)に宛てて、鎮定命令を発令した。鎮守府の鎮定部隊は、ただちに行動を起こした。

 だが、当の小薗司令は精神に異常をきたし、横須賀海軍病院に収容されて、事態は収拾した。

 小沢中将は、最後の連合艦隊司令長官として一切の終戦業務を済ませると、戦後は世田谷の自宅に引きこもった。

 世間の表には一切出ず、マスコミも寄せ付けず、自分のあばら家、それもあまり大きくない建物の大部分を他人に貸し、鶉や七面鳥を飼い、清貧の生活を続けた。

 「小澤治三郎」(PHP文庫)によると、戦後の清貧の生活について、良妻賢母で、夫に尽くし続けた妻の石蕗(つわ)が「電話も売ってしまいました。あの電話は大変おいしゅうございましたよ」とカラッと言ったという話が残っている。

 昭和32年1月航空自衛隊のF86Fジェット戦闘機2機が訓練飛行中、接触事故を起こし、墜落した。
「パイロットが死亡」というニュースが流れた。

 その「死亡した」とされるパイロットは、歴戦の名パイロットで、小沢の親戚に当たった。

 小沢はこのニュースを聞いて「事故で死ぬなんて。戦争で死なずに、生き恥をさらしおったくせに」と低い声だが、はっきりと言った。

 その言葉を聴いた、妻の石蕗は「あなたただって、そうではないですか」と思わず言ってしまった。そのとき、小沢の表情はみるみる哀しさで溢れ、黙したままだったという。(後に、その名パイロットは救助されたことが判った)。

 戦後の小沢はマスコミの取材を受けても黙して語らずの態度を一貫して通した。対外的でなく、家庭でも、小沢は無口であったという。

 十年余り同居している娘婿の大穂利武は「義父と会話を交わしたのは、五回ぐらいしかありませんよ」と言っている。

 食事のとき、差し向かいに座った小沢と大穂の間に会話はなく、無言のまま時が経つ。大穂は「十年間で義父と話した内容は四百字詰め原稿用紙にして十枚あるかないかですよ」と苦笑しながら語ったという。

 小沢が愛読していた吉野秀雄の「良寛和尚の人と歌」の中でも、良寛が自筆でしたためたという「戒語」には、特に小沢は心を惹かれていたという。その「戒語」は次の通りであった。

 一、ことばの多き。一、口のはやき。一、とはずがたり。一、人の物いいきらぬうちに物いう。一、こと葉のたがう。一、たやすく約束する。一、酒に酔いてことわりいう。一、己が氏素性の高きを人に語る。一、学者くさき話。

 小沢は昭和39年4月、排尿が不如意になり、前立腺肥大の疑いで自衛隊中央病院に入院した。その後家に帰ったが、昭和41年8月上旬に足が不自由になり、寝室は二階から一階に移された。

 その後衰えが進み、昭和41年11月9日、呼吸は続いていたが、もう生きている状態ではなかった。

 妻の石蕗が、「あなた、たばこどうですか」と言って火を点けたタバコを渡した。小沢は一日に何十本も喫う男だった。それが、石蕗が小沢に話しかけた最後の言葉になった。

 昭和41年11月9日午後1時20分、小沢治三郎元海軍中将は静かにその生涯を終えた。80歳だった。

 11月13日、葬儀が東京の護国寺で営まれた。参列者は約600名だった。葬儀委員長は長谷川清元海軍大将(海兵31・海大12)だった。

 (「小沢治三郎海軍中将」は今回で終わりです。次回からは「牟田口廉也陸軍中将」が始まります)

149.小沢治三郎海軍中将(9) 小沢司令長官は「いまさら徹底抗戦をして何になる」と言い放った

2009年01月30日 | 小沢治三郎海軍中将
 小沢は軍令部次長になって、「海軍としては」という言葉を腹の底から憎み、口にすることを許さなかった。小沢次長は陸海軍統帥部が同一場所に勤務することを提案した。

 陸海軍の幕僚が日々交流を自然に繰り返すことによって信頼を深めようとした。そこで選ばれたのが赤坂にある山王ホテルだった。かつて2.26事件のとき、昭和維新を掲げた青年将校たちが集結したホテルだった。小沢次長は歴史の大きな変転を感じていた。

 昭和20年4月、小沢次長は一人の人物の訪問を受けた。軍部から自由主義者として、危険人物視されていた吉田茂であった。

 その内容は、驚くべきことで、小沢の立場を考えれば、相談すること自体が非常識なものであった。吉田は「あなたと共通の伯父である秋月左都夫老人と話した結果、あなたに頼むのがよいと言われたので来た」と切り出した。

 続いて「実は英国と和平交渉をやりたいので、飛行機か潜水艦を出してもらえないか」と言った。小沢次長は吉田の大胆さというか、率直さに唖然とした。

 小沢は、日本海軍の現状では、協力したくても出来ないことを吉田に説明した。吉田はいかにも残念そうにしていた。

 玄関まで吉田を送りに出たとき、小沢は木陰に隠れている二、三人の人物を見た。その日から三日後に、吉田は九段の憲兵隊に連行された。

 昭和20年5月29日、小沢中将は海軍総司令長官兼連合艦隊司令長官兼海上護衛司令官に任ぜられた。小沢中将はこのとき五十九歳だった。

 米内海軍大臣から海軍大将へ進級した上で連合艦隊司令長官にという話があったが、小沢中将は固辞した。

 連合艦隊といっても、作戦可能で残ったものはわずかに43隻だった。戦艦はなく、空母も2隻に過ぎなかった。戦艦大和も4月6日に沖縄特攻で、屋久島西方260キロの地点で沈み、指揮官・伊藤整一海軍中将(海兵39・海大21恩賜)も運命をともにした。

 小沢中将は思った。人生五十年であることを思えば、余計の人生である。すでに山本五十六をはじめ、三百名を越す将官が生命を落としている。

 昭和20年8月15日正午、昭和天皇の玉音放送が全国に流れた。

 小沢司令長官は、千早正隆参謀(海兵58・海大39)に対し「終戦の命令に従わない者があった場合の対策を考えているか」と尋ねた。

 千早参謀は

 「いったん陛下の詔勅が出されましたからには、そのような事態は起こらないと思います」と答えた。

 その途端、小沢司令長官は、驚くほどの大声で

 「その考えは甘いぞ!」と怒鳴った。

 小沢司令長官が危惧したとおり、終戦処理は簡単にいかなかった。終戦の三日前には大西瀧治朗軍令部次長(海兵40)が血相を変えて、小沢司令長官を司令部に訪ねてきたのだ。大西次長は徹底抗戦を説きに来たのだった。

 そのとき大西次長に、小沢司令長官は「いまさら徹底抗戦をして何になる」と言い放った。

 また、大分基地にいた第五航空艦隊司令長官・宇垣纏中将は8月15日夜遅く、特攻機の出撃を命じ、自らも沖縄に突入し、特攻を行って果てた。

 さらに海軍の大航空基地である厚木航空隊では、司令の小薗安名大佐(海兵51)が徹底抗戦の姿勢を崩さず、不穏な事態になっていた。

148.小沢治三郎海軍中将(8) 裸で何ができる、カラの空母は出さないという約束だったじゃないか

2009年01月23日 | 小沢治三郎海軍中将
 昭和19年9月中旬から下旬にかけて、豊田大将と小沢中将の間で激論が闘わされた。小沢中将は、搭乗員養成の必要から頑としてリンガ泊地進出を拒否した。

 豊田大将は業を煮やして、軍令部に働きかけた。「豊田大将は次期作戦にはみずから戦場に出ることを望んでいる。そこで次席指揮官の小沢中将が最前線に出ることを求めている」と天皇の名によって、小沢中将を動かそうとした。

 だが、そんな激論をやっているうちに、戦況が猛スピードで動いた。9月中旬、ハルゼイ大将指揮の米機動部隊の空襲で、フィリピン中南部に展開していた決戦主力の基地航空部隊が大打撃を受けたのだ。

 そこで、10月12日から15日まで、連合艦隊は「捷号作戦」を発動した。基地航空部隊全力による航空撃滅戦を敢行したのだ。陸軍航空部隊も魚雷を抱いて出撃した。

 大戦果が報告された。「空母19、戦艦4など撃沈破45隻」と。

 豊田大将は、前線基地の視察と激励を兼ねて台湾の航空基地にいたが、この報告を聞いて、躍動した。当時の基地航空部隊参謀の証言がある。

 「豊田大将が風呂上りで、石鹸の匂いをプンプンさせながら、浴衣がけと草履ばきで作戦室に入ってきた。しばらく作戦図を見ていたが、やがて、『追撃だ、追撃』と独り言のように口走った」。

 この豊田大将の追撃命令が、レイテ湾突入の小沢、豊田論争に決着をつけた。連合艦隊は、各航空部隊に出撃を命じた。小沢中将指揮の航空戦隊に対しても航空機の出動を命じたのだ。

 小沢部隊の作戦参謀は、電話口で怒鳴った。「フィリピンに対する爾後の本格的上陸作戦が始まったとき、空母部隊の出撃を連合艦隊は断念しているのか確かめよ、と小沢長官は言っている。母艦発着訓練をやった航空隊を基地作戦で潰したくない」。

 すると相手の連合艦隊作戦参謀の神重徳大佐(海兵48・海大31首席)は「敵機動部隊を叩く好機は今だ。次の作戦には母艦部隊を使用しない」と答えた。

 こうして、小沢中将が丹精込めて練磨しつつあった、母艦の飛行機隊は沖縄に向けて飛び立った。だが、台湾沖航空戦の戦果はすべて誤報であった。冷静になって戦果を分析した結果、空母4隻程度の撃沈に過ぎないと連合艦隊は判断した。

 残された主要戦力は栗田中将の水上部隊のみである。連合艦隊は栗田部隊による敵の上陸地点突入を決定した。大和、武蔵による上陸地点への殴り込みである。

 小沢司令部の作戦室に、ふたたび神参謀から鹿児島弁の電話がかかった。「小沢部隊もただちに出動。栗田部隊のレイテ湾突入に策応して、作戦通り敵機動部隊を北方に牽制してもらいたい」

 小沢司令部の参謀の怒髪は天を突いた。「飛行機のほとんどいない空母部隊に、裸で何ができる、カラの空母は出さないという約束だったじゃないか」

 すると神参謀は言った。「新情勢に全力を尽くす必要がある。小沢部隊は、オトリになってもらう」

 小沢司令部の参謀たちは唖然とした。だが、小沢中将は言った。「それが必要というなら、やろうじゃないか」と。

 だが、栗田部隊は途中で反転して、レイテ湾突入を行わなかった。それにもかかわらず、小沢部隊は、オトリの役をこなし、ハルゼイの艦隊を混乱に陥れた。

 昭和19年10月、小沢中将は長期にわたっての艦隊の指揮官から、軍令部次長に補された。小沢次長がもっとも精力を傾けたのは、本土決戦に凝り固まっていた陸軍を、沖縄決戦に切り換えるよう説得することだった。

 小沢次官は前線でも、そう処していたのだが、かねてから、陸軍とか海軍とかの面子の前に、国や国家があることを考えなければならないと思っていた。

 井上成美は「陸軍と手を握るのは、強盗と手を結ぶが如し」と、陸軍を激しく憎悪したが、小沢のいた前線ではそのようなことに囚われてはいられなかったのである。

147.小沢治三郎海軍中将(7)長官をだれもかまう者がいなかった。そばにチェリー(タバコ)を置いた

2009年01月16日 | 小沢治三郎海軍中将
 「丸・戦争と人物19連合艦隊司令長官」(潮書房)によると、昭和19年6月15日、アメリカ軍はサイパンに上陸した。豊田連合艦隊司令長官は、あ号作戦を発動、6月19日から20日にかけて、マリアナ沖海戦が行われた。

 日米大機動部隊同士が戦ったマリアナ沖海戦では、アメリカ機動部隊から380海里も離れたところから攻撃機を発進させた小沢中将発案のアウトレンジ戦法は、結果的に大敗した。

 マリアナ沖海戦が終わった翌日、小沢中将は、部下の参謀の前で「部下にむずかしい戦法をやらせて戦死させ、まことに申し訳ないことをした」と言った。

 そうは言ったものの、当時、このアウトレンジ戦法は強力なアメリカ空母群に対して、小沢が考え抜いた戦法であることは間違いなかった。

 戦後の話だが、小沢の周囲の戦史研究家が、アウトレンジ戦法について、疑問に思うことを質問したことがあった。それに対して小沢は「それなら、ほかにどんな方法がある」と答えたという。

 「勝負と決断」(光人社)によると、マリアナ沖海戦では、小沢中将の第一機動艦隊の旗艦「大鳳」も、敵潜水艦の魚雷攻撃で大爆発し、基準排水量29300トンの空母はマリアナ沖の海底に沈没した。

 爆発して沈みかけている「大鳳」の艦上では、参謀長の吉村啓蔵少将((海兵45)が小沢司令長官に旗艦変更を進言した。

 だが、小沢司令長官は、聞き入れなかった。ともに沈むつもりである。艦長の菊池朝三少将(兵学校45期)や先任参謀の大前敏一大佐((海兵50・海大32恩賜)らも代わる代わる進言した。

 大前参謀は言った。「母艦に帰投した機数は少ないですが、そうとうロタやグアムに行っているはずです。戦果も相当あったに違いありません」

 小沢司令長官は、ようやく旗艦変更を承諾した。小沢司令長官らは駆逐艦「若月」に移乗した。艦橋が狭いので、小沢司令長官は艦橋うしろの、旗甲板の椅子に腰を下ろした。

 そのときの様子を、「若月」の操舵長であった小倉正高氏は戦後次のように述べている。

 「長官をだれもかまう者がいなかった。そばにチェリー(タバコ)を置いた。喫ってもらうつもりだった。だが長官がなんべん火をつけても、すぐ消えてしまった。そうとうショックをうけているように見受けられた」。

 「あのときが小沢さんの気持ちの転機だったのではないだろうか」。小倉氏が戦後、会ったとき、そのときのことを話したら、小沢長官は「感無量だな」と一言だけ言ったという。

 「日本海軍の興亡」(PHP文庫)によると、あ号作戦で連合艦隊は大敗をした。航空戦に敗れた第一機動艦隊司令長官・小沢中将は、最後の手段として、第二艦隊に夜戦を命じた。だが、栗田部隊はきわめて消極的だった。

 後に、小沢中将は、痛烈きわまる皮肉を放ったという。
「もし自分が連合艦隊司令長官として現場に来ていたのであったとすれば、二十日夜、全部隊を率いて徹底的に夜戦をやったであろう」

 消極的である栗田健男中将(海兵38)に対する不満であるとともに、決戦の陣頭に立たぬ連合艦隊司令長官・豊田副武大将(海兵33・海大15首席)に対する批判でもあった。

 最後の決戦として、豊田大将は、一日も早く空母部隊を再編成して、海軍随一の戦略家である小沢中将の指揮でリンガは泊地に送り込みたいのであった。

 だが、小沢中将は、あ号作戦以来、豊田司令長官の陣頭に立たぬ作戦指導に大いなる不満を持っていた。真の最後の決戦なら、空母部隊の、搭乗員を養成してからでなければならない。

146.小沢治三郎海軍中将(6) 航海士、ガラスは何から出来ているのか

2009年01月09日 | 小沢治三郎海軍中将
 昭和16年12月8日、真珠湾攻撃が行われ、日本は太平洋戦争に突入した。小沢中将は南遣艦隊司令長官として、コタバル上陸作戦、マレー沖海戦など南方作戦を指揮した。

 昭和17年11月11日、小沢中将は第三艦隊司令長官に親補された。小沢中将は旗艦を「瑞鶴」に定めた。昭和18年1月18日、整備の完了した「瑞鶴」以下の艦艇を率いて岩国沖を出撃、トラック島に向かった。

 「瑞鶴」の野村実航海士(海兵71)が、艦橋で当直勤務をしているとき、小沢司令長官は「航海士、ガラスは何から出来ているのか」と訊いた。

 野村航海士はなぜこのようなことを訊かれるのか分からず「珪酸と石英が主成分であります」と当たり障りのない答えをした。

 野村航海士は、後で、それだけでは充分ではないかもしれないと、調べたり、人に尋ねたりして、次に会ったときに小沢司令長官にガラスの組成を詳しく説明した。

 すると小沢司令長官は「ガラスは全く平坦に作ることは出来ない。光の屈折もある。見張り員がガラス越しに眼鏡を使うのはよくないね」と言ったので、野村航海士は初めて小沢司令長官の意図が理解できた。

 艦橋には両側に大きな眼鏡がついていて、艦長や当直士官の手足となるために、優秀な見張り員がいる。見張り員たちは、艦橋の窓ガラスを下ろさずに、窓ガラスを通して見張りをやっていたので、小沢司令長官はそれを止めさせようとしたのだ。

 小沢司令長官は、戦闘になったときのことを考えて、細部まで目を向けて指導していた。だが航海長にそれを指摘すると、自分の落ち度と受け止めて部下を叱責する。そこで航海士に直接話したのである。

 昭和18年4月13日、ラバウルに司令部を置く南東方面艦隊司令長官・草鹿任一中将の発案で海軍兵学校37期のクラス会を開いた。

 集まったのは、南東方面艦隊司令長官・草鹿任一中将、第三艦隊司令長官・小沢治三郎中将、第八艦隊司令長官・鮫島具重中将、輸送船指揮官・武田哲郎大佐、輸送船指揮官・柳川教茂大佐の五人だった。

 やがて、すき焼きパーティが始まった。どこから聞きつけてきたのか、山本五十六連合艦隊司令長官が「名誉会員たるものこれくらいのことはせねばなるまい」とブラックラベルのウイスキー1本をぶらさげて、ひょっこり入ってきた。

 みんなは大喜びで、この大先輩を迎え、クラス会は一段と活況を呈した。日頃は酔うほどに無口の小沢中将が山本長官に話しかけた。

 「長官は敵地に飛び込む部下将兵にして、万葉張りの和歌を書いて贈られるようですが、あれはあまり感心しませんな」

 すると山本長官は笑いながら

 「また、お前はおれの悪口をいうか」と答えた。

 「いや、そうではありません。死地に乗り込む部下に対し、お前ばかり死地に投ずるのではない、おれも後からゆくのだ、というように聞こえますが、これは随分まずいですな」

 すると山本長官は

 「いや、お前のいう通りだ。歌が未熟だからだ」と言った。

 さらに小沢中将が

 「第一、連合艦隊司令長官はかけがえのない方だ。そう容易に死地にとびこんでゆけるものではない。あなたの生国の越後には、良寛和尚のように、真実を詠んだ歌人がおるではないですか」と言うと

 山本長官は

 「そうだ、おれの国で一番えらい人物は上杉謙信と良寛和尚だ」と答えて、笑いが起こり、座ははしゃいだという。

 この五日後の4月18日、ブーゲンビル島上空で、待ち伏せた米軍のP38戦闘機16機によって長官機が撃墜され、山本五十六連合艦隊司令長官は戦死した。

145.小沢治三郎海軍中将(5)すると山本長官は「まあ、適当にやってくれよ」の一言だけであった

2009年01月02日 | 小沢治三郎海軍中将
 昭和12年11月、小沢少将は、第八艦隊司令官に補された。「小澤治三郎」(PHP文庫)によると、昭和13年初夏、第八戦隊は鹿児島県南端の枕崎に入港した。小沢司令官は宮崎中学校時代の同級生が、加世田市の農学校の校長をしているのを知って訪ねた。

 その往きの自動車の中で、部下の藤田正路参謀(海兵52・海大35)は、小沢司令官から「君も参謀ばかりやっていると、人間が駄目になるぞ。来年は何か小さい艦の指揮官をやらせてもらえ」と言われた。

 その後も藤田参謀は、太平洋戦争に突入するまでの間、第二水雷戦隊、第二艦隊と依然として参謀であった。小沢は藤田参謀に会うと、「まだ参謀をやっているのか。駄目だなあ」と言っていたという。

 昭和14年11月、小沢は第一航空戦隊司令官として、旗艦の空母「赤城」に着任した。当時の小沢少将は、従来の体験と研究から航空艦隊(母艦群を中心とする機動艦隊)の創設を主張していた。

 だが、連合艦隊司令部内では、消極論が多数を占めていた。第二艦隊司令長官・古賀峯一中将(海兵34・海大15)などは、これに強く反対した。その中で、山本五十六連合艦隊司令長官は小沢の意見に賛成していた。

 ある日、軍令部の作戦部長室で、小沢少将が宇垣纏少将(海兵40・海大22)に航空艦隊実現について、意見を述べていた。そこに、山本五十六連合艦隊司令長官(海兵32・海大14)がひょっこり入ってきた。

 「何を議論しているのか」

 「航空艦隊創設について、意見を申し述べているところです」と小沢が答えると、山本長官は「それなら大いにやれ。後へ引くなよ」と言った。

 「秘史・太平洋戦争の指揮官たち」(新人物王来社)によると、山本連合艦隊司令長官の後押しで、小沢の意見が採用されて、第一航空艦隊が編成されたのは昭和16年4月だった。

 これが日本海軍初の空母機動部隊の誕生であり、小沢が「機動部隊生みの親」といわれる所以である。ちなみに同じ頃、アメリカ海軍でも、日本の小沢と同じ考えで、タスクフォース(空母の機動部隊)が編成されていた。

 ところが、小沢の発案で誕生した第一航空艦隊の司令長官には、今まで航空にはあまりなじみのなかった南雲忠一中将が着任した。小沢は南遣艦隊司令長官に任命された。

 この人事には小沢も納得がいかなかったようで、戦後になって、小沢は親しい人に何度も、「本当は俺が南雲さんの代わりに真珠湾をやるはずだった」と漏らしている。

 「小澤治三郎」(PHP文庫)によると、昭和16年10月22日、南遣艦隊司令長官に任命された小沢中将は、海軍大臣官邸で嶋田繁太郎海軍大臣(海兵32・海大13)と会食した後、南方に向かうことになった。

 南遣艦隊の任務は陸軍の山下奉文中将(陸士18・陸大28)が指揮するマレー・シンガポール攻略の第二十五軍を上陸地点まで護衛して輸送することと、英国の東洋艦隊撃滅であった。

 小沢中将は日本を離れる前に山本連合艦隊司令長官に会いたいと思った。汽車で九州の佐伯まで行き、佐伯湾に在泊中の旗艦「陸奥」に山本長官を訪ねた。

 山本長官は、小沢中将の顔を見るなり「どうして井上(成美)を大臣にしないのかなあ」と憤懣やるかたない口吻で言った。小沢は一瞬、戸惑って、言葉が出なかった。

 すると山本長官は重ねて「井上が海軍大臣でないとダメなんだ。井上なら東條(英機)と堂々と渡り合えるんだ」と激した口調で言った。

 南遣艦隊司令長官という、難しい仕事を背負った小沢中将としては、山本長官から心構えやアドバイスを受けたいと思って訪ねたのだった。それなのに、話は中央の話だった。

 おそらく山本長官としては、開戦必至となった以上、短期で勝負を決し、一刻も早く和平に導きたいと考えていた。そのために東條に屈せず、早期講和に導いてくれる海軍側の人材は、井上しかいなかった。

 山本長官の思いは理解できたが、小沢中将の任務も重要だった。たまりかねて小沢中将は心構えを山本長官に尋ねた。

 すると山本長官は「まあ、適当にやってくれよ」の一言だけであった。平素の山本長官からはうかがえ知れない言葉だった。小沢中将は自分の所信通りにやろうと、心に決めた。

144.小沢治三郎海軍中将(4) 不賛成です。軍人がこのような運動に携わるのは間違いだと思います

2008年12月26日 | 小沢治三郎海軍中将
 横井少尉が困って立っていると、大柄な参謀少佐がひとり立ち上がり、「よろしい。すぐにやりたまえ」と大きな声で言った。小沢少佐だった。小沢は部下には細かい心遣いをしていたので、小沢を慕う部下は多かった。

 大正15年12月、小沢は40歳で中佐に進級し、第一水雷戦隊参謀になった。当時の連合艦隊司令長官は加藤寛治大将(海兵18)、参謀長は高橋三吉少将(海兵29・海大10)、先任参謀は近藤信竹中佐(海兵37・海大17)だった。

 昭和2年8月、連合艦隊は本州一周の移動訓練の途中で、島根県の美保湾に入港し、8月24日、夜間演習を行うことが決定された。

 演習は、第一水雷戦隊が好機を捉えて、敵主力部隊に夜襲をかけ、魚雷を発射するというものだった。

 小沢参謀は加藤連合艦隊司令長官から発せられた計画を綿密に検討した結果、水雷戦隊が出港直後の暗夜、護衛巡洋艦多数が妨害する間を抜けて戦艦を攻撃するのは、練度からみて難しい、衝突の危険があると判断した。

 小沢参謀は、さっそく、旗艦「長門」を訪ね、近藤先任参謀に「この計画は危険です。せめて、数日間の暗夜航海訓練を実施した後に行うべきです」と申し入れた。

 近藤先任参謀は、高橋参謀長に取り次いでくれた。だが高橋参謀長は「すでに連合艦隊命令として発令されているんだ。いまさら変更するわけにはいかん。このまま実施してもらいたい」と小沢の進言を取り入れなかった。小沢参謀も、くいさがったが、駄目だった。

 夜間襲撃演習は予定通り行われた。はたして大惨事が起こった。駆逐艦「蕨」と「葦」の二隻が、巡洋艦「神通」と「那珂」に、それぞれ衝突した。「蕨」は一瞬にして沈没、「葦」は船体が切断され、後半部が沈没した。多数の乗組員が死亡した、美保ヶ関事件である。

 近藤参謀も高橋参謀長も、小沢のようなたたき上げの船乗りではなく、しかも鉄砲屋だった。だからペーパー計画と実際の演習との間に無理があることに気がつかなかった。

 昭和6年12月、小沢大佐は海軍大学校教官兼陸軍大学校兵学教官になった。小沢教官の講義は、読めば分かるようなことや、先輩が述べているようなことには触れず、重要なポイントや独創的な着想だけをしゃべった。

 また、一つの重要事項、学生に必要なことなどは、どこまでも掘り下げて討論、研究させ、自得させるという徹底した教え方であった。

 「海戦要務令」は海軍最高の機密図書で、海戦のやり方を書いた虎の巻で、海軍戦術研究者必読の書であった。学生の中にはその中身を丸暗記した者も多くいた。

 ある日、成績優秀な学生である、土井美二大尉(海兵50・海大32)が小沢教官を訪ねてきた。「海戦要務令にこのように書いてありますが、これはどういう訳でありますか?」と質問した。

 すると、小沢教官は即座に答えた。「諸君は、本校在学中は、海戦要務令などは一切読むな。このような書物にとらわれず、独創的戦術を研究せよ」。

 この海戦要務令は対米軍遊撃作戦を根本目標として書かれていた。だが太平洋戦争が終わってみると、この海戦要務令は旧式固着の戦術であったことが判明した。

 「最後の連合艦隊司令長官」(光人社NF文庫)によると、昭和9年11月、小沢大佐は「摩耶」艦長を命じられた。当時第二艦隊司令長官は米内光政中将(海兵29・海大12)、参謀長は三木太市少将(海兵35・海大18)だった。

 ある日、米内司令長官が小沢艦長を一人呼んで言った。「ほかでもない、加藤寛治大将を、元帥に推薦するという有志の署名運動があるようだが、君はどう思うか」

 小沢艦長は歯に衣を着せずに言い放った。「不賛成です。軍人がこのような運動に携わるのは間違いだと思います。それに加藤大将は美保ヶ関事件の最高責任者です。あのとき、当然しかるべき責任を負わねばならないにもかかわらず、今日に至っております」

 米内司令長官は「君の意見は良く分かった」と大きくうなずいた。加藤大将は元帥にはならなかった。

143.小沢治三郎海軍中将(3) ロシア文学、特にドストエフスキーを愛し、良寛和尚の資料は悉く集めた

2008年12月19日 | 小沢治三郎海軍中将
 小沢が取り組んでみると、相手は柔道の心得があるらしく、強い腰で小沢を投げようとした。小沢も宮崎中学で柔道をやっていたから、その手には乗らず、相手を上回る腕力で投げ飛ばした。相手はいさぎよく降参し、後でお互いに仲直りした。

 この小沢に投げ飛ばされた男は、後に日本一の柔道家になった三船久蔵十段であった。当時小沢は売られた喧嘩は買うが、自分から喧嘩をしかけることはなかった。

 明治39年、小沢は鹿児島の第七高等学校の工科と海軍兵学校の両方を受験した。小沢は兵学校を落ちたら海軍造兵官になろうと思っていた。

 「最後の連合艦隊司令長官」(光人社NF文庫)によると、海軍兵学校の合格発表は秋にある。第七高等学校に合格した小沢は、とりあえず、七高に入学した。

 秋になり、小沢は海軍兵学校の合格通知を受け取ったので、七高を退学して、明治39年11月、江田島の海軍兵学校に入学した。

 歴史学者の平泉澄博士によると、十代で手のつけられないような乱暴者が、何かの動機でひとたび志を立て、何ごとか始めると、偉大な業績を上げ、人間的にも大成するという。

 第二次大戦中のイギリスの指導者チャーチルも、青少年時代は札付きの不良だった。少しも勉強しないで親や先生を泣かせ、陸軍士官学校へ入るのに、三度も受験した。

 大蔵大臣だった父がたまりかねて叱りつけた。「おまえはチャーチル家の名をけがすものである。しっかり勉強せよ」。

 チャーチルは平然と答えた。

 「父上、ご安心ください。父上は、将来、ウインストン・チャーチルの父であることによって、世界に名を知られるでしょう」。

 「最後の連合艦隊司令長官」(光人社NF文庫)の序文で、小沢中将と兵学校同期の元海軍中将・草鹿任一氏(海兵37・海大19)が小沢中将の人柄を次のように述べている。

 「小沢はわれわれ兵学校同期の中の傑物である。若い頃は、中学校を退学処分にされるほどのきかん坊であったが、大きな度量を持ち、物事を深く考え、大局を誤らなかった。これは彼の天性であるとともに修練の賜といえる」

 「鬼がわらのような顔をしておりながら酒に強く、なかなか美声の持ち主で、酔余の歌や踊りなど隅におけぬものがあった。それでいて、ロシア文学、特にドストエフスキーを愛し、良寛和尚の資料は悉く集めた」

 小沢中将と兵学校37期の同期生には、井上成美中将(海大22・海軍次官)、大川内伝七中将(海大20・南西方面艦隊司令長官)、草鹿任一中将(海大19・南東方面艦隊司令長官)、小松輝久中将(海大20・海軍兵学校長)、鮫島具重中将(海大21・第八艦隊司令長官)、高須三二郎中将(艦政本部七部長)らがいる。

 「小澤治三郎」(PHP文庫)によると、大正8年、小沢は甲種学生19期として海軍大学校に入学した。当時の校長は佐藤鉄太郎校長(海兵14)だった。口八丁、手八丁で、戦史や戦術が得意だった。定評のある戦術家の講義だから、学生たちは一言一句聞き漏らすまいとノートをとった。

 だが、小沢はノートは全くとらなかった。後年、小沢はその頃を回想して言った。「校長から、いろいろな話を聞いたが何も覚えていない。頭に残っているのは、たった一言だけだ。それは、『いくさは人格なり』という言葉だ」。

 海軍大学校19期の同期には草鹿任一中将(海兵37・南東方面艦隊司令長官)、岩村清一中将(海兵37・第二南遣艦隊司令長官)、松崎伊織中将(海兵35・艦政本部大阪監督長)、杉山俊亮中将(海兵35・航空本部技術部長)、近藤英次郎中将(海兵36・第十一戦隊司令官)、堀江六郎中将(海兵36・第十一連合航空隊司令官)らがいる。

 大正15年、小沢少佐は連合艦隊参謀になった。あるとき、天皇陛下が、急に旗艦「長門」に行幸されることになり、艦内の大消毒が始まった。

 甲板士官の横井忠雄少尉(海兵43・海大26・のち少将)は、消毒の済んでいない幕僚室をノックした。中には参謀肩章をぶらさげた偉い連中がたむろしている。若い将校にはおっかないところであった。

 横井少尉は「消毒をいたしますから、しばらく立ち退いてください」とおそるおそる言った。

 だが、参謀たちは素知らぬ顔で、誰も見向きもしない。一種の意地悪は軍隊生活にはつきものだった。立ち去るわけにもいかず、横井少尉は、困惑していた。

142.小沢治三郎海軍中将(2) 自分の過ちであったならば、いさぎよく之を改むるに憚る勿れ

2008年12月12日 | 小沢治三郎海軍中将
 「最後の連合艦隊司令長官」(光人社NF文庫)によると、小沢治三郎は少年のころから、こせこせせず、土性骨が座っていた。腕力が強く、絶えず喧嘩をした。そのくせ頭が良かったから、いつも餓鬼大将だった。

 県立宮崎中学校に入学したのも頭が良かったからである。しかし乱暴な性格はなおらず、校長からマークされ、喧嘩をしては教員室に呼び出された。「お前のように勉強もせんで、喧嘩ばかりしていると落第だぞ」

 ある日、校長夫人が人力車に乗って町を通っているところに出会った。校長に恨みでもあったのかどうか、小沢は人力車に近づくといきなり梶棒をひったくって、ひっくり返してしまった。体も大きく柔道も強かったので車夫も防ぎようがなかった。

 中学三年のとき、正義派と不良学生が大喧嘩になった。正義派の旗色が悪かった。小沢はこれを聞いて駆けつけた。元来無口で雄弁ではなかった小沢は、何処からか日本刀を持ち出してきて、「叩き切ってやる」と不良学生たちを追い回した。

 新聞にこの事件がでかでかと掲載された。この事件が元で、職員会議の結果、小沢はとうとう退学処分となった。小沢はさすがにがっくり来たと言われている。

 明治37年11月のことで、日露戦争の真っ最中だった、小沢の長兄の宇一郎は陸軍軍曹で満州へ出征していた。宇一郎は弟の治三郎のことを家族からの手紙で知り、乱暴者の弟のことを上官の牛島貞雄大尉に相談した。

 牛島貞雄大尉(陸士12・陸大24)は、後に陸軍大学校長(昭和5年)、第十九師団長(昭和8年)、第十八師団長(昭和12年)、陸軍司政長官(ビサヤ支部長・昭和17年~18年)、在郷軍人会副会長(昭和19年6月)などを務めた清廉潔白な軍人であった。

 当時、満州軍第六師団歩兵第二十二連隊第十中隊長だった。部下思いで教育熱心だった牛島大尉は、早速見たこともない南九州の一少年に次のような手紙を書いて送った。

 「過ちて改むるに憚ること勿れ。本夕、生が骨肉の親しみある小沢宇一郎君は、悄然たる態度で私に告げて曰く、治三郎は退学を命じられたりと。私は炉辺をたたいて、寧ろこれを賞讃せり。蓋し君が退学の原因は必ず簡明で、半面純美なる真理を含み罪ありとするも、其の罪や白雲の如きを信じたればなり。」

 「宇一郎君曰く、喧嘩のためなりと。多分然らん。世には実にずーずーしき懦弱(だじゃく)漢なしとせず、これらを排撃するは青年時代の一快挙なり。然りと雖もまた私は君が頭を冷静にして、さらに一考を煩わしたきや切なり。」

 「なんとなれば学校には教員あり、舎監あり、それぞれ学生を戒むべき当局者あり、血気に逸りて無謀の行為をなすことは、あまり奨励すべきことに非ず。学生には学生の本分があり、過ちを正すは友誼的徳義心から発するものなればなり。」

 「当局者を措いて勝手の振る舞いをする如きは、将来大いに慎重に去るべく、生は誠実に君に希望するものなり。宇一郎君の話を聞き、取り敢えずしたたむ。君は天地に俯仰(ふぎょう)して疾しき所なきも、自分の過ちであったならば、いさぎよく之を改むるに憚る勿れ、これ、真の勇気ある少年なり」

 「十二月二十五日(明治二十七年)夜九時 盛なる銃声を聞きつつ牛島貞雄したたむ」。

 小沢はこの手紙を表装し、生涯、大切に保存していた。

 小沢の兄、宇一郎は、この日露戦争で偉勲をたてて戦死した。牛島貞雄大尉は後に陸軍中将まで栄進した。小沢治三郎も海軍中将になった。二人は戦後、よく顔を合わせ、談笑していたという。

 明治38年、宮崎中学を退学させられた小沢は東京、日比谷の私立名門校・成城中学に編入学した。

 「小澤治三郎」(PHP文庫)によると、ある日、山の手一番の繁華街だった神楽坂を小沢はぶらぶらしていたら、一人の男から「おいっ」と声をかけられた。「大きな顔をして歩いているじゃないか」と喧嘩を吹っかけられた。

 小沢は、色が黒くて大柄で、ひと癖ありそうな面構えをしている。南九州から出てきたばかりで、いかにも田舎くさい。

 小沢は相手にしなかったが、相手の男は小沢の前に立ちはだかり、小沢の胸倉をつかんだ。小澤は自制心が消えうせ、立ち向かった。

141.小沢治三郎海軍中将(1) 小沢参謀長は「それはいけません」と、永野司令長官に反対した

2008年12月05日 | 小沢治三郎海軍中将
 昭和11年12月、小沢治三郎(海兵37・海大19)は海軍少将に昇進し、再び海軍大学校教官に発令された。だが、二ヵ月後の昭和12年2月、連合艦隊参謀長兼第一艦隊参謀長に補された。前任の連合艦隊参謀長の岩下保太郎少将(海兵37・海大20)が病気のため、その後任として発令された。

 当時の連合艦隊司令長官は永野修身大将(海兵28・海大8)だった。永野大将は、米国駐在勤務、軍縮全権などを勤め、赤煉瓦の中央勤務を歩んできた軍人で、連合艦隊勤務はほとんどなかった。

 したがって、連合艦隊の演習や訓練計画、指導などは、万事小沢参謀長にまかせた。

 ある日、永野司令長官が、「主力艦を持って、青島の砲台を攻撃してはどうか」と言いだした。(昭和11年12月7日に、支那事変が勃発した)。

 小沢参謀長は「それはいけません」と、永野司令長官に反対した。小沢参謀長の反対があまり強いので、永野司令長官は、今度は先任参謀の中沢佑大佐(海兵43・海大26)をくどいた。

 中沢大佐は小沢参謀長に泣きついた。仕方なく小沢参謀長は一策を案じた。

 「それでは艦隊を佐世保に入港させ、主力艦の弾薬を陸上攻撃用のものに積み換えることにしよう」。

 艦隊は佐世保に入港し、軍需部長に交渉して火薬庫を開けさせた。同時に、海軍大臣宛に搭載弾薬変更の申請電報を打った。案の定、大臣から不許可の返電があり、この計画は中止となった。

 永野司令長官は、主力艦で青島を砲撃して、将兵の志気を鼓舞し、論功行賞にあずからせようという意図があった。

 だが、小沢参謀長は、主力艦の弾薬はそんなことに使うべきではなく、東の敵に備えて、猛訓練に励むことが本務であると考えていた。

<小沢治三郎海軍中将プロフィル>

明治19年12月2日宮崎県児湯郡の風光明媚な城下町、高鍋町に生まれる。
明治37年県立宮崎中学校退校処分。
明治38年東京・成城中学に編入学。
明治39年第七高等学校へ入学。11月海軍兵学校に入校(37期)。
明治42年11月海軍兵学校卒業。179人中45番。
明治43年12月海軍少尉。
明治45年海軍砲術学校普通科学生。
大正元年8月水雷学校学生。12月海軍中尉。
大正3年「比叡」乗り組み。第一次世界大戦従軍。
大正4年「千歳」乗り組み。12月海軍大尉。
大正5年12月海軍大学校乙種学生。
大正6年水雷学校高等科学生。8月石蕗と結婚。12月水雷学校教官。
大正8年12月海軍大学校甲種学生(19期)。
大正10年海軍大学校卒業。12月海軍少佐。
大正14年「第三号」駆逐艦長。11月「金剛」水雷長。
大正15年連合艦隊参謀。
昭和2年12月水雷学校教官兼砲術学校教官。
昭和4年12月海軍軍令部第一班長。
昭和5年2月~12月欧米各国に出張。12月海軍大佐。第一駆逐隊司令。
昭和6年1月第四駆逐隊司令。7月海軍水雷学校長。10月第十一駆逐隊司令。12月海軍大学校教官兼海軍技術会議議員兼陸軍大学校兵学教官。
昭和9年11月第一艦隊「摩耶」艦長。
昭和10年10月「榛名」艦長。
昭和11年12月海軍少将。海軍大学校教官。
昭和12年2月連合艦隊参謀長。11月第八戦隊司令官。
昭和13年11月海軍水雷学校長。
昭和14年11月第一航空戦隊司令官。
昭和15年11月第三戦隊司令官。海軍中将。
昭和16年9月海軍大学校長。10月南遣艦隊司令長官。
昭和17年11月第三艦隊司令長官。
昭和19年3月第一機動艦隊司令長官兼第三艦隊司令長官。11月軍令部次長兼海軍大学校長兼大本営海軍通信部長。
昭和20年5月海軍総司令長官兼連合艦隊司令長官。8月15日終戦。10月予備役。11月旭日大綬章受賞。戦後、戦争を一切語らず、清貧の生活を送る。
昭和30年防衛庁顧問。下村定元陸軍大将らと郷友連盟を結成。
昭和39年前立腺肥大症で入院。
昭和41年11月9日死去。享年81歳。